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2014年8月25日月曜日

ラカンのオーラ

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収 P209)

かつてラカンの訳文を校正した中井久夫さえ、
このように書いてしまうのだからやむ得ないよ、
精神医学にほとんど関心のない人たちの誤解は。


中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されていると言うでしょう。どうなんですかね。
木村 「言語のように」というか。
中井 「ように」なんですか。
木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すのかの問題ね。
中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。
木村 「言語として」と訳すか......。
中井 うーーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。
木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニアンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。
中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。
柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとか......。
木村 日本もそうですよ。
中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。
市川 日本人はあんなもの信じてないとおもうけど(笑)。
木村 いや、信じている人達が何人かいて......。
中井  ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。(『シンポジウム』柄谷行人 編・著所収 1988)


啓蒙ラカン派とされる斎藤環氏だってこれだからな。

記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」)

ーーそれなりに読まれるだろう斎藤環氏あたりが「無意識は言語のように構造化されていません」のたぐいの挑発的書名で、誤解を解くべきなのに、《シニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた》とか、《言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」です》なんていってちゃな。これじゃシニフィアンの主体だけじゃん。《ラカンの仕事には、二つの主体がある。すなわちシニフィアンの主体と享楽の主体である》(フィンク)

《享楽こそが「真の〈物自体〉」であり、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている》(ジジェク)と断言したのがラカンの真骨頂じゃなかったかね


まあいいんじゃないか、ラカンさん
いまさら無駄だよ、たぶんね
『セミネールⅩⅠ』以前に既に、オーラを発しすぎたんだよ

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30)


『セミネールⅩⅠ』の紹介だって、ラカンの欲望から欲動への転回を指摘しないと、
なにも言ったことにならないんじゃないかね

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより

…………

Seminar XI marks a very important shift in Lacan's position and theory. In my reading, it functions as a hinge between the Lacan of the signifier and desire and the Lacan of the Real and jouissance. With respect to the body, from Seminar XI onwards the focus shifts from the signified and/or imaginarised body to the body as a real organism, characterised by its orifices and functioning by means of the drive. (Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real.)

ラカンのセミネールⅩⅠには、オートマンとチュケーが出てくるけど、オートマン=シニフィアンの連鎖というのは、チュケーの効果であり、原因はチュケーさ。

そもそも「自由連想」というのはシニフィアンの主体=オートマンによるものにすぎない。

トラウマについてのラカンの次の主要な考察は1964年の「精神分析の四基本概念」のセミネールの中でなされています。そこではアリストテレスから借りてきたチュケーtuche とオートマトンautomaton という概念が取り上げられ、オートマトンはシニフィアンのネットワークの自動運動、チュケーは現実界との出会い損ねがトラウマとして反復現象を引き起こすとされます。そして転移現象と反復現象ははっきりと区別されます。(向井雅明「精神分析とトラウマ」




just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (同Verhaeghe)

このスライドパズルについては、立木康介氏の『露出せよと現代文明は言う』の書評にも書かれているけれど、肝心なのは赤い穴さ。

主体はトラウマを抑圧するために、ただちにその欠如を一種の換喩(メトニミー)によって、別の欲望対象に置き換えるのであり、このようにして次々にシニフィアンを言語的象徴として主体に表象することを可能にしてゆく。つまり、主体を言語世界に導く。ちょうどパズルの一種で、多くの四角のピースを縦横にスライドさせていくことによって、すべてのピースを求められた順に並び変えるゲームがある。それらのピースが縦横に動くことができるのは、それらのうち一か所が空所として空いているからである。それと同じように事物の中に一つの欠如(ファルスの欠如)を生みだすことによって、シニフィアン全体の構造化が可能になるのである。


立木康介の書もそれほど読まれているようには思えないしな(異論の余地の多い「倒錯」を前面に出しすぎたのではないか、オレは読んでいないが)。

もちろんシニフィアンの連鎖も大事さ、すなわち「シニフィアンの主体」もね。
でも「享楽の主体」があることを忘れちゃね

オットー・ランクの原トラウマに直接に取り組むべきだという提案にたいして、フロイトは、《おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか》(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)といっているわけでね

ランプ=享楽だけ取り出しても、部屋は火がついたままなのだから、シニフィアンの主体=火事になっている部屋から先に消防していかなくちゃな。



Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 私訳)


ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar Ⅶ)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』)


…………


中井久夫が次のように書くとき、それはほとんどラカンの晩年のララングlalangueと同じことを言っているように思う。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候――再考」同27号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。

実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)


2014年7月15日火曜日

「わかりませーん」

ラカンの三つの身体」にて、斎藤環氏に触れた箇所をめぐって、問いというかコメントがあるけれど、そこにも書いたとおり、ーーというか正確には書いてなかったかもしれないがーーわたくしは斎藤環氏の書物を読んだことがないので、よくわからない。ただ、かつて雑誌に書かれた論やウェブ上で拾った文への齟齬感を書いただけなので、繰り返しておけば、それで判断してください。わたくしはただのディレッタントでラカン派でもなんらかの専門家でもない。

人格、メディア、ともにラカンの精神分析においては単に「存在しない」、あるいはいずれも、想像的なものとして価値切り下げの憂き目にあうだろう。なぜならば、そう、「メタ言語は存在しない」からだ。記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。メタ記号はありえてもメタ・シニフィアンは不可能である。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)

①《記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた》とある。

私が言語の機能を重視するのは、人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準にもとづいています。正確にはシニフィアンということになりますが、読者の便宜を考えて、ここはあえて近似的表現をもちいます。(……)

フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです。(斎藤環から茂木健一郎への手紙「第3信  「人間」と「言語」、あるいは偶有性のアスペクト」(2010年)より

②《人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準

③《言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね》


この①②③と次のミレールの文をともに読んで、どう判断するか、ということ。逆に教えてほしいね、斎藤環氏を擁護するなら。

ラカンの影響と呼ばれるものが認められるところでは常に、彼の教育はシニフィアンの作用の重視に還元されてしまいました。しかしながら、ラカンはそのようなものではまったくありません。(……)

いわゆる、「ラカンの影響」が「シニフィアンの作用」というものの一方的評価として受け取られる場合、分析経験にはまったくの混乱がもたらされます。(ジャック=アラン・ミレール「もう一人のラカン」

要するに「欲望」や「症状」のたぐいは前期ラカン(象徴界、あるいは言語のシステム)の語彙群であり、セミネールⅩⅠ以後、現実界のラカンに変っているということ。それがもう一人のラカン。→ 参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome


このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。(「欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」)

ミレールは1982年の段階ですでに「From Symptom to Fantasy and Back」というレクチャアをしている。


※参考:「SUBJECT ANDBODY. Lacan's Struggle with the Real. 」(Paul Verhaeghe)より。

This real is the drive in its inability to be represented. LACAN Seminar 11, p. 60; (Le Séminaire, livre XI, pp. 59).
……this part of Lacanian theory can very well be understood from a Freudian point of view. In Freud's theory, the pleasure principle functions "within the signifier", that is, with representations (Vorstellungen) to which a "bound" energy is associated within the so-called secondary process. What lies beyond the pleasure principle, cannot be expressed by representations and operates with a "free" energy within the primary process. The latter has a traumatic impact on the ego (Beyond the Pleasure Principle, S.E. XVIII, p. 67ff). The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation. “Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language (Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96).




2014年7月11日金曜日

「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)

…………

日本や日本人の特性としてかつてから種々のことが言われてきた。「蛸壺」、「タテ社会」、「甘え」などは、わたくしが少年時代に書物で読んだ言葉たちである。時枝誠記や森有正の日本語論、すなわち日本語は本質的に敬語的などというのも当時は感心したものだ。それ以外にもいろいろある。ムラ社会、会社主義、共感の共同体等々。ところで、いまは「ヤンキー化」ということが言われる。これはムラ社会などからイメージされるものとはやや異なるようだ(わたくしは斎藤環氏などによるヤンキー論を読んだことがないので、あまりえらそうなことは言えないが)。だが共感の共同体の住人、あるいは浅田彰のいうアーバン・トライバリスト(部族中心主義者)が、次のような特質をしめそうとするときヤンキー的になるのではないかとは思う。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

そしていまはそうせざるをえない社会なのであろう、おそらくエディプスの斜陽という文脈においては、世界的にも(先進諸国においては)おなじく。インテリもいくぶんかは、あえてヤンキーとして振舞わなければならないのではないだろうか。四十前後の売れ筋の「思想家」の言葉をツイッターなどで眺めていると、あえてヤンキーとして振舞っているようにも邪推せざるをえないことがある、その気合主義、アゲノリ、若い世代への媚び、みえみえの承認欲求、己れのイメージへの極度のこだわり等々ーー。


北野武が語る「暴力の時代」

―監督は先ほど「エンターテイメントに徹している」と仰いましたよね。今言われたような編集で間を詰めるということと、エンターテイメント性というものは、監督の中では繋がっているものなんでしょうか?

