《コピペはよくない、「自分の言葉」で書かなくては、それが「基本」》とオッシャル先生がイラッシャル。ーーご尤も!
だがこの文自体、われわれが小学校や中学校の先生から耳にした台詞の「盗用」の印象を生むのだ。そして、《はい、よく「自分の言葉」で説明できました、オリコウねえ》などと優しい小学校の先生の貌を想起することになる。まあでもひねくれ者の戯言はやめよう。
だが「自分の言葉」とはなんだろう。
ランボー曰く《私は他者である》(“Je est un autre”)であるなら、私の言葉とは<他者>の言葉ということになる。あるいは次のヴァレリーのカイエの文を読んでみよう。
人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。
かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。
自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)
この他者とは、訳者によれば「言葉」である。とすれば、「私=他者」の「言葉=他者」は、「他者」の「他者」ということになる。などとすれば、まるでラカンの<大他者>の<大他者>は存在しない、すなわち私の言葉は存在しないとなってしまう、ーーもちろんこれは言葉遊びでありまったく関係ないよ、としておかないと、ネット上には真に受ける方々がいらっしゃるから、くどくなるが書いておく。
ーーああ、またひねくれた戯言を言ってしまった!
このような人物はひたすら「引用」するに限る。
…………
みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦)
どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。(松浦寿輝『官能の哲学』)
「自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ(鈴木創士ツイートーー「言葉のコラージュ」と「原典のない翻訳」)
もちろんこれらの主張はそれぞれの意味するところが違う。だがそれはここでは追求しない。ここでは上の三つの文に対して次の文を対比させるみる。
「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)
すくなくとも「身体」から出た言葉は、自分の言葉である、と仮にしておこう。こう書けば、アルトーを想起するひとがあるかもしれない。
アルトーの創作活動は狂気のなかで自らの不在を体験しているけれども、こうした体験、こうした体験をくりかえし始める勇気、言語活動の根本的な不在にふかって投げつけられるすべての語、空虚をとり囲む、いやむしろ空虚と合致している、あの身体的苦痛と恐怖にみちた空間、これこそ、創作活動それじだいである。つまり、創作活動の不在という深淵に臨んでいる急斜面である。(フーコー『狂気の歴史』(558頁)
だがここではアルトーの、たとえばグロソラリ(舌語)にかかわるつもりはない。たいして知っていないことを語るのは口はばったい。ただ「身体」からの発話は、小学校の先生の言葉の剽窃であっても、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えない、--ことがあり得る…だろ? とだけしておく。
ーーもちろんこれらは極論を言っているのであって、いわゆる「自分の言葉」がこれら以外にないということではない。しかるべき条件下でしかるべき形式におさまる所謂「自分の言葉」が自分の言葉のつもりの「他人の言葉」でしかないということだけであり、そのまま真に受けてもらったらこまる。
…………
いまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(批評をめぐって(蓮實重彦)―――『闘争のエチカ』より)
あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して。(ニーチェ遺稿)
《ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている》(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 福田和也発言))
…………
さてここからが「本題」の人文系の「優雅な置き換え」の例である。
さてここからが「本題」の人文系の「優雅な置き換え」の例である。
ユリウス・カエサルの殺害というヘーゲルの挙げている古典的な例をみてみよう。カエサルに敵対する共謀者たちの直接的・意識的目標は、もちろん共和制を復活させることだった。しかし、彼の共謀の最終的結果――「本質的副産物」――は、帝政の樹立、すなわち彼らが意図していたこととは正反対のことだった。ヘーゲルの用語を使えば、歴史の理性がその目的を達成するために、何も知らない彼らを道具に使ったのだといえよう。
いうまでもなく、歴史の糸を操るこの理性とは、ラカンの<他者>をヘーゲル流に言い換えたものである。ヘーゲルによれば、歴史の背後で機能しているこの理性の所在を突き止めるためには、歴史の担い手たちが掲げた偉大な目標や彼らを導いた理想に目を向けるのではなく、彼らの活動の実際的「副産物」に目を向けなければならない。
ヘーゲルの「歴史の狡知」の歴史的源泉の一つである、アダム・スミスの「市場の見えない手」についても同じことがいえる。市場では、個々の参加者が、自分の利益だけを追求することによって、知らないうちに共通の利益に奉仕する。彼らの行動はまるで目に見えない善意の手に導かれているようだ。この「市場の見えない手」もまた、<大他者>の言い換えにほかならない。
「<大他者>は存在しない」というラカンのテーゼは、以上のようなことを踏まえた上で読まれなければならない。<大他者>は歴史の主体としては存在しない。それはあらかじめ与えられるものではなく、われわれの活動を目的論的に調整するわけではない。目的論というのはつねに遡及的な幻想であり、「本質的に副産物であるような状態」は本質的に偶然的なものである。
