名手たちの聴き比べだが、アンドラーシュ・シフ(András Schiff )は、こうやって断片だけ取り出すと水際立っているように感じるときがある、ーー新鮮な果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚とでもいったらいいのだろうかーー、そうかといって全曲を聴き通すと、わたくしの場合、ゴールドベルグだけでなく、他の演奏でも、退屈してしまうことが多い(エロスが足りないのじゃないか、シフには。性戯は不得手そうだからなあ)。平均律などシフの演奏で通して聴いてみようとは思わない。いま通してしばしば聴くのはアファナシェフだ。この二週間ほどはこうやってブログなどを書いているときは、ピアノ演奏なら彼のバッハを聴いていたのだか、さすがにそろそろ飽きてこないでもない(そもそも平均律を通して聴くというのは邪道なのだろうが)。上のゴールドベルグを聴けば分かるようにバレンボイムも、あるいはポリーニの平均律も、--この男根主義者たちめ!ーーバッハは向かないぜ。
この平均律のニ長調のプレリュードを聴き比べたって、シフの演奏はすばらしい(まてよ、何度も聴いていると、最初最も退屈だったRosalyn Tureckがなぜかよくなってくるのだな……)。
グールドのバッハ演奏を聴いて育ったようなところがあるのだが、平均律だけは、最初にスヴャトスラフ・リヒテルのレコードーーわたくしの少年時代はレコードの時代だーーを購入している。それと殆ど同時に、たぶん、三ヶ月も経ずに、グレン・グールドのものを手に入れた。このグールドの平均律の録音演奏は全体としては、正直リヒテルのものほど魅了されなかった。むしろいくつかの曲については失望さえ覚えた。そしてその反動か、当時、リヒテルとグールドの録音とともに評判の高かったフリードリヒ・グルダの演奏録音をも手に入れた。この三者の演奏で、四十八曲あるプレリュードとフーガのどれが気に入ったのかというのはそれほど熱心にききくらべたわけではないので言いがたいが、よく聴いた順序は、リヒテル、グルダ、グールドの順ではあった。もっとも平均律に限らなければバッハのピアノ演奏のなにかを聴くというのではグールドのCDを聴くのが突出しているし、それはその後も、この現在まで、変わらない。たとえばグールドの平均律二巻の九番ホ長調フーガのレコード版とのちほど演奏されたヴィデオ版のなんという魅力の違うこと! →「バッハ平均律2巻第9番フーガの構造分析(グレン・グールド)」
グレン・グールド、「バッハのもっとも偉大な演奏者」。
グレン・グールドは自分のバッハを発見した。そしてその意味ではそのような讃辞を受けるに値する人物だ。彼の主たる美点は音色面にあると思える。それはまさにバッハに相応しいものだ。
とはいえ、バッハの音楽は私に言わせればもっと深く、もっと厳しいものを要求する。然るにグールドにおいては、一切がちょっとばかり輝かしすぎ、外面的すぎる。その上、一切の繰り返しを行わない。これは許せない。つまりはバッハの音楽をそれ程愛してはいないということなのだ (リヒテル)
リヒテルのいう輝かしすぎ、外面的すぎるのが、グールドの平均律のいくつかの演奏では、もっとも気になったということかもしれない。ーーなどとグールドを貶したままではいられないので、ここはシュネデールの言葉を引用して、反作用としてのグールド賛をしておこう。
… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・べネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネーデル千葉文夫訳)
《何度も繰り返して聴くのに耐えられそうもない》とは、もちろん修辞学的誇張である。音への、パートナーへの愛撫の仕方をよくわきまえた男の演奏だ。
エロスは、美しい肢体(てあし)を楽しく揃え、
すんなりと伸びた背丈の型をこね、
やさしいかんばせを整え、
さて、眉と眼と唇に指先を触れて
特別の触れ跡を残したのではないか。
ーーカヴァフィス「カフェの扉にて」 中井久夫訳
あるいは、音と沈黙は、どちらが地で図なのだろう、という問いを発してみたくなる演奏だ。
そして《答がある問いは ほんとうの問いではない》
沈黙は音と限りなく接していて、 音が次第に微かになり、消えていくとき、 音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。 逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、 ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。(高橋悠治)
ここでは一息入れて、多くのバッハ演奏でそのペダル多用が気にならないでもない旧世代のエトヴィン・フィッシャーの、だが平均律ロ短調のすばらしく軽やかな演奏を聴いてみる。少なくともこのプレリュードはわたくしにはとても新鮮だ(フーガは? ノーコメント)。
内田光子は、「もし70歳まで生きたらバッハの前奏曲とフーガを全48曲を観客の前で演奏したい」と語っているが、さて、ある種の演奏ではその抒情過多が鼻につく気味がないでもないーーシツレイ!ーーその彼女が演奏する平均律はどんなぐあいの演奏になるのだろうか。
ピアニストにはわたしのようにショパンを弾くタイプとリストを弾くタイプがあります。ショパンの美しさは例えようもないものです。詩的な感性のみならず明確な方向性を持っていて、緻密さも兼ね備えています。ショパンの明確さと緻密さは、モーツァルトの作品と通じるところがありますね。見過ごしがちなことですが、各音符は然るべき場所に存在し重要な意味があります。単に美しい旋律が浮かんでくるのではありません。彼はバッハの音楽を細部まで暗記していました。ショパンはまことの音楽の源はバッハだと信じていたのです。ベートーヴェンは支持しませんでしたが、モーツァルトについては高く評価し尊敬していました。
この先古い音楽と現代音楽の距離は縮まるでしょうか・・・半ば冗談で言わせてください。〝もし70歳まで生きたらバッハの前奏曲とフーガを全48曲を観客の前で演奏したい〟とね。
私は一人で弾いたり室内楽団と一緒に演奏することが好きです。また声楽家との共演を好み、シューベルトやシューマンの歌曲を愛しています。何よりリートの伴奏者としての演奏は私に向いているでしょう。(内田光子インタヴュー)
…………
バッハのフーガは存在の主観外的な美を凝視させることによって、私たちに自分の気分、情熱と悲哀、自分自身を忘れさせたがるのに反して、ロマン派の旋律は私たちを自分自身のなかに沈みこませ、恐るべき強度で私たちの自我を感じさせ、外部にあるいっさいのものを忘れさせたがる。(クンデラ『裏切られた遺言』)