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2014年7月8日火曜日

聾になるための訓練

作曲家というものは音楽のための耳を持っていると言われる。これは大抵、彼らが耳に届くものを何も聴いていないという意味だ。作曲家の耳は自身の想像上の音で塞がれてしまっている。(ジョン・ケージbot)

ケージが囀っている。いやケージ(籠)は小鳥を探す、かつてはわれわれの身近にあったのにいつもまにかいなくなってしまった「音楽」を探しもとめる、《鳥籠が鳥を探しに旅に出た》(カフカ)

あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に聞こえるはずです。私達が美しいと判断する音楽だけでなく、生そのものであるような音楽。音楽によって生はますます意味深いものとなるでしょう。(『小鳥たちのために』)
かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(同上)

《私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)



ラカン派の向井雅明氏に、《音に関して言えば、音を感覚だけで聞くと世界は様々な騒音に満ちあふれている。知覚はフィルターを通すので静かな世界が可能となる。耳は閉じられないが知覚としての耳は閉じることができる。私たちの耳は聞かないためにある》とする文がある。

◆向井雅明「自閉症と身体」(『言語文化27号』 ――●「ラカン研究の現在」)より。

自閉症児は外界からの刺激に対して普通の子どもには見られないような特殊の反応を見せることがある。たとえば、痛みを感じなかったり、ローソクの上に手をかざしても平気で、手にやけどさえしなかったりなどである。

自閉症と身体をめぐって書かれた論だが、ここではその主題そのものをめぐってではなく、その過程で説明される「暗示」効果をめぐる箇所を抜き出す。

催眠術では術師が被験者に催眠状態で「あなたは今やけどをしている」と言うだけで、実際に被験者には水ぶくれなどのやけどの症状ができる。

ここでは自閉症における状況と逆の状況が再現されている。自閉症ではやけどをしたという知覚がないので情報が自律神経系に達せずに症状が生じないのに対して、催眠では言語による偽の情報が自律神経に作用してやけどの症状が生まれると考えられる。つまり言語による情報は知覚による情報と同じ作用を生み出すのだ。

感覚は知覚とは違う(……)。感覚が知覚になって初めてわれわれは意識的に何かを感じるようになる。(……)

モルヒネは痛みの伝達を遮って鎮痛効果を与えるとされる。しかしモルヒネは、実際は痛みを麻痺させるのではなく、逆に麻薬効果によって知覚のフィルターを弱め、原始的な感覚を増大させて痛みの知覚を無差別的な感覚のなかにおぼれさせてしまうのだ。

ここで重要なのは感覚と知覚を異なったものとして扱っていること。感覚は受動的なものでわれわれは単にそれを選択せずに受け取るだけなのに比べて、知覚は能動的で選択的。知覚があって初めて私たちは何かを差異的、具体的に感じることができる。それにたいして感覚は非差異的。感覚の世界は混乱しており構造化されていない。

音に関して言えば、音を感覚だけで聞くと世界は様々な騒音に満ちあふれている。知覚はフィルターを通すので静かな世界が可能となる。耳は閉じられないが知覚としての耳は閉じることができる。私たちの耳は聞かないためにある。(向井雅明 「心的装置の成立過程における二つの翻訳」より)

「やけど」の話がでてきているので次の文を附記しよう。



ニューヨークのコロンビア大学医学部のハーバート・スピーゲルが実験したことだ。彼はイマジネーションを利用する実験で、米国陸軍のある伍長を被験者にした。彼は、この伍長に催眠術をかけて催眠状態にしたうえで、その額にアイロンで触れる、と宣言した。しかし、実際には、アイロンのかわりに鉛筆の先端で、この伍長の額に触れただけだった。

その瞬間、伍長は、「熱い!」と叫んだ。そして、その額には、みるみるうちに火ぶくれができ、かさぶたができた。数日後にそのかさぶたは取れ、やけどは治った。この実験は、その後四回くり返され、いつもまったく同じ結果が得られた。

さて、五度目の実験の時には、状況はやや違っていた。この時には伍長の上官が実験に同席していて、この実験の信頼性を疑うような言葉をいろいろ発していた。被験者に迷いや疑惑を生じさせる状況のもとでおこなわれたこの時の実験では、もはや伍長にやけどの症状が現れることはなかった。

…………

冒頭のケージの文はもちろん音楽家だけの話ではないので、たとえば「理論」を学べば盲目になる、あるいは《勘を鈍らせるものがパラダイムである》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)としたっていい。

まずトーマス・クーンのパラダイム概念を思い起してみよう。

ある一時期に おけるある分野の歴史を細かく調べてみると、いろんな理論が概念や観測や装置に応用される際に、標準らしき一連の説明の仕方が繰り返されていることに気付 く。これらがその専門家集団のパラダイムであって、教科書や講義や実験指導の際に現れてくるものである。(『科学革命の構造(The structure of scientific revolutions)』)

《T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはから客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。》(柄谷行人『隠喩としての建築』)

すなわち、これも冒頭のケージ文の変奏なのであって、パラダイムを学べば、その「窓枠」を通してしか経験的データを拾うことができない。蓮實重彦ならそれをあっさりと、《解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかない》(『表層批判宣言』)という。すなわち音を聞く耳が、ソルフェージュ理論による音の分節化をすでに蒙った音を聞き取らされる耳でしかない、ということになる。

ここで《見ることは見ずにおくことの技術の体系》をめぐるフーコーのエピステーメ概念(『臨床医学の誕生』)を想起してもいい。

さらに言えば、これは専門「理論」だけではないので、われわれは人生においてある種の理論めいたものを学んで、盲になったり聾になったりする。

プルーストの「知った人に会う」知的行為とはそのことを語っている。われわれの愛情が、憎悪が、先入観が、知人の真の顔を見えなくしている。ふと写真をみてやっと、彼は(たとえば父は、妻は)ああこんなに面がわりをしていたのだと気づくことは誰にもであるだろう。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」)

 《カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。》(柄谷行人『トランスクリティーク』P312

ーーこれはラカン派なら、想像界(感覚)はすでに象徴界によって(感性の形式によって)構成されている、という。

さらに言語を学べば、これも世界が見えなくなる。すくなくとも日本語だけを知っているひとと、英語だけを知っているひとでは、世界の見え方が異なる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(レヴィ=ストロース『野生の思考』)
職業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)

もちろん、色彩についても次のようなことがいえる。

名辞による色彩の分割(色わけ)は民族と時代によって異なる。近代文化内でも英国、オランダ、日本の各々の100色以上の色鉛筆セットを比較すれば色名の文化的差異と色分布の違いは一目瞭然である。英国の標品が暗色、オランダのが褐色が多く、繊細な相違を強調し、逆に、100色以上においても日本の標品で「黄色」とされる「明るい菜種色」などを欠いていることが多い。

しかし、言語化困難だとはいえ、色や味覚や嗅覚は言語化がなければ、まったく個人の自閉的世界にとどまってしまうだろう。

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


さて、最後はラカンの「大文字の他者」だ。いやそのまえに『トランスクリティーク』からもう一度引いておこう。

彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』P101)

「大文字の他者」、すなわち言語によって構成された世界、象徴界(象徴形式)の世界である。

「私はただ相対的に愚かに過ぎないよ、つまり他の人たちと同じでね。というのは多分私はいくらか啓蒙されてるからな」

“I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?  (Lacan“Vers un signifiant nouveau” 1979)

啓蒙されているから愚かになってしまったというのは、象徴界の世界の住人だから、ということ。ただし前段の「相対的に愚か」というのは、《この「相対性」は、"完全には愚かではない"と読むべきだ、すなわち厳密な意味での非-全体の論理として。…ラカンの中には愚かでないことは何もない。愚かさへの例外はない。ラカンが完全には愚かでないのは、彼の愚かさのまさに非一貫性にある》(ジジェク「『LESS THAN NOTHIG』私訳)

というわけだが、われわれは共同体の「先例」と「慣習」を学ばないわけにはいかない。理論やパラダイムを学ばないわけにはいかない。ただそれを信じ込むなということだ。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

現実をゆらめかすこと、現実の非一貫性を知ることだ。ラカンの幻想の横断traversée du fantasmeとは、そのことを言っている。

“Traversing the fantasy” does not mean going outside reality, but “vacillating” it, accepting its inconsistent non‐All. (ZIZEK"LESS THAN NOTHING")







2014年4月28日月曜日

四月廿八日 「蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたり」

早朝蝉の声。今年になってはじめて聴く。形状や鳴声はニイニイゼミなのだが、今こうやって書こうとして調べてみると、《北海道から九州・対馬・沖縄本島以北の南西諸島、台湾・中国・朝鮮半島まで分布する。ただし喜界島・沖永良部島・与論島には分布しない》とWikipediaにあり、この記述からすれば南方には生息しないということになる。たぶん異なった種類なのかもしれない。もともと蝉は、当国の北部に多く南部には少ないなどと言われるが、たしかにこの南部の土地にはニイニイゼミ状のセミしか見たことがない。妻や息子になんというセミだ、と訊ねてみても、セミはセミよ、というだけだ。




ところで大正七戊午年の荷風の日記に奇妙な記述がある。

七月十五日。去十二日より引つゞきて天気猶定まらず風冷なること秋の如し。四十雀羣をなして庭樹に鳴く。唖ゝ子の談に本郷辺にては蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたりといふ。昨日赤蜻虫の庭に飛ぶを見たり。是亦奇といふべし。

蜩は蝉ではないと読める。だがすくなくとも現在、蜩はセミ種に分類されており、かつてはこういう区別をしたということなのだろうか。ではツクツクボウシは蝉の分類内だったのか、それとも分類外だったのか。ーーいずれにせよ、蜩とツクツクボウシは、わたくしの知っている限りでのほかの蝉の鳴声とは区別してもいい声音をもっている、という印象はもたないでもない。

ひぐらしの鳴き声3時間版などというものがYoutubeにあるが、この鳴声の「ゆらぎ」を愛惜しむひとがいるのはよく分かる。





……この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。

夜半に街灯の明るさに欺れてか、いきなり嗚咽を洩らすように鳴き出し、すぐに間違いに気がついたらしく、ふた声と立てなかった。狂って笑い出したようにも聞こえた。声に異臭を思った。

