このブログを検索

2014年9月7日日曜日

水夫と農夫、あるいは商人


次のような東浩紀氏のツイートを読んだ。《「弱いつながり」について観光客って柄谷行人の他者とどう違うのかと批判した社会学者の方がいましたが、それはたぶん読まないで批判していて、読めばすぐ違いがわかります。村人/旅人/観光客は、思想用語で言うと、共同体/他者/両者のあいだをパートタイムで行き来する人です。》ーーとあるが、わたくしはこの社会学者と同様、『弱いつながり』を読んでいないし、他方批判するつもりはない。ただ「観光客」という概念はどんなことを言っているのだろうとはいささか興味があった程度である。

とりあえず上のツイートの前後もふくめて引用しよう。

@hazuma: ひとはあるときは村人として生き、あるときは観光客として生きる、そして観光客はみな個人として偶然性で繋がっているということです。RT @Shimazqe 4分 @hazuma 周辺の社会全体=旅人とは、どのようなイメージでしょうか?クラスが同じだろうと違おうと、そんなの便宜的な制

@hazuma: だから個人のネットワークで学校は出来ません。学校は村です。でもそのまわりに、同級生それぞれが勝手に作っている個人的な関係があり、そのひとたちの集合が「観光客」のネットワークになっている。そしてある学校では村人であるひとも、別の学校に対しては「観光客」になる。

@hazuma: 他方で、社会全体=旅人というのは観念の問題です。ぼくたちは社会全体はじつはイメージできません。それは純粋な理念ですね。社会全体にむかってなにかを発言するというのは、そういう理念に向かって発言することです。旅人というのはそういう理念的存在だということです。昔の言葉で言えば「他者」。

@hazuma: この点で出版直後、「弱いつながり」について観光客って柄谷行人の他者とどう違うのかと批判した社会学者の方がいましたが、それはたぶん読まないで批判していて、読めばすぐ違いがわかります。村人/旅人/観光客は、思想用語で言うと、共同体/他者/両者のあいだをパートタイムで行き来する人です。

@hazuma: 他者=旅人は村人からすると過ぎ去っていく存在でしかないので、否定神学的な理想化の対象になります。その点では観光客は具体的な存在です。観光客の動向は気にかかります。ただし「群れ」です。村人からすれば観光客は個人として認識できません。そして関係もいい加減です。

@hazuma: まだわかりにくいかしら。要はこういうことです。「村人が〜」というとき、私たちは具体的な顔を浮かべている。「旅人が〜」というとき、そこに具体的な顔はない。「観光客が〜」というとき、具体的な顔はないけど、群れとしてのイメージはある。そしてひとりひとりは、状況によりそのいずれにもなる。

@hazuma: で、いままでの社会思想は「村人」か「旅人」しか考えてこなかった。旅人を他者として理想化する(リベラル)か、あるいは敵として排除する(保守)かという違いはあっても。そこで観光客という第三項を考えようというのが、ぼくの提案です。ビッグデータとかの話とも関係ありそうな気がしてます。

…………

以下はかなり以前メモして投稿しないままの記事である(中途半端な議論の展開のため)。いまは「船乗り」と「商人」、そして「農夫」に注目するためにそのまま公表しておこう。もっとも、東浩紀氏の、村人/旅人/観光客が、そのまま農夫/船乗り(水夫)/商人となると断言するつもりは毛頭ない。

…………

柄谷行人の『探求Ⅱ』の「交通空間」をめぐる章の第一節には、《アランは、知の源泉として、船乗りと商人と農夫を例にとって語った》とある。

そこでは船乗りは「構造主義者」であり、商人は《人間を相手にし、言葉で誘惑し説得する》者、《共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手に》する者とされている。そして哲学者も科学者も「商人」である、と。農夫は共同体の内部に属する者とされている。

この柄谷行人の、水夫、農夫、商人は、それぞれ合理論、経験論、そしてその「間」で機敏なフットワークをする「商人」という捉え方ができはしないか。柄谷行人はこの80年代半ばの時点ではそこまでは書いておらず、むしろ《船乗り=商人》(p275)という記述が見られるのだが。  たとえば2006年に書かれたエッセイにはこうある。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」ーー
象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

