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2013年8月7日水曜日

京城の深く青く凛として透明な空

中井久夫には、《安克昌先生は、二〇〇〇年十二月二日、四〇歳に四日を残してその短き生涯を閉じられた。その恨みを恨みとして、その思いを思いとする人々が今ここに集まっておられる。不肖、私、葬儀委員長として、皆様とともに愛惜、追慕の念を、まず、ご遺族にささげたいと申し上げます》、と始まる追悼の辞の文がある(「安克昌先生を悼む」『時のしずく』所収)。

安克昌は、阪神・淡路大震災後、その現場で大きく活躍された人でもある。ここではまず、「『多重人格者の心の内側の世界』序文」(『時のしずく』所収)から引こう。

《在学中、ソウルで一夏を語学研修に過ごしたことはあまり語りたがらなかったが、おそらく在日として生きると肚をくくってこの列島に戻ってきたのではあるまいか。神戸大学の精神科に入って自己紹介の時、彼は「安という朝鮮人です」とぼそりと語った。(……)私は彼とよく診察後の医局で談笑した。ほんとうにあらゆるテーマについて語った。彼はジャズ・ピアニストとしても知られていた。彼の演奏には沁みいるような「明るい孤独」があったと私は思う。》

《この震災直後の彼の活動の中で、初めて臨床に即した彼の多重人格論を聴いた。後には彼の補助治療者をつとめたこともある。ある時、患者の受けた虐待をめぐって話している時、「やはり男性治療者には限界がありますね。私は在日だから、どこか許してもらっているところが少しはあるんです」と漏らしたことがある。在日韓国人としてのトラウマの深さをのぞかせた唯一の機会であった。しかも、彼はそれを治療的に有利な条件に変えようとしていた。》

あわせて、同じ『時のしずく』所収の、「「祈り」を込めない処方は効かない(?) ――アンケートへの答え」より、《私は最近、若い弟子(この言葉自体は好きではないが他の言い方がない)を非業の死によって失い、私の中に生まれる哀切感の強さに自ら驚いた。》と書かれる前後の文をも。


人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。

私は最近、若い弟子(この言葉自体は好きではないが他の言い方がない)を非業の死によって失い、私の中に生まれる哀切感の強さに自ら驚いた。逆縁という語が自然に浮んだ。この定義によれば、友人にも、師弟にも、患者と医師との間にも愛はありうる。おのれの死は、その人たちすべてに、すなわち愛のすべてに別れるからつらいのである。あの人間嫌いとされるスウィフトが『ガリヴァー旅行記 第三部』において、ほんとうに不死の人間が時々生まれる国を描いて、友人知人の全てから生き残る不死人間の悲惨を叙述している時、彼は同じことを言っているのだといえば驚く人があるであろうか。


【安克昌先生を悼む】
精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある。

(……)きみと旅行したウィーン、ブタペストをなつかしむ。あれは一九九二年の初夏だった。あの旅にはふしぎな魅力があった。そして夫人へのきみのこまやかないつくしみと心くばりがよくわかった。

ふだん、きみの貴重な家族との時間の多くを奪ったのは私だった。きみは医局長として、私の人事の哲学を知っていたから、一人一人にできるだけチャンスを与え、希望をかなえようとして命をけずる思いをした。それは私の考えに共鳴してくれるところがあったからにちがいない。しかし、きみの肩を異常に凝らせたのは私の咎である。そして、きみの著書の序文を「若さと果断沈着さとに一抹の羨望を感じる」と終えた私が、その後五年ならずして、老いの身できみを送る言葉を書くということになろうとは、孔子さまではないが、天われをほろぼせりといわずして何といおうか。

(……)病院にかけつけてお母様と相擁した。涙を払ったお母様は、開口一番「素敵でしたよ」と仰った。「あんな素敵な死は見たことがありません」と。

二日間の意識混濁ののち、きみは全身体をつっぱらせて全身の力をあつめた。血圧は一七〇に達したという。そして、何かを語ってから「行くで、行くで、行くで、行くで」と数十回繰り返して、毅然として、再び還らぬブラックホールの中に歩み行った。

(……)