異臭は幼年の記憶のようだった。蜩というものを初めて手にした時のことだ。空襲がまだ本格には本土に及ばなかった、おそらく最後の夏のことになるか。蜩は用心深くて滅多に捕まらぬものなので、命が尽きて地に落ちたのを拾ったのだろう。ツクツク法師と似たり寄ったりの大きさで、おなじく透明な翅にくっきり翅脈が浮き出て、胴体の緑と黒の斑紋の涼しさもおなじだったが、地肌が茶から赤味を帯びて、その赤味が子供の眼に妖しいように染みた。箱に仕舞って一夜置いた。そして翌朝取り出して眺めると、赤味はひときわ彩やかさをましたように見えたが、厭な臭いがしてきた。残暑の頃のことで虫もさずがに腐敗を来たしていたのか、子供には美しい色彩そのものの発する異臭と感じられた。すぐに土に埋めて手を洗ったが、異臭は指先にしばらく遺った。

箪笥に仕舞われた着物から、樟脳のにおいにまじってえ立ち昇ってくる、知らぬ人のにおいにも似ていた。(古井由吉『蜩の声』)

…………

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。(H・ド・バルザック「骨董屋」)

これは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフであるが、冒頭の「第一章 具体の科学」は、こう書き始められる。

動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。(『野生の思考』)

これはなにも「未開人」の言語の話ではない。たとえば日本には“waterという語がない。水であり、お湯であり、熱湯である、ということはしばしば指摘されてきた。反対に、わたくしの住んでいる国の言葉では、waterにあたるnướcは、より高い抽象性があり、水であり、液体であり、ジュースである。カフェやお茶という言葉はもちろんあるが、たとえば仕事を終えた働き手に労働賃以外にチップを渡すとき、これでnướcを飲んで!、という言い方をする。これは、渇きを癒して! ということで、すなわち日本語の「お疲れ様!」にほぼ相当する。この”nước“は、カフェでもお茶でも水でもジュース、ビールでもよいということで、いかにも暑い国の言い方である。ヌックマム(”nước mm“)でさえ水という語を使う。 ”mm“は蝦・魚などを塩漬けにした食物のことで、直訳すれば「魚を塩漬けした水」となる。あるいは外人は、"nước ngoài"、ーー"ngoài"は漢語の「外」なのだが、これも直訳すれば「外の水」ということになる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(『野生の思考』)

この意味で、つまり”waterに関して、日本人はwaterという大きな分類ではなく、より細かい「水」「お湯」の区別があるという意味で、その概念が豊富であるということができる。お風呂と茶道の国である。他方、当国では近親者の呼び方の種類が驚くほど豊富である。国の文化によって、それぞれ概念の豊富さの多寡があるのはあらためて言うまでもないことかもしれないが、それでも住み始めた当初は驚いた。

業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)


2014年4月21日月曜日

意図的な誤読の「楽しみ」

レヴィ=ストロースの『野生の思考』の冒頭近くに次の文がある。

北アメリカ北西部のチヌーク語は、人や物の特質や属性を示すために抽象語を多用する。(……)「悪い男が哀れな子供を殺した」がチヌーク語では「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。また、女の使っている籠が小さすぎることを述べるのに「女は、はまぐり籠の小ささの中にエゾツルキンバイの根を入れる」という。

ところで小林秀雄には、《美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない》という文がある。これについて柄谷行人は次のように語っている。

柄谷行人) 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。(共同討議「芸術の理念と<日本>」 浅田彰、磯崎新、岡崎乾二郎、柄谷行人 『批評空間』 No.10 1993年 )

この発話は、この小林秀雄の文だけ取り出せば、いかにも「正しい」批判であるように見える。だがその前後を読んでみると、いささか小林秀雄の言わんとすることは異なっているように思える。

中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間 の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。僕は、かういふ形が、社会の進歩を黙殺し得 た所以を突然合点した様に思つた。要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの 慎重に工夫された仮面の内側に這入り込むことは出来なかつたのだ。世阿弥の「花」は秘められてゐる、確かに。  現代人は、どういふ了簡でゐるから、近頃能楽の鑑賞といふ様なものが流行るのか、それはどうやら解かうと しても労して益のない難問題らしく思はれた。たゞ、罰が当つてゐるのは確からしい、お互に相手の顔をジロジ ロ観察し合つた罰が。誰も気が付きたがらぬだけだ。室町時代といふ、現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑はなかつたあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心してゐる。

それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆どそれを信じてゐるから。そして又、僕は、無要な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何んの疑はしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」があ る、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方 が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言つてゐるのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやく ざなものは、お面で隠して了ふがよい、彼が、もし今日生きてゐたなら、さう言ひたいかも知れぬ。

僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。あゝ、去年(こぞ)の雪何処に在りや、いや、いや、そんな ところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。(小林秀雄「当麻」)

小林秀雄が、《美しい「花」》というとき、それは世阿弥のお面としての「花」なのであり、《「花」の美しさ》というとき、そのお面の後ろに秘められた「花」の美しさというふうに読める。そして仮面としての「表層」に現れた美の向こうを探ろうとばかりして、「表層」の動きに瞳を向けること少ない「現代の美学者」のあり方を批判している。すなわち、お面の後ろなどに「花」の美しさなどというものはない、「表層」としての「形象」の動きを見よ、と言い放っているのだ。それは上に抜き出した文のすぐ前にある次の文によっていっそう証される。

仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。ルッソオはあの「懺悔録」で、懺悔など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者も気が付かなかった女々しい毒念が、次第に方図もなく拡がったのではあるまいか。僕は間狂言の間、茫然と悪夢を追う様であった。

この文はむしろ、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で書いた近代文明におけるパラダイムの変換――「風景の発見」――をめぐる文章との近縁性を示唆する。

伊藤整には、市川団十郎がその当時大根役者と言われたことを伝える文があるが、ーーおそらく九代目の市川団十郎であろうーー、その伊藤整の「日本文壇史」の文、《大根役者と言われたのは、その演技が当たらしかつたからである。彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した》ーーを引用しつつ、柄谷行人は次のように書いている。

団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠であったのである。歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちに新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば「素顔」だといえる。

しかし、それまでの人々は、化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、「概念」としての顔にセンシュアルなものを感じていたのである。それは、「概念」としての風景に充足していたのと同じである。したがって、「風景の発見」は素顔としての風景の発見であり、風景についてのべたことはそのまま演劇についてあてはまる。

レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである》(「構造人類学」)。顔は、もともと形象として、いわば「漢字」のようなものとしてあった。顔としての顔は「風景としての風景」(ファン・デン・ベルク)と同様に、ある転倒のなかではじめて見えるようになるのだ。

風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめる。
(……)

伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が何かを意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその何かなのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。

それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものと探らなければならなくなる。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』所収)

この柄谷行人の文を読めば、小林秀雄の《仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい》という文を受けて書かれる、《美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない》とは、仮面のみがある、素顔の向こうの内面などというものはない、というふうに読むことができるのではないか。それは近代文明の内面という病いを指摘しているのだ。おそらく柄谷行人は、敢えて忘れたふりをして、《「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない()。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない》と発言している(そして、この発話自体の「面白さ」を否定するつもりはない)。それは当時の小林秀雄批判の「風潮」にいっそう加担するようにして、とまで言うつもりはないが。

ここではむしろ柄谷行人のかつての小林秀雄賛を並べておくに如くはない。


彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)

もちろん小林秀雄の言説は、高橋悠治や蓮實重彦、あるいは岡崎乾二郎などが批判したように、当時のモダンのパラダイムの「意味としての病い」に汚染されている言葉が散見される。だが小林秀雄の世阿弥をめぐる文章は、いわゆる「ポストモダン」の思考、「表面」やら「表層」やらへの回帰への扉を開こうとしている、として読み得る。

ここで、《表面的、いいかえれば表面であるというこの単純な事実がなぜ、同時に貶められた意味を、少なくとも暗黙のうちに、つねにになわされてこなければならなかったのか》という、宮川淳の『紙片と眼差とのあいだに』を引用することもできる、《背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後にまで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない、アリスの冒険について、ジル・ドゥルーズがいみじくも指摘しているように、表面の背後はその裏がわ、つまりまたしても表面なのだ》。

あるいは蓮實重彦の『表層批評宣言』から次のような文を。

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいまこの瞬間ここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いまこの瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(「言葉の夢と「批評」」ーー黒字強調箇所は原文では傍点)

あるいはさらにラカン派の「仮装」やsemblant(見せかけ)概念をめぐる言説さえ想起させる。

A man stupidly believes that, beyond his symbolic title, there is deep in himself some substantial content, some hidden treasure which makes him worthy of love, whereas a woman knows that there is nothing beneath the mask( ZIZEK” Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation “

「素顔」さえ「無」を覆う。覆うことによって、なにかが隠されているような幻想の効果を生む。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

これは柄谷行人が、《それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものと探らなければならなくなる》と言っていることに、限りなく近似する。

われわれは、《お互に相手の表情なぞ読み合っては得々としている。滑稽な果敢無い話である。幾時ごろから、僕等は、そんな面倒な情無い状態に堕落したのだろう》(小林秀雄ーー「仔猫の屍骸」より)



…………

最後に附記しておくが、《「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう》といささか不用意に、あるいは挑発的に発話された柄谷行人のここでの「概念」と、《風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめる》(『日本近代文学の起源』)における意味されるものとしての「概念」、いわゆるシニフィエ、あるいは思考のイマージュとしての「概念」とは、別のことを「意味している」ようにも見えるが、ここではそれは追求はしていない。

「概念」をめぐっては、たとえば、柄谷行人が『探求 Ⅱ』で書く、《スピノザにおいて大切なのは、表象と観念の区別、あるいは概念と観念の区別である》とされるときの、表象=概念、あるいは『トランスクリティーク』での、《カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である》ときの、概念=一般性をめぐっての柄谷行人の文章があるが、ここでの議論はそれにももちろん触れえていない。