柄谷行人は80年代中葉の段階では、浅田彰がドゥルーズ&ガタリから抽出したスキゾ/パラノ、あるいは中井久夫の『分裂病と人類』における狩猟民/農耕民(分裂気質/執着気質)などの思考の圏域にあったはずだ。

ここでは、《船乗り=商人/農夫》の二項対立ではなく、最近議論になっているパラノ/スキゾ/アスペの三項をも視界におさめつつ、農夫/水夫/商人の三項として捉えうる視点がないだろうか、という意図の下に、とりあえず、メモに徹することにする。

◆逃走論と切断論 浅田彰 千葉雅也(2013,11,29 京都造形芸術大学大学にての討論 『逃走論と切断論 ―いまドゥルーズをどう読むか』 のプレゼンテーションより)

【パラノ】          【スキゾ】           【アスペ】
インテグレーション   ディファレンシエーション  アイソレーション
蓄積           ギャンブル            節約
定住              逃走                仮住まい
セントラル          マージナル          パーシャル
メジャー            マイナー         メジャーとマイナーの混乱
ドメスティック         ワイルド             ワイルズ
〈内〉の思考        〈外〉の思考          〈傍〉の思考
トータリティ          インフィニティ         フィニチュード
ヘテロ            ゲイ                クィア
ウェット             ドライ              クリスプ(?)
ピュアブレッド      ハイブリッド           クローン(分身)


ただし、パラノ(〈内〉の思考)を農民、--あるいはアスペ(〈傍〉の思考)を商人?ーーとすることはひょっとしたらできるかもしれないが、スキゾ(〈外〉の思考)を水夫とすることは柄谷行人の説明する文脈ではややむずかしい。というのは、水夫が「構造主義者」となっていて、それはスキゾとは異なるだろうから。もっともスキゾの項目にディファレンシエーション(差異化=微分化)とあるように、これは構造主義的な用語ではある。

スキゾってのは分裂型(スキゾフレニー)で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのを言う。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。(浅田彰『逃走論』)
マルクスは、娘たちの問いに答えて、「すべてを疑え」ということをモットーに掲げたことがあった。しかし、彼がすべてを疑うというとき、それが怠惰な懐疑論と異なることは明瞭である。疑うことは、彼にとって生きることと分離されていない。では、いかなる生がそこにあるのか。マルクスは徹底的に主体を疑い、それを関係構造の産物として見た。では、そのように疑う主体はどこにあるのか。人々は、マルクス主義と実存主義というような「問題」を立ててきた。だが、彼らはマルクスという「実存」を無視してきたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P205)

ーーといくつかの文献を引用すれば、スキゾ=水夫もあながち悪くなさそうな気もしてくる(農夫=パラノ、商人=アスペとともに)、--がここではそれらを曖昧なままにしておく。

なお千葉雅也氏はその自著『動きすぎないすぎてはいけない』をめぐって、ツイッターで次のような発言がある。

@masayachiba
浅田さんの場合の逃走と、僕の言う非意味的切断はけっこうニュアンスが違うのよね。
そのあたりを読み取ってほしいですね。浅田さんは強度の人。僕は弱度の人。

他方、浅田彰は次のように語っているようだ(ウェブ上から拾ったので正確な語りの内容ではないかもしれない)。

◆浅田彰×東浩紀「「フクシマ」は思想的課題になりうるか」。

浅田「ドゥルーズの話で前に言っていたけどね、(AOで)connecticutというのをconnect-i-cutとする、直訳すると「接続せよ-私は-切断する」というように、コネクション(接続)とカット(切断)が同義であるようなものとして、リゾームと言っていたわけじゃないですか。今(の若手論壇)は明らかにコネクション(接続)の方ばっかりですね。

〔……〕千葉雅也さんに今さらカット(切断)と言われてもそんなの最初からそうだよとは思うけどね。

(千葉雅也の『動きすぎてはいけない』については)正確な祖述とかしてもしょうがないという立場からして、面白かったということでね。正確ではないところもあるでしょう、ヒュームとかなんなりの解釈ではね」