きみは秋の最後の名残とともに去った。生まれかわりのように生まれた子に秋の美しさを讃える秋実の名を残して。

その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。


…………


さて、以下は、《この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明である》をまずはめぐる。

湿度のデータをすこし見てみた限りでは、東京とソウルはそれほど大差はない(ただし韓国旅行案内などをみると、韓国は日本より乾燥しているなどとするものもあるし、韓国全土の乾燥化を伝える記事もあるが、詳しいことはわからない)。要するに、上の文は、気候というより日本人気質と韓国人気質の相違をしめし、「堅固な意志と非妥協的な誠実さ」の韓国人が、日本人の次のような曖昧模糊とした春のような気質への異和も遠まわしに語ったものと読むこともできよう。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」
柄谷行人は、金禹昌氏について、《私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある》と書いている。

韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収)


もっともしばしば指摘されるように、統計的にみれば「非妥協的な誠実さの民」、韓国人は、世界一の自殺率の民でもある。--統計方法の違いなどの指摘はあるが、わたくしは今そこまで調べてみようとはしない。これはかつて村上龍が語っているのだが、《あれは自殺決行後二四時間以内に死んだひとの数らしい。三日後に死んだひとは、統計上は自殺未遂になるという。それを入れると倍ぐらいにな(る)》(柄谷行人との対談 『NAM生成』所収)とのこと。他国がどうであるのかは分らない。日本の自殺統計の仕方については、村上龍の発言と同じことを語っている記事はある。

先週(1/17)、警察庁は2012 年の自殺統計(速報値)を公表しました。それによりますと、全国の自殺者数は前年(2011 年)から2885 人減の2 万7766 人となり、1997 年以来15 年ぶりに3 万人の大台を下回ったというのです。この減少は東日本大震災という大きな困難が日本人の絆を強めたからなのでしょうか。

ただ、この自殺者数は、確実に自殺と判明している場合で、しかも、その日のうちに亡くなっている場合のみの数だそうです。ですから、自殺か事故かはっきりしない場合とか、自殺を試みたことによって数日後に亡くなっている場合は、この数には入らないのです。
ショート・メッセージ - 御茶の水キリストの教会

さて、いずれにせよ、「曖昧模糊」とした根回しの平均的な日本人にとってのイメージとしての韓国は、多血質な、そして堅固な意志と非妥協的な誠実さ(あるいは人によれば「直情径行」などとするのかもしれない)、そんな民族とするのだろう。この二つの隣国の間には、キムチと白菜のぬか漬けの相違があるのだ。


朝鮮半島の民家の典型的な秋の風景とは、すくなくともかつては、藁屋根の軒下に赤い干し「唐辛子」が掛けてある風景とのこと(李哲権「隠喩から流れ出るエクリチュールーー老子の水の隠喩と漱石の書く行為」による)。






向こうに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつくところまで来て留まった。「美しいこと」と言いながら、草の上に腰をおろした。草は小川の縁にわずかな幅をはえているのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手な着物のよごれるのをまるで苦にしていない。(夏目漱石『三四郎』)



幼少時、京城に暮した安岡章太郎の『僕の昭和史』はこのように始まる。

《僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。(……)

その頃、僕らは朝鮮京城の憲兵隊宿舎に住んでいた。父は職業軍人で陸軍獣医大尉であり、僕は南山幼稚園にかよっていた。》

そしてかつてのソウル(京城)の叙述がある。

いまの京城、つまりソウルは、人口五百万とかの超過密都市で、東京と同様、或いはそれ以上に活気はあるけれど、自然環境の破壊も甚だしく、むかしの面影はまったくない。僕らのいた頃の京城は、人口はたぶん五十万ぐらい、小さいながら良くまとまって、ハイカラな感じの街だった。 僕らが住んでいたのは、本町(いまの忠武路)という目抜き通りの直ぐ裏手で、おもての通りには三越だの銀座の亀屋の支店だのが並んでいた。本町を南に行くと南大門の広場があり、そこには朝鮮銀行、その他、大きな会社の建物が集まっており、また町をちょっと出はずれたところに南山という丘があって、そこに僕のかよった幼稚園や小学校がある。この南山は、いまはKCIAの本拠になったおり、山の斜面一帯は新興資産家の住宅地になっていて、花崗岩やレンガで囲った家がぎっしり立ち並んでいるが、僕らのいた頃は朝鮮には珍しい青々として丘陵地帯だった。学校は斜面の中腹にあって、そこから少し奥に這入ると、深山幽谷のおもむきがあった。春先きなど、岩肌に張った氷の裂け目から奇麗な清水が湧き出しており、手をつけると千切れるほど冷たかったが、すくって飲むと体の中までスーッとするような、爽快な味がした。 空は、ほとんど一年じゅう晴れており、とくに冬になると青く澄んで、カーンと音がしそうな冴えた色をしていた。