2013年10月29日火曜日

「牧畜民族は農耕民族と違うというホラ話」、あるいは蓮實重彦と中井久夫

やれ、日本の猿は西洋の猿とは違う、やれ日本人の脳は西欧人とは違う、やれ牧畜民族は農耕民族と違うというホラ話も、結局は、見えないはずの差異をイメージとして抽象的に可視化して、虚構としての内部と外部を捏造してそれに安住するという話でしょう。(蓮實重彦『闘争のエチカ』1988)

それぞれの「ホラ話」は、河合雅雄の猿学、角田忠信の左脳と右脳、そして牧畜民/農耕民は、中井久夫の「分裂病と人類」ということになるのだろう。

狩猟採集民の時間が強烈に現在中心的・カイロス的(人間的)であるとすれば、農耕民とともに過去から未来へと時間は流れはじめ、クロノス的(物理的)時間が成立した。農耕社会は計量し測定し配分し貯蔵する。ときに貯蔵、このフロイト流にいえば「肛門的」な行為が農耕社会の成立に不可欠なことはいうまでもないが、貯蔵品は過去から未来へと流れるタイプの時間の具体化物である。その維持をはじめ、農耕の諸局面は恒久的な権力装置を前提とする。おそらく神をも必要とするだろう。(中井久夫『分裂と人類』)

同世代人の中井久夫(1934生れ)と蓮實重彦(1936生れ)が、お互いにその名を出すのを寡聞にして見たことがないのは、このあたりに由来するのかもしれない。

中井久夫は自ら《私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一文の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う》としているわけで、それをあっさり「ホラ話」とされては、怒髪天を衝くという具合になることは充分予想される。


一言にしていえば、S親和者の優位性は「徴候を読む能力」にある。少くとも狩猟採集民族には欠かせない能力である。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが全く別の接近路から「徴候知」を抽出していたのとほぼ同時に独立して私も徴候知に市民権を与えたわけだ。この能力は、農耕社会の到来とともに重要性が減り、その結果、失調をおこしやすくなるかもしれないが、リーダーや気候や天災の予測に必要な能力である。雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていたという。医師にも当然なくてはならない能力である。

しかし、職業生活だけがすべてではない。鬱病の場合と違う。徴候知は万人に必要であり、赤ん坊が母親の表情を読むことがすでにそうではないか。そして徴候的認知はとくに配偶者選択に有利である。相手が世俗的なことを考えているときに求愛しても成功はおぼつかない。状況や相手の表情や何やかやから「今だ」というタイミングを読む力は徴候知に属し、徴候知は「接合率」を高める重要因子である。だから、S親和者はなくならないーー。これはハックスリのよりもナイスな答えではないかと私は思った。

私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一文の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。S親和的な人、あるいは統合失調症患者の士気向上に多少程度は役ったかもしれない。家庭医学事典などは破滅的なことが書いてあるからである。(「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)

もうひとつの主著『徴候・記憶・外傷』にもこうある。

不安なしに対象世界が徴候化することはある。それは、狩人の場合であって、カルロ・ギンズブルグは、些細な足音や草の倒れた形から獣が通った跡を推理する狩人の「徴候的知」を、歴史家、医師、推理作家などの方法の先駆として、この「知」による科学に「演繹」や「帰納」による科学と同等の「知」としての位置を与えることを主張している。(……)この「知」は、意識的な「方法論」methodologyではなく、十八世紀の古くからいわれながらあまり取り上げられていない「セレンディピティ」による知であると私は思う。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」p27)


わたくしは、中井久夫、蓮實重彦とともにその著書を愛する人間なので、ここではなんやかやと言いたくないが、蓮實重彦発言の起源は、つぎのレヴィ=ストロースの『野性の思考』の叙述に負うところがあるのではないか、とふと思う。


未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかを言いあてるオーストラリア現住民( Meggitt )のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。この比較はまったく突飛に見えるけれども、多くのことをわれわれに教えてくれる。われわれの能力がとぎすまされ、知覚が鋭敏になり、判断が確実性をますのは、一つには、われわれのもつ手段とわれわれの冒す危険とがエンジンの機械力によって比較にならぬほど増大したためであり、もう一つには、この力を自分のものとしたという感情からくる緊張が他の運転者との一連の対話の中で働いて、自分の気持に似た相手の気持が記号の形で表わされることになり、まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。

このようにわれわれは、人間と世界が互いに他方の鏡になるという、展望の相互性が機械文明の面に移されているのを再び見出すのである。そしてこの相互展望は、それだけで、野生の思考の属性と能力を教えてくれることができるように思われる。異文化社会に属する観察者から見れば、おそらく、大都会の中心部や高速道路の自動車交通は人間の能力を越えるものと判断されるであろう。たしかにそれは人間の能力を越えているのである。そこでは人間どうし、自然法則どうしがそのまま向き合うことがなく、運転者の意図によって人間化された自然力の体系どうし、人間が媒介する物理的エネルギーによって自然力に変換された人間どうしが向かい合うのだから。もはやそれは動かぬ物体に対する行為主体の操作でもなければ、行為者の地位にまでもち上げられた物体が、代償をもとめることなく自分の地位を物体に譲った主体におよぼす逆作用でもない。すなわち、どちらから見ても、一定量の受動性を含むような状況ではないのである。登場する存在は、同時に主体として、また客体として、ぶつかり合う。そこで使われるコードでは、両者をへだてる距離の単なる変動が、声なき呪文の力をもつのである。(「再び見出された時」『野生の思考』クロード・レヴィ・ストロース著 大橋保夫訳)


2013年8月14日水曜日

私はとても旅をしようという気になれない(ドゥルーズ)

たとえばツイッターのドゥルーズbotに次のようなものがある。

旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話しは別ですけどね。(ドゥルーズ『記号と事件』)

ひとはこれをどのように読むのか。ひょっとして、その感想を語るために旅に出るなどと読むなどということはないか。

わたくしはまったくドゥルーズ読みではないが、あまり「動かない人」であったドゥルーズというおぼろげな「知識」というかイメージ程度はあり、すこし調べると上の文の続きはこうあるようだ。

旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話しは別ですけどね。だから、私はとても旅をしようという気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの一文に感銘を受けたことがあります。『放浪の民とは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らは放浪の民になるのだ』というのがそれです。(ドゥルーズ「哲学について」『記号と事件』)

ーーここで、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の冒頭、《私は旅や探検が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている。だが、そう心に決めるまでにどれだけ時間がかかったことか!》を想い起こしてもよい。

まあこういったものであって、短く切り取られたツイッターのbotは、その前後を探ってみれば、そこで受け取られかねない内容のまったく反対のことを語っている場合がある。以前、ロラン・バルトbotをリツイートしながら、まったく逆の理解をしている人を見かけて、すこしからかってみたことがあるが、わたくしも知らぬ作家の短文で同様なことをやっているのかもしれず、他人の誤読を鬼の首をとったようにして諌める気分は失せてきつつある。そんなことをしたって無駄だ、抵抗できようがない……

《浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。》(小林秀雄「林房雄」)


上の文には、わたくしが数少なく読むことのあるドゥルーズの『プルーストとシーニュ』、――1964年に初版が出版、1970年に「アンチロゴスまたは文学機械」の部分がつけ加えられた第二版。そして1976年に、「狂気の現存と機能――クモーー」を追加した第三版が刊行されているのだが、――ドゥルーズがひどくこだわり続けたこの書の「アンチロゴス」、あるいは「クモ」の章のドゥルーズがいる。

しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用でできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性、無意志的な記憶作用、無意志的な思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモである。語り手の奇妙な可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者――狂人――普遍的な分裂病患者である語り手の身体=クモが、そこから自分自身の錯乱の操り人形、器官のないおのれの身体の強度な力、おのれの狂気のプロフィルを作るために、偏執病患者であるシュルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

もちろんそれ以前にも『アンチ・オイディプス』にはこうある。

はっきりしているのは、語り手は何も見ず、何も聞かないで、ひとつの器官なき身体であり、あるいはむしろ、いわば自分の巣の上でじっと身構えている蜘蛛のような存在であるということである。この蜘蛛は何も観察しないが、ほんの僅かの兆候、ほんの僅かの震動にも反応して、自分の餌にとびかかる。


もっともこう引用したからといって旅をするのが悪いわけではない。ユルスナールや須賀敦子のような方もいるだろう。
ずっと見ていると、あなたっていつもそうなのよ。このところ、なにか暗いなあ、って思うことがあって、そんなとき、あなたはじぶんで気づいているかどうかわからないけれど、ちょっと旅行にでもって思いつくらしいの。そして、どういうわけか、旅のあとはふわっと明るくなって帰ってくる。なにか重たいセーターを、旅先で脱ぎすてたみたいなのね。(須賀敦子『ユルスナールの靴』)

ただし須賀敦子は、旅の思いや、ミラノの記憶を語るのに、二〇年ほどの年月の醗酵が必要だった。

多くのひとの旅はアランが書く次の文の冒頭のようにになり勝ちなのだ。

丁度今はバカンスの季節だが、次から次へと名所旧蹟のたぐいをかけずり回る人々で、どこもかしこもいっばいだ。もちろん、わずかの時間のうちに、いっぱい見物しょうという寸法だろう。なるほど、あとで話の種にするのであれば、これほど結構なことはない。引き合いに出す場所の名前は多いに越したことはなかろうし、これで十分暇つぶしにもなるだろう。

だけども、自分のために、本当に見るために、そんな風にかけ回るのだとすると、私は首をかしげざるを得ない。走りながら眺めれば、何もかも似かよって見える。いかなる渓流も、渓流であることに変りはない。かくして、大急ぎで世界を駆けめぐつてきたところで、出発前よりたいして思い出が豊富になってはいない。