ーーなお、ここに書かれている文章は、『動きすぎてはいけない』を読んでいない人間が書いていることに注意。

…………

さて、『探求Ⅱ』の第三部「世界宗教をめぐって」の第五章は、章名が「交通空間」とあるように、社会(交通)/共同体が語られる少なくともある時期の柄谷行人の最も重要な概念のひとつ「交通」をめぐっての文でもある。マルクスの「社会」も柄谷行人によれば、交通空間である。マルクスの「社会」と「交通」が同じものだというのは、次の発言が示している。

そこで、蓮實さんがいわれた生産と交通という話に戻ると、僕は、生産は、「共同体的」であり、交通は「社会的」であると考えています。共同体とは、共通のコードをもって閉じられたシステムであり、社会とは、共通のコードをもたない他者との交通において成立するような空間でし、これは僕は「交通空間」とよんでいますけれど、これはどこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなものです。(柄谷行人『闘争のエチカ』より)

あるいは『探求Ⅰ』で、《私の考えでは、マルクスは、共同体と共同体の「間」において存在する関係を、社会的とよんだのである》と書かれてもいる(p15)。

たとえば「交通」概念は、蓮實重彦によって次のように使われている。

言葉が方向を変えるとは、 文脈を踏みはずし、 無方向に拡散しながら、 物語的な根拠を喪失させることを意味するが、 補足的な付加が根拠の強調であるなら、 言葉の方向転換とは横断的な 「変換」 にほかなるまい。 必ずしも充分な成果をあげているとはいいがたいにせよ、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』が目ざしているのは、断じて自作に対する補足的な付加の試みではなく、みずから「交通」 の装置となることで、 言葉に文脈の踏みはずしを惹起せしめようとする秀れて小説的ないとなみなのだ。 そして文脈とは共同体が容認する規則にほかならず、 決ってコミュニケーションを抑圧するものなのである。(『小説から遠く離れて』)

ところで柄谷行人によれば、「自己意識」も一種の共同体である。

……誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(『探求Ⅱ』p201-202)

こう書かれれば、すなわち《”個人”もまた内部と外部をもつかぎりにおいて一種の共同体》(同293)であるということになる。そして個人のモノローグが共同体から逃れるにはどうあるべきかをめぐっては『探求Ⅰ』にパプチンのドストエフスキー論が引用されつつ語られる(ドストエフスキーの小説のポリフォニック性)。

「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしいうが、異なった言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。》(柄谷行人『探求Ⅰ』P168-170)

これは「商人」のダイアローグ、《共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手に》する者のことが書かれているとしてよい。すなわち「交通空間」、マルクスの「社会的」ーー、《共同体と共同体の「間」において存在する関係》ーーにおける「対話」を、ドストエフスキーの小説に見ているとしてよい。

…………

モーゼがそこに向けて人々を脱出させ且つ留まるようにいった“砂漠”は、実際の砂漠のことではない。また、それが荒涼とした不毛の地であるか否かは問題ではない。“砂漠”とは、交通(コミュニケーション=交換)の空間であり、あるいは交通の線図だけが浮き彫りにされるような空間である。それはすでに“抽象的”である。なぜなら、そこでは事物の形態の多様性ではなく、交通路のネットワーク、あるいはそれらの結合の性質と強度だけが問題だからである。

ある意味で、海は砂漠よりももっと徹底した“砂漠”である。それはオアシスもないような砂漠である。たとえば、古代において、地中海は“砂漠”であった。それは母なる海というイメージとは無縁である。アランは、知の源泉として、船乗りと商人と農夫を例にとって語った。船乗りは、ほかに何一つ頼るもののない海上で星空を眺め、一見してたえず変動する多様な星たちのなかに不変の構造を見出す。海は自然を変えることも支配することもできない。そうであるがゆえに、船乗りは物ではなくその構造だけを見つめるのである。自然の形式的な構造を認識することでのみ、彼は海上で生きのびることができる。(……)

船乗りの比喩は、われわれがけっして支配できないし動かすこともできない“他者”としての自然に対してもつような知を意味している。それは、世界に同一的・不変な構造(ロゴス)があるかないかという形而上学の原理的議論と無関係に、たえず実践的に見出される知の在り方である。