北野:うん。結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。

―なるほど。

北野:登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。

ムラ社会の住人が「他人うけ」を狙うことに大きく傾くとヤンキーになるのではないか、というのが、いまのところの、すくない資料を読んだにすぎない、そして海外住いにて日本人の生態についての実感から遠く離れて暮している者の、とりあえずの浅墓な仮定である。

斎藤環氏は、田中角栄、小泉潤一郎、橋下徹、安倍晋三などを日本的なヤンキー気質の政治家として挙げているが、わたくしの場合、政治的に「ヤンキー」という語からまっさきにイメージするのは、ラカン派のコプチェクの次の指摘である。

カン派のコプチェク(ジジェクの朋友でもある)は、《アメリカ人ヒステリー的な態度によって主人を選出すると言う。必然的に妨げられる欲望は、妨害そのものへの欲望に転化する。満たされない欲望は、決して満たされる ことのない状態への欲望に転倒される。つまりそこでは、誤りを犯すことがわかっているような無能な人物があえて主人に選ばれることになる》と言う。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純ーー無責任体制の「記号」としての「安倍晋三」


…………

以下、おおむね資料の列記である。


【ムラ社会】

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』より)


【会社主義】

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。

ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。(……)

日本の言説空間は、外からの原理による去勢を排除してしまった分裂病的な空間であるといえるかもしれない。見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。……(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収ーーいつのまにかそう成る「会社主義corporatism」
日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」)

※《去勢を排除してしまった分裂病的な空間》という柄谷行人の1992年における言葉遣いは、いまからみればいささか異和がある(たとえば、現在のラカン派ならこれを「ふううの精神病」的な空間とか、「ふつうの倒錯」的空間と呼ぶかもしれない。が、ここでは厳密さを求めずに引用に終始することにする。ただ柄谷行人の文に現われる《母系制(厳密には双系制)的なものの残存》という表現に注目したい)。


【母性的な社会】

さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)

ここで《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェル》という表現が出てくるが、これは神経症/精神病の対比であり、現在、「二十世紀の神経症の時代から二十一世紀の精神病の時代」という言い方が一部のラカン派ではなされている。これも諸論がありここで追求するつもりはないが、日本が「ふつうの精神病」先進国でありうるのは次の叙述を参考。

ラカンは精神病を本質的に想像的な(イマジネールな)ものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものはこのように精神病的であり、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである。(ジャック=アラン・ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

※より詳しくは「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)



【共感の共同体】

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。
「将来の安全と希望を確保するために過去の失敗を振り返」って、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」のである。しかし、この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう。(酒井直樹「無責任の体系」

要するに次のような「共同体」気質だろう、《『クラス全員が反省しています』と言う。みんなに責任があると言いながら誰も謝罪しない。それでは、誰にも責任がないと言っているのと同じじゃないですか》http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY201303300083.htmlーーリンク切れになっているが、たしか「いじめ自殺」をめぐる記事である。

これらの「共感の共同体(ムラ)」は、原子力ムラから理研ムラまで、そしてツイッターなどでの研究者ムラ、文芸愛好家ムラなどまで、いまでも到る処にみられる。

この共感の共同体に溺れないようにするための「望まれるべきコミュニケーション」のあり方とも読みうる言葉として、1999年4月12日、東京大学総長式辞(蓮實重彦)の文句を拾っておこう。

・気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる外部の力学
・共感とは異質のある種の齟齬感
・同調からくる納得ではにわかに処理しかねる違和感
・親密さではなく、むしろそれをこばんでいるかにみえる隔たり

微妙ではありながらも何かが決定的に違っている対象を前にしたときの驚きは、齟齬感や、違和感や、隔たりの意識を煽りたてる対象への深い敬意を前提にしております。(1999年4月12日 東京大学総長 蓮實重彦の式辞より)


【ヤンキー化】

ヤンキーとは、本来はアメリカ人を指すYankeeが語源。日本では、『周囲を威嚇するような強そうな格好をして、仲間から一目おかれたい』という少年少女。また、それら少年少女のファッション傾向や消費傾向、ライフスタイルを指す場合もある。口伝えで広まった言葉のため、本来の意味を知らない多くの人々によってあいまいな定義のまま使用されることが多く、『非行少年』『不良』『チンピラ』『不良軍団』など多くの意味で使用される。
「ヤンキー」については、語源や解釈を巡る議論がいまだ決着していないのだが、単に不良性を示すだけの言葉ではない点は確認しておこう。少なくとも、僕がヤンキーと言う場合、それはもはや不良や非行のみを意味しない。むしろ、彼らが体現しているエートス、すなわちそのバッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの“文化”、を指すことが多い。
現代はこうしたヤンキー文化が、かつてないほどの広がりをみせている時代ではないか。確かに本物の不良や非行少年は減ったかもしれない。しかしそのぶん、彼らに特有と思われていた文化的エートスが、非行とは無関係な層にまで浸透しつつあるように見える。(斎藤環『ヤンキー化する日本』

もしヤンキーがアメリカ人をさす言葉だとすれば、ふたつのアメリカがあって、《移民を受け入れ、国の中にあらゆる民族がいて、しかも商品も資本もかなり自由に行き来できるというアメリカ》と《モンロー主義のアメリカ》があり、その後者を指すのだろう。

柄谷行人)ぼくが言いたいのは、アメリカにあるモンロー主義の可能性をむしろ見てなきゃいけないということなんですよ。つまりあまりにも戦後のアメリカに慣れすぎて、むしろモンロー主義が基底にあるということを忘れているのではないかと思うんですね。アメリカのナショナリズムの思想的元祖は、エマソンですね。彼は、日本の本居宣長とある意味でよく似ているんです。彼のトランセンデタシズムは、歴史や伝統を切断して、自分の内部と経験に問えということですが、これは別の意味で、アメリカのナショナリズムです。なぜなら、歴史や伝統はヨーロッパのものだからです。

エマソンは「ヨーロッパへ行くな」とも書いている。これは、宣長が「漢意」を批判して、おのれ自身の心(もののあはれ)を重視したのと平行しています。日本の場合と同様に、これは、反インテレクチュアリズムとして根強いですね。ただし、日本と違って、インテリのほうも頑固で根強いですが、と言うのも、インテレクチュアルはヨーロッパから直接に来ていますからね。書物だけが来るのではない。とにかく、このエマソン主義は、政治的な表現をとるかどうかは別としても、アメリカの思想的基底にあるものだと思う。この意味で、ぼくはアメリカは巨大な「島」だと思っているんです。(柄谷行人 岩井克人対談集1990『終りなき世界』より



精神科医・斎藤環×歴史学者・與那覇潤より

ここには「反知性主義」(反インテレクチュアリズム)、「母性的」「気合い」とか「アゲアゲ」という言葉が現われ、かつ上の『ヤンキー化する日本』の引用にあらわれた「絆」という語、あるいは《家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合》という表現から窺われるように「ムラ社会」や「共感の共同体」、「おみこし熱狂や無責任」(中井久夫)の変奏ともいうべき文句が散りばめられている。

與那覇:知性をもっていると思う側は、しばしばヤンキーを「反知性主義」といって叩きがちですけど、反知性主義というのは単なるバカとは違うわけですね。

斎藤:それははっきりと違います。私がよく言ってるのは、ヤンキーの成功者は「地頭がいい」ということです。地頭がいいヤンキーがいちばん日本人では尊敬されると。そこで最近よく挙げるのが白洲次郎です。あのあたりの人がヒーロー像としてはいちばん印象的なんだろうなと思うわけですね。反知性というよりも「反教養主義」に近いかもしれません。

與那覇:反知性主義を単に「お前ら知性ないじゃん」と攻撃してもダメで、「彼らはなぜ、地頭がいいにもかかわらずインテリ的なものを嫌悪するのか」という部分を問わなければならないと。そこで斎藤さんがご著書で示された手がかりが、“ヤンキーはエクリチュール(書かれたもの)的でない”という指摘と、“つっぱったヤンキーは一見マッチョで父性的に見えても、じつは母性的なんだ”という議論の2点だったと思うんです。

斎藤:そうですね。ネオリベというのは基本的に、良くも悪くも父性的な考え方だと思いますが、ヤンキーの場合は「厳しい母性」なんですね。保護的なんですけど、スパルタ的でもあるということ。母性的だからこそ、気合いとかアゲアゲとか、身体性に依拠するんでしょう。彼らにとって真実を担保してくれるものは常に行動であり、行動を可能にしてくれる「夢見る身体」なんです。

與那覇:わかる気がします。父性的というのは、最後は自分から独立させて切り離すということですね。お前とはもう他人だから、一個人として自分の判断で生きていけと。

斎藤:そうです。切断的なものは父性ですね。それで、連続的、包摂的なものを母性と考えれば、厳しい母性がヤンキーだとなる。

與那覇:それは自分の頭で考えたいインテリにとっては、いちばん生きづらい……。

斎藤:生きづらい! そして、日本の大衆にとっては、いちばん心やすらぐということですね。

與那覇:厳しくするくらいなら「ほっといてよ」と思うのに、「でも私に合わせるなら、受け入れてあげるのよ」と追いかけてくる。体罰教師の生徒指導みたいな話ですよね。

斎藤:そうです! 体罰の背景にあるのは母性なんですよ。ルール無き恣意的暴力で包み込もうとする。決してほっといてくれないんですよ。ルールの厳格な適用なら父性的と言えるんですけどね。

※マッチョという語が出てくるが、ジジェクによれば次の通り、《マッチョのイメージは、人を惑わせる仮面として経験されるのではなく、人がなろうと努力する理想自我(想像的同一化)として経験される。そのイメージの裏には、マッチョイメージにはまったくそぐわないただ弱々しいごく標準的な男が透けてみえる。》(徳の俳優と悪の俳優

理想自我という語は、フロイト=ラカン派の「自我理想/理想自我」の二項であり、これは「象徴界/想像界」の二項対立の範疇に属する。すなわち、ラカン派からみても、マッチョは母性的なイマジネールの領域の語彙のひとつである。

かつ「切断的な父性/連続的、包摂的な母性」とは、「父なるレリギオ(つつしみ)/母なるオルギア(距離のない狂宴)」(中井久夫)のことでもあろう。そして「距離のない饗宴」とは、「おみこしの熱狂」のことである。


さてこれ以外に、日本的な精神構造をめぐるものとして、古典的な「甘え」「意地」なども挙げられるだろう。

甘えという言葉が日本語に特有なものでありながら、人間一般に共通な心理現象を表 しているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近かなものであることを 示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにでき上がって いることを示している。言い換えれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概 念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということ ができる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971)
「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・外傷・記憶』所収)
意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。

一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。

そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。

二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。(意地の場について(中井久夫)

柄谷行人もかつてコジューヴの日本文化論(日本的スノビズム)を語りつつ、《日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと》としている。

《江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。》(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」

※東浩紀の「動物化」概念については詳しくないが、宮台真治氏は次のように言っている、

コジェーブは、歴史の終焉後、日本的「スノッブ化」とアメリカ的「動物化」の二者択一しかないと見たが、東さんは、日本的「スノッブ化」すら過去のもので、今や「動物化」しつつあると。

 スノッブが動物に「なる」とはどういうことか。「あえて」形式と戲れるスノッブですが、コジェーブはそこに人間の自由を、ジジェクは「あえて戯れ『ざるを得ない』」不自由を見出しました。さて「動物的なもの」においては、その「あえて」の契機がスッポリ抜けるのだと東さんは言います。だから、せっかくスノッブがディタッチメントを達成したのに、再び素朴なコミットメントに回帰しているように見えます。同じ戯れでも「あえて」が入るか入らないかの差異が重大だという指摘……(宮台・東対談~『動物化するポストモダン』を読む~