何を見物するにしろ、その真の豊かさは細部にある。見る、ということは、細部を一つ一つ経めぐること、その各々にしばし足をとどめること、そして再び全体を一目で把握すること、である。こんな手順を踏みながらも、次から次へと素速く見て回ることができるのかどうか、私にはわからない。が、少くとも私はだめだ。毎日、美しいものを眺めることが出来、例えばサントゥアン寺院を、自分の家にかけてある絵と同じように見ることの出来るルーアンの人達は幸せである。

それに対し、美術館にしろ観光地にしろ、たった一度きり立ち寄るだけでほ、まずきまってその思い出は混乱し、ついには輪郭のぼやけた一種の灰色の画面となってしまうだろう。

私の好みに従えば、旅行するとは、一度に一メートルか二メートル進んでは立ち止まり、再び同一の物の新たな相貌をじっくり挑めることなのである。しばしば私は、ほんの少し右や左に動いては、腰をおろす。すると、全てが一変して見える。それは、百キロ進むよりも、はるかに有益だ。

一つの渓流から次の渓流へと訪れたところで、眼に映るのは、常に同じような渓流である。しかし、岩から岩へと足場を変えれば、この同じ渓流が一歩ごとに姿を変える。すでに見物したものへ再び立ち戻ると、間違いなく、それは新しいもの以上に心をとらえて離さない。事実、そこにあるのは、新しいものなのだ。(アラン「旅行者」)

ここでさらにフローベールの友人であったマクシムとシャルル、つまりマクシム・デュ・カンとシャルル・ボードレールのふたりを対照させて書く蓮實重彦の文を抜き出してみよう(『凡庸な芸術家の肖像』)。

そこでは、「旅」とは「何かを述べるために帰ってくること」――《そう宣言することの率直な凡庸さは、こんにちではもはや凡庸さとは意識されることもなく希薄に共有されてしまっている》とすることができる文が含まれる。


凡庸さを、何ものかの欠如としてではなく、過剰なる何ものかとして具体的に触知すること。それがこの物語の主題というべきものであるとするなら、不断の運動によって空間を踏査するマクシム的「旅人」と、室内にとどまったままの空想的旅行者シャルルとの比較はほとんど意味を持ってはいない。マクシムが凡庸であるとするなら、「乾かされた海藻の上に、山の頂きに、激流の岸辺に、人里はなれた岩の上にこそ身を横たえてまどろむべきなのだ」と説く『現代の歌』の詩人が、そうした孤独な彷徨者を顕揚するかにみえる詩的姿勢にもかかわらず、実は、旅をいささかも無償の運動体験とは見做していないからである。

無償という言葉が惹き起こしがちな誤解を避ける意味からいいそえるなら、旅は、旅を表象するものの生産を伴わぬかぎり旅とは認識されていないとすべきかもしれぬ。表象という言葉がまぎらわしいというのであれば、さらにはそれを証拠といいかえてもよい。つまり、旅は、「旅行記」の執筆とその過程で撮った「写真」の整理を伴わぬかぎり、マクシムにとっては旅ではないということだ。

未知の世界の表情と触れることは、その風景を知識としてたくわえ、それによって存在を豊かにしうるものだとする確信がマクシムにはある。だからその個人的な豊かさを人びとに共有させるために「旅行記」と「写真集」とを刊行することが義務だと彼は考える。ここでもマクシムは、誰に頼まれたわけでもないのに、その個人的かつ特権的な旅人としての体験を、人類の知的資産として民主化すべき義務があると信じているのだ。この確信が凡庸さを特徴づける第一の側面であることはすでに見たとおりである。だがここではそれに続く第二の側面について触れておかねばならない。それは、時間的なものであれ空間的なものであれ、人が一般に旅と呼びならわしている体験が、「旅行記」なり「写真集」なりの生産を可能としないかぎり、体験としての濃度を希薄化するような印象を与えるという、体験の物語化の傾向の中に姿をみせるものなのだ。つまり、あるできごとを言葉で記録し、それをフィルムにおさめないかぎり何ものかを喪失したような心もとない気持に襲われ、それを言語による、あるいは映像による物語として再編成せずにはいられないという心の動きが、凡庸さの第二の側面を構成するのである。(『凡庸な芸術家の肖像』p117~)
ここではただ、『現代の歌』の詩人が、旅行を物語として知識化していない点をシャルルの作家的な欠陥だと呼んでいることにのみ注目しよう。「旅行記」も「写真集」も伴わぬ旅行は、彼にとって旅行とは呼べなかったのである。そしてそう宣言することの率直な凡庸さは、こんにちではもはや凡庸さとは意識されることもなく希薄に共有されてしまっている。実際、未知の世界へと旅立った詩人が「旅行記」を執筆することなく帰還することがあるだろうか。それを出版するか否かはおくとしても、旅先きで撮った写真を整理することに喜びを感じない詩人がいるだろうか。マクシムは、こうして希薄に共有された常識を制度化した最初の芸術家である。旅という運動体験が物語として反復されることなしには旅たりがたいという常識を規格化した最初の芸術家なのである。旅の途中で蒐集した知識を帰宅後に整理し、そこにかたちづくられる物語によって運動体験を表象すること。それが進歩に加担する芸術家のあるべき姿だとマクシムはいう。これほど偉大な凡庸さを、人は十九世紀の中葉にそうたやすく想像することはできない。(同上p119)


ここでの「芸術家」は、現在、「知識人」とか「文化人」を代入して読むべきだろう。そして現在ひとは誰もがマクシムと似たようなことをやっている。旅行どころではない、そして帰ってきてからでもない、レストランに行けば、その写真を食べる前にSNS上に貼り付けて他者と共有する。《誰に頼まれたわけでもないのに、その個人的かつ特権的な旅人としての体験を、人類の知的資産として民主化すべき義務があると信じている》のであり、そうしないと《何ものかを喪失したような心もとない気持に襲われ》てしまう。本を読んだって、その感想を書かずにはいられない。葬式に行ったって、哀悼の気持をネットにすぐさま書き綴る。そのうち性交の最中のさまを他人と共有するようになるだろう(いやそんなものさえすでにある)。


たとえば蓮實重彦自身、《われわれの誰もが、マクシムのように…凡庸な存在だからかもしれない……時代そのものが人に凡庸たれと要請している》(P799)と『凡庸な芸術家の肖像』の末尾近くに書き綴っているように、己がつねに凡庸さをまぬがれているとは思っていないはずだ。自らが凡庸さから逃れうるのはよほどの戦略家でなければ至難の技なのだ。

ここで誤読を恐れつつ、つまりこの文の前後を知らないドゥルーズの文を恐る恐る引用してみよう、

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)


だがこの「凡庸さ」の何が悪いのか。それは、ひとが他人と共有できることしか語らなくなってしまう、いやそれだけでなく共有できることしか考えなくなったり感じなくなってしまうことだ。

あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出されたとき』)

《……人は、知っていることについてしか語らなくなくだろう。たまたま未知のものが主題になっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるいは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようにあつかうふりを演ずる。そして、その錯覚と演技とが、知と物語との相互保証をますます完璧なものにする》(蓮實重彦『物語批判序説』)


「僕はレスポンスを求めないために書く」、「レスポンスを求めるのは批評の死を意味する」、と浅田彰と蓮實重彦が対談で語るのも、この凡庸さに抵抗する意味に他ならない。(参照:青空のさなかで耐えること






2013年7月29日月曜日

猟場の閉鎖

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳

須賀敦子さんはこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか。》と。(『遠い朝の本たち』)

おそらく多くの人はこのようなのだろうし、それは生活していく上では(食べていく上では)ある程度は止む得ないともいえる。

かつて仏国では、法科と医科の学生は、ここでいう「敗北者」たちであったと読める文をレヴィ=ストロースは書いているが、現在の日本ではどうだろう(もっとも晩年のレヴィ=ストロースが、体制のなかにちゃっかり座りこんでいなかったか、といえばそれも疑わしいーー参照「共感の共同体」)。

文科と自然科学の学生? 教員たち? 子供っぽい世界に留まりたいと願う連中、とレヴィ=ストロースは書いているが、これも現在どんな具合なのか知るところではない。彼らのなかに有能な専門家もいるには違いない。そして、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)であるだろう。

しかしながら、彼らのすべてが共同体の「体制主義者」であったり、隠れ体制派ばかりでもあるまい。
大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)

…………
一九二八年頃には、様々な学科の一年目の学生は、二つの種類というより、ほとんど別個の二つの人種と言ってよいようなものに分けられた。一つは法科と医科の学生で、もう一つは文学と自然科学の学生である。

外向的と内向的という言葉は、およそ陳腐ではあるが、恐らく、この対照を表現するには最も適当であろう。一方には、「若者」(民俗学が伝統的に、この言葉を年齢階級の一つを指すのに用いているような意味での)、騒々しく無遠慮で、およそ最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡ろうと心を砕き、政治的には極右(その時代の)を指向している「若者」。そしてもう一方には、今からもう老け込んでしまった青年たち、慎重で、引っ込み思案で、一般に「左傾」しており、彼らが成ろうと努めているあの大人たちの仲間に今から数えられるべく、苦行している青年たちがあった。

この差異を説明するのは、それほどむずかしいことではない。第一の、一定の職務を遂行する準備をしている青年たちは、学校というものもこれで終りであり、すでに社会の機能の体系の中で占めるべき地位を確保されていることに、彼らの言動によって凱歌をあげているのである。リセの生徒という未分化の状態と、彼らがそれに就くことを予定されている専門化した活動との中間の状況に置かれて、彼らは自分たちを欄外余白のようなものとして感じており、一方の条件にも他方の条件にも適合する、矛盾した特権を要求するのである。

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。(……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。(……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』Ⅰ 川田順造訳 p77-79)


この二つのカテゴリーのひとたちが、たとえば「危機」の際、役立たずであったにしても、在野の「知識人」やら「芸術家」がいるではないか。

あたかもそれが内的な感受性の繊細さを証拠だてるものであるかのように、彼は外的な葛藤を内的な不幸としてしか体験していない。(……)芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序(……)。知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。