それに対して、商人は、そのような自然ではなく、人間を相手にし、言葉で誘惑し説得する。アランは商人に対して否定的であるが、私の考えでは、商人の比喩は、対話において見出される知に関して不可欠なのだ。重要なのは、商人が相手の合意なくしては何もできない(詐欺も合意を要する)し、何もしないということだ。商人は、共同体の外部で、見知らぬ予測しがたい不可解な“他者”を相手にし、且つ彼を排除するのではなく、彼の自由を受けいれることでしか彼を拘束できないという場所に立っている。哲学者は、商人を、真の価値を偽る者(ソフィスト)として非難してきたが、この非難は的はずれである。真の価値あるいは同一性を、共同体の外部で他者に出会う者が前提にすることなどできないからである。

今日の科学哲学者たちは、科学が自然の真理を見出すという考えに反対し、真理が説得あるいは言語ゲームに属すると考えている。要するに、科学者も商人なのだ。しかし、哲学も、もともと共同体の中ではなく、諸言語が交錯する「世界」、つまり他者を説得するほかに強制しえないような場所に発生したはずである。

これは、ギリシャの思想家たちに限られるのではない。諸子百家の一人、孔子は「我は賣(かいて)を待つ者なり」(「子罕篇十二」)と語っている。彼もまた思想家が商人であることをはっきり自覚していたのだ。実際に、共同体を離れた言葉、したがってまた対象や呪力から解放された言葉においてのみ、哲学的思考がはじまるのである。言葉がそれを指示する対象や一義的な意味と必然的につながりをもっていないという認識こそが、哲学的問いをひきおこす。もしそうでなければ、誘惑者(商人)としての思想家もまたありえなかっただろう。

いわゆる哲学(形而上学)は、そのような商人=思想家につきまとういかがわしさの痕跡を隠す。そして、そこから誰もがそれに従うほかないような共同体・規範的な真理(同一性)をとり出す。それは、すでに、交通空間を排除する共同体の思考である。

農夫の比喩に関しては、とりたてていうまでもあるまい。船乗りと商人の対極を考えればよい。彼は共同体の内部に属する者であり、また何とか操作しうる自然を相手とする者である。彼は、自然に対して無力であるがゆえにその構造を見きわめようとするどころか、自然に対してたち向かいそれを支配しようとする。すなわち魔術によって。もちろん魔術は自然を動かすことができないのだが、そのことで挫折したりはしない。なぜなら、その代りに人間を動かせばよいからだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』P271-273)

第二節以降、船乗り=商人ともあるが、これは共同体の間にある海=砂漠における「交通空間」に住まう者ということであり、ここではその一部だけを引用する。だが途中に出て来るミシェル・セールの『ヘルメスⅠ』の序文だけは先に孫引きしておこう。

……コミュニケーションを行なうことは、旅をし、翻訳を行ない、交換を行なうことである。つまり、〈他者〉の場所へ移行することであり、秩序破壊的というより横断的である異説(異本)として〈他者〉の言葉を引受けることであり、担保によって保証された品物をお互いに取引きすることである。ここにはヘルメス、すなわち道路と四つ辻の神、メッセージと商人の神がいる。(豊田彰・青木研二訳)

以下本文だが、都市=砂漠=海が「交通空間」とされて、繰りかえせばその「間」に住むものが船乗り=商人であり、哲学者、科学者も本来商人であるべきだ、そしていままで農夫としての「哲学者」が批判してきた「ソフィスト=商人」が肯定的に書かれているのも上の引用で見た(千葉雅也氏は、ツイッター上でソフィストをしきりに顕揚することを想起しておこう)。

都市を、その具体的な定住空間においてみるのはまちがっている。それは共同体としての都市、あるいは都市国家を、“都市”ととりちがえることになる。たとえば、“情報”のコミュニケーション=交換が停滞すれば、どんな都市〔シティ〕もその外見を残したままで町〔タウン〕になってしまう。都市は、国家(共同体)の内部にあるようにみえるーー事実、国家は都市を包摂するーーが、本質的には国家の外部にある。都市は、海=砂漠なのだ。たとえば、デカルトが亡命したアムステルダムについて、世界最大の商業都市であり、且つ砂漠であるといったのは、正確である。デカルト主義者とちがって、彼は“砂漠”で考えたのだ。(『探求 Ⅱ』P276)

