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2014年9月29日月曜日

ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語り

おまえ、馬鹿だなあ
騙されるなっていっただろう
コメントへの応答だって架空かもしれねえじゃないか
ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語りのバクリだとか、な

《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》

ーー以前、削除してしまった記事、貼り付けておくよ

…………

◆『ドストエフスキー』[著]山城むつみ [評者]奥泉光(作家)より。

本書で著者が分析の主要な武器としたのは、バフチンの「ラズノグラーシエ」なる概念である。「異和」と訳してよいこのロシア語こそがドストエフスキーを読み解く鍵であると著者はいう。では「ラズノグラーシエ」とは何か?

 たとえば、ここに死の床にある男がいる。彼は自分の人生は満足すべきものであったと考えている。そこへ誰かがやってきて、「あなたの人生は満足できるものだった」という。もちろん男はそう思っているわけだし、その声に当然唱和するはずである。ところが、自分でそう思っているにもかかわらず、他人から同じことをいわれたとたん、男は激しい異和に襲われてしまう。他者の声で言葉が響くとき、同じ言葉であるのに、まるで違う、むしろ正反対の意味を帯びて聴こえてしまうのだ。ドストエフスキーの小説の人物たちは、たえずこの「異和=ラズノグラーシエ」にさらされる。つまり自己と他者の間には越え難い閾(しきい)があって、言葉の意味は閾の強烈な磁場のなかでねじ曲がり、言葉が予想のつかぬ運動をして渦巻くのが、ドストエフスキーの小説のあの熱感の秘密だと著者は解析する。

 さらに興味深いのは、小説作者のかたりですら、この異和を引き起こす事実である。死の床にある男。彼の内面を作者はもちろん描ける。透明なかたりでもって、「自分の人生は満足すべきものだった」と男に内語させることは容易だ。ところがドストエフスキーの人物たちは、そうしたニュートラルな作者の声にすら異和を覚える! 彼らは「違う」と作者に向かって反発する。作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがしてしまうのだ。結果、小説はどこへ向かうか分からぬものになり、作家は自己の創造した人物たちとの「対話」をひたすら続けるほかなく、目指す場所へと至る奇跡を祈り願いながら言葉の秘境をさまよい歩く。


◆バフチン「ドストエフスキイ論」(柄谷行人『探求Ⅰ』より)。

この予想して先廻りすることには独特の構造上の特徴がある。それは悪しき無限となる。相手の応答に先廻りするということは結局自分のために最後の言葉を保留すると同じことである。最後の言葉とは主人が他者の視線や言葉から完全に独立している、他者の意見や評価に全く無関心であるということを現わすものでなければならぬ。ところが主人公は、自分がひとの前で懺悔し、ひとの許しを乞い、ひとの判断や評価に頭をさげ、自分の確信はひとの是認や承認を必要していると、ひとが考えはすまいかということをなによりも恐れているのである。こういう傾向を持っているので彼は他者の応答に先廻りする。ところが答えを予想し、その先をこすことによって彼は新たに相手(と自分自身)にむかって自分は相手から独立していないのだということを示しているわけだ。彼は自分がひとの意見を恐れていると、ひとが思いはしないかと恐れる。だがこの恐れによって彼は自分が他者の意識に依存し、自分自身の判断に安んじることはできないことを示しているに他ならない。彼は自分の反駁によって自分が反駁しようとしたことを肯定していることになり、しかしそのことを自分で承知している。ここからきりのない堂々廻りが始まり、そのなかへ主人公の自己意識と言葉がまきこまれていう。《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》である。(バフチン「ドストエフスキイ論」新谷敬三郎訳)

《これは過剰な自意識というものとはちがっている。また、サルトルがいったように、対自存在に対して抗おうとすることともちがっている。《他者》は、「地獄とは他者」(サルトル)よいうような他者ではない。バフチンが、ドストエフスキーの人物たちは他者によってモノ化されてしまう意識の「自由」をぎりぎりのところで確保しようとするのだというとき、どうもサルトル的にみえてくることは否定しがたい。

