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2014年7月16日水曜日

「アンコール」における「サントーム」の図

◆ラカンのセミネールⅩⅩ第八章冒頭にある図式より





・象徴界のリアル化a:対象a(象徴界を発動させる「〈現実界〉における穴」)、幻想の物語が投影されるスクリーン。

・現実界の想像化Φ:享楽を物質化するあるイメージ

・想像界の象徴化S(A/):大他者(象徴秩序)における欠如、その非整合性を意味するシニフィアン、すなわち大他者は閉じた整合的全体としては存在しないことを示す印=現実界の小さな欠片(象徴界の究極的無意味性のシニフィアン)

中心J:享楽の渦巻=サントーム

ーーとはミレール=ジジェクの説明である。


…………

この図式を説明している論はとても少ない。ウェブ上には、ミレール、ジジェク、そしてテヘラン在住のラカン派小説家Shahriar Vaghfipourがわずかに触れているだけだ(Benjamin, Adamite Language and Pastiche Master)。

Shahriar Vaghfipourには、ほかにラカンの愛の定義をめぐる小論”Workings of Love”(美しく簡潔なヴィトゲンシュタイン風の文)がある。


…………


まずジジェクが『斜めから見るlooking awry』にてパトリシア・ハイスミスの小説をもとに、ラカンの概念を説明している箇所の引用。

【ブラック・ハウス】――<対象a>

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。

(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。


【池】――<サントーム>

最近離婚した母親が幼い息子を連れてカントリー・ハウスに引っ越してくる。その裏庭に深くて暗い池があり、そこから奇怪な根が伸びている。だがその池は不思議な力で幼い息子を惹きつける。ある朝、母親は根に絡まって溺死している息子を発見する。失意の母親は園芸業者を呼ぶ。作業員たちがやってきて、根を殺す目的で池じゅうに毒を散布する。ところが毒は効果をあらわさず、根はますます勢いよく伸びていく。ついに母親は、強迫的な決心をかため、斧や鋸で根を切るという作業にみずから取り組む。彼女は、根が生きていて、彼女の行動に反応しているように感じる。攻撃すればするほど、彼女は根の罠に深くはまっていく。結局、彼女は抵抗をやめ、根の魅惑の中に息子の呼び声を聞き、根の抱擁に身をまかせることにする。

これはまさしくサントームの一例である。池は「自然の開いた傷口」、すなわち、われわれを惹きつけると同時に撥ねつける享楽の核である。


【不思議な墓地】―――Φ(通常、象徴的ファルスのマテームだがジジェクはそう書いていないことに注目しておこう)、<現実界>の想像化

オーストリアの小さな町で、地元の病院の医師たちが、助かる見込みのない患者たちに、放射線を使った奇妙な実験をする。どんなことをしても、その赤いぶよぶよしたものの成長を止めることができない。町の住人は、最初は気味悪がっていたのだが、やがてあきらめるようになり、その奇怪なこぶのおかげで町は観光地になり、やがて、その「享楽の芽」をうたった詩が書かれるようになる。

これらの奇怪なこぶを、ラカンのいう<対象a>、すなわち欲望の対象=原因と同じものだと考えるのは理論的に誤りである。<対象a>はむしろ、パトリシア・ハイスミスの別の作品に出てくる「ブラック・ハウス」のようなものである。つまり、<対象a>それ自体はごくありふれた日常的な物であるが、「<物自体>の地位に引き上げ」られたとたん、一種のスクリーンとして、つまり主体が自分の欲望を支えている幻想を投射できるような空っぽの空間として機能しはじめる。われわれはこの<現実界>の剰余に突き動かされて、享楽との最初の外傷的な出会いを繰り返し何度も物語る。「ブラック・ハウス」の例は、<対象a>が純粋に形式的なものであることを明快に示している。それは空虚な形式であり、誰もが自分の幻想でそれを埋めることができる。

それとは対照的に、オーストリアの小さな町の墓地に生えてきたこぶは、あまりにもありありとそこに現前していて、ある意味で、形式のない内容であり、その内容はその大きな不活発な存在性、つまり気持ちの悪いぶよぶよした塊を、われわれに押しつけてくる。

この両者の対立の中に欲望と欲動の対立を見てとることは難しくない。ブラック・ハウスのような<対象a>は、われわれの欲望を発動させる到達不能な剰余の空無に名前を与えるが、一方、池が例証しているものは不活性な対象、すなわち欲動がそのまわりを巡回している享楽の具現化である。欲望と欲動の対立はまさしく次のような事実の中にある。すなわち、欲望は定義からしてある弁証法に囚われており、いつでもその対立物に変わりうるし、一つの対象から別の対象へと横滑りしうる。欲望はその対象と思われるものを絶対に目指さず、つねに「何か他のものを欲する」のである。それに対して、欲動は、不活性的であり、弁証法的な運動に巻き込まれることに抵抗し、その対象のまわりを巡回する。その対象は、欲動がそのまわりで脈動している点に固定されている。