柄谷行人の文に出て来る《アランは、知の源泉として、船乗りと商人と農夫を例にとって語った》を読んで、アランのプロポを読み返してみたのだが、柄谷行人がおそらく参考にしているプロポのひとつは「水夫と農夫」だろう。「商人」に関しては、アランのほかのプロポがあるにはあるのだが今は割愛。

以下、邦訳字数にして約二千字、原稿用紙五枚の簡にして要をえた名プロポ「水夫と農夫」である。

水夫と農夫 

水夫は舟もろとも波がしらに突きあげられるとき、人間よりはるかにつよい一つの力を身をもって知る。しかしまた、水夫は舟をあやつって風のすぐそばをとおり、かくして風のままに押しながされて来ていた暗礁から遠ざかるとき、工夫しだいで風や波にうちかつ手段があるものだということを知る。そして、海のもたらすどんな攻め手に対しても、かわし手があるということを、経験からして彼はおしえられる。いってしまえば、相手はつねに機械的な、たんに機械的なものたるにすぎぬ力なのだ。ここではすべてが明快である。そして法則は、混乱のなか、あのはてしない動揺のなかにあってさえ、すがたをあらわす。潮汐の規則ただしいくりかえしは、嵐の神をあなどるかとおもわれ、そして木はつねに水のうえにうかぶ。不実な要素をふまえているのは、見かけによらず、農夫のほうなのだ。ここでは、生物学的な力が季節の気まぐれともつれ合ってはたらく。ここには期待が、忍耐が、そしてまずもって失望がある。ここには灌漑が、かしこに排水といったふうに、なにか有益なことをくわだてるには、ながい歳月のうえに眼をはせなければならない。ある年は水がれで日でりがする。つぎの年は雨が多くて湿潤であるといったあんばいだ。種まきと取りいれのあいだに、いかばかりの変化があることか。これに対しては、貯えと埋めあわせによるほか、なんのかわし手もない。ある年はまぐさと家畜でうめあわせ、他の年は小麦でうめあわす。それゆえ、たのむ先は伝統であり、模倣である。およそ新基軸はすべて眉つばものとされる。というのは、こうした農夫の智慧は当初の結果などにはけっして目もくれないのだから。小麦畑には平べったい小石がちらばっているのが見うけられる。かのプヴァールとペキッシュはこれらの小石を大金をかけてとり除かせた。だがじつは、この鉱物のこやしは小麦の茎をささえていたのであり、また小石はおそらく排水に役立っていたのだ。ふたりはふんだんに肥料をやったわけだが、みのりはふやふやのしげった草になってしまい、とり入れた小麦はみとが悪いものになってしまった。しまいまで待とう、これが農夫の歌なのである。

水夫の行動は猶予をゆるさない。カジのとり方ひとつが生死のわかれみちになる。刻々があいつぐ戦いである。勝利は一瞬ごとに確保される。一時の危険はただ一つのみ。そして、ひとたび港に入ってしまうと、すぐさま海神ネプチュヌスはあざわられる。大胆さや工夫は、波浪のやわらくこうした入海の岸辺で生れたものにちがいない。いつもおだやかな港のかたわらの、あのいたずらな潮騒は、およそ想像力をやわらげるはずのものである。「はやてをやり過ごせ」、これは水夫のことばであり、またある意味で生活の規則でもある。わが国の港町でよく見られる光景だが、水夫たちの快楽は、農夫の息子であるおとなしい歩兵たちの眉をひそめさせる。けだし、嵐も水夫たちの収穫をかすめとりはしないからである。水夫はわが身ひとつを救えば、はやすべてを救ったことになる。だが農夫のほうは、自分の富を港へははこびこむことはできない。農夫の富はつねにひろげ出され、さらし出されている。かくして、ほかほかとあたたかい火も、彼の霜の心配をそうなぐさめてくれはしない。「風が地上を吹きあれているとき、身が安全にかくまわれていることは、なんとこころよいことか。」詩人とともにこんなことがいえるのは、けっして農夫ではない。