しかし、実際はその逆のように思われる。彼らが「語る」のは、他者を「説得する」(教える)ことにほかならない。たんに事実言明的constantiveな語りは、彼らにはありえない。《他者》とは、いわば、言語ゲーム(規則)を異にする者のことである。彼らは、何かをしゃべればそれが他者に或る意味(規則)で理解(誤解)されてしまうということを惧れている。だが、彼ら自身のなかに、明示しうるような規則(意味)もないのである。ドストエフスキーの人物たちを緊張させているのは、「教える」ことに存するパラドックスなのだ。

ドストエフスキーの小説が対話的なのは、人物たちが対立しあい多様な意見を「語る」からではなく、そんな意味ではもはや「語り」えないからである。われわれは、言語ゲームを共有するかぎりで語り合うことができ、対立することさえできるだろう。が、もしそうでないとしたら、「他者に語る」ことは戦慄すべき事柄である。ドストエフスキーの人物たちは、誰もが相互にこのような《他者》に直面しあっている。ここでは、客観的な言明も、私的な内面もありえない。むろん、そこから生じる涯しない饒舌の対極に、沈黙(ソーニャ、ムイシキン、ゾシマ長老)がある。だが、この沈黙も、饒舌と同様に、“他者”とのあいだにひらかれた「深淵」(キルケゴール)を飛びこえようとする言語行為なのである。

「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしいうが、異なった言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。》(柄谷行人『探求Ⅰ』P168-170)


……今日まで批評家や研究者はドストエフスキーの主人公たちの思想にとらわれてきた。作家の創作の意志は明確な理論的認識にまで達していない。思うにポリフォニイ小説の迷宮に入りこんだ人びとはみんなそこに道を発見できず、個々の声たちの背後に全体を聞きとれないでいる。しばしば全体の漠然たる輪郭すら捉えられず、声たちを結び合わす芸術の原理は全く耳に入らない。ひとはそれぞれ勝手にドストエフスキイの最後の言葉をあげつらい、しかもみんな一様にそれをひとつの言葉、ひとつの声、ひとつの抑揚〔アクセント〕だと思いこんでいる始末だが、そこに根本の間違いがある。ポリフォニイ小説の言葉を超え、声を超え、アクセントを超えた統一の世界は未開拓のままに残されている。(バフチン『ドストエフスキイ論』)

《ぼくはドストエフスキーのなかに、人間の魂の、度はずれに深い、だがあちこちの地点に孤立している、いくつかの井戸を見出します……あの道化役者たちも、『夜警』の人間とおなじように、照明と服装の効果でしか幻想的ではなく、ほんとうはどこにでもいる普通の人間なのかもしれません。……ただぼくをうんざりさせるのはね、人がドストエフスキーについて語ったり書いたりしているあの肩肘をいからせたいかめしさですよ。あなたは彼の諸人物の内面で演じている自尊心と誇の役割に注意したことがある? 彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです……ドストエフスキーといえばね、さっきはぼくはあなたが思うほど彼から一転してトルストイのことを話しているわけではなく、トルストイはじつは大いにドストエフスキーをまねているのですよ。ドストエフスキーのなかには、やがてトルストイのなかで満面のほころびを見せるものが、まだしかめっ面をした、不平そうな顔で、たくさん詰まっているのです。ドストエフスキーのなかには、やがて弟子たちによって晴れやかにされる、プリミティヴ派のもつさきがけの不機嫌さがあるのでしょうね。》(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

……それはカーニバル独特の時間であり、まるで歴史の時間から飛び出し、カーニバル独特の法則によって流れ、急激な転換と変身とを無限に内包しているところの時間である。かかる時間――もっとも、厳密にいうとカーニバルの時間ではなく、カーニバル化した時間――こそドストエフスキーが彼独自の芸術的課題を解決するのに必要だったのである。彼がその内部の深い意味を描き出したところの閾のうえや広場での事件、あるいはラスコリニコフ、ムイシュキン、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフといった主人公たちは日常の生物学的、歴史的時間では明らかにすることのできないものであった。いやポリフォニイそのものが、それぞれ全権を有し、しかも内的に完結することのない意識たちの相互作用の事件として、時間や空間の全く別な芸術的概念、ドストエフスキイ自身の表現を用いると、《非ユークリッド》的概念を要求したのである。(同バフチン『ドストエフスキイ論』)

…………

◆ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。こういう理由からディスクールにおいてはつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たります。というのは、意味sensは、意味があるのは常にその彼方ですから、むしろその人が言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。