It would, however, be a theoretical mistake to equate these strange protuberances with the Lacanian objet petit a, the object-cause of desire. The "object small a" would be rather the "black house" in another Patricia Highsmith story (cf. chapter 1): a quite ordinary, everyday object that, as soon as it is "elevated to the status of the Thing," starts to function as a kind of screen, an empty space on which the subject projects the fantasies that support his desire, a surplus of the real that propels us to narrate again and again our first traumatic encounters with jouissance.The example of the "black house" demonstrates clearly the purely formal nature of the "object small an\ it is an empty form filled out by everyone's fantasy. In contrast, the protuberances at the Austrian cemetery are almost too present, they are in a way a formless content forcing upon us the massive, inert presence, their nauseous, glutinous bulk. It is not difficult to recognize, in this pposition, the opposition between desire the object small a names the void of that unattainable surplus that sets our desire in motion, while the pond exemplifies the inert object, the embodiment of the enjoyment around which the drive circulates. The opposition between desire and drive consists precisely in the fact that desire is by definition caught in a certain dialectic, it can always turn into its opposite or slide from one object to another, it never aims at what appears to be its object, but always "wants something else." The drive, on the other hand, is inert, it resists being enmeshed in a dialectical movement, it circulates around its object, fixed upon the point around which it pulsates.

しかし、この対立ですら、われわれが精神分析において出会う対象の幅をすべて網羅しているわけではない。第三の、おそらく最も興味深い対象があり、それは右に述べた欲望の対象と欲動の対象の対立を擦り抜ける。そうした対象は、たとえば、パトリシア・ハイスミスの『ボタン』におけるボタンのようなものである。


【ボタン】―――S(A/)、<現実界>の小さなかけ


マンハッタンに住む一家にダウン症の子どもいる。小さくて太ったその障害児は何一つ理解することができず、ただぼうっと笑っていて、食べ物を吐き出す。父親は、このダウン症の子が生まれてからかなり経っていても、その子に慣れることができないでいる。彼にはその子が、無意味な<現実界>の闖入、神あるいは運命の気まぐれ、まったく身に覚えのない罰としか思えない。その子のクックッという声は彼に毎日、世界の非整合性とまったくの偶然性、すなわち究極的な無意味さを想起させる。ある晩遅く、彼はその子に(そして、嫌悪感を抱きながらも自分の障害児に対してなんとか愛情を抱こうとする妻にも)辟易して、人気のない通りを散歩する。暗い角で、彼は酔っ払いとぶつかって、取っ組み合いの喧嘩になり、運命の不公平にかねてから抱いていた怒りが爆発して、その酔っ払いを殺してしまう。気がつくと、彼は酔っ払いが着ていたオーバーから取れたボタンを握りしめている。だが彼はそれを捨ててしまわずに、いわば思い出の品として取っておく。それは<現実界>の小さなかけらであり、運命の不条理を思い出させるものであると同時に、自分が少なくとも一度は、運命に劣らず無意味な行為によって運命に復讐できたという事実を思い出させるものである。そのボタンのおかげで、以後、彼は癇癪を起こさなくなる。それは、彼が障害児を抱えているという辛い日常生活と折り合いをつけていけることを保証する、いわばお守りのようなものである。

このボタンはどのような働きをしているのか。<対象a>とは違って、このボタンにはなんらかの換喩的・到達不可能的なところがない。それはただの<現実界>の小さなかけらであり、他のあらゆる対象と同じく、われわれはそれを手に持って操作することができる。また、墓地に生えてきたこぶとは違って、われわれを魅惑する恐ろしい対象でもない。それどころか、このボタンはわれわれを落ち着かせ、安堵させる。それが自分の手の中にあるだけで、自分は世界の非整合性や不条理性を耐え忍んでいけるであろうことが保証されるのだ。

したがって、このボタンのパラドックスは次のようなものである。すなわち、それは、世界の究極の無意味性を証明している<現実界>の小さなかけらであるが、われわれが世界の無意味性をそのボタンの中に凝縮し、位置づけ、物質化するかぎり、つまりその対象が世界の無意味性を表象する役割を果たしているかぎり、それは、われわれが非整合性の直中で持ちこたえてくれるのを助けてくれるのである。


ジジェクは、これらの四つのタイプの対象(「ブラック・ハウス」墓地に生えたこぶ、ボタン、池)は、ラカンの『ENCORE』の第七章冒頭にある図式を使って、表現することができる、とする(冒頭に示したように、これは第七章ではなく、第八章の誤記)。