だがこれは柄谷行人が吉本ばななに触れるなかで、「あえてのないイロニー」をすでに語っている(「死語をめぐって」1990)。


さてこれらの日本人の特質が容易に変えられないものだとしたら、その肯定的側面を考えることも重要なのだろう。

「例えば、(津波がきたとき)最後まで避難を呼びかけて命を失った人がいたが、それらはこの国の人のどんな美徳から来ているのか。失われたものを考えるだけでなく、逆に何が失われていなかったのかを考えるのも一つの方法でしょう」(作家、古井由吉さん『蜩の声』 長い安泰で浮いてしまった言葉 産経新聞)

磯崎新は鎖国して「和様化」しろ、という。

《「歴史を振り返ると、日本人は鎖国状態の時期、非常に細かい技術を駆使して、発案した人たちを脅かすものをつくり続けてきた。そして、その時期にできた日本語や自動車などの日本的なものが、日本の文化や産業の歴史的な主流になってきています」》(「和様化」今が好機 」

わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』ーー日本語と下からの目線


…………

※附記

上のに引用された論のひとつ、中井久夫の「「踏み越え」について」は、冒頭に掲げた「戦争と平和についての観察」とはまた別の、もうひとつの戦争論、暴力論である。上の文脈とはあまり関係がないかもしれないがここで引用しておく。というのは、《行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にした全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない》という文があるからだ。

斎藤環には次のようなヤンキーの特徴をしめす文がある。

ヤンキーの特徴の一つに、「行動主義」「仲間主義」などが挙げられる。それが助け合いの原動力となり、震災直後の復旧活動において、大きな力を持ったのは間違いない。
我々の心の中には多かれ少なかれヤンキーが住んでいる。だからヤンキー的なものを嫌悪している人も、土壇場や正念場で「気合い」を入れたり、「がんばればなんとかなる」とつい洩らしてしまったりする。それほど深く日本人の感性に根付いている。それゆえに、ヤンキー性ゆえの強みと弱みを認識し、ある種の諦観をもって、日本人は自らの内なるヤンキーと向きあわねばならない、というのが僕の今考えていることである。(誰の心にもヤンキーはいる
 
これは中井久夫の、阪神淡路大震災において、髪を茶色に染めたボランティアの若者が目覚しい活躍をしたことを感嘆の口調で語っていたのを想起させる。あのようなときに率先して行動する「無名の」人間がもっとも信用できるというような意味合いだったはずだ(いま、どこで書いていたか探し出せないでいるので、そのうち見つけ出したら、中井久夫の文と差し替えるつもり)。あの若者たちは「ヤンキー」としてよいのだろう。

さて、前段もふくめ(これはここでの文脈とはほとんど関係がない)、すこし長くなるが「「踏み越え」をめぐって」から抜粋する(下段に「ここでの文脈の核心部分である」としているので、そこまで読み飛ばしてもらってもいい)。

戦争こそ、明確な言語化やイメージ化を経由せずに行動化される最たるものである。四年三ヶ月にわたって不毛な会戦を反復し、ヨーロッパに回復不能の打撃を与えた第一次大戦は、双方とも一ヶ月で終わると思って始まった。日中戦争は南京陥落で終結するはずだった。

見通しだけではない。近代の開戦理由を枚挙してみても、それが必要充分な理由であったことはかつてないのではないか。「なぜ、それが戦争になるのか」という反問に耐えないものばかりであると私は思う。不確実で、より小さな不利益の可能性のために、確実でより大きな損害を招く行為である。これは多くの犯罪と軌を一にしている。

戦争への引き返し不能点は具体的に感覚できるものである。太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、「もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである」という感覚を私の周囲の多くの人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に「一言でいえばざまあみろということであります」と言ったのは、この感覚からの解放感である。この辺りの変化は猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』によく描かれている。東条英機首相も、昭和天皇も、この重圧によって開戦へと流されていった。東条の神経衰弱状態は、開戦と同時に、軽躁状態に急変する。天皇を初めとする大多数の国民もまた。

ある患者は、幻覚妄想のある時期とない時期とを往復していたが、幻覚妄想のある時期はなるほど苦しいけれども、幻覚妄想がいつ起こるか、いつ始まるかという不安だけはないと言った。逆にない時期にはその不安から逃れられないという。平和の時期と戦争の時期との違いにも少し似ている。

私は戦争直前の重圧感を「マルス感覚」と呼んだことがある。湾岸戦争直前、私はテレビを見ていて、太平洋戦争直前に似た「マルス感覚」を起こしている自分に驚いた。「ああ、あの時の感じだ」と私は思った。フランスの哲学者ベルクソンは第一次大戦の知らせを聞いて、「部屋の中に目にみえない重苦しいものが入ってきていすわった」と感じたそうである。これをも「マルス感覚」とすれば先の「事前的マルス感覚」に対して「事後的マルス感覚」となろうか。私は二〇〇一年九月十一日以後、アフガニスタン戦争の期間を通じて、「事後的マルス感覚」をしたたかに味わった。

戦争へと「踏み越える」際の「引き返し不能点」は政治的よりも心理的に決定されると私は思う。戦争は避けられないという無力感が世を覆うようになることである。この独特の無力感を引き起こすことこそ、戦争を起こしたい勢力がもっとも重視し努力するものである。それは「心理的引き返し不能点」を手前に引き寄せる試みである。その手段は多様で持続的なものでなければならない。宣伝だけでなく、動員をはじめ、種々のしめつけや言論統制である。PP307-309

「マルス感覚」については『家族の深淵』に「「マルス感覚」の重要さ」というエッセイがある。だがここではもうひとつのエッセイから抜き出しておこう。

一九一四年夏には第一次大戦が始まる。早く「方法的制覇」「鴨緑江」によってこの危機を予言していた彼は、後の有名な論文「精神の危機」(一九一九年)に見るごとく、自己を西欧(彼の場合はほとんど英国とフランス)と同一化していた。「パルク」をおのれの個人的な最後の詩とするつもりの彼は、文明の破局によってこれが最後のフランス詩となる可能性に思い至っている。かれは徴兵を覚悟し、妻子を疎開させ、パリに残留して詩作を継続した。「若きパルク」は「軍神マルスの相のもとに書かれた」と彼はいう。「パルク」がどういう詩であるかはさんざん論じられてきた。「内容でなく形式が私の自叙伝である」と詩人自身は韜晦している。形式とは何であろうか。それが構成であれば、純粋予感というべきもので始まり、比較的唐突な肯定が喚起されては次第に否定的なものに転調変化しつつ、この反復によって次第に深く沈下してゆくという構成を持っている。周知のように最終的な形は、昇る太陽に向かって感謝しつつ乙女が立ち上がって終わるのであるが、一九一六年初めの第四稿では、この詩句の後、再び下降が始まり、入水に終わろうとして中断する。彼は一八九六年秋ロンドンで自殺未遂をしている。引き返そうとしてはさらに深みに下降する形は知的な自殺者の行動にしばしば見られる。(「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の深淵』所収)

《フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、一八九四年、彼が精神病的とさえ憶測される二年間を通過した後、生涯、朝四時に独り起きだしてコーヒーを沸かし、八時まで、現在「カイエ」と称される膨大なノートを執筆した。詩作も、この暁の純粋で孤独な時間になされた。》(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』所収)

ーーとあるようにヴァレリーはほぼ精神病的、あるいは分裂病体験をしたといってよいだろう。「マルス感覚」はムラ社会のの住人にはほとんど訪れがたい。分裂気質/執着気質の二項対立を説く文脈で中井久夫は次のように書いている。

(ムラ社会の執着気質タイプの人間は)、「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

《私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一文の厖大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。》(中井久夫「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)

…………

◆さてここでの文脈の核心部分である。

事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にした全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。
行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp311-313)

ヤンキーの否定的側面ばかりを強調してもはじまらない。それが日本人の感性に深く根付いていて逃れがたいものであるならなおさらのことである、《ヤンキー性ゆえの強みと弱みを認識し、ある種の諦観をもって、日本人は自らの内なるヤンキーと向きあわねばならない》と書く斎藤環はあまりにも「正しい」、--などと書くのは、前投稿で斎藤環をアゲノリ・ラカン派と貶したことの反動の気味がまったくないとは言わないが。

右のほか、驕傲と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着と、浮薄と穎敏と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。(福沢諭吉『学問のすすめ』)

実は、九鬼周造の『「いき」の構造』を真似して、上にある語彙群を中心に、例の図式を作ってみようとしたのだが、やはり日本の生活から遠く離れ、眺め得る文献もわずかであるので、無謀な試みであることをすぐさま悟った。あのような精緻な「ヤンキーの構造」論がそのうちだれかから出てくることを期待しよう。



     (ーーー「日本人の精神構造・社会構造の鍵概念をめぐる」より)





    (ーーーーー「いき」の構造

2014年7月1日火曜日

ラカンの三つの身体

主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)

…………

ラカンには、身体と主体をめぐり次のような三つの段階の思考がある。

 象徴的身体と想像的身体を対比させ、象徴界が身体を構成するとする。たとえば身体とはたんなる言語の“効果”に過ぎない、あるいは“身体的表面”に過ぎないなどとされる。

 次に、象徴界と想像界の原因としての現実界に焦点が当たられる(セミネールⅩⅠ前後)。身体の「リアル」とは、器官として、あるいは欲動として捉えられる。

 セミネールⅩⅩ(アンコール)以降、「象徴界と想像界」/「現実界」の対比が、「ファルスの享楽」/「〈大他者〉の享楽」として語られる。

この三つはジジェクの映画「エイリアン」をめぐる言葉を変奏させれば次の如し。

①外部にエイリアンがいてそれがわれわれに侵入する。
②われわれのなかにはエイリアンがいて、それがわれわれを決定する。
③あるがままのエイリアンがいる。

以上は、ポール・ヴェルハーゲの論文「主体と身体――ラカンによる現実界との葛藤」Subject and Body Lacan's Struggle with the Real.Paul Verhaegheの冒頭をほとんど意訳したものに過ぎない。そしてラカン派内にてコンセンサスがあるのかどうかは知るところではない。