こうしたいろんな原因ゆえに、かの支那という国はどっしりと重くるしく、えたいが知れない。またこうした原因ゆえに、海に噛まれる活動的な西洋は、その法則と発明とを世界に送り出す。こうした考察は、あの勤勉で物理学者の島国、イギリスとその政策とについてなにごとかを説きあかしてくれる。モンテスキューはこの政策を、潮汐の力と入江の深さによって説明して倦まなかった。というのは、彼によれば、竜骨がふかくなれば側面抵抗力がまして、風のすぐそばを航行することもできるようになるゆえ、ふかい港はすぐれた帆船を生むということになる。こうした原因によって、ヴェニスはイギリスを破ることができなかった。そして、どの海戦もみな、潮汐と海岸とによってあらかじめ勝敗の帰趨はきまっていたわけだ。水夫の思想、水夫の哲学。陸の人ゲーテは、外的原因によるこうした説明をあまり好まなかった。むしろ彼の思弁は、人力のおよびえないあの内部による発展という考えをたどりつつ、ドングリから樫の大木へとすすんだ。この点、ゲーテは農夫であった。彼は観念というものを、自己のうちにみずからの法則をもつ胚珠のようなものとして考えた。こうした観念は神秘的なものだ。それは推論の対象というよりは、むしろ静観の対象である。それは精神をてらし出すよりは、むしろこれをはたらかす。かくして、大陸はその星雲のような観念の群れを、四方海に洗われる島々のほうへ押しやる。そして海の人ダーヴィンが、この群れの毛を刈りとるということになる。(アラン『プロポ』集(弥生選書)より 井沢義雄/杉本秀太郎訳)


《かの支那という国はどっしりと重くるしく、えたいが知れない》とあるが、これは今では一概にそうは言えないのかもしれない。たとえば中国は商人の国でもあるだろう、すくなくとも世界各地に華僑という存在があって本土に強い影響を与えている。かつ青幇紅幇をも想起しておこうーー《中国では個別社会――幇(バン)や親族組織――が強く、それが国民(ネーション)の形成を妨げてきたが、逆に、今日のグローバル化において、国境を越えた個別社会のネットワークが強みとなっている》(「丸山真男とアソシエーショニズム」 )。だが全体的な印象ではやはり《どっしりと重くるしく、えたいが知れない》であるだろう。尖閣や南シナ海に船舶で不穏な動きをしようとも、どうも農夫が舵をとる船の印象がある。

では日本という国はどうなのだろう。江戸文化の伝統、ーー刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)ーーを引き摺るままの閉じられた「村社会」というのが通念ではある。だが、もし中国と日本が同じ農夫の共同体であったにしろ、日本は決して「どっしり」とはいかない国でもある。

1994年の時点で(「リテレール」第十一号)、中井久夫は次のように書いている。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収広英社)

《風をみながら絶えず舵を切るほかはない》国であるに相違ないのなら、農夫気質のひとがどうも多すぎるきらいのある日本には、水夫的人材が増える必要があるのではないか。とはいえ、そんな人材を意図的に増やすことができるわけではない。

浅田彰の云う「土人の国」日本とは、日本人の農夫気質を揶揄するものだ。実際、「同調圧力」やら「絆」や「寄り添う」、「共感の共同体」(事を荒立てるかわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先される)、「空気を読む」、「曖昧模糊として春のよう」などと語られる日本、あるいは日本人の特徴は、すべて農夫気質を言い表わしているともいい得るが、いささか捕捉すべきなのは、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体》(浅田彰)や、「母系的なものの残存」(柄谷行人)という観点だろう。だがここではそれを追求することはしない。

農夫の資質とは中井久夫によれば次の如し。

「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

日本における「反知性主義」、たとえば最近では斎藤環によって「ヤンキー化」などとも語られたりする原因の多くは、この農夫気質に由来するのではないか。

《いまやヤンキー化の進行はとどまるところを知らない。気合とアゲのバッドセンス、ポエム化の蔓延、現場主義のリアリズムと夢を語るロマンティシズム、「知性より感性」の反知性主義。ヤンキー化の源泉をさぐることで、あたらしい「日本人」の姿が見えてくる。》(斎藤環「ヤンキー文化と日本文化」――「日本精神分析2.0」