ジャック=アラン・ミレールが指摘しているように、この図式における三本のベクトルは因果関係を示しているわけではない。I→Sは「<想像界>が<象徴界>を決定する」という意味ではなく、むしろ<想像界>の象徴化の過程を示している。したがって<対象a>は、象徴化を発動させる「<現実界>における穴」である(たとえば「ブラック・ハウス」のような、われわれの幻想の物語が投影されるスクリーンである)。Φ(capital phi)、すなわち「<現実界>の想像化」は、吐き気を催すような享楽を物質化するある種のイメージである(たとえば、オーストリアの墓地に生えたこぶ)。そして最後にS(A/)、すなわり<大他者>(象徴的秩序)における欠如、その非整合性を意味するシニフィアン、つまり「<大他者>は(閉じた整合的全体としては)存在しない」ことを示す印は、<現実界>の小さな手かけらであり、(象徴的)世界究極的無意味性のシニフィアンとして機能する(たとえばボタン)。中央の深淵(享楽をあらわすJの文字を囲む風船みたいな部分)はもちろん、パトリシア・ハイスミスの小説における池のように、今にもわれわれすべてを呑み込もうとしている享楽の渦巻であり、われわれを破滅へと誘う深い穴である。おそらくこの三角形の各辺上にある三つの対象はそれぞれ、中心にあるこの外傷的な深淵から一定の距離を保とうとする三種類の方法である。そこで次のように、ラカンの図式に、パトリシア・ハイスミスの小説に出てくる対象の名前をいれてみることができる。

As Jacques-Alain Miller has pointed out, the three vectors in this schema do not indicate a relation of causality: I—>S does not mean "the imaginary determines the symbolic," it marks rather the process of the symbolization of the imaginary. The object small a is thus the "hole in the real" that sets symbolization in motion (the "black house," for example: the screen for the projection of our fantasy narrations); capital phi, the "imaginarization of the real," is a certain image that materializes the nauseous enjoyment (the protuberances at the Austrian cemetery, for example); and finally S(A/), the signifier of the lack in the big Other (the symbolic order), of its inconsistency, the mark of the fact that "the Other (as a closed, consistent totality) doesn't exist," is the litde bit of the real functioning as the signifier of the ultimate senselessness of the (symbolic) universe (the button, for example). The abyss in the middle (the balloon encircling the letter }—jouissance) is of course the whirlpool of enjoyment threatening to swallow us all, like the pond in Patricia Highsmith's story: the pothole exerting its fatal attraction. The three objects on the sides of the triangle are perhaps nothing but the three ways to maintain a kind of distance toward this traumatic central abyss; we could thus repeat Lacan's schema by inserting in it the names of the objects found in Patricia Highsmith's stories.




※なおジジェクは『イデオロギーの崇高なる対象』にて次のように述べている。

【対象a】:大衆文化における最も有名な<対象a>は、ヒッチコックのマクガフィンである。マクガフィンとは事件の発端となって物語を出発させる「秘密」であるが、それ自体はまったく取るに足りないもの、「なんでもない」ものであり、ただの空無にすぎない(暗号化されたメロディ、秘密の公式、等々)。

あるいはヒッチコックの別の映画から。

【<現実界>の想像化】:大文字のファイとしての享楽の恐ろしい具現化(鳥、巨大な彫像、等々)

【<現実界>の小さなかけら】:S(A/)として循環する「現実界の断片」(結婚指輪、ライター、等々)

あるいは、三種類の「消え去る婦人」

『三人の妻への手紙』のアティ・ロス、すなわち「ふつうの」結婚の挫折と行き詰まりを暴露する「もう一人の女」は、いわばS(A/)、すなわち他者の非整合性のシニフィアン。

『バルカン超特急』で消える魅力的な老婦人は、<対象a>として、すなわち謎を象徴化したい、秘密を解明したいというわれわれの欲望を掻き立てる対象=原因として機能している。

『めまい』のマデリンは、大文字のファイ、すなわち死にいたる享楽の魅惑的なイメージ。

つまり、これらの三人の女性は、中心のJ(サントーム)から距離を保つ、すなわち深淵に呑み込まれるのを避けるための三つの方法に他ならない、と。



メモ:「幻想の横断」(症候との同一化)とサントーム

◆ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳)(「イデオロギー的サントーム」の章より)。

……外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。

ジョイスの精神病への言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症候ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようとする試みであった。自分の症候と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。(ジャック=アラン・ミレール“Preface” in Joyce avec Lacan 1988)

(……)症候への同一化というと、われわれはふつう、われわれをヒステリー化している要素を取り去る唯一の方法がそれを同一化することであるときの、「狂気」への典型的なヒステリー的反転を連想する。つまり、「やっつけられないないなら、いっしょになってしまえ」というアプローチである。(……)

この種の同一化と、精神分析過程の終了の瞬間を告げる同一化とを区別するためには、アクティング・アウトと、ラカンのいう「行為への移行Passage à l'acte」との違いを明確にしなければならない。一般的にいって、アクティング・アウトは依然として象徴的行為、すなわち〈大他者〉に向けられた行為であるが、「行為への移行」は〈大他者〉の次元を保留し、行為は〈現実界〉の次元へと移される。いいかえれば、アクティング・アウトは、象徴的行き詰まり(象徴化の、つまり言葉にすることの不可能性)を行為によって突破しようとする企てである。ただしその行為は依然として、ある暗号化されたメッセージの送り手として機能する。われわれはこの行為を通じて、(たしかに「狂った」ふうにではあるが)、ある種の借金を返済する、なんらかの罪悪感を払拭する、〈他者〉へのある程度の接近を具現化する、等々を企てる。(……)ところが「行為への遂行」は象徴的ネットワークからの退出、社会的絆の消滅を必然的にともなう。つまり、アクティング・アウトによってわれわれが同一化するのは、ラカンが五〇年代に考えていたような症候(〈他者〉に向けられた暗号化されたメッセージ)であるが、「行為への移行」によってわれわれが同一化するのは、われわれの享楽の真の核を構造化している病的な「痙攣」としてのサントームである。(……)