ところで、ラカンは「同一化identification」のことを「疎外」と呼んだことに注意しておこう。疎外、すなわちalienationだが、同一化とはエイリアン化としてもよいだろう。同一化=エイリアン化は①の段階の思考にかかわる。

(同一化とはアイデンティティとは異なる。後者は「疎外」だけでなく「分離separation」概念が肝要だが、いまはそれに触れない(参照ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)。)

①における想像界と象徴界との対比というのは、経験論と観念論の対比ともいうことができるのではないか。あるいは素朴な身体感覚と認識論的な身体の対比。観念論とは、すなわち身体とは社会的構成物に過ぎないとしたかつてのバトラーのジェンダー概念をめぐる思考と同様であり、これはアイデンティティについても同じことが言える。経験論的には、〈私〉独自の肉体があるように思えると同じように、独自のアイデンティティがあるように見える。わたくしの内部に、生得の、遺伝的ななにものかが〈私〉のアイデンティティを決定している、と。

だがこのアイデンティティの旧来の捉え方は、たとえば養子になった幼児のことをすこしでも想起したら、間違っていることはすぐさま分かる。たとえばベトナムの幼児を米国の夫妻と日本の夫妻が養子にすれば、その子どもはまったく異なったアイデンティティを持つようになる。家族が、文化が、社会が、アイデンティティを構成するとはそういうことだ。

ところで、柄谷行人は『トランスクリティーク』第二部第一章の注にて、バトラーを引用して次のように書いている。

ここで、カントにいささかも言及しないでなされた「カント的転回」……の近年におけるめざましい例として、ジュディス・バトラーの『身体こそが問題だ』1993をあげておきたい。彼女は前著『ジェンダー・トラブル』において、セックス/ジェンダーの区別に関して、文化的社会的なカテゴリーとしてのジェンダーを重視した。これは生物学的に見られた性別を疑うために不可欠な過程である。しかし、それは逆に観念論に導かれる。

《もしジェンダーが性の社会的な構築物であるなら、そして、その構築によってしかこの「性」に近づけないとしたら、性はジェンダーに吸収されてしまうだけでなく、「性」は、それに関して直接的に接近できないような前言語的な場においてレトロアクティブに設定される、何か虚構のようなもの、おそらくファンタジーのようなものになってしまうように見える》(Bodies That Matter)。

だが、sex(body)には、社会的カテゴリーを変えるだけではどうにもならないものがある。彼女はそうした言語論的観念論から「唯物論」に転回する。いいかえれば、sex(body)をgender(category)が吸収することができない「外部」として再導入する。むろん、このとき、彼女はたんに生物的な身体(感覚)に戻ったのではなく、それもまた身体(感性形式)による構成であることーーしかし、それは社会的カテゴリーにとっては所与性としてあらわれるーーを見出したのである。いいかえれば、彼女はこれまでの観念論的思考と経験論的思考のいずれをも批判する立場を提起したのであって、それを「唯物論」と呼んでいる。


この叙述を援用するならば、ラカンの身体をめぐる②あるいは③は、唯物論的であるということが言えるのではないか。

ラカンにとっての「身体」はセミネールⅩⅠ以降、どんな形をとっていくのか。まず既にしばしば指摘されているように、欲望理論から欲動理論への転回なのだが(参照:欲望と欲動 ミレールのセミネールより)、これは象徴界から現実界への転回とも言い換えられる。あるいはまたファルスから対象a(あるいはトラウマ)への転回。ヴェルハーゲは、《any interpretation of the subject in terms of the phallus is a defensive elaboration》、すなわちファルス用語での解釈は、防衛的な再構成(でっち上げ?)に過ぎないとしており、すなわち、それは象徴界、あるいは快原則の此岸での解釈なのであり、快原則の彼岸には、原トラウマや対象a、あるいはリビドーがある。また部分欲動さえもそれはファリック欲動なのであり、その彼岸にはエロスとタナトスの欲動があるとしている。《we are talking about the drive, prior to any form of "genderisation and the accompanying conversion into partial drives, meaning: phallic drives.

…………

たとえば、斎藤環は、茂木健一郎との往復書簡で次のように書いている。

私が言語の機能を重視するのは、人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準にもとづいています。正確にはシニフィアンということになりますが、読者の便宜を考えて、ここはあえて近似的表現をもちいます。
フロイト=ラカンによる精神分析は、「イメージは言語を越える」という「常識」をくつがえした点に大きな意義があった、と私は考えています。そう、逆に考えるのです。「言語は、表象や意識を越えている」と考えるのです。
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです

だが、これらはすべてラカンの三つの身体の①の段階(前期ラカン、すなわちセミネールⅩⅠ以前の段階の思考)にかかわるものでありラカンの中期以降の思考法が決定的に欠けているように見える(わたくしの誤解でなければ)。もちろん素朴な経験論(ナイーヴな身体感覚からの認識)を諌め、ラカン前期の観念論(認識論的な身体によるもの)の観点を公衆に啓蒙する効用はあるにしろ。

いやラカンどころか、『快原則の彼岸』以降のフロイトの視点さえ欠けているようにさえみえる。

this part of Lacanian theory( ②③) can very well be understood from a Freudian point of view. In Freud's theory, the pleasure principle functions "within the signifier", that is, with representations (Vorstellungen) to which a "bound" energy is associated within the so-called secondary process. What lies beyond the pleasure principle, cannot be expressed by representations and operates with a "free" energy within the primary process. The latter has a traumatic impact on the ego (Beyond the Pleasure Principle, S.E. XVIII, p. 67ff). The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation. “Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language (Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96).(Paul Verhaeghe   Beyond Gender)

1896年のフィリスの手紙さえ引用されて、フロイトの無意識は言語表象(シニフィアン化)されないものがあるとされている。これはふたつの無意識にかかわる(フロイト概念「言語表象 Wortvorstellung」と「事物表象 Sachvorstellung」は、ラカン語彙でいえば、前者がシニフィアン、後者がイマーゴ(あるいはイメージ)に当たる)。


症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

《フロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまった》とあるが、上に引用した斎藤環は、言葉にならないトラウマや快感原則のかなたの享楽の領域を、まさか忘れているはずはないだろうが、忘れたふりをしているような発言にもみえるのだ。

たとえばラカンなどといわず、斎藤環がしきりに敬愛するとする中井久夫の次の文でもよい。

……成人言語性の成立のためには、どこかで”黒板を拭き清める”必要があるのだと私は思う。そのために、私たちのそれ以前の記憶は大幅に失われる。ラカンが晦渋な言葉で語っているが、これ以後に成立する彼の「象徴界」は言語に依拠する一種の虚偽意識たということになる。いかにもヘーゲリアンらしい言い草ではある。

しかし、拭き清めるというのはただしくなかろう。昆虫の成虫はサナギの時代を経過した後に幼虫の記憶をどれだけ持っているか知らないが、われわれの場合、建物が完成すると足場が取り払われて蔵われるように、サナギ以前の記憶はどこかにある「メタ私」とでもいうべきものの中にしまわれる。幼児的な言語体験も感覚体験(古型の記憶として再出現するもの)も、そういう場所にしまわれて、時にある形で噴出してくる、休火山の時ならぬ噴火のように。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』P233-234)

この文は《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』46頁)という見解の文脈のなかの文である。また、ここに出てくる「メタ私」は、フロイトやラカンの「無意識」よりも広範な中井久夫独自の「無意識」のことである。

ここで私の「メタ私」「メタ世界」概念に少し言及しておきたい。「メタ私」は無意識に近い。しかし、フロイトのコンプレックスやユングのアーキタイプが支配するところではない。ベルクソンは「心臓をはじめとする内臓器官の無意識活動があって、もしこれらを意識的に動かしていたら意識に余力はないだろう」と考えていた。この「ベルクソンの無意識」をも含むものであり、内分泌系や自律神経系の活動をも含み、さらにたとえばテニス中に起こる小脳と前頭前野との間の神経信号の猛烈な往復をも含むものである(これは京大の生理学者・佐々木和夫教授の名をいただいて「佐々木の無意識」というべきであろうか)。さらに運動のみならず大脳の記憶や思考の活動をも沈黙のうちにモニターしている小脳の活動をも知るべきであろう。外界の刺激を直接受けない小脳は脳/マインドのジャイロスコープというべく、刺激に翻弄される大脳活動を安定化し、エネルギーを経済的にし、能率を向上させる。小脳の役割について大きな進歩と転換を示した理化学研究所所長の名をいただいて「伊藤正男の無意識」というのがよかろう。(中井久夫「「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」」『日時計の影』所収)

中井久夫には次のような文もある。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(「創造と癒し序説」同アリアドネ P209)

これは一般に流布している前期ラカンのみを批判したものだが、まさか斎藤環も前期ラカンのままにとどまっているはずはないだろう。

後期ラカンには次のような文がある。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI, Ornicar?, 15th April 75

無意識はリアル(現実界)である……それが穴が開けられているtroué限りにおいて。(私訳)

この”troué”とは、われわれのなかには、エイリアン(異物としての身体Fremdkörper)がいるということ(“Fremdkörper”は、すでにフロイトの『ヒステリー研究』1895に頻出し、それはトラウマに関連して使用されている)。

たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるがこれは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。それは言葉で言いあらせないトラウマのことでもある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

…………


以前、「『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb」にて、次のジジェクの文を引用した。

Is not the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,”a foreign body at the very heart of myself, and can therefore be extracted from me only at the price of my destruction? (ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)

この短い文には、"ex-timate","objet petit a","alien","a foreign body"(Fremdkörper)など、ラカン用語が見事に詰っている。

《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(ラカンS16)

…………

Lacans goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 私訳)

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar Ⅶ)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』)

このようにシニフィアンの隠喩的連鎖(壺の面を作ること)はとても重要であるにもかかわらず、最終的に重要なのは異物としての身体Fremdkörper(欲動の現実界)、シニフィアンの連鎖の穴を探り当てることなのである。子供の遊びのスライドパズルにおけるようにピーズを縦横に動かして(シニフィアンの連鎖させて)を空所を特定すること。


just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )


すなわち、シニフィアンの隠喩的連鎖の発見によって「ラカン」は完成したわけではない。ラカン後期の「サントーム」概念(症候との同一化)はそれにかかわる。

人格、メディア、ともにラカンの精神分析においては単に「存在しない」、あるいはいずれも、想像的なものとして価値切り下げの憂き目にあうだろう。なぜならば、そう、「メタ言語は存在しない」からだ。記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。メタ記号はありえてもメタ・シニフィアンは不可能である。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)


2014年6月27日金曜日

「モラトリアム」と「ひきこもり」

80年代から弱々しい「自分探し」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)

中井久夫は、「モラトリアム」や「ひきこもり」は、――と鉤括弧つきながら、《これらもやがて過ぎ去るであろう》としている。一時的な現象だったのではないか、という考え方だ。もっとも逆にいまでは日本だけでなく、韓国やイタリア、あるいはフランスなどでもみられるようだが。

ところで、ここでは中井久夫はあくまで「モラトリアム」や「ひきこもり」を対象化して語っている。「刑事は現場を百遍踏む」の実践者中井久夫にも、もちろんこのようないわば「メタレヴェル」の語り口はある。

私はカルテを読んで頭にはいりにくければ、朗読し、筆写し、ワープロに打つ。その間で何かが私の腑に落ちてくる。明敏な頭脳の人にはさぞ迂遠愚鈍な作業と思われるであろう。しかし、私にはそうしないとわからない何かがある。「刑事は現場を百遍踏むそうだ」と私は自ら慰める。(中井久夫「訳詩の生理学」)

前投稿で、経験論と合理論の間で機敏なフットワークを実現するのが「超越論的」態度だという柄谷行人の見解を引用した。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)

「経験論」に凝り固まれば、これもほとんど「超越的=メタレベル」であるというふうに読める主張である。

カントとマルクスの「超越論的」態度を顕揚する柄谷行人の主著のひとつ『トランスクリティーク』には、「フットワーク」という語が何度か出現するが、ここではそのひとつを抜き出しておこう。

重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

これは異なった見解もあるだろう。だが柄谷行人は、かねてから、デリダにさえ「超越論的」ではなく「超越的(メタレベル}」の臭気をかぎ出す。

たとえば、デリダは、現象学における明証性が「自己への現前」、すなわち「自分が話すのを聞く」ことにあるという。《声は意識である》(「声と現象」)。これは、西欧における音声中心主義への批判というふうに読まれてしまうけれども、彼は、たんに哲学的あるいは現象学が、話す=聞く立場に立っているということをいっているにすぎない。そして、デリダは、そのような態度の変更に向かうのではなく、「自己への現前」に先立つ痕跡ないし差延の根源性に遡行する。《このような痕跡は、現象学的根源性そのもの以上に<根源的>であるーーもしわれわれが<根源的>というこの言葉を、矛盾なしに保持することができ、直ちにそれを削除しうると仮定すれば》(「声と現象」)。

直ちに抹消されるものだとしても、この根源的な差異は、われわれを再び「神秘主義」に追いやることになる。デリダは、「超越論的なのは差異である」というが、このとき、差異が超越化されるのだ、といってもよい。(柄谷行人『探求Ⅰ』P26)

だが、ここでのデリダの「直ちに抹消される」という言葉が肝要なのだろう。デリダ自身、直ちに抹消しなければ超越的になってしまうことに自覚的だったとみることもできる。では、デリダの脱構築についてはどうか?

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(柄谷行人『探求Ⅰ』P210)
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、“脱構築の脱構築されえない条件”としての正義の形式に最高度の表現が見出される。すべては脱構築されるーー脱構築自体の脱構築され得ない条件の例外を除いて。たぶんこれは、己れの立場を「例外」として全ての領域を暴力的に均等化する仕草であり、最も初歩的な意味でのメタフィジカルな(形而上学の)態度である。(私意訳)

In Derrida, this logic of totalizing exception finds its highest expression in the formula of justice as the “indeconstructible condition of deconstruction”: everything can be deconstructed—with the exception of the indeconstructible condition of deconstruction itself. Perhaps it is this very gesture of a violent equalization of the entire field, against which one's own position as Exception is then formulated, which is the most elementary gesture of metaphysics.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

たとえば、カントでさえ、『視霊者の夢』の「超越論的」文体から『純粋理性批判」の「超越的」文体になってしまったと読める坂部恵の指摘がある。

『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部氏はいう。(近代批判の鍵

…………

ところで、2012年の日本精神神経症学会のシンポジウムにて、「日本のひきこもり,ヨーロッパのひきこもり――イタリアとフランスの現状に触れて――」と題された鈴木國文(名古屋大学医学部保健学科)の発表には、次のようなCarla Ricci氏の論の引用がある。

日本では,ひきこもりは文化的社会的現象である.…東京に暮らして,著書『ひきこもり:自発的に隠棲する若者たち』を著した人類学者Carla Ricciは『この現象は日本に典型的なものだが,それが韓国やアメリカ合衆国,北ヨーロッパ,イタリアに拡がっている』と書いている.基本的な類似は『母親との関係にある.両親共にそうである場合も多いが,まさにこの過保護な存在が,息子をナルシストにし,壊れやすくする.そして最初の困難に出会うと引きこもるのである』

ーーというのは、つい最近、「高齢ニート」のテレビ番組で、神田うの氏の「親の務めって、わが子がちゃんと独立して、自分で生きていく力をつけさせてあげる。だから結婚もさせてあげるってことも」「9割方、親に問題があると思いますよ」との発言に偶然行き当たってすこし調べてみたのだが、この発言に対して、教育社会学者の本田由紀さんが次のようなツイートをしている。

@hahaguma
40歳を過ぎても働かない「高齢ニート」「年金パラサイト」が「ノンストップ!」で特集され話題に…コメンテーター・神田うのは「9割方、親に問題があると思いますよ」http://news.livedoor.com/article/detail/8909232/ …親に問題を押し付けて(親はもう十分そう感じている)、で、それでどうしようと?

 この本田さんの発言への齟齬感をめぐっては、いくらか叙したので繰りかえさない(参照:純白の頭巾のかすかな汚点)。

こうした「ひきこもり」当事者を「対象化」しつつの発言は「当事者」を傷つけるだけだという考え方の一環なのだろう。だが「対象化」による研究、たとえば原因が「母親との関係にある」などという分析は、ひきこもり当事者からは、なかなか出辛いだろうから、まったく無意味というものでもないだろう、すくなくとも未来の「ひきこもり」予備軍の親子にとっては。

このように「経験論」の態度だけでは見逃し勝ちな事実がある。真に「超越論的」であるためには、ときには「合理論」のほうへの揺れ(あるいはフットワーク)が必要であるに相違ない。「経験論」の立場から、社会的な悪や、医者・学者・評論家たちのメタレベル態度を批判するだけでなくーー柄谷行人の見解では、それに凝着してしまえばこのメタ批判自体がメタなのだーー、「母親との関係」やらあるいはもっと一般的に親との関係を分析したり問い直したりすることが「当事者」という経験者の立場から可能であるならば、そこにこのましいフットワークが生じる。だがそれを期待するのは、いささか酷でもある(己れのトラウマに触れてしまうということもあるだろう)。

いずれにせよ「当事者」に、超越論的な態度、すなわち《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかける》こと、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)をいたずらに強要してはならないだろう。

さて次に、2001年の座談会、すでに十年以上まえのものだが、斎藤環、中井久夫、浅田彰は「ひきこもり」をめぐって、次のような談話を抜き出そう。これらもやや「合理論」への傾斜をもった議論であるだろう。

斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。

中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。

斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。

中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。

斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。(「批評空間」2001Ⅲ―1斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より

浅田彰の「冷たい」言い方は脇にやるとしても、精神科医の中井久夫や斎藤環の「ホンネ」もこのようである。それはつい最近の斎藤環のツイートにも窺われないではない。

@pentaxxx: いまだに「受容神話」や「退行神話」を信奉する専門家の皆さんに問いたい。いつから「暴力も金銭要求も、何もかも受け入れてあげるのが子供のため」と錯覚していた? 同じ理屈で「DVも受容してあげるのが夫のため」と言わないのはなぜ?  
@pentaxxx: ついでに、ひきこもりやニートに悩むご家族へささやかなヒント。「いい加減ハロワ行け」とか言いつのるのをやめて、こう言ってみましょう。「お母さんの知り合いの事業所で週三日のパートの仕事があるんだけど、試しにやってみない?」これで就労確率は一〇倍になる。数字は個人の感想です。 
@pentaxxx: 何年も履歴にブランクがある人に「ゼロから就活」とかどうみても無理筋。それをどうしてもさせたいのなら、せめてお膳立てくらい十分にしてあげましょう、というだけの話。 
@pentaxxx: もちろんこれは本人との関係が比較的良好な場合に限って有効。「恨み」や「意地」がくすぶっている間は無理。でも僕が知る限り、「紹介」や「コネ」っていまだ就活では最強のカードだ、その当否はともかくとして。 
@pentaxxx: 「元気なうちは養ってあげます。その代わり、認知症になったら家事と介護を全面的にお願いしますね」という契約もあり。もし断られたら早めに世帯分離の時期を検討しておきましょう。無理心中の悲劇を回避するためにも。


結局、経済的余裕があるのなら、「ひきこもり」であっても恥じる必要はないし、そうでなかったらなんとかしなくてはならない、ということなのではないか。そして家事と介護も立派な仕事である。ただし、日本が「引き返せない道」、経済の下り坂を歩んでいるのは否定し難い。社会福祉政策がいまの財政状況では好転するはずはない、ということもある。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」ーー「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」)


…………

ここで誤解のないように付け加えておけば、「医学」は人間を「対象化」してはならない、というのが中井久夫の医師としての基本的な態度である。


犯罪学者でもあるエランベルジェ(エレンベルガー)は、犯罪学と医学が科学でない理由として、疾患の研究、犯罪の研究からは「疾患は治療すべきであり、犯罪は防止すべきであるということが理論的に出てこない」ことを強調している。すなわち、彼によれば、犯罪学と医学は「科学プラス倫理」である、と。