コミュニケーションに関するラカンの古典的な定義もまた、以上のようなことを踏まえた上で捉えなければならない。ラカンの定義によれば、話し手は相手から反転した真の形で自分自身のメッセージを受け取る。彼の行動の「本質的な副産物」という形で、つまり意図しなかった結果として、主体のメッセージの真の実際的な意味が、主体に返されるのである。その際に問題なのは、一般に主体は自分の行動の結果生じた混乱状態の中に自分の行動の真の意味を見出すことができない、ということである。(ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳 149~150頁)
ヘーゲルが援用している、きわめて顕著なケースは、ブルータス等によるカエサルの暗殺である。カエサルは、大きな軍功をあげ、ライバルのポンペイウスを打ち負かし、ローマ市民にも圧倒的な人気があったため、ついに終身独裁官の地位に就いた。ブルータスたちは、カエサルにあまりにも大きな権力が集中し、ローマの共和政の伝統が否定されるのではないかと懸念し、カエサルの暗殺を決行した。クーデタは成功し、カエサルは殺害された。
しかし、この出来事をきっかけとして、歴史が大きく動き出し、紆余曲折の末に結局、暗殺から17年後にあたる年に、政争を勝ち抜いたオクタヴィアヌスが事実上の皇帝に就任し、ローマは帝政へと移行する。
これはまことに皮肉な帰結だと言える。ブルータスたちは、最初、カエサルが皇帝になってしまうのを防ぐために――つまりローマが帝政へと移行することがないようにと――カエサルを暗殺した。そして、その暗殺は、実際に成功した。しかし、まさにその成功こそが、共和政から帝政へのローマの移行を決定的なものにしたのだ。オクタヴィアヌスが初代の皇帝に就位するに至る出来事の連なりは、この暗殺によってこそ動き出すからである。
ヘーゲルは、この過程を、次のように分析している。カエサルが個人的な権限を強化し、さながら皇帝のようにふるまっていたとき、実は、本人は気づいてはいないが――つまり即自的には――歴史的真理に合致した行動をとっていたのだ。共和政はすでに死んでいたのだが、カエサルや暗殺者たちを含む当事者たちは、まだそのことに気づいていなかったのである。
したがって、暗殺者たちは、カエサル一人を排除すれば、共和政が返ってくると思ったのだが、しかし、実際には、カエサル殺害こそがきっかけとなって、共和政から帝政への転換が決定的なものになった――即自的なものから対自的なものへと転換した。それによって、「カエサル」は、個人としては死んだが、ローマ皇帝の称号として復活したのだ。
「カエサルの殺害は、その直接の目的を逸脱し、歴史が狡猾にもカエサルに割り当てた役割を全うさせてしまった」(Paul Laurent Assoun, Marx et répétition historique, Paris, 1978, p.68)。この場合、まるで、歴史の真理を知っている理性が、ブルータスやカエサルを己の手駒として利用し、歴史の本来の目的(ローマ帝国)を実現してしまったかのようである。これこそが、ずるがしこい理性である。
こうした考え方の原型は、プロテスタント・カルヴァン派の「予定説」であろう。キリスト教の終末論によれは、人間は皆、歴史の最後に神の審判を受ける。祝福された者は、神の国で永遠の生を与えられ、呪われた者には、逆に、永遠の責め苦が待っている。これが最後の審判である。神による最終的な合否判定だ。
予定説は、このキリスト教に共通の世界観に、さらに次の2点を加えた。第一に、神は全知なのだから、誰が救われ(合格し)、誰が呪われるか(不合格になるか)は、最初から決まっている。しかし、第二に、人間は、神がどのように予定しているかを、最後のそのときまで知ることができない。このとき、人はどうふ るまうか。それぞれの個人は、神の判断を知ることもできないのだから、ただ己の確信にしたがって、精一杯生きるしかない。彼らは、歴史の最後の日にしかる べき判決を受けるだろう。
これら三つの例に登場している第三者の審級(見えざる手、ずるがしこい理性、予定説の神)には、共通の特徴がある。第一に、どの例でも、第三者の審級が何を欲しているのか、何をよしとしているのか、渦中にある人々にはまったくわからない。つまり、人々には、その第三者の審級が何者なのか、何を欲望する者なのかが、さっぱりわからないのである。
これは、第三者の審級が、その本質(何であるかということ)に関して、まったく空白で、不確実な状態である。しかし、第二に、にもかかわらず、第三者の審級が存在しているということに関しては、確実であると信じられている。第三者の審級の現実存在に関しては、百パーセントの確実性があるのだ。
本質に関しては空虚だが、現実存在に関しては充実している第三者の審級、これがあるとき、リスク社会は到来しない。三つのケースのどれをとっても、内部の 個人には、ときにリスクがある。たとえば、市場の競争で敗北する者もいる。カエサルもブルータスも志半ばで死んでしまった。カルヴァン派の世界の中では、 神の国には入れない者もたくさんいる。だから、個人にはリスクがある。
しかし、全体としては、第三者の審級のおかげで、あるべき秩序が実現することになっている。全体が崩壊するような、真のリスクはありえない。見えざる手 は、最も望ましい資源の配分を実現するだろう。ずるがしこい理性は、歴史の真理に従った目的を実現するだろう。神は、しかるべき人を救済し、そうでない人を呪うだろう。
ジジェクの『斜めから見る』には、カルヴァンの話も出てくる。
カルヴァン主義は、その信者たちを休む間のない熱狂的な活動へと駆り立てることで知られているが、この宗教は予定、すなわち運命はあらかじめ決まっているのだという信仰にもとづいている。カルヴァン派の信者は、かならず起きるとされている出来事はひょっとしたら起こらないかもしれない、という不安にみちた予感に駆り立てられているのではなかろうか。(『斜めから見る』p137)
…………
さてこうやって並べたからといって、なにも大澤真幸の文にいちゃもんをつけるつもりはない。多くの文というのは、このような「書き換え」であることが多いのを示したいだけだ(ここまで似ているのは稀ではあろうが)。いやいや実はよくシラナイ…そうじゃなかったら「ごめんあそばせ!」 きっと独創的な書き手がいるのだろう、ニーチェ並には、ーー《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》--「ごきげんよう!」、並み居る独創家さんたちよ。
ジジェクの文も、ヘーゲルの、あるいはラカンの「書き換え」である気味は多分にあるだろう。より「分かり易く」書き換えたら、ラカンやジジェクを敬遠している読者にも理解され、役に立つこともあるだろうと思う。
なんの役に立つ?