おそらく政治の世界においても、一種の「症候との同一化」を必然的にとまなうような経験がある。よく知られている、「われわれはみんなそうだ!」という感傷的なpathetic経験だ。それはすなわち、耐えがたい真実の闖入として、すなわち社会的メカニズムは「機能しないdoesn't work」という事実の指標として、機能するfunctionsある現象に直面したときの、同一化の経験である。たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するのは、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。これらの例について、次のことを明らかにしておかねばならない。「症候との同一化」は「幻想を通り抜ける"going through the fantasy“」ことと相関関係にあるということである。(社会的)症候へのこうした同一化によって、われわれは、社会的意味の領域を決定している幻想の枠、ある社会のイデオロギー的自己理解を横断し、転倒する traverse and subvert the fantasy。その枠の中では、まさしく「症候」は、存在している社会的秩序の隠された真実の噴出の点としてではなく、なにか異質で不気味なものの闖入some alien, disturbing intrusionとしてあらわれるのである。(ジジェク『斜めから見る』p257-260 鈴木晶訳――いくつかの原文の文や語句は引用者が附記)

…………

◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』から私意訳(すなわちテキトウ訳であり、見直していないので、原文参照のこと)。

……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

……the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.
結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機は起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。

Consequently, all his defenses disintegrate the moment a real crisis occurs (when “the fatherland is in danger,” for example), like in the classical Hollywood film in which the villain, though he will be “officially” condemned at the end, is nonetheless the focus of our libidinal investment (Hitchcock emphasized that a film is only as alluring as its bad guy). The foremost problem is not how to denounce and rationally defeat the enemy—a task which can easily result in its strengthening its hold upon us—but how to break its (fantasmatic) spell. The point of la traversée du fantasme is not to get rid of jouissance (in the mode of old‐style leftist Puritanism): taking a minimal distance towards fantasy rather means that I, as it were, “unhook” jouissance from its fantasmatic frame and acknowledge it as that which is properly undecidable, as an indivisible remainder which is neither inherently “reactionary,” supporting historical inertia, nor a liberating force enabling us to undermine the constraints of the existing order.

…………

“幻想の横断”とは現実の外に出ることを意味するのではない、現実の非一貫的な非-全体を受け入れ、それを“揺らめかす”ことを意味する。幻想fantasy概念、――それは部分対象とのわれわれの関係をぼやけさせる錯覚的なillusoryスクリーンとしての幻想だがーーそれは精神分析がなすべきことという通念に完全にフィットするようにみえるかもしれない。すなわちもちろん風変わりな幻想の支配から自由になり、ありのままの現実に直面するようにという通念である。だが、これはラカンが意図していることではまったくない。彼が狙っているのはほどんど逆のことなのだ。日常生活においては、われわれは“現実”(幻想によって構造化され支えられた現実)に浸っている。しかしこの浸没は症候によって乱される。その症候とは次の事実を証し立てるだろう、すなわちわれわれのプシュケ(心理的機構)の抑圧された別のレベルがこの浸没に抵抗していることを。

“Traversing the fantasy” does not mean going outside reality, but “vacillating” it, accepting its inconsistent non‐All. The notion of fantasy as a kind of illusory screen blurring our relation to partial objects may seem to fit perfectly the common‐sense idea of what psychoanalysis should do: of course it should liberate us from the hold of idiosyncratic fantasies and enable us to confront reality the way it is. This, precisely, is what Lacan does not have in mind—what he is aiming at is almost the exact opposite. In our daily existence, we are immersed in “reality” (structured or supported by the fantasy), but this immersion is disturbed by symptoms which bear witness to the fact that another repressed level of our psyche resists the immersion. 
というわけで、“幻想を横断する”こととは、逆説的に、幻想とまったき同一化をすることを意味するのだ。――その幻想とは日常生活への浸没に抵抗する過剰を構造化させているものとしての幻想であるが。Richard Boothbyの簡明な定式では、“幻想の横断”とは、主体がどうにかしてきまぐれな空想に没頭するのを棄て去り、プラグマティックな“現実”に順応することを意味せず、まったく逆のことである。すなわち主体は、日常的な現実の限界にあらわれる象徴界の欠如の効果をあまんじて受け入れること。

To “traverse the fantasy” therefore means, paradoxically, to fully identify oneself with the fantasy—with the fantasy which structures the excess that resists our immersion in daily reality. In Richard Boothby's succinct formulation: “Traversing the fantasy” thus does not mean that the subject somehow abandons its involvement with fanciful caprices and accommodates itself to a pragmatic “reality,” but precisely the opposite: the subject is submitted to that effect of the symbolic lack that reveals the limit of everyday reality.
ラカン派の意味における幻想を横断することとは、心に思い描くことを超えた幻想のリアルな核とより親密な関係をもたらすという意味での幻想にかつてなくおおいにとらわれるclaimedことなのだ。Boothbyは正しく強調している、ヤヌス Janusのような幻想の構造を。すなわち幻想は、一方で鎮圧化、武装解除化の作用があり(〈他者〉の欲望の深淵に堪えさせてくれる想像的な(イマジネールな)シナリオを提供する)、他方で、われわれの現実に同化不能の粉砕化、攪乱化の作用がある。