だが中井久夫はこのように師のひとりであるエレンベルジェの見解を書き綴ったあと、医学はまず倫理的なものであるが、それでは不十分だ、とする(「医学・精神医学・精神療法は科学か」『徴候・記憶・外傷』所収)。

少なくとも、もう一点で、医学は科学と相違する。それは、囲碁や将棋が数学化できるかどうかという問題と本質的に同じである。囲碁や将棋は数学化できない。それは、科学とちがって徹底的に対象化することのできない「相手」があるからである。「対象」ではなく「相手」である。わかりやすいために、殺伐な話だが戦争術を考えてみるとよい。実験的法則科学はいつも成立しなければならないが、「必ず勝てる」軍事学はない。もしできれば、人間に理性がある限り、戦争は起こらない。それでも起これば、それは心理学か犯罪学という「綜合知」の対象である。経済学でもよい。インフレやデフレなどの経済学的不都合を絶対に克服する学ではなく、その確実な予測の学でさえない。これらが向かい合うものは「相手」である。科学は向かい合うものを徹底的に対象化する。そしてほどんどつねに成り立つ「再現性のある」定式の集合である。対象化と再現性は表裏一体である。すなわち、「相手」が予想外に動きをしては困るのである。ところが、囲碁や将棋や戦争術は相手の予想外に出ようとする主体間の術である。なるほど、経済学は、常に最大利益を得ようとして行動する「経済人(ホモ・エコノミクス)」というものを仮定しているが、これは人工的な対象化であって、経済学が経済の実態の予測を困難にしている一因である。それは、経済学の対象すなわち経済行動を行う人間の持つ、利益追求の欲望以外の心理学的要素の大きさを重々自覚しながら、これを数理化できないために排除しているからである。つまり、科学的であろうとする努力が経済学をかえって現実から遠ざけてきた。現在、むき出しの「市場原理」が復権をとげている。「市場原理」ならばローマ時代、いや太古からあった。(186頁)

2014年4月2日水曜日

症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)

さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけれらた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなものである。この刺激は固着しうるが、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもったいるからなのである。したがってこの領域は興奮したリピドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の精神的変装、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられるのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』フロイト著作集5 人文書院 P335)

「真珠貝」は、英訳では「oyster」となっている。

Let us next attempt to put together the various determinants that we have found for Dora's attacks of coughing and hoarseness. In the lowest stratum we must assume the presence of real and organically determined irritation of the throat - which acted like the grain of sand around which an oyster forms its pearl. This irritation was susceptible to fixation, because it concerned a part of the body which in Dora had to a high degree retained its significance as an erotogenic zone. And the irritation was consequently well fitted to give expression to excited states of the libido.(Freud - Complete Works Ivan Smith 2000, 2007, 2010)


原文はまったく読めない身であるが、“Muscheltier”であるならば、shell fish

Wir können nun den Versuch machen, die verschiedenen Determinierungen, die wir für die Anfälle von Husten und Heiserkeit gefunden haben, zusammenzustellen. Zuunterst in der Schichtung ist ein realer, organisch bedingter Hustenreiz anzunehmen, das Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet. Dieser Reiz ist fixierbar, weil er eine Körperregion betrifft, welche die Bedeutung einer erogenen Zone bei dem Mädchen in hohem Grade bewahrt hat. Er ist also geeignet dazu, der erregten Libido Ausdruck zu geben.

まあそれはこの際どうでもよいのだが、真珠貝やら牡蠣のほうが、わたくしの好みではある。当地は炎暑のさかりだが、生がきが喰いたくなる。






真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)





《不眠の砂丘のきみの領土を舐める舌》(「マイスーナ」  オクタビオ・パス 真部博章訳)

たしかに、詩人の内部に真珠の見いだされることはある。それだけに、詩人自身はいよいよ殻の硬い貝殻である、そして、魂のかわりに、わたしはしばしばかれらのなかに、塩水にひたった粘液を見いだした。(『ツァラトゥストラ』)

フロイトは熱心なニーチェの読者だったらしいから、ドラ論文の美しい表現もニーチェ起源かも。


ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925 )

あまり関係ないがニーチェによる「砂粒」をも引用しよう。


「お前は、お前が現に生き、これまで生きてきたこの人生を、もう一回、さらには無数回にわたり、くりかえして生きなければなるまい。そこにはなにひとつ新しいものはないだろう。あらゆる苦痛とよろこび、あらゆる思念とためいき、お前の人生のありとあらゆるものが細大洩らさず、そっくりそのままの順序でもどってくるのだ。 ――この蜘蛛も、こずえを洩れる月光も、そしてこのいまの瞬間も、このデーモンのおれ自身も。――存在の永遠の砂時計は何回となく逆転され、――それとともに微小の砂粒にすぎないお前も!」(『悦ばしき知識』)

関係ないついでに、この文を書きながら聴いている曲を貼付しよう、ーーいやじつに暑いのだ、本日の午後には、気温39度となる。






マグダ・タリアフェロは好みのピアニストなのだが、師匠のコルトーと比べると(この演奏に限っては)、わたくしにはちょっといけない(いやいや高音部の泣きは、いいぞ…)。




…………

ーーと、ここまでは前段である(ほんとうは、ここから別の投稿にしたらいいのだがね)。


◆Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)より。http://www.psychoanalysis.ugent.be/pages/nl/artikels/artikels%20Paul%20Verhaeghe/English%20symptom.pdf

ドラに関して(……)。フロイトによるドラ分析の五十年後、Felix Deutschが出版した後書きによれば、もともとの症状――カタル、神経性の咳、失声症――は、原初の形態に戻ってしまった。明らかに、フロイトがドラになした限定された分析は、彼女の症候の象徴界的素材を取り除くのに充分だったが、主体と口唇欲動のあいだの関係には触れ得なかった。結果として、口唇欲動は、シニフィアンの鎖のなかに再挿入されたのである。

Concerning Dora(……)。The postscript published by Felix Deutsch fifty years after Dora’s analysis with Freud reveals that the original symptoms – the catarrh, the tussis nervosa and the aphonia – had returned in their original form. Obviously, the limited analysis that Freud undertook with her was enough to remove the Symbolic material of her symptoms, but it did not touch on the relationship between the subject and the oral drive. Consequently, this oral drive reinserted itself into the chain of signifiers.

ーーここでのthe Symbolic象徴界とは、ポール・ヴェルハーゲ他の論において、象徴界/現実界が対比されて書かれており、そもそも精神分析は、象徴界の治療しかできず、現実界には触れえない、という論旨をもっている。ドラの例だけではなく、狼男の例でも原初的な欲動(狼男の場合、肛門欲動)は取り除きえず、狼男は、晩年(七十七歳)までその欲動に囚われていたとのこと(欲動は、快原則の彼岸にあり、現実界である)。

ここで抜き出したヴェルハーゲの論の冒頭は、次のラカンの言葉をめぐって書かれている。

浄化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。

…purified symptom, that is, one stripped of its symbolic components – of what ex-sists outside the unconscious structured as a language: object a or the drive in its pure form. (Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975)

…………

以下、上と同様に任意の私訳(意訳)。専門家でないものが訳していることに注意。

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

Since Freud’s discovery of the unconscious, pathological processes are explained on the basis of defense, in which repression takes the prominent place. After Freud, it was more or less forgotten that repression in itself is already a secondary moment within the dynamics of the pathogenesis. Indeed, repression is an elaboration of the defence process against the drive. Right from the beginning of his theory, Freud recognized a twofold structure within the symptom: on the one hand, the drive, on the other, the psyche. In Lacanian terms: the Real and the Symbolic. This is clearly present in Freud’s first case study, that of Dora.Freud does not add to his theory of defense, which had already been elaborated in his two papers on the psychoneuroses of defense (Freud, 1894, 1896).It can be said that the core of this case study resides precisely in this twofold structure, as he focuses on the Real, drive-related element, what he terms as the “Somatisches Entgegenkommen”. Later, in his Three Essays, this will be called the fixation of the drive. From this point of view, Dora’s conversion symptoms can be studied from two perspectives: a Symbolic one, that is, the signifiers or psychical representations that are repressed, and a Real one, related to the drive, in this case the oral drive.

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。

In the light of this twofold structure, every symptom has to be studied in a double way. For Lacan, both phobia and conversion symptoms come down to the formal envelope of the symptom, that is, they are what gives Symbolic form to the Real of the drive.3 Thus considered, the symptom is a Symbolic construction built around a Real kernel of jouissance. In Freud’s words, it is “like the grain of sand around which an oyster forms its pearl.”4 The Real of the jouissance is the ground or the root of the symptom, while the Symbolic concerns the upper structure.
精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の裁決は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。

A psychoanalytic cure removes repressions and lays bare drive-fixations. These fixations can no longer be changed as such; the decisions of the body are irreversible.(註14 :下記)This is not the case for the positions of the subject towards the drive processes; these can be revised. There are two possibilities: either the subject now accepts a form of jouissance that he earlier refused, or he confirms this refusal.

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)

All repressions take place in early childhood; they are primitive defensive measures taken by the immature, feeble ego. In later years, no fresh repressions are carried out; but the old ones persist, and their services continue to be made use of by the ego for mastering the instincts. New conflicts are disposed of by what we call “after repression.” ... Analysis, however, enables the ego, which has attained greater maturity and strength, to undertake a revision of these old repressions; a few are demolished [the drive is accepted by the subject], while others are recognised but constructed afresh out of more solid material [the drive is refused in a more conclusive way]”.
この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)

This process entails a refusal that does not belong any more to the process of repression and symptom-formation. “In a word, analysis replaces repression by condemnation.”
われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の裁決は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような裁決をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて浄化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。

We must stress the fact that this decision of the subject concerns solely the drives in their pure form; in order to be able to take such a decision, the subject has to be connected in a direct way to the object a, which means that the analytic process has to have run its course and fulfilled its task of clarification. This implies that, first, the repressions have to be lifted, that is, the symptom has to be cleared of its Symbolic components. Thus, it is not possible to save oneself the trouble of an analysis and go directly for the underlying cause, the drive root. Freud’s answer to this idea can be found in his repose to Rank’s suggestion that we should directly tackle the primal trauma of birth. It would be of no more use than if the fire brigade contented themselves with removing the overturned lamp that set fire to the whole house – the building keeps burning.
ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)

Lacan’s theory on the relationship between the Real and the Symbolic presents us with a more consistent view. His metaphor of the jar is a better illustration of the reasons one can’t save oneself the trouble of an analysis. According to Lacan, the essence of making pottery does not reside in shaping the sides of the jar, but in the emptiness, the hollow space that these sides precisely create. The jar elaborates and localizes a hole in the Real; eventually, this elaboration and localization amounts to an authentic creation. The similarity of this to the genesis of psychopathological symptoms is due to the fact that it is only through the elaboration of the Symbolic constellation that the Real of the drive appears. In other words, one is obliged to pass through the Symbolic if one wants to approach the Real, because it is the Symbolic that delineates this Real. That is why psychoanalysis creates a new subject: “Is it not precisely the claim of our theory that analysis produces a state which never does arise spontaneously in the ego and that this newly created state constitutes the essential difference between a person who has been analysed and a person who has not?”