……それにきまって顔をしかめてみせる一部の知的=感性的な特権者たちの拒絶反応とによって支えられた政治的な秩序(……)。距離をとろうとする意識が口にさせる「紋切型」に無自覚な者たちをこれまで凡庸の一語で呼んできたが、○○は、まさしくそうした凡庸さをきわだたせる現象にほかならない。いささかの軽蔑をこめて顔をそむける知識人や芸術家の居心地の悪そうな表情そのものが、○○にはなくてはならぬ情景ですらあるわけだ。それが、あたりを埋めてくれる無表情な群衆とともに、この国家的な行事を活気づけてさえいるのである。(同上)


《……職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(中野重治「芸術家の立場」)

ーーこう引用して、柄谷行人は次のようにかつて書いた。

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。(……)

しかし、中野のいう「芸能人」は、べつに1950年代後半以降の新しい現象ではない。むしろ、芸術家や知識人は、それがあらわれたときすでに中野のいう「芸能人」のような存在だったというべきなのである。べつに芸術を実現しているわけでもないのに、「芸術家」と名乗る人たち。「知識」を追求しているわけでもなく、そのことを指摘されれば、実践が大切であり大衆に向わねばならないという人たち。そして、大衆から孤立しているが、その理由が大衆の支持を最も必要とするからにすぎないような人たち。こういう種族がもともと知識人や芸術家なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」)

もちろん、そんな連中ばかりではない、という錯覚にわれわれは閉じこもる必要がある。それでなければ、危機の際、下り坂を転げ落ちるしかない。

現代には、ある種の諸力がみなぎっていることは確かである。それも莫大な量の力であるが、しかしそうした諸力は、野放しの衝動的な力であり、まったく荒々しい直情径行的な力なのである。人々は、まるで地獄の厨の釜をのぞき込むときのような怯えた目つきで、不安そうにそれらの力の動静をうかがっている。いつなんどき沸騰して、爆発し、恐るべき災厄を予告するかわからないからである。(……)

諸個人は、あたかも自分がそんな不安や懸念などまったく知らぬかのようにふるまっているけれども、そういう事実のせいでわれわれの眼がくらませられることはありえない。彼らの不安そうな落ち着きのなさを見ると、どれほど彼らもそのような懸念に影響されているかがよくわかる。彼らはこれまでいかなる時代にも見られなかったほどの性急さと、一種の排他主義で、私利私欲のことばかり気にしており、たとえば建築したり、作づけしたりする場合でも、それはもっぱら自分のためであって、また将来のことを念頭においてはおらず、目先のためでしかないのである。幸福という獲物を求める狩は、その獲物を今日か明日のうちに捕らえねばならぬとしたら、そういう場合ほど性急でせわしない狩となることはないだろう。というのも明後日に、猟場が閉鎖されてしまうと予告されているのだから。われわれが生きているのは原子の時代、原子のひしめく混沌の時代なのである。(『反時代的考察』――ドゥルーズ『ニーチェ』より 湯浅博雄訳)

ーーさて、いささか「偽善的」な引用から、以下は、「偽悪的」な語りに移調することにする。



あれら巷間に渦巻く「芸能人」的お喋りは、明日の猟場の閉鎖を観念しているせいじゃあるまいな?

「芸能人」とは、徹底した観客重視の態度を恥じない人物たちのことだぜ

受けねらいも生活するには大事だろうよ、人文学の危機の時代らしいからな

それとも単なる自己顕示欲の変形であり、虚しい社交的慰戯の一様態かい?


日本の情報ってのは、最近はツイッターぐらいでしか見ないのだけれど、人間観察にはいいねえ

新種の「人間園」って感じだな

一九世紀の動物園設立に先立って精神病院の見物が一八世紀都市住民の日曜日の楽しみであった(“人間園”)としても、これにも一つだけよい点、すなわち精神医療を公衆の目にさらすところがあり、精神病院をめぐる忌まわしい事件、とくに遺産横領のために相続人を病院に入れる事件は、むしろ一九世紀の特徴である。(中井久夫『分裂病と人類』)

最近の若い研究者が、いまだ大好きらしい、ドゥルーズやらデリダ、最近ではポール・ド・マンも復活らしいが、残念だな、同時代的な思想家がいなくて。


かつて三十代の浅田彰が同時代の思想家たちと軒並対談したわけだがーージジェク、サイード、ボードリヤール、バラード、ヴィリリオ、リオタール、フクヤマなど(対談集「歴史の終わり」と世紀末の世界』)、そんな試みは今はないのかね。相手がいないってわけかい? それとも目立たないだけで、だれかがどっかでやってるのかね

もっともこの対談は、「冷戦終結」という議題があった時期で、出版社による企画だったのかもしれないけれど。いまでも、議題がないわけでもないだろう、たとえばジジェクは四つ挙げている。

歴史的現実のなかに、この[コミュニズムの大文字の]〈概念〉を実践に写すよう強く働きかける敵対性の存在を位置づけなければならない。……

そのような敵性は四つある。①迫りくる環境破壊の狂気。②いわゆる「知的所有権」に関連した知的財産についての不適切な考え。③とりわけ遺伝子工学などの 新しい科学テクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味。……④新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム。

最 後の特徴――〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップ――は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶ もの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体の別の側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってし てでも抵抗しなければならない。(スラヴォイ・ジジェク 『ポストモダンの共産主義』

このなかでの、とくに「新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム」ってのは、いやでも目に付くわけでね。


ーー浅田彰はそれぞれの専門分野の人たちから微細な批判はあるにしろ、やっぱり特別な才能だった(過去形でいうのはマズイのかもね)ということで諦めているわけでもあるまい?

対談でも言ったことだが、わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。相手方のパスを遮断して自分のものにしたボールを、すばやくジグザグにドリブルし、一人、二人、三人と抜き去って、いきなり鋭く長いパスを出す。このパスがなかなか一筋縄で行くような代物ではない。俊足をもって鳴るフォワードの面々も、まずたいていのところは追いつけず、シュートの機会を空しく逃してしまう。浅田氏は無表情のまままた新たにボールを追いはじめるが、なぜあれに追いつけないのか、あれに追いつけないかぎりシュートの機会など永遠にめぐってくるまいと、内心ではチッと舌打ちしているに違いない。一方、フォワードはフォワードで、いきなりあんなところに蹴り出されても困る、そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない。

ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。

四方田犬彦や伊藤俊治と雑誌『GS』を始めたとき、浅田氏はまだ二十七歳くらいだったはずである。「ニューアカ」などと蔑称される二十年前の知的風土は、なるほど軽薄と言えば軽薄、卑俗と言えば卑俗であったが、しかしそこには少なくとも、大学をもジャーナリズムをも巻き込んで制度に幾つもの風穴を開け、そこから新鮮な風を呼び入れようという勢いだけはあった。手堅い研究発表で業績を稼ぎいい子、いい子と褒められたいなどとは彼らの誰も思っておらず、ただ華麗なゲームを組み立てて満場の観客を唸らせたいという野心にのみ突き動かされ、ときにいかがわしい香具師や曲芸師を演じることも恐れずに、とにかくフィールドの端から端まで度胸よく、全力疾走しつづけていたのである。

浅田 彰の衣鉢を継ぐ攻撃的ミッドフィールダーが若い世代から出てくるべきだと思う。むろん、往時と今では様々な条件が異なっていることはわかっている。これまでにないような陰鬱な閉塞状況があたりを覆い尽くしているのに、それを閉塞とも逼塞とも感じさせない巧緻な力学が働いて、若い世代を萎縮させている。社会は大学に目先の有用性のみ求め、人文科学は徹底的に馬鹿にされている。浅田氏自身誰も拾ってくれないパスを出しつづけることにいささか倦んで、後退戦に入りかけているようにも見える。だが、だからこそ、である。こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。

対談で浅田氏は、翌日に予定された研究発表パネルの要旨を見るかぎり、既成のパラダイムの中で動いているにすぎないという印象を否めない、という趣旨の発言をされたが、これもまた彼の出した攻撃的なパスの一つなのではあろう(「攻撃的」というのは敵に対してのみならず、味方に対してもということだ)。ただ、このボールを受けてくれる味方のプレーヤーは誰もいまい、いるはずがあるまいという諦念とともに蹴り出された、やや自棄的なパスのようにわたしには感じられた。

現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。(対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)「人文知の現在」

ーーということで、「何ができるだろうか」と言いっ放しで、諦めたせいでもあるまいが、松浦寿輝は東大早期退職しちゃったけど

ジジェクやバティウは古すぎるのか過激すぎるのか、ひょっとして訓詁学に専念していて同時代的すぎるのか、あるいはコミュニズムを敬遠しているのかはしらないが、ナンシーやらアガンベン、ダマシオ、デュピュイやら(古い名前しかあがってこない「知識」しか持ち合わせていないが)、あるいはメイヤスーやマラブーが何を言っているのか知らないけれど、この比較的新しい名の人物だっていい、彼らと対談してみようとする日本の「優秀な」研究者ってのはいないのかね。

メイヤスーは確かに興味深い哲学者だが、彼自身がまだ1冊しか本を出していない段階で英語のメイヤスー論の単著(Graham Harman,”Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making”)まで出るという状況は異常だろう。フーコーやデリダの時代に英米の大学で「フレンチ・セオリー」が流行した、ところが巨匠たちがどんどん去っていくなか、残ったバディウが異常に有名になり(他方、フランスでも遅まきながらスラヴォイ・ジジェクの影響が強まって、その線でバディウが浮上しもした)、その弟子も英米の学者たちが先物買いでもてはやしてるという感じではないか。(浅田彰「メイヤスーによるマラルメ」

訓詁学も専門家のみなさんには必要なのだろう、それに、《彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ》って振舞いは最近は得意らしき研究者もいるし、尊重しなければならないがね

或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて、難問の箭を放ちました。何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大に窘められたのでしたが、余り窘められたのでやがて昂然として難者に対って、「僕は読書ただ其の大略を領すれば足りるので、句読訓詁の事などはどうでもよいと思って居る」など互に鎬を削ったものである。(幸田露伴「学生時代」