To traverse the fantasy in the Lacanian sense is to be more profoundly claimed by the fantasy than ever, in the sense of being brought into an ever more intimate relation with that real core of the fantasy that transcends imaging.49 Boothby is right to emphasize the Janus‐like structure of a fantasy: a fantasy is simultaneously pacifying, disarming (providing an imaginary scenario which enables us to endure the abyss of the Other's desire) and shattering, disturbing, inassimilable into our reality.
“幻想の横断”概念のイデオロギーかつ政治的な側面は、ボスニア戦争のあいだ攻囲されたサラエボのユニークなロックグループTop lista nadrealista(超現実主義者のTop List)によって明らかにされた。彼らの、戦争と飢えのさなかのアイロニックなパーフォーマンスはサラエボの人びとの苦境を風刺化したのだが、それはカウンター文化において熱狂的な地位を獲得しただけではなく、一般的なサラエボ市民のあいだでもそうだったのだ(グループの毎週のTVショウは戦争のあいだを通して異常な人気を誇った)。

The ideologico‐political dimension of this notion of “traversing the fantasy” was made clear by the unique role the rock group Top lista nadrealista (The Top List of the Surrealists) played during the Bosnian war in the besieged Sarajevo: their ironic performances which, in the midst of the war and hunger, satirized the predicament of the Sarajevan population, acquired a cult status not only in the counterculture, but also among the citizens of Sarajevo in general (the group's weekly TV show was broadcast throughout the war and became extremely popular).
サラエボの悲劇的な運命を歎き悲しむかわりに、彼らはユーゴスラビアで共有されていた“愚かなボスニア人”についてのクリシェのすべてを敢えて結集したのだった。すなわちそれらのクリシェとまったき同一化をしたのだ。ここでの肝要な点は、真の結束への道は、象徴的な空間に流布している鼻持ちならないレイシストの幻想と直接に対面すること、遊び心にあふれてその幻想に同一化することを通してであり、“人びとは実際にはこのようなんだよ”のために幻想を否定することを通してではないことだ。

Instead of bemoaning their tragic fate, they daringly mobilized all the clichés about “stupid Bosnians” common in Yugoslavia, fully identifying with them—the point thus made was that the path to true solidarity goes via a direct confrontation with obscene racist fantasies circulating in symbolic space, through a playful identification with them, not through the denial of them on behalf of “what people are really like.”


◆ふたたび、ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳)(「イデオロギー的サントーム」の章より)。

……幻想は、全体主義的な秩序の支えとして機能していながら、同時に、〈現実界〉の残余であり、それによってわれわれは「手を引く」ことができ、社会的・象徴的ネットワークからの一種の距離を維持することができるのである。われわれが白痴的な享楽に強迫的に固執し、それに夢中になってしまうと、全体主義的な操作の手もされわれには届かない。