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』より)

もっとも「反知性主義」が日本社会の「ムラ」的人間関係のせいだけだとは断言しないでおこう。ムラ的な人間関係の集団による知性の劣化はなにも日本だけのことではないのだから。

集団は全体としてみると、(……)知的作業力の弱体化や、情緒の無制御、節度を守ったり猶予したりする能力の喪失、感情表現が限界を越える傾向、感情表現を行動の形で完全に放出してしまう傾向、ルボンが印象ぶかく叙述したこれらのことは、精神活動の初期の段階への退行をはっきりした形で示している。それは、われわれが野蛮人や小児に見出しても驚きはしないような種類のものである。われわれが知っているように、高度に組織化された人為的な集団では、この退行は、かなりの程度まで防止することができる。

このようにしてわれわれがうける印象は、個人のもつ個々の感情の動きや個人的な知的行為が弱化して、単独では無効になり、ひとえに他人の側からの同じやり方の繰り返しによる強化を期待する状態、という印象である。この依存現象がどんなに多くの人間社会の正常な構成に属しているのか、その中に見出される独創性と個人的な勇気がどんなにとぼしいか、個人の種族の特性とか、階級の偏見とか、公の意見とかいうものとして現わされる集団精神の立場に支配されることが、どんなに多いか、こういったことをわれわれはここで思いおこさざるをえない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 p231-232


さて農夫のムラや共感の共同体に対抗するために水夫や商人が必要だとして、それが《connecticut》、すなわち《connect-i-cut、「接続せよ-私は-切断する」》ことを意味するのか、そのとき、浅田彰の「逃走」と、千葉雅也の「非意味的切断」ーー《浅田さんは強度の人。僕は弱度の人》とどうかかわるのかは、わたくしには瞭然としない。ただここでは、柄谷行人の云うような「農夫」と「水夫」の間のフットワーク(経験論と合理論の間のフットワーク)が「商人」であるのなら、connecticut(接続せよ-私は-切断する)も似たような考え方ではないかと憶測するだけである。

「商人」というとおそらく悪い印象を受けるかもしれない。あるいはソフィストといっても同様。ソフィスト、すなわち「思想の商人」なのだから。だが言葉に騙されてはならない。たとえば、ソクラテス/ソフィストをイロニー/ユーモアとする見解がかねてからある。

Platonic irony is, in this sense, a technique of ascent, a movement toward the principle on high, the ascetic ideal. The Sophist, by contrast, follows a descending movement of humor, a technique of descent that moves downward toward the vanity of the false copy, the self-contradicting sophist.(Daniel W. Smith『Essays on Deleuze』ーープラトンとニーチェの「洞窟」

これは、ドゥルーズのマゾッホ論のテーマでもある(参照:「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)。

柄谷行人が、《哲学はソクラテスの「対話」にはじまっている。対話そのものが鏡の中にあるのだ》(『トランスクリティーク』p79)と書くとき、共同体(ムラ)の「対話」のことを言っている。すなわちソクラテスは農夫なのだ。もっともここで急いでつけ加えておかねばならない、別のソクラテスもいることを。

ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。―――私は、友人である以上に愛であり、恋人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、力である、と。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

「商人」だってそうだ。無分別な顕揚はあやうい。

芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。(柄谷行人「死語をめぐって」)

この文の「芸術家」と「職人」に、「水夫」と「農夫」を代入してみよう。あるいは合理論者と経験論者でもいい。《彼らを水夫(合理論者)の立場から批判しようとすれば、自分は農夫(経験論者)であるというし、農夫の立場からみれば、彼らは自分は水夫だというだろう》--このきわめて厄介なヌエのような存在が、実際の「商人」の実態なのだ。

とすれば、経験論と合理論の「間」で機敏なフットワークを駆使する真の「商人」を育成するためには、日本に決定的に欠けていると言われる「合理論者=水夫のような法則の人(構造主義者)」がまずは必要であるということになる(参照:象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」)。


※補遺→農夫/水夫の間の機敏なフットワーク(商人=観光客)