※《These fixations can no longer be changed as such; the decisions of the body are irreversible.》14の註(この註はひとつのポイントだが訳しづらく英文のままにする)。

14 This irreversibility can be understood from a Freudian point of view concerning the primal repression, which is first of all a primal fixation. In his descriptions of this primal repression, Freud makes it clear that this primal fixation concerns the drive (see S. Freud, Psycho-analytic Notes on an Autobiographical Account of a case of Paranoia (Dementia Paranoides), 1911, SE XII, pp.66-67 and Inhibitions, Symptoms and Anxiety, 1926, SE XX, p.94.) Freud’s idea of fixation is the precursor and the precondition of repression. Lacan made it clear that Freud’s fixation implies the idea of a choice-making instance. For Lacan, this instance is the Real of the body , that is, the Real of the drive. This Real of the bodily drive is independent of the subject; it is an instance that judges and chooses independently: “Ce qui pense, calcule et juge, c’est la jouissance” (“What thinks, computes and judges, is the Enjoyment”, J.Lacan, “…Ou pire”, Scilicet, nr.5, Paris: Du Seuil, 1979, p.9). Subsequently, the subject has to take a position vis-à-vis these choices of the body. If the subject does not accept a certain choice of the drive, this entails repression. From the etiological point of view, repression is simply a mechanism, which will be stressed by Lacan when he states that “l’inconscient travaille sans y penser, ni calculer, juger non plus.” (“the unconscious operates without thinking, computing or judging”, J.Lacan, Introduction à l’édition allemande d’un premier volume des Ecrits, Scilicet, 5, op.cit., p.14.). It is in this context that one has to understand another Lacanian statement: that the subject is not condamned to his consciousness, but to his body (“Ce n’est pas à sa conscience que le sujet est condamné, mais à son corps”, J.Lacan, Réponses à des étudiants en philosophie sur l’objet de la psychanalyse, Cahiers pour l’analyse, 3, 1966, p.8).

…………

ーーというわけで、拙ない訳だから英文のほうを読んだほうがいいが、この論文は『Le Sinthome or the feminine way』とあるように、ここまでは前段であり、後段に症状との同一化、あるいはサントームの議論がある。もちろんラカン派とはいろんな種類があるので、そのまま真に受けるのではなく、こういう観点もあるという参照として、とてもすぐれた論文である、とわたくしは思う。

ヴェルハーゲは日本ではあまり名前は知られていないが、この十年のあいだに、「精神病」をめぐる議論でもっとも重要なふたつの理論的な提案をなされた人物として紹介されている論もある。

 RedmondContemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis

In Lacanian psychoanalysis psychosis continues to be an important focal point for new theoretical developments driven by clinical experience. Two important new developments have emerged over the past decade that provide contrasting approaches to Lacan's oeuvre and the theorization of psychosis. Paul Verhaeghe, in On being normal and other disorders:a manual for clinical psychodiagnosticsprovides a fascinating approach to psychosis through his synthesis of Lacanian psychoanalysis with Freud's theory of actual neurosis and psychoanalytic attachment theory research. His theory of psychosis is important as it addresses forms of psychosis “without symptoms.” That is, he engages with aspects of psychosis not easily contained by contemporary psychiatric nosology such as, psychosis without delusions and hallucinations, untriggered psychosis and body disturbances such as hypochondriasis. Moreover, he provides a specific treatment rationale for cases of psychotic disturbances that fall roughly into the schizophrenic spectrum. In contrast, Jacques-Alain Miller's engagement with the “later Lacan” informs his theoretical approach to the emerging field referred to as “ordinary psychosis.” The term ordinary psychosis provides an epistemic category—as opposed to a new nosological entity—for clinicians to address a series of theoretical problems linked to decompensation and stabilization often encountered in the treatment of psychosis (Miller, 2009; Grigg, 2011).


いずれにせよ先ず肝要なのは、《フロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかない》ということを再確認することだ。それは、ふたつの無意識があることと言ってもよい、「後期抑圧による無意識」と「原抑圧による無意識」が。それは「象徴界による無意識/現実界による無意識」としてもよいのは上に見たとおり。

ヴェルハーゲの別の論文から英文のまま抜き出せば次の通り。

◆『Reading Seminar XX : Lacan's major work on love, knowledge, and feminine sexuality』( Suzanne Barnard & Bruce Fink, editors)所収の「 Retracing Freud's Beyond 」(Paul Verhaeghe)より。
It is important to acknowledge the fact that with this theory Freud introduces two different forms of unconscious, hence, two different forms of knowledge. Repression proper, literally “after repression” (Nachdrängung), targets verbal material, word presentations that have become unpleasurable.

(……)beyond “after repression” lurks “primal repression,” which belongs to another form of the unconscious and brings with it another form of knowledge. As a process, primal repression is first and foremost a primal fixation: certain material is left behind in its original inscription. It was never translated into word presentations.This material concerns the “excessive degree of excitation,” that is, the drive, the “Trieb” or “Triebhaft,” to which Lacan refers when he interprets the drive as “the drift of jouissance” (Seminar XX, 102).

※上の論文には、快原則の彼岸をめぐって、「他者の享楽」にかんする非ー全体の論理、あるいは”Primary does not mean first””というラカンの言葉が引用されており、このあたりは「遡及的なトラウマ(現実界)」にも本来は触れるべきところだが、今は割愛する。

This other jouissance, in its relation to the beyond, might very well be understood as an original one, a primary one within a linear perspective, followed by a later, second one. Lacan corrects this in a very explicit way. Primary does not mean first. The is an aftereffect, nachträglich, only to be delineated by the impact of the Other of the signifier, which tries to establish a totalizing effect through the One of the phallic signifier.
The other jouissance, which ex-sists as that part in the Other where the Other is not-whole, implies a knowledge that is acquired by the body through experiencing it.


さて、「後期抑圧による無意識/原抑圧による無意識」に戻れば、たとえば斎藤環の次の文は、ふたつの無意識を語っていると読むことができるのではないか。

現代におけるさまざまな抑圧の解除、タブーの解禁という流れについては、われわれが本質的に、みずからの無意識に対して耐え難い恐怖を抱いている可能性のもとで考えておく必要があるだろう。「抑圧しないこと」で隠蔽されるものこそが「無意識」に他ならない。(斎藤環『解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗』「批評空間」 2001 Ⅲ―1所収)

《現代におけるさまざまな抑圧の解除、タブーの解禁という流れ》は、《<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代》として、わたくしは読む。すなわち父の名の隠喩が機能しがたくなった(後期抑圧そのものは解除されつつある)現代として。もっとも、斎藤氏は別の文脈で書いており、《「抑圧しないこと」で隠蔽されるものこそが「無意識」》の「無意識」を欲動の無意識と読むのは深読みに過ぎるのかもしれないが。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』ーー「ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール」より)

もちろんフロイトの中期の論文から次の文を抜き出すこともできる。
すべて抑圧されたものは、無意識のままであるにちがいない。だが、意識されないものが、すべて抑圧されたものであるとはかぎらないことを、まずわれわれは確認したい。無意識のほうが範囲がひろく、抑圧されたものは、無意識の一部分なのである。(フロイト『無意識について』)

あるいは、ジャック=アラン・ミレールの「もう一人のラカン」から。

「無意識は言語のように構造化されている」ということは一般的真理となっているのですから、そろそろ句読点を打ち直して、少しばかり違う角度から読み直す時ではないでしょうか。

では、このもう一人のラカンとは何者でしょう。たとえばそれは、無意識は言語のように構造化されていない、とでも言う者でしょうか。(……)そうではありません。このもう一人のラカンは皆さんが長年付き合ってきたラカンと同じラカンです。ただ、この「無意識は言語のように構造化されている」という有名な仮説から、まだあまり気がつかれていないいくつかの帰結を引き出したラカンなのです。(ミレール『もう一人のラカン』1984)

《言語のように構造化されている》無意識とは、象徴界=後期抑圧による無意識なのであり、それ以外の無意識もある、というふうにわたくしはこの文を読みたい。

ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

この文を変奏すれば、ふたつの無意識(後期抑圧/原抑圧)は、「欲望の無意識/欲動の無意識」とすることもできるだろう。ドゥルーズ&ガタリの「欲望機械」は、フロイト=ラカンの「欲動」のことであるというジジェクの捉え方もある(参照:欲動と原トラウマ)。

ーーと、まあこのあたりはシロウトだから勝手なことを書いているというふうに読んでくれたらいいのであって、あくまでポール・ヴェルハーゲのいくつかの論文に依拠した臆断なのであり、彼は、欲望の無意識/欲動の無意識などという混乱を招き易い表現はしていない。


…………

上の例では、現実界の欲動として、口唇欲動(ドラ)と肛門欲動(狼男)しか挙げられていないが、ラカンの四つの「部分対象」(対象aにかかわる)は、An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis(Dylan Evans)の「drive」の項目によれば次の通り。


フロイトによる伝統的な「乳房」「糞便」は、D:「要求demand」に関わり、「声」「眼差し」はd:「欲望desire」に関わるものとして(声とまなざしは、ラカンによって精神病現象から抽出されている)区別されている(ファルス、あるいは性器は、全体的な性に対応するものとして、ラカン文脈ではある時期から除外されている)。口唇欲動、肛門欲動、覗見欲動、声の欲動ということになる。


前二者の欲動については、次のような具体的で巧みな指摘が中井久夫にある。

口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)
  

これは象徴界における二次的なエラボレーションの例といってよいだろう。すなわち、現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界であり、そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点としてときに回帰するのだが、それにはもちろん触れられていない。

Balmès also notes this asymmetrical circularity in the relationship between the Real, reality, and symbolization: reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility .(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999. )

2014年3月10日月曜日

なにが言いたいわけでもない

ははあ、早速、斎藤環氏が次のように呟いているが、まさに「普通」やら「ふつうの」やらの接頭句の滑稽さを指摘しているというふうに「誤読」してみることができる。
@pentaxxx: しかし今日のコロックでつくづく思ったが、こう「普通精神病」や「普通倒錯」が一般化したというのなら「普通境界例」とか「普通自閉症」なんてのも出てきそうな気が。そして私が10分間の「普通精神分析」で治療をする、と。いやマジでね。

昨日書いたことは、これにかかわる。→  ラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって

ーーで、なにが言いたいわけでもない。

「それでとーーちょっともう続けようがないなこの先は」

(ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より)

2014年3月3日月曜日

あのね、

あのね、オレはあんまり同情がないの
あんた日本の若者たちの困窮状態知っているかい?
そっちの国で安楽な生活してやがって
とか言われてもね

これかい?