ファスビンダーの『リリー・マルレーン』の中にも、(……)〈幻の声〉の現象が見られる。映画全体を通じて、ドイツ兵士たちの歌う例のラヴソングがそれこそ擦り切れるまで繰り返され、この無限の反復によって、美しいメロディが、一瞬たりともわれわれを解放しない、吐き気を催させるような寄生虫に変ってしまう。ここでもやはり、その歌の地位は明らかではない。(ケッペルスに体現された)全体主義の権力はそれを大衆操作に用いて、疲れた兵士たちの想像力を虜にしようとする。ところが、歌は、聖霊が瓶から抜け出してしまうように、権力の手から擦り抜けてしまい、自分自身の人生を生きはじめる。誰も、その歌がもたらす効果を操作することはできない。ファスビンダーの映画の決定的特徴は、この「リリー・マルレーン」という歌のもつ徹底した両義性の強調である。この歌はたしかに、ありとあらゆるプロパガンダの手段によって広められたナチのラヴソングであるが、同時に、それを支えているイデオロギー機械から飛び出しそうな、したがってつねに禁止される危険にさらされている、価値転倒的な要素へと今にも変容しようとしている。このような、白痴的な享楽の染み込んだシニフィアンの断片を、ラカンはその教えの最後の段階で、サントームと呼んだ。サントームLe sinthomeは症候symptomではない。症候は、解釈によって解読されるべき、暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に意味-の-享楽jouis-sense, "enjoyment-in-meaning," "enjoy-meantを獲得する。イデオロギー的組織の構成におけるサントームの役割を考えると、「イデオロギー批判」というものを考え直さなければならない。ふつうイデオロギーは一つの言説と見なされている。つまり、イデオロギーはさまざまな要素の連鎖であって、その意味はそれらの要素に特有の分節によって、つまりなんらかの「結節点」(ラカンのいう〈主人のシニフィアン〉)"nodal point" (the Lacanian master-signifier)がそれらを均質な領域へと全体化するその方法によって、重層決定されている、と。ここでわれわれは、すでに古典ともいえるラクラウの分析を引くことができよう。ラクラウによれば、特定のイデオロギー的要素は「浮遊するシニフィアン」として機能し、その意味は支配権力の操作によって遡及的に固定される(たとえば「共産主義」は他のすべてのイデオロギー的要素の意味を特定する「結節点」として機能する。「自由」は「形式的なブルジョワ的自由」と対立する「実際的自由」となり、「国家」は「階級弾圧の手段」となる、等々)。だが、サントームという次元を考慮に入れたとたん、イデオロギー的経験の「人為的」性格を告発し、イデオロギーによって「自然なもの」「与えられたもの」として経験された対象がじつは言説による構築物であり、象徴的重層決定のネットワークの結果であることを暴露するだけでは十分ではなくなる。もはや、イデオロギー的テクストをコンテクストの中に置き、その必然的に見落とされていた余白を眼に見えるようにする、というだけでは十分ではない。われわれのなすべきこと(ギランやファスビンダーのやっていること)は、サントームをコンテクスト(そのコンテクストのおかげで、サントームは魅力を発揮している)から分離し、その徹底した馬鹿らしさを明るみに引きずり出すことである。いいかえれば、われわれがやらなくてはならないのは、(ラカンが『セミネールⅩⅠ』で用いている表現を借りれば)高価な贈り物を糞便の贈り物に変えること、われわれを金縛りにする魅惑的な声を、〈現実界〉の猥褻で無意味な断片として経験することである。この種の「異化」はおそらくブレヒト的な「異化Verfremdung」よりもさらに根底的である。この種の異化は、現象をその歴史的全体性の中に置くことによってではなく、その直接的現実、つまり「歴史的媒介」を摺り抜けるその馬鹿げた物質的現前がまったくつまらないものだということをわれわれに経験させることによって、ある距離を生み出すのである。われわれは、弁証法的媒介、つまり現象に意味を付与するコンテクストを加えるのではなく、それを除去するのである。したがって、『未来都市ブラジル』や『リリー・マルレーン』が描いているのは、「全体主義の抑圧された真実」などというものではない。これらの作品は全体主義の論理にたいしてその「真実」を対置しているのではなく、その白痴的享楽の凶悪な核を分離することによって、実際的社会的束縛としての全体主義を解体しているのである。(ジジェク『斜めから見る』p239-242)


2014年7月11日金曜日

二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

◆Paul Verhaeghe(ポール・ヴェルハーゲ)の『BEYOND GENDER』「DREAMS BETWEEN DRIVE ANDE DESIRE」の章(「BEYOND ANALYSIS: THE SINTHOME」の節よりの私訳)。

私は既に、無意識の核は「分析」にフィットしないことを論証した。無意識のうちの表象された部分のみが分析されうるのである。フロイト以後、症状symptomは防衛をベースに説明されてきたのだが、そこでは抑圧が特権的な位置を占める。忘れられてしまっているのは、抑圧自体は病因のダイナミズムの二次的重要性しかもたないということだ。実際は、抑圧は欲動の表象されたシニフィアンを処理しようとするメカニズム以外のなにものでもない。フロイト自身、症状の二重の構造を認めていた。一方は欲動であり、他方は象徴的なものである。同じ論法が夢にも当てはまる。ことさら驚くことはない。夢は症状なのだから。

My previous arguments have already demonstrated that the core of the unconscious is not fit for analysis, it is only the repressed part of the unconscious that can be analysed. The same reasoning can be applied on the level of the symptom. After Freud, symptoms were explained on the basis of defence, in which repression takes the prominent place. It was forgotten that repression in itself is already a second moment within the dynamics of the pathogenesis. Indeed, repression is nothing but a coping mechanism directed to the representational signifiers of the drive. Freud himself recognised a twofold structure within the symptom, on the one hand the drive, and on the other hand the symbolic.26 The same reasoning goes for the dream as well, which is not a matter of surprise, as the dream is a symptom.
この二重の構造の光の下では、すべての症状は二つの方法で研究され取り扱われなければならない。ラカンによれば、夢、恐怖症、転換された症状でさえ、結局、症状の形式的な覆いなのである。それらは欲動のリアルの代理表象としての表現なのだ。このように考えると、症状とは、享楽(ジュイサンス)のリアルな核のまわりに作り上げられた象徴的な構築物なのである。享楽のリアル(現実界)は症状の土台もしくは根であり、他方、象徴界はファリックな上部構造にかかわる。

In the light of this two hold structure, every symptom has to be studied and treated in a double way. Following Lacan, dreams, phobic symptoms, even conversion symptoms come down to the formal envelope of the symptom,i.e. they are the representational expression of the real of the drive. Thus considered, the symptom is a symbolic construction built around a real kernel of jouissance. The real of the jouissance is the ground or the root of the symptom, whilst the symbolic concerns the phallic upper structure.
フロイトとラカンのふたりとも見出していた、まさに、この現実界における症状の根には治療効果を妨害するものがあることを。分析は、無意識の抑圧された部分、すなわち表象されたファリックシステムにねらいをつける。しかし〈他者の享楽〉に直面したとき無力である。現在のまさに事実とは、われわれは、抑圧などほとんど現れない患者に直面することだ。これは、精神分析にとってまったく新しいチャレンジを意味する。