ところで、きみたちの「大好きな」ドゥルーズは「議論」と聞けば、逃げ出したらしいぜ

It took me some time to learn this, but I think that I truly became a philosopher when I understood that there is no dialogue in philosophy. Platos dialogues, for example, are clearly fake dialogues in which one guy is talking most of the time and the other guy is mostly saying ‘yes, I see, yes my God it is like you said — Socrates, my God that’s how it is’. I fully sympathise with Deleuze who said somewhere that the moment a true philosopher hears a phrase like ‘let’s discuss this point’, his response is ‘let’s leave as soon as possible; let’s run away!’ Show me one dialogue which really worked. There are none!”
―――Slavoj Žižek in Conversations with Žižek

まあ、なんでもいいが、きみたちの好きな思想家なり文学者なりが、SNSなどで、すこし調べたら済むような紹介やら、内輪で論文の褒め合いやら、夜郎自大の承認欲求の劇を演じるものかどうか、たまには振り返ってみたらどうだい? きみたちの振舞いが彼らにどう映るのか、と。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

そうだな、紹介しあうのも、新蛸壺社会が進化しているのだったら、あながち無駄とはいわないけれどね、--《「紹介書評」は初歩的書評のようであるが、人々が日々関心を持つ世界が狭くなり、「新タテ社会」といおうか、多数の書が出版されつづける現在では非常に有用である。》(中井久夫ーー「ただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退く」より)

…………

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』


これを似非能動性とジジェクは呼んでいるのだが、どうせ能動的になるなら、次の「能動性」にしろよな。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(「構造主義とポスト構造主義」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』黒田昭信訳)


強迫神経症者なんて、いまはめったにいないのかね

ラカン派によれば、二十世紀の「神経症」の時代から、二一世紀の「ふつうの精神病」やら「ふうつの倒錯」の時代らしいからな

ひょっとして、きみたちは新種のパラノイアじゃないかい? 

あるいは旧式の執着気質者として復活したのかね、小破局の再建者として。


かりに執着性格者のみからなる社会を想定してみるがよい。その社会が息づまるものであるか否かは受け取る個人次第で差があるだろうが、彼らの大問題の不認識、とくに木村のpost festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起すおそれがあるーーこの小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』)

どこの海に溺れたいのかい?

戦争の海だけはやめとけよな

それとも隠れ戦争主義者ってわけかい?

こうやってウェブにお世話になってるわけだからな、きみたちもこのオレも

つまりアメリカの国防総省のエリートたちが軍事費で作り出したインターネットのおかげで

自在な夜郎自大を誇ることができるってわけさ


※追記:中井久夫は「執筆過程の生理学」という小論(『家族の深淵』所収)にて、下記のように書いている。編集者の役割、あるいは能力の衰退がいわれる中で、書き手たちのSNS上でのやり取りが、このような呟き合いであるならば、あながちつねに非難されるものでもないとしておこう(この論で、中井久夫が「自由連想」、「抵抗」あるいは「徹底操作」という語彙を使用しているのは、もちろんフロイトの『想起、反復、徹底操作』からのものである)。

ある程度本格的な企画の場合に、初期高揚だけで完成することは決してと言ってよいほどない。しかし、この時期に「パレット」をできるだけ充実させておくことがずっと後で生きてくる。「パレット」の充実には、聞き手がいるとずっと楽である。独りでは限界がある。ここにも一つ、編集者の「治療」の有用性がある。

これは、「自由連想」をさせて、「抵抗」を破って、「徹底操作」をして「洞察」に到達せしめる精神分析治療に似た過程であると私は思う。「自由連想」とは編集者との駄べりである。

「自由連想」は、主題やキーワードの持つ意外な側面を明らかにし、新しい可能性を開く。著作というものは、発端に立った時に終点まで見通せる直線道路のようなものではない。そういうものであれば、おおよそ詰まらないものだろう、予期外の転回に引かれて読者は読み進むものである。「自由連想」によってこれから書く領域の思わぬ複雑なひだひだが見えてくれば成功である。

「抵抗」にはいろいろある。怖い批評家の言葉の先取りもある。従来の自説が足を引っ張ることもある。ある箇所がとうてい越せない難所に見えることもある。ある部分についての知識が絶望的に欠如していると思うこともある。これらは、みな「抵抗」である。しかし、対話のうちに、難所もさしたるものでないようにみえてくる。ある部分は回避してもよいことがわかる。あるいは違った接近法がよいと知れる。このように「抵抗」を言語化し吟味することが「徹底操作」である。そうすると、この課題でこのようなものなら著者にもできるという、「現実原則」に則った「洞察」が生まれる。この手続きなしで、編集者が「ま、よろしくお願いします」で引き下るとロクなものができない。

編集者は地方にはいないが、その代わり、さいわい、私は大学教師で、周囲に若い人がいる立場にあるので彼らを大いに利用させてもらっている。私のほうが聞き役になることもむろんある。






2013年7月18日木曜日

アンドレ・ブルトンとその女たち


自由な結合(抜粋)  アンドレ・ブルトン (松浦寿輝訳)

わたしの女の 森の火事の髪の毛
熱の閃光の思念
砂時計の胴
わたしの女の 虎の歯と歯の間のかわうその胴
わたしの女の 最下等の大きさの星々のリボン飾りと花束の口
白い地面の上の白い鼠の足跡の歯
こすられた琥珀とガラスの舌
わたしの女の 短刀に突き刺された聖体パンの舌
眼を開け閉じする人形の舌
信じられない石の舌





《私は誰か? 珍しく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか?》(アンドレ・ブルトン『ナジャ』巖谷國士訳)


さて、表題はアンドレ・ブルトンと彼の女たちなのだが、まずはいささか寄り道して、レヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトンの亡命船のなかでの有名な出会いの箇所をその前後をふくめて『悲しき熱帯』から抜き出す。







《マルセーユの港で耳にした話から、私は、一隻の船が間もなくマルティニックに向けて出発するはずだということを知った。ドックからドックへ、密談の交わされている場所から場所へと渡り歩いて、私はついに、問題の船は、それに先だつ数年間、ブラジルへのフランスの大学使節の人々が忠実な乗客としてほとんど独り占めにしていた、あの「海洋運送会社」の船であるということを突き止めた。冬の北風の吹いている一九四一年の二月、私は、暖房もなく七分通り閉鎖されている事務所で、かつて会社からいつも私たちのところへ挨拶に来ていた職員を見つけた。まさしくあの船はいた。そして、あの船は出航しようとしているのだ。それなのに、私は乗ることができない。なぜ? 私には納得が行かなかった。彼は私に説明できなかったーーもう、前のような船旅はできないでしょう。それなら、どんなふうになったというのだ? ああ、それはたいへん長くて苦しい旅ですよーー彼は私のことを、そんな状態で想像してみることもできなかったのだ。

この気の毒な男は、かつてフランス文化の小型大使であった私を、まだ思い浮かべていたのであろう。一方私は、もう自分が、強制収容所の獲物になったように感じていた。(……)相手の気遣いは、かえって私を困惑させた。私は広々とした海の上で、当てもなく彷徨う自分という存在を取り戻すことを想ってみた。密航船に乗り込むという冒険に投げこまれた一摑みの水夫たちと、作業や粗末な食事を分け合うことを許され、甲板に眠り、来る日も来る日も海と何の気がねもなく差し向いで暮らす、そんな私の存在を想ってみた。




ついに私は、「ポール・ルメルル大尉号」の切符を手に入れた。乗船の日、鉄兜をかぶり、軽機関銃を握りしめた機動部隊の兵士が埠頭を取り巻き、乗船者は、見送りに来た近親や友人たちからまったく遮られ、兵士たちの小突かれたり怒鳴られたりしながら、別れの言葉もおちおち交わしてはいられなかった。その兵士たちの人垣をくぐり抜けながら、ようやく私にも事態が吞み込めてきた。そこに始まろうとしていたのは、まさしく乗船者一人一人の孤独な冒険であった。それはむしろ、徒刑囚の出発というべきものであった。私たちの受けた取扱いよりも、乗船客の人数に私は唖然としてしまった。というのは、まもなく気付いたのだが、二つの船室しかなく、簡易ベッドが合計しても七つというこの小さな蒸気船に、およそ三百五十人もの人間が詰め込まれようとしていたのだから。二つの船室の一つは三人の婦人に当たられ、他の船室は四人の男性に割り振られることになったが、そのうちの一人に私もはいっていた。かつての豪華な船の客の一人が、家畜のように運搬されるのを見るに耐えなかったB氏(私はここでB氏に感謝したい)の好意によるものであったが、これは過大な好意というべきであった。なぜなら、私と一緒に乗船した他の人たちは、男も女も子供も、通風も悪く明りもない船艙に詰め込まれたからである。そこには、大工が俄造りで組み立てた、藁布団付きの、何段にも重なった寝台があった。(……)

          (André Breton and his daughter Aube, c. 1940)


「賤民ども」――憲兵はそう呼んでいたがーーの中には、アンドレ・ブルトンやヴィクトール・セルジュも含まれていた。この徒刑囚の船をひどく居心地が悪く感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板に空いている極めて僅かの部分を縦横に歩き回っていた。毛羽立ったビロードの服を着た彼は、一頭の青い熊のように見えた。彼と私とのあいだに、手紙の遣り取りによって、その後も続いた友情が始まろうとしていた。手紙の遣り取りは、この果てしない旅のあいだかなり長く続いたが、その中で私たちは、審美的に見た美しさというものと絶対的な独創性との関係を論じた。