国立社会保障・人口問題研究所によると、20〜64歳の1人暮らしの女性の31.6%が年収125万円未満で暮らす「貧困」層とされる(2010年国民生活基礎調査を基に分析)。女性の生涯未婚率は2030年には23%に上るとも予想され、単身女性の貧困は今後より大きな社会問題になる可能性がある。(リアル30’s:選べてる?(4) 私の居場所どこかに

ほんとかねとは思うがね
95年以降は日本のことを知らないオレには
一人暮らしってのがわかんないな この年収で

いわゆる発展途上国と先進国とあいだの貧しさは
安易に比較はできないけどさ
日本の場合は逃げ場がすくないのだろうな親族とかの

米国でもこんな具合らしいからな

……貧困問題の核心は、先進国では、雇用が生み出されず、むしろ減少する傾向にあるために、労働者の立場が弱体化し、低賃金化が進行することにあるが、雇用の不足は、需要の物理的制約があるため、根本的な解決は難しいように思われる。 よく言われる、先進国は、低スキルの仕事は新興国に任せて、高スキルのクリエイティブな仕事に専念すればよい、といった意見は、人間の能力の普遍性を無視した暴論としか、私には思えないし、実際、あれだけの高度人材を揃えたアメリカでも実現していない。 

このまま、格差を拡大して、アメリカ型の社会になるのか、再分配機能を強化して、ヨーロッパ型の社会を目指すのか、日本の選択が迫られているように思われる。(アメリカの貧困問題と日本の選択 - 辻元

この最後の文は岩井克人の次の主張に共鳴する。

消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。(アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン

もしどっちつかずのあいまいな選択のままであるなら、自ずと米国型になっていくのではないか。それを避けるためには、消費税大幅増に視線をやらなければならないという主張とシミュレーションがある。


日本が設けることになるであろう最終的な消費税率は、どれだけ高いとしても 25%が限界だと思われる。それ以上となれば、日本の国民負担の大きさは明確に北欧国家グループに含まれることになるが、市場経済に対する考え方や官民の役割分担などの観点から、それを目指すことに合意が得られるとは考えにくい。他方、世界で最も高齢化していく先進国である日本において、米国型の社会保障や福祉の体系を目指すという国家像も受け入れられないだろう。日本が目指すべきは、おのずと欧州大陸主要国並みの負担と受益ということになる。改革シナリオのシミュレーション上は 2036 年度以降の消費税率を 25%と想定する。

今は詳しく引用しないが、このシミュレーションはこの140ページにあまる論のなかに書かれているように楽観的なシナリオなのだ。

ここで財政状態の悪化に伴うプレミアムの発生で長期金利が上昇する「悪い金利の上昇」は想定していない。これは、過去の経済構造に依存するマクロモデルの特性上、そうした恣意的なシナリオを予測に反映できないためである。しかし今後も財政赤字が改善しなければ、債務残高は現在よりもはるかに高い水準に達し、いつかは財政プレミアムが金利を大きく押し上げる局面を迎えるだろう。この点、本予測は実体経済の状況のみを反映した楽観的な見通しといえるかもしれない。

「悪い金利の上昇」、ーーそれは、別の観点から見たら次のようなことでもある。

大きなリスクとみているのは、デフレから脱却して景気が回復すれば、金利が上昇し、利払い負担が膨らむこと。「これまでは、デフレのもとで財政が奇妙な安定を保ってきたが、デフレから脱却して金利が上昇すると、財政の安定が崩れるというリスクがある。その際、成長率上昇による税収増と利払い費の比較になる。税収に比べて利払いが大きくなっているので、成長率が1%上がった場合、金利も1%上がると、税収増より利払い増が大きくなり、資金繰りが苦しくなる。(池尾和人ーー
アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン

いずれにせよ、《社会保障システムを維持し、財政破綻を回避するためには、政府支出の抑制と国民負担増が必要である》のだよな

高齢化先進国の日本の場合、老年人口指数で言えば、既に 2010 年時点で 100 人の現役世代が 35 人の高齢者を支えており、2020 年には 48 人、2050 年には 70 人を支える必要があると予想される(いずれも国連推計であり、社人研推計ではより厳しい)
賃金対比でみた給付水準 (=所得代替率) は、 現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。

というわけで、これしかないらしいぜ→ 《年金・高齢者医療・介護に関する賃金で測った実質給付を今より 3割減らして平均代替率を 57.7%とすれば、 2030 年頃までは消費税率を 10%台半ばに抑制し、 2050年時点でも消費税率を代替率一定ケースの約 7 割に抑制できる。》

社会保障費3割「以上」削減して、若者の貧困すくうしかないってわけだな
それとも消費税30%程度にするか。

まあいいさこういう話は
雑誌や新聞にあの手この手で書かれているはずだから


こっちの話は下手に書くと
美談のメロドラマになるからね
あんまり書きたくはないし
まあ半ば虚構の物語としてもらってもいいけどね
二十年前にこの国に逃げ出したときは
極貧状態のなごりがあったわけでね


妻の父方の家系は隣国との国境の町ではかつての名家で、その町の日本からも旅行者のある大きな仏寺では仏の名の次の曽祖父の名が唱えられる。かつては町の中央に銅像があったらしい。妻の父はいわゆる蕩児で、南北に分かれた戦後の混乱期に嫌気がさし隣国に出稼ぎにいってそのまま帰ってこない。妻の母は六人の子供を抱えてひどい貧窮に陥った。長女である妻と次男は小学校を修業しているが、その下の子どもたちはそれぞれ親族の家にひとりづつ預けられろくに学校も行っていず(小学校三年程度まで)、幼い頃から畑仕事などの手伝いをしている。妻も叔母とともに故郷の町を離れ幼くして隣国の路上市場で温麺を売ったり、海辺の町の漁村で網作りしたり、大都市の外国人向けバーに潜り込んだりーー無給なのだがチップで暮らしていたわけで、1ドルのチップを十人の客から貰ったら当時のこの国の平均月収が30ドル程度だったことを考えたら大金であり、わたくしのような客が原価0.5ドルの国産ビールとピーナッツのつまみを3ドルで飲んで5ドルのチップを渡す……などということがあったらやたらにモテルーー、という生活を送っている。後にわたくしと結婚後、妻は、妹弟たちが十代半ば前後の年齢になってからようやく小学校は卒業させたが彼らは小さなクラスメートと混じって学ぶのを恥じ中学には進むことを拒んだ(末妹はまだ幼くて年齢に支障がない時期に援助できたので中学校まで)。当時はGNPの差が日本とは百倍近く差があり、わたくしの乏しい資産でもなんとか補助できたというわけだ。弟妹たちはいまはそれぞれ結婚して子どもをふたりづつ持っており(末妹はひとり)、旧正月に集まれば、彼らとその配偶者だけで十二人の若い男女と十一人の甥姪たちということになる。

妻とは大都市で出会ったのだが、彼女の希望で結婚後は弟妹たちを養育しやすい都市部から三十キロほど離れた埃舞う田園地帯に住むことになった。畑地で一区画五百坪を三千ドルほどで購入し家を建て、また後義母を引き取り家付きの小さな土地を四千ドル程度で購入。今は近くに出来た工場団地の働き手向けに家の裏にアパートを建てその賃貸収入で暮らしている。七年ほど前義父をも引き取った。脳溢血になって女に逃げられ半身不随の義父の最後の四年は前妻の世話で生活し逝去した。結婚時妻は「わたしの夢は父と母がもう一度いっしょに暮らすこと」と執拗に語ったがそれが曲りなりにも実現したわけだ。


結婚するとき驚いたのは妻には正式の戸籍がないことだった。1974年という戦争末期に生れてなんらかの事情で届出なしで育っており、後に他人から借りた仮の戸籍を得てそれは1977年生である。だがこれは当時はそれほど珍しくないことらしく、ただ結婚時それを他人の戸籍から父方の戸籍に移すのにひどく手間取った。移した後も、戸籍上は1977年生まれであり、当時三十八歳のわたくしは一九歳の少女と婚姻したことになる。


どうもこうやって書くと
嘘っぽいんだよな
今は昔の話だけれどさ
わたくしの住まいの周りも
家が建て込んだよ

「過去をふり返るとめまいがするよ
人間があんまりいろいろ考えるんで
正直言ってめんどくさいよ

(……)
それでとーーちょっともう続けようがないなこの先は」

(ーー谷川俊太郎「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より)


…………

附記:「これはいつまで続くんだろうね。」がそろそろ続かなくなって来たという側面があるのだろう、冒頭の話だがね。この国は「兵量攻め」に遭った連中ばかりだから逞しいってのはあるぜ。

斎藤) ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいても、やはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮・アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。

中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。

斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。

中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提 というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。

斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。

浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)ーー父なき世代(中井久夫

ーーこの三者でさえ、「本音」は黒字強調個所にあるはずだ。

…………

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた「外米」はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔…〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」)