Both Freud and Lacan discovered that it is precisely this root of the symptom in the real that obstructs the therapeutic effectivity.28 Analysis aims at the repressed part of the unconscious, meaning the representational phallic system, but is powerless when confronted with the other jouissance. The very fact that today, we are confronted with patients in whom repression is barely present, implies a totally new challenge for psychoanalysis.
重要なことは、これらのふたつのレベルはーー二項システムという意味でのーー分離したものではないことを理解することである。フロイトは、この身体のsomatic部分の影響について美しい隠喩で表現している、《あたかも牡蠣貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの》(『症例ドラ』)と。ラカンは、ジャー(壺)の隠喩を使う。それは、なぜ分析が避けられないのかの理由を説明している。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の側面を作り上げることにあるのではなく、これらの側面によって作り上げられる空虚な空間を作ることにある。壺は象徴界の内部に現実界の場所を突き止めるのだ。(……)これをラカン用語では、対象aが現われるという。

It is important to understand that these two levels are not separate ones, in the sense of a binary system. On the contrary even, we are facing a kind or fusion here, which obliged Lacan to develop a whole new topology. Freud expressed this beautifully in his metaphor on the impact of the somatic part: "it is like the grain of sand around which an oyster forms its pearl". Lacan uses the metaphor of the jar, which illustrates the reasons why one can't save oneself the trouble of an analysis. According to Lacan, the essence of pottery making does not reside in the raising of the sides of the jar, but in the hollow space that is created by these sides. The jar localises the real within the symbolic, (……)to put it in Lacanian algebra: that the object a appears.

※フロイトの二種類の症状の発見については、「症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」の後半箇所を参照のこと。

途中、《享楽のリアル(現実界)は症状の土台もしくは根であり、他方、象徴界はファリックな上部構造にかかわる》という文が出てくる。

ここで藤田博史氏による図を付記しておく(欲動と原トラウマ)。




上の図の「地上」にあるものが欲望の領域、あるいは旧来の象徴界の症状の領域であり、地下にあるものが欲動(享楽)の領域、あるいは現実界の症状(サントーム)の領域ということになるのだろう。

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。(欲望と欲動(ミレールのセミネールより))


以上の説明から、たとえば斎藤環氏の《記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた》などという見解がーーそれを額面通りに受けとめればーー、いかに「間違っている」かが分かるだろう(かなり前の論なので、それを割引きしなければならないとしても、より最近の茂木往復書簡でも似たような発話がある)。

人格、メディア、ともにラカンの精神分析においては単に「存在しない」、あるいはいずれも、想像的なものとして価値切り下げの憂き目にあうだろう。なぜならば、そう、「メタ言語は存在しない」からだ。記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。メタ記号はありえてもメタ・シニフィアンは不可能である。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)ーー「ラカンの三つの身体」より)

これでは、ーーここで敢えて斎藤氏の表現を使うならーー、アゲノリ(ヤンキー的なアゲアゲのノリ)のラカンであり、すなわちアゲノリ・ラカン派でしかない。

…………

さて、「サントーム sinthome」とは、ラカンによる「症状symptom」の新しいヴァージョンなのであり、結局、「現実界の症状symptom」のことであるだろう。

◆「Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way」.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq )より

……the Lacanian conclusion of the treatment – the identification with the Real of the symptom, the choice of jouissance, and the creation of a neosubject – is a particular process that is situated entirely in the line of femininity.

ラカン派の議論には、「症状(症候)に同一化する」、とか「サントームに同一化する」とかの表現が混在するが、前者の症状に同一化するとは、二種類の症状のうちの現実界の症状(サントーム)に同一化する、と捉えるべきである。

◆ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳)(「イデオロギー的サントーム」の章より)。

……外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。

「ジョイスの精神病への言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症候ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようとする試みであった。自分の症候と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。」(ジャック=アラン・ミレール“Preface” in Joyce avec Lacan 1988)


たとえば、「女は男の症候(症状)である」とされるが、この言葉は後期ラカン(たしかセミネールⅩⅩⅢ)で語られたものであり、「女は男のサントーム」であるとしてもよいのだろう。だが一般には二種類の症状のうちの象徴界の症状としてのみ解釈されることが多すぎるのではないか。

「女は男の症候である」というのは、後期ラカンの最も悪名高い「反フェミニズム的」テーゼのひとつだろう。しかし、われわれがこのテーゼをいかに読むべきかについては根本的な両義性がある。この両義性はラカン理論内部における症候の概念の変化を反映している。もし症候を、ラカンが一九五〇年代に定義したようなもの──暗号化されたメッセージ──として捉えるならば、もちろん女=症候は記号として、男の敗北の具体化としてあらわれ、男が「自分の欲望に負けた」という事実を証明する。フロイトにいわせれば症候は妥協の産物である。主体は症候において、自分の欲望についての真理(彼が直視できなかった真理、彼が裏切った心理)を、暗号化された判読不能なメッセージとして受け取る。(ジジェク『汝の症候を楽しめ』)