(……)熱帯に近づくにつれて増してゆく暑さが、船艙にいることを耐え難くしたので、甲板は次第に、食堂と寝室と育児室と洗濯場と日光浴場とを兼ねたものに姿を変えて行った。しかし、最も不快だったのは、軍隊で「衛生管理」と呼ばれているものであった。甲板の欄干に沿って左右対称に、左舷は男性用、右舷は女性用として、乗組員が木の板で喚起窓も灯りもない二対の小屋を拵えておいた。小屋の一つには、朝だけ水が出るシャワーの口が幾つか取り付けられていた。もう一つには、内側だけざっとトタン張りになった長い木の溝が、海の上に突き出ていたが、その用途は説明するまでもないであろう。このあまりにひどい混雑に耐えられず、大勢そろってしゃがむことがどうしても嫌ならばーー第一、それは船の横揺れのために不安定なものだったーー、非常に早起きをする以外に手立てがなかった。航海のあいだじゅう、感覚の細やかな人々のあいだに一種の競争が行われるようになり、遂には、午前三時に行かなければ比較的静かに用を足すことを期待できなくなった。おちおち寝てはいられないようにさえなった。二時間くらいのずれはあったが、シャワーについても事情は同じであった。シャワーに関しては、用便の場合のような羞恥心の配慮からそうなったというより、人混みの中に自分の場所を取ることが先決だったのである。もともと少ししかない水は、大勢の湿った体の触れ合いで蒸発してしまうかのように、膚に流れて行きさえしなかった。用便もシャワーも、人々は早く済ませて外へ出ようとした。なぜなら、これらの通風孔のない仮小屋は、切ったばかりで樹脂の出る樅の木の板で作られていたが、汚水や尿や海の風が染み込んだために、太陽の下で、なま暖かくて甘酸っぱい、吐き気を催させるような臭いを放ちながら腐り始めていたからである。その臭いは他の臭気に加わって、たちまち耐え難いものになった。とくに、海にうねりのある時はそうだった。》(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』「船で」P17-P23 川田順造訳)


「賤民ども」の中には、アンドレ・ブルトンがいた、とある。だが当時のブルトンの妻子、ジャクリーヌとオーブはどうだったのか。一緒に米国への旅に加わったのか、という問いから、いくらか調べてみる。ジャクリーヌがユダヤ系であったかどうかは不明。だが娘はユダヤ系であるには相違ない。

Escape lines and aid to refugees are now considered the first resistance activities in Marseille, though not so much political and ideological as humanitarian. From mid-August 1940, American journalist VARIAN FRY and his rescue committee (with both official and clandestine activities) helped some 1,500 artists and intellectuals, many Jewish, including André Breton, Claude Lévi-Strauss, Anna Seghers, Arthur Koestler, Marc Chagall and Max Ernst to flee to the USA. (Marseille - the first Capital of the Resistance)



   (ブルトンの二番目の妻Jacqueline Lamba左は若きジャコメッティ)



《1941 年にブルトンはアメリカに向かうことになるのだが、 この時はジャクリーヌとオーブ(娘)も同行している。ところが 1941 年の秋には、ブルトンとジャクリーヌは別居することになる。そして 1943 年の夏にジャクリーヌはアメリカ人の彫刻家であるデヴィド・ヘアと生活を共にするようになる。このような状況の中、1943 年の 10  10 日頃にブルトンはレストラン・ラレーズでエリザと知り合うことになる。


                    (Elisa Claro, retrato de Jorge Opazo 1940)


1944 年の 3  8 日にブルトンはパトリック・ワルドバルグに手紙を書いているのであるが、その中で秘法 17 番について本を書こうとしていること、その中でモデルとして自分の好きな女性を取り上げるとしているのであるが、その女性こそエリザであり、ブルトンにとって第三の妻となるのである。ブルトンとエリザは共にヴァカンスを過ごしたりするのであるが、この時期ブルトンは『秘法 17 番』を書き、1945 年の 6 日にはエリザにこれを捧げている。この時期においてブルトンとエリザは実質的には夫婦同然であったと思われるが、アメリカにおいては法的に結婚していないことでの煩わしさもあったようで、離婚と結婚という手続きをとることに決め、1945 年の 7  30 日、ジャクリーヌと離婚し、 エリザと結婚している。》(アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスム的 エクリチュールと女性たちの関係  加藤彰彦より)


“waking dream”, séance de réve éveillé photographed by man ray, 1924
seated: simone breton(Simone Kahn), left to right: max morise, roger vitrac, acques-andré boiffard, andré breton, paul éluard, pierre naville, giorgio de chirico, philippe soupault, jacques baron & robert desnos



《……実はナジャと出会ったころのブルトンは妻のシモーヌとうまく行っていなかったようである。シモーヌ・カーンとは一九二〇年七月に出会って二一年九月十五日に結婚した。ブルトン二十四歳。

      (ブルトン第一番目の妻シモーヌ・カーンSimone Kahn)


それから六年、どうやら倦怠期だったのか、ナジャは単なる風変わりな娘ですんだが、一九二七年の末頃にシュザンヌ・ミュザールに出会って激しい恋に落ちた。シュルレアリスムのグループも分裂と再編成がはじまる時期である。『ナジャ』の最後の美に関する考察はどうやらシュザンヌに首ったけになっている時に書かれたようだ。(……)》




    シュザンヌ・ミュザールSuzanne Muzard, マン・レイ撮影)


《しかしシュザンヌには、一九三〇年九月、三年足らずのつき合いであっさりと捨てられた。ブルトンはかなりショックだったらしい。一九三四年五月、ジャクリーヌ・ランバと出会い、八月にはめでたく結婚にこぎつけた。》




(Leon Trotsky, Diego Rivera, and André Breton,Jacqueline Lamba, Mexico, 1938)



結局、娘オーヴをもうけたジャクリーヌとも一九四五年六月に離婚し、エリザ・クラロ(Elisa Claro)とアメリカのネヴァダで結婚した。四十九歳、……。

ーーポンピドゥ・センターの『アンドレ・ブルトン』展図録(一九九一年)より。(「美は痙攣であるかないか」より)





《Kahlo did have some material as well as artistic and personal connections with the French Surrealists. André Breton and his wife Jacqueline Lamba, with whom Kahlo had an intimate love affair, were among the French Surrealists that she encountered. Whilst on a trip to Mexico, Breton invited Kahlo to France to exhibit her work to the European artistic fraternity and general public but, taking up the invitation, she found upon her arrival that nothing had been organized by Breton and it was only with Marcel Duchamp's help that the exhibition went ahead.》 (Carpentier, 1949 Frida Kahlo: An Artist 'In Between' Anna Haynes (Cardiff University)






《ブルトンを初めとするシュルレアリストたちは、自分たちの集まる場所をシュルレアリスム本部と呼んでいたのであるが、この本部には様々な人が訪れていて、その中にオールド・イングランドの経営者と離婚したリーズ・メイエ(リーズ・ドゥアルム)がいた。アンリ・ベアールによると、 「あまりにも感受性が強すぎる男性たちを悩ませるというあだっぽい女性たちが持つこの才能でもって、 リーズ メイエはブルトンを手玉にとり、 それで彼はうろたえてしまう。 」》(AB p.195)



           (Lise Meyerリーズ・メイエ)


《アンリ・ベアールによると、 「まさに誘惑そのものであり、 ブルトンにとってリーズ・メイエは永遠にシバの女王であるだろう。 (AB p.195) ということであるが、ブルトンのテキストの中に彼女の存在を具体的に物語る記述を見出すことはできない。

この次に現われるのがナジャであって、(……)経緯としては次のようなものである。1926 年の 10 4 日にブルトンはナジャと出会うことになり、10 13 日まで毎日会うが、それ以降は間隔があくことになる。1927 年の 2 月中旬には、 ナジャとの関係が中断する。 そしてこれ以降は 『ナジャ』 の執筆へと至るわけである。





ここにおいて明らかなことは、ナジャのことでブルトンは翻弄されるとか思い悩むということはあまりなかったのではないかと思われることだ。むしろブルトンは既に言及したリーズ・メイエに翻弄されていて、 1927 年の秋頃には彼女との関係を断ち切っている。 これはブルトンが愛情を注いでいるにも拘らず、それを台無しにしてしまう彼女の意地悪さと無理解が原因であるらしい͈͑。》(K)




リーズ・メイエ Lise Meyer (旧姓イルツ Wirtz )と名のっていた頃の「手袋の貴婦人 dame au gant 」にブルトンは夢中になり、彼女に軽くあしらわれていると分かってさえも、なおブルトンは自分の熱烈な愛情を彼女に表明した。

しばらくシュルレアリスムの影の女王とみなされ、彼女の雑誌『ヌイイの灯台 Le Phare de Neuilly 』(1933年)にはデスノス、ヴィトラック、クノーら運動の離反者を迎え入れたにもかかわらず、どんな騒ぎもおこすことはなかった。
アルトーとはとくに親密で、彼女は最大限の援助をした。(リーズ・ドゥアルム Lise Deharme 1898-1980)



《『ナジャ』の第一部を雑誌で発表したのが 1927 年の秋であり、直前にはシモーヌとの関係の悪化、リーズ・メイエとの関係の断絶があったわけであるが、この『ナジャ』の発表の後 11 月にはシュルレアリストたちが集まるカフェでシュザンヌ・ミュザールと出会い、お互いに惹かれ合うことになる。当時シュザンヌは雑誌の編集長でもあった。


       (André Breton et Suzanne Muzard rue Fontaine)

エマニュエル・ベルルの愛人だったのであるが、ブルトンとシュザンヌは二人で南フランスに出かけている。12 月半ば経済的事情もあり、二人はパリに戻り、シュザンヌはベルルとよりを戻すのであるが、ブルトンにしてみればシュザンヌは離れてしまったわけではないという意識がある。このあたりのことは具体的ではないながらも『ナジャ』の第三部において書かれていて、シュザンヌは「君」という呼びかけのもとブルトンにとって唯一無二の女性として表現されている。(……)
  
1931 年の初めにはブルトンはシュザンヌと決定的に破局することになるわけだが、 これは主としてブルトンの経済的問題があって、シュザンヌがそれに満足できなかったためらしい。》