本町は、前にいったように京城で目抜き通りで、横浜や神戸の元町なんかにも似てシャレた店が多かった。しかし、このなかで朝鮮人のやっている店が一軒でもあっただろうか。店員も、客も、道を歩いている人も、日本人ばかりだったような気がする。

京城でも、母は日本人の女中を置いていた。最初はハルという人がいて、これがやめるとユクという人がきた……。考えてみると、これは当時、いかに人手が安かったかということだけではなく、いかに多勢の日本人が朝鮮に出掛けていたかということでもあるだろう。当時は日韓合併後、まだ二十年とたっていなかったはずだが、日本人は朝鮮のなかに完全に日本人だけの社会をつくり上げていた。南山幼稚園にも、南山小学校にも、朝鮮人の子供はたぶん一人もいなかったはずだ。そんなだから、僕は朝鮮に何年いても、朝鮮語というものは、二、三の単語を知っている程度で、まったく憶えようともしなかった。それどころか、朝鮮人に朝鮮語をつかうことを禁じ、朝鮮人ばかりを集めた朝鮮の学校で日本語の教育を強制した。そして後には、朝鮮人の姓を取り上げて日本姓にあらためさせるようにした。(安岡章太郎『僕の昭和史』)


朝鮮半島や、朝鮮人、--もちろんそれだけではない、中国を初めとして大東亜共栄圏の理念の餌食になった国々の土地に、わたしたちは土足で上がり込んだのであり、さらにことさら「在日」の人々の心を土足で踏みにじった、あるいはいまも踏みにじっているかもしれないことを忘れてはならない。


日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。

こうした「同一性」イデオロギーの起源を見るには、北海道を見なければならない。日本の植民地政策の原型は北海道にある。いうまでもなく、北海道開拓は、たんに原野の開拓ではなく、抵抗する原住民(アイヌ)を殺戮・同化することによってなされたのである。その場合、アイヌとに日本人の「同祖論」が一方で登場している。(……)

この点にかんして参照すべきものは、日本と並行して帝国主義に転じたアメリカの植民地政策である。それは、いわば、被統治者を「潜在的なアメリカ人」とみなすもので、英仏のような植民地政策とは異質である。前者においては、それが帝国主義的支配であることが意識されない。彼らは現に支配しながら、「自由」を教えているかのように思っている。それは今日にいたるまで同じである。そして、その起源は、インディアンの抹殺と同化を「愛」と見なしたピューリタニズムにあるといってよい。その意味で、日本の植民地統治に見られる「愛」の思想は、国学的なナショナリズムとは別のものであり、実はアメリカから来ていると、私は思う。岡倉天心の「アジアは一つ」という「愛」の理念でさえ、実は、アメリカを媒介しているのであって、「東洋の理想」ではない。

札幌農学校は、日本における植民地農業の課題をになって設立されたものである。それが模範にしたのは、創設においてクラーク博士が招かれたように、アメリカの農業、というよりも植民地農政学であった。われわれは、これを内村鑑三に代表されるキリスト教の流れの中でのみ見がちである。しかし、そうした宗教改革と農業政策を分離することはできない。事実クラーク博士は宣教師ではなく農学者であったし、また内村鑑三自身もアメリカに水産科学を学びに行ったのであって、神学校に行ったのではない。さらに、内村と並ぶキリスト教徒の新渡戸稲造は、のちに植民地経営の専門家となっている。

北海道は、日本の「新世界」として、何よりもアメリカがモデルにされたのである。そして、ここに、「大東亜共栄圏」に帰結するような原理の端緒があるといえる。(……)日本の植民地主義は、主観的には、被統治者を「潜在的日本人」として扱うものであり、これは「新世界」に根ざす理念なのである。ついでにいえば、こうした日米の関係は、実際に「日韓併合」にいたるまでつづいている。たとえば、アメリカは、日露戦争において日本を支持し、また戦後に、日本がアメリカのフィリピン統治を承認するのと交換に、日本が朝鮮を統治することを承認した。それによって、「日韓併合」が可能だったのである。アメリカが日本の帝国主義を非難しはじめたのは、そのあと、中国大陸の市場をめぐって、日米の対立が顕在化したからにすぎない。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)


 ※附記
一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながっている。(中沢新一 対談「宮沢賢治と日本国憲法 」)