ところで、男は女のなんだろう。ジジェクの最近の書(『LESS THAN NOTHING』)には、「男は女の幻想(ファンタジー)である」、という言葉がみられるが、いま詳細には触れ得ない。

ここではただ、ジジェクの師であるラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールは次のように言っていることだけを附記しておこう。

Sinthome = Symptom + fantasme (Jacques-Alain Miller)

「サントーム=症候+ファンタジー」だって?
もっとも次のように捕捉はしている。

This is an approximation of the equation, but I had situated there the idea that the clinical opposition of the symptom and fantasme, as well-founded as it might be, does not prevent us from taking another perspective. Under this angle, the difference between the two psychoanalyses is inessential.

しかし、これはジジェクも既に1989年に上梓された『イデオロギーの崇高な対象』にて同様のことを書いているようだ。

 Lacan tried to answer this challenge with the concept of the sinthome the concept of sinthome, a neologism containing a set of associations (synthetic-artificial man, synthesis between symptom and fantasy, Saint Thomas, the saint . . . ).(『THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY』)

ところで、「男は女の幻想である」としたとき、このファンタジーとはなにか。

ここでは当面、ジジェクを引用するのはやめて(最近ではFANTASY1とFANTASY2などと書いていて、ややこしい)、ヴェルハーゲの簡潔な定義のひとつはこうである。

the fantasy is an attempt to give meaning to a part of the Real that resists to the Symbolic. (『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN』Paul Verhaeghe)


《ファンタジーとは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである》とされている。

このあたりは書き出すと長くなってしまうのだが、もうひとつだけつけ加えよう。

A symptom (e.g., a slip of the tongue) causes discomfort and displeasure when it occurs, but we embrace its interpretation with pleasure. We gladly explain to others the meaning of our slips; their "intersubjective recognition" is usually a source of intellectual satisfaction. When we give ourselves to fantasy (e.g., in daydreaming), we feel immense pleasure, but, on the contrary, it causes us great discomfort and shame to confess our fantasies to others.(ZIZEK From the symptom to the sinthome)


症状(象徴界における)は、不快であるが解釈を誘発し、その解釈は満足を与える。ファンタジーはわれわれをうっとりさせてくれるが、それを他人に告白することは不快であり恥である、とある。

「女は男の症候である」ならば、男は解釈して満足する。
「男は女の幻想である」ならば、女は告白して恥ずかしい。

男の猥談好きはこのせいであり、女から猥談は滅多に聞かれないのは幻想のひとたちだからである(最近はシラナイがね)。ーーなどと書けば、やはりアゲノリ・ラカン派の気味合いがあるが、わたくしはラカン派のつもりはないので、なんというかアゲノリ・ジジェクエピゴーネンか。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙され る連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講議』はどのように読まれたか )


…………


以下、ごく一般的な夢分析のあり方を附記しておこう。


フロイトには、「事物表象 Sachvorstellung」と「言語表象 Wortvorstellung」という語彙がある。「物表象」と「語表象」とも訳されたりする。

”Identity through a Psychoanalytic Looking Glass”(Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe 2009)には次のような文が見られる。

Freud as thing and word representations, by Lacan as imagos and signifiers, in attachment theory as representations.

すなわちフロイトの「事物表象」は、ラカンの「イマーゴ」、もしくは「イマージュ」、「言語表象」は、「シニフィアン」とされている。

ここでは、このことを念頭において、以下の文を読むことにしよう。

夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。もしわれわれがそれらの文字を、それらの象徴的関係に従ってではなく、それらの視覚的価値に従って、読もうとすると、かならずや間違いをおかす。たとえば今ここに一枚の判じ絵があったとする。そこに描かれているのはまず一軒の家。その家の屋根にはボートが一艘のっかっている。それからアルファベットの中の文字が一つ。そして走っている人物の姿。その人物には頭がない、等々。さてこの判じ絵を表面そのままに受け取って、この絵全体やその個々の構成要素には全然意味がないと抗議することもできよう。ボートが屋根にのっているはずがないし、頭のない人間は走れないはずだ。しかも、人間のほうが家よりも大きく描かれているし、この絵全体がどこかの景色のつもりなら、アルファベットの文字は場違いだ。そんなのが自然界にあるわけがないから。いうまでもなく、この判じ絵を正しく解釈するためには、この絵全体およびその各部分にたいするそうした批判は脇にのけておき、その代わりに、個々の要素を、なんとかその要素によって表わすことができる一音節とか一単語に置き換えなければならない。そのようにして得られたいくつかの言葉はもはや無意味ではなく、この上なく美しい意味深い詩の一節を形づくることもできる。夢はこの種の判じ絵であり、夢解釈の分野における先輩たちは、判じ絵をまともな絵画作品と受け取るという過ちを犯してきたのであり、そのために彼らには夢が無意味で無価値なもののように思われたのである。(フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」)
フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)