《1934 5 29 日にブルトンは第二の妻となるジャクリーヌ・ランバと出会うことになる。第一章においては、実際の妻であるシモーヌの他に数々の愛人が存在し、ブルトンは本当のところ誰に愛情を注いでいたのかよくわからないといった具合であったが、このジャクリーヌとの関わりが始まってからは、少なくとも資料によれば他に愛人がいたということはないようである。ブルトンはジャクリーヌに頻繁に手紙を出し、また実際に会ってもいたわけで、彼女との関係は密接なものになっていく。 そして 1934 年の 8 14 日に二人は結婚することになる。 このことについては、 ブルトンは『狂気の愛』の中において明らかにしていることは既に指摘した通りである。1934年の 10 月には『水の空気』を刊行するのであるが、これはジャクリーヌに向けて書かれたものであることがわかる。ただそれは様々な状況から判断した上でのことで、それらを抜きにしてテキストからだけでそれを判断することは不可能である。つまりそこには一般的なものとして昇華された愛が表現されているということなのである。ブルトンとジャクリーヌの関係は順調であったようで、楽しく過ごしている様子が窺える。1935 年の 10 20 日には、娘のオーブが生まれる。ところが 1936 年になると、ブルトンとジャクリーヌの関係は悪化し始める。

               (Jacqueline Lamba und Frida Kahlo 1938 in Mexiko)



突然不和になり、ジャクリーヌはフォンテーヌ通りのブルトンの自宅を出て、田舎に行ってしまうということがある。ところがまたその危機は解消されるといった具合で、ブルトンは終始愛情を注いでいることがわかる。このような不安定な関係はそれ以後も続き、資料によればジャクリーヌとオーブがいつどこで過ごしたかが記されるようになる。つまり家族三人揃って幸せな日々を過ごしたということではないようだ。この不和の原因についてブルトン自身よくわからなかったようだが、 アンリ・ベアールの指摘によれば次のようなことが考えられる。 「国際的な状況が、人民の議論の余地のない圧勝にも拘らず、憂慮すべきであるとすれば、ブルトンのそれもまさに同様である。資金がなく、ブルトンは<美術評論家>の資格で、文部省に援助を願い出なければならなかった。 美術学校の方針で、 ブルム政府就任の当日、 2000 フランの貸付けがブルトンに渡された。それでもって、ブルトンはロンドンに赴き、ロリアンで滞在することができたのである。揉め事がジャクリーヌとの間に生じて、ブルトンはそれらがある種の場所の有害な影響の結果ではないかと自問する。 (AB pp.336-337)》アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスム的 エクリチュールと女性たちの関係  加藤彰彦より)


    (Jacqueline Lamba In Spite of Everything 1942--History of Art: surrealism)



《「ブルトン について本質的なことは」 、 とデュシャンは 私に言う、 「私は彼ほど愛の容量の大きい人 間を知らない。 生の偉大さを愛するもっとも 大きな力。 私たちが、 彼にとっての問題が、 生に対する愛の質、 生の驚異に対する愛の質 そのものを守ることであったことを知らなけ れば、 彼の嫌悪については何も理解できない でしょう。 ブルトンは、 心臓が鼓動を打つよ うに愛した。 売春を信じる世の中にあって、 彼は愛に恋する人だったのです。 彼の特徴は そこにあります」 。》


                 (André Breton et Jacqueline Lamba rue Fontaine)


《アンド レ・ブルトンがマルセル・デュシャンについ て初めて私に話してくれた時、 それはヴァレ リーに関してであった。 「私の目には」 、 とブ ルトンは私に言った、 「1896年、 すなわち私の生まれた年に、 私がほとんどそらんじてい た作品 『テスト氏との一夜』 を刊行したヴァ レリーは、 かつてランボーの周りに形成され えたような神話に固有の威光をまとっている ように映ったのです。 何らかの頂点に到達したとたんに、 作品がいわば作者を 「拒絶」 した のだと言わんばかりに、 ある日突然、 自分の 作品に背を向ける人物という神話」 。 こうし た振る舞いが彼の魅力となっていたのだ。 こ の眩暈を覚えるような光のなかに映し出され たヴァレリーは、 「何年ものあいだ、 若輩の詩人のどんな質問にもいちいち面倒がらずに答 えてくれたのです」 。 とブルトンは私に告白 した。 「彼は私が自分自身に対して気難しく なるようにしてくれました。 私がそうなるのに必要なあらゆる労苦を、 彼はいとわなかっ たのです。 私がいくつかの高度な規律に絶え ず気を配るようになったのは、 彼のおかげで す」 。 「唯一の男は」 、 と彼は付け加えた、 「私 の目からみて今日これほどに重要な唯一の男 は、 マルセル・デュシャンです」 。 そうこうしているうちに、 「裏切った」 のは ヴァレリーであった。 彼は昔の詩に手を加 え、 テスト氏を生き返らせようと努めたの だ。 そして彼がアカデミー・フランセーズに 入会した日、 ブルトンは 「なによりも大切に」 していたその書簡を売却したのである。 何も この幻滅には耐えられなかった。 1914年の戦 争による 「血と愚行と泥とに満ちた下水だめ。 軍隊が話題の中心となっていたこの時代に、 レニエ、 ペギー、 クローデルといった手合い が時流に乗じた栄光の賛歌を歌うのが見られ た」 。 二人の男だけが、 「このウツボの犇く穴 に」 なにがしかの光を射し入れた。 ヴァシェ、 そして 「私は驚嘆させる」 というのをモットー に選んだアポリネールである。 しかしこの重 要な預言者は、 戦争という恐るべき事実を前 にして、 「期待された護符とはまるで違う幼 児期への沈潜」 をもって反応した。 それとは 反対にヴァシェは、 行く手に立ちはだかる一 切を非神格化する徹底的な反抗の 「原理」 を、 言葉と行為によって具現化する 「水晶の鎧」 を 身にまとった存在であり、 「感情の鮮明な角 度と方形を描くダンディ」 であった。》(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノ)ー)http://www.nact.jp/news/pdf/news17_web-1.pdf




ヴァレリーがアカデミー・フランセーズに 入会した日、 ブルトンは 「なによりも大切に」 していたその書簡を売却した、とある(ヴァレリーは、アナトール・フランスの死によって空席となったアカデミー・フランセーズの新会員に迎え入れられた)。

 《「死体よ、ぼくらはおまえの同類どもを愛すまい!」と、二十九歳のエリュアールは書いた。「アナトール・フランスとともに、人間の奴隷根性のいくらかがなくなる。術策、伝統主義、愛国主義、日和見主義、懐疑主義、そして心情の欠如が埋葬されるこの日こそ、祝祭であれ!」と、二十八歳のブルトンは書いた。「くたばったばかりのこの男は[……]今度は煙となって消え去るがいい! ひとりの人間が残すのは僅かなものだ。それでもこの男について、いずれにしろこんな男が存在したと想像するのは憤激にたえない」と、二十七歳のアラゴンは書いた。》(ミラン・クンデラ「明け方の自由 暮れ方の自由」、『カーテン――7部構成の小説論』西永良成訳)




ブルトンは、アルトー、バタイユさえ除名したくらいだ。ましてやアカデミー・フランセーズの会員やら新会員だと?
ブルトンが「シュルレアリスム第二宣言」でアルトーやバタイユ、その他のかつてのシュルレアリストを批判し、除名したことはよく知られている。そのためにブルトンは一生嫌な野郎だと思われ続け、除名された連中がその後も相変わらずあまりにも過激な人たちだったことも手伝って、むしろブルトンのほうこそが独裁者の仮面をかぶった一種の日和見主義者だと悪口を叩かれ続けることになる。言うに事欠いて、ブルトンが日和見主義者だって? 私は十代の頃、アルトーやバタイユほどの人物を除名することのできるグループなんてなかなかイケてるじゃないかと思っていたが、この話はほかのところでもしたので一応置いておくが、ともあれ後世の研究者たちや誰それが、やたら心理主義的に、勿論恥ずかしいことだからご自分の立場とやらを柄にもなく気にしすぎていることをできる限り隠しつつ、とやかく宣(のたま)うような次元の話ではないことだけは最初に言っておこう。(ブルトンとアルトー 鈴木創士

もちろんプルーストも当然のごとく彼らの餌食だろう(いや相手にしてもらえないのか?)

プルーストの小説に出てくるベルゴットはアナトール・フランスがモデルというのが通説である(1899年にアナトール・フランスの希望で娘シュザンヌとマルセル・プルーストとの結婚話が持ち上がったことがあるが、実現しなかった)。

《ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。》(プルースト『見出された時』)


「私の性格の主な特徴 ――愛されたいという欲求、( ……)私が男性に望む特徴――女性的魅力。私が女性において好む長所 ――男のような勇気と、友だちづきあいにおける率直さ。( ……)私の主要な欠点――「意欲する」ことを知らず、またできないこと。( ……)気に入りの散文作家――現在のところ、アナトール・フランスとピエール・ロティ。好きな詩人 ――ボードレールとアルフレッド・ド・ヴァニー。( ……)好きな作曲家――ベートーヴェン、ワグナー、シューマン。気に入りの画家 ――レオナルド・ダ・ヴィンチ、レンブラント。」(プルースト 一八九二年 二一歳 あるアンケートへの返答)

《シュルレアリズム! よせやい! ブルトンのオカルト的な謹厳ぶり …アラゴンの思わせぶりなペテン …アルトーのアンチ-セクシャルな興奮 …バタイユひとりだけが、あの抑圧的ながらくた置場のなかで少しばかりの品位を保っている …とりわけサルトルと比べて …『嘔吐』… まさに打ってつけの言葉だよ …ジュネ… 要するに、性的に見れば何もない …惨憺たるもんだ…<ヌーヴォー・ロマン>? ご冗談を …ない、ない、何も、納得できる女なんてこれっぽっちもない …つまり、無だ… 一冊の本もない …エロティックな意味で、手ごたえのある条りさえひとつもない …》(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

― ーシュルレアリスム。 私にとってそれは、 青春の絶頂のもっとも美しい夢を体現して いた。(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノー)


「ある日、フロールの二階でサルトルがクノーにシュレルリアリズムの何が残っているのかと訊ねた。
《青春をもったことがあるという感じだ》
と彼は私たちにいった。私たちは彼の答えに打たれ、彼を羨んだ。」(ボーヴォワール『女ざかり』下 P193 朝吹登水子・二宮フサ訳)



          (ブルトンと第一の妻シモーヌ・カーン)

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)