◆柄谷行人『探求Ⅰ』より

言葉が話し相手に向けられていることの意味は、はかりしれないほど大きい。実際、言葉は二面的な行為なのである。それは、それが誰のものであるかということと、それが誰のためのものであるかということの、二つに同等に規定されている。それは、言葉として、まさに、話し手と聞き手の相互関係の所産なのである。あらゆる言葉は、《他の者》に対する関係における《ある者》を表現する。言葉のなかでわたしは、他者の見地にみずからに形をあたえる。と言うことは結局、みずからの共同体の見地からみずからを表現する。言葉とは、私と他者とのあいだに渡されたかけ橋なのである。もしそのかけ橋の片方の端が私に立脚しているとすれば、他方の端は話し相手に立脚している。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである。

だが話し手とはいったいなにものであろうか? たとえ言葉が全面的にはその者に属さないーー、いわば、彼と話し相手の境界ゾーンであるーーにしても、やはりたっぷり半分は言葉は話し手に属している。(パプチン「マルクス主義と言語哲学」桑野隆訳)

いうまでもなく、彼は、話し手と話し相手の両方が同時にみえるような「客観的」立場に立っているのではない。むしろ、“対話”とは「命がけの飛躍」であり、「私と他者とのあいだに渡されたかけ橋」は、それを渡るというより飛びこえるほかないものだといわねばならない。「言葉が話し相手に向けられているということ」は、話し手自身にとって「意味している」という特殊な内的経験などは存在しない、ということを意味する。フッサールがいうような「孤独な心的生活」においては、意味というものが“意味をなさない”のだ。そのかぎりで、“対話”は、独我論(方法的独我論=現象学)に対する決定的な批判の視点となりうるだろう。それは、われわれが「教える」側の視点と読んだものにほかならない。

パプチンは、近代の哲学・言語学・心理学・文学などは、すべてモノローグ的であり、単一体系性のなかに閉ざされているといっている。それに対して、彼は、ポリフォニックな、多数体系性を対置する。個人の意識に問いただすかぎり、われわれが見出すのは、きまって単一(均衡)体系である。ニーチェがいうように、「私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(『権力の意志』)からだ。しかし、多数(不均衡)体系を、たんにそれに対置するだけでは、何もいったことにならない。P21-22

柄谷行人は後年、次のように書いている。

前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これはカントの「無限判断」、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」、さらにはジジェクによればラカンの非-全体の論理に関係する(参照:「密閉した全体じゃない」)。

ドストエフスキーの「他者」が超越論的な他者であるなら、ドストエフスキー小説の語り口は超越論的であるといえるだろうし(もちろんそれだけではない)、それは「無限判断」、「家族的類似性」、「非-全体の論理」にもかかわる。

カントの哲学は超越論的――超越的とは区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

「超越論的」とは、すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)ということになる。

ここで浅田彰の発言を挿入しよう(共同討議『トラウマと解離』 2001)。

メディア環境がどんどん解離的な状況を作り出す方向に向かっているのは、よく言われるとおりで、かなりの程度まで事実だろうと思います。メディアに接続することで、ここにいる自分とメディア空間の中の自分が多数多様なペルソナーー場合によっては性を年齢も異なったーーを演じ分けることができる、云々。

また逆に、そこから人間自身の捉え方も変わってくるんですね。統一性のもった心身で手ごたえのある世界を体験する、それこそがリアリティだと言うけれど、哲学的に反省してみれば、実はそれもヴァーチュアル・リアリティのひとつに過ぎない、と。

そもそも、人工知能のパイオニアのミンスキーが『心の社会』という表現を使っているように、心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるけれど、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ、と。(……)人口知能で複数のモジュールを並列的に走らせる実験から逆に類推して、人間だって同じようなものだと考えるわけです。

こうした流れが、フロイトからジャネへの退行にもつながるわけでしょうし、柄谷行人流に言えばカントからヒュームへの退行につながるわけでしょう。ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、と考えている。自己の一貫性と言ったって、選挙で内閣が替わっても外国との約束は引き継ぐという程度のものだ、と。ヒュームによるそういう徹底的な解体の後に、カントが、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図るわけですね。(……)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。


木村敏『時間と自己』より

われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら!きのううだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。

ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』P150)