「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。
ーーこれだけでないことを祈る。
ここでまったく悪気はないのだが、浅田彰の発言を想い起こしてしまったので、つけ加えることにする(ゴメンアソバセ、國分ファンの方々よ!)
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。
もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。(「えらくなろう」という不滅の幼児願望)
僕の言葉、僕の見解、僕の「盗用」、……を語りたいヤツが多いのだよな、この「僕」のように。
さて話を元に戻せば、ジジェクやラカンの名を出さずに「書き換え」られた文は、失われるものがある。
ひとつだけ挙げれば、大澤真幸の主要概念「第三者の審級」と、ジジェク、あるいはラカンのいう「大文字の他者」といったいどう違うのか、が不鮮明なのだ。仮に同じものなら、わざわざ言い換えるまでもなく、よりよく流通している「大文字の他者」概念でいい筈だ。
なお「審級」については、agencyの訳として、『斜めから見る』のなかに次のような記述がある。
死んだ父親が父―のー名という象徴的審級として君臨しさえすれば、父親殺しは象徴的宇宙に組み入れられる。(鈴木晶訳)
The murder of the father is integrated into the symbolic universe insofar as the dead father begins to reign as the symbolic agency of the Name-of-the-Father.
そして、『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』(松浦俊輔 訳 ネット上で無料ダウンロード可)では「第三の媒体」という訳語があるが、これは原文ではThird Agencyになっており、「第三者の審級」と訳すこともできるだろう。
……すなわちサイバースペースで生じているのは,象徴的去勢(近親相姦的二者関係を禁止/妨害し,それによって主体が象徴界の次元に入り込むのを可能にする〈第三の媒体〉の介入)という構造から,ある新たなエディプス以後のリビドーの経済への移行だということである。
もしかりに大澤氏が独自に「第三者の審級」を言い募るなら、「大文字の他者」概念や上のジジェクの「第三の媒体」との相違を鮮明にすべきだろうとは思う。それが、大澤真幸の論や書物に明示されているかどうかについては、寡聞にして知らない、ーーなどとエラソウに書いているが、実はわたくしは大澤氏の書物を読んだことはない。インターネット上で片言隻語を拾って、ときにニヤニヤしているだけだ。なんのニヤニヤかはあまり書きたくない。
◆大澤真幸『<自由>の条件』2008
現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。
だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸『<自由>の条件』2008)
◆ジジェク 『ラカンはこう読め』原著2006 邦訳2007
「嫌がらせ〔ハラスメント〕」は、明確に定義された事実を指しているように見えながら、じつはひじょうに両義的に機能し、イデオロギー的なごまかしをしている語のひとつである。いちばん基本的なレベルでは、この語はレイプや殴打のような残酷な行為や他の社会的暴力を指す。いうまでもなく、そうした行為は容赦なく断罪されるべきだ。しかし、現在流通しているような「嫌がらせ」という語の使い方では、この基本的な意味が微妙にずれて、欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難になっている。二つのテーマが、他者に対する現代のリベラルで寛容な姿勢を決定している。他者が他者であることを尊重して他者に開放的であることと、嫌がらせに対する強迫的な恐怖である。他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際には他者でないかぎり、他者はオーケーである。ここでは寛容がその対立物と一致している。他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006 邦訳2007)
あるいはまた『ジジェク自身によるジジェク』には、--これは邦訳が手元にないのだがーー、次のような発話がある。《The whole obsession that we have today with different forms of harassment - smoking, sexual, social, etc. - is simply how to keep the neighbour at a proper distance.》ーーこれだけではなく似たような叙述は枚挙にいとまがない。
ジジェクの「わかりにくい」文章を優雅に置きかえている大澤真幸に、真の幸あれ!
ーーところで世間にはこんなことをオッシャル方もイラッシャル。
畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『新潮』2005年5月号より)