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2014年9月15日月曜日

「詩は無駄なもの、役立たずの言葉」

またきみか
オレは「甘い」お話ききたくないんだよ
わかんねえのかな

…………

そよかぜ 墓場 ダルシマー  谷川俊太郎

騒がしい友だちが帰った夜おそく 食卓の上で何か書こうとして
三十年あまり昔のある朝のことを思い出した
違う家の違うテーブルで やはりぼくは「何か」を書いていた
夏の間に知り合った女に宛てた「別れ」という題ののそれは
未練がましい手紙のように いつまで書いてもきりがなかった
そのときもラジオから音楽が流れていて
その旋律を 今でもぼくはおぼろげに覚えている

そのときはそれでよかった
ぼくは若かったから
だがいまだにこんなふうにして「何か」を書いていいのだろうか
ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに
モーツアルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一生懸命生きて自分勝手に幸福だった

ぼくはよく話しよく笑ったけど ほんとうは静かなものを愛した
そよかぜ 墓場 ダルシマー
いつかこの世から消え失せる自分.......

だが沈黙と隣り合わせの詩とアンダンテだけを信じていていいのだろうか
日常の散文と劇にひそむ荒々しい欲望と情熱の騒々しさに気圧されて
それとももう手遅れなのか
ぼくは詩人でしかないのか三十年あまりの昔のあの朝からずっと
無疵で





「ふたつのロンド」より

六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
ケッヘル四八五番のロンドニ長調
子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
ぼくの幸せの原型


…………

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。(……)

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎(震災後 詩を信じる、疑う 吉増剛造と谷川俊太郎――<「芸術」「詩」の役割をめぐって(浅田彰、谷川俊太郎)>)

「震災後」、ツイッターの「クラスタ=村社会」内
すなわち仲良し小好しの仲間たちの間で
湿った瞳を交わし合い頷き合うのだけはやめたね
オレも詩やら芸術やらはどちらかといえば好きなほうなんだけどさ
クラスター内で「寄り添う」手合いは原子力ムラの連中と同じ穴の狢だぜ

原子力村ってのは国家寄生体だからな
クラスタ内で戯れ合っているお前らは「愛国者」なんだろうよ
やっぱりお前らネオナチの資質がぷんぷんするぜ

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。(『差別感情の哲学』中島義道)

「善良な市民」という名の「優しさ」にあふれた「愛国者」たちだね

@kdxn: もう3年ぐらい言ってるけど、原発を続けるかどうかは純粋に一部企業や業界の利益を守るか否かという問題であって、電力が足りる足りないとか、景気が上がる下がるとか、一切関係がないのよね。原発を今やめると膨大な損をする人たちがいる、それを国民が守ってやるかどうか。おこぼれは来ないよ。(野間易通)

貿易赤字や石油価格の上昇の可能性などを考慮してないだって?
まあいいじゃないか、でもこれはやっぱりこうなんだよ
原発再稼動容認なんてのは金持のための社会主義だね、

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008


いずれにせよ、ツイッターでどんな発言をしても「政治的」になるんだよ

象徴的権威の崩壊が意味するのは、どの倫理的体系も最も根源的な意味で「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とはまさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし他人と協議することである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私意訳)

どうも文芸のたぐいを呟いていると
原発再稼動だけでなく、レイシズム、ネオナチの猖獗という
《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に
無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
をやっぱりしている気がするんだな
ツイッターでのさえずりはすべて「政治的」であることに自覚しなくちゃな

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、……( 同蓮實重彦『凡庸』)

もっとも谷川俊太郎のような態度を否定するものではまったくないさ
《詩を読んで人が心動かされるのは、
言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。
古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた》

詩だけでなく「芸術」は本来こういったものだろう
だがこういった態度をもつ「芸術家」が
湿った瞳を交し合ったり頷き合ったりするものだろうか
芸術愛好家のきみたちのように「かまってチャン」するもんだろうか

もちろんいまどきプルーストはどこにもいないかもな
《プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。
最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、
もっぱら月光のもとでのみ外出し、
ひたすら執筆に没入した。
記述を読むと鬼気がせまってくる。》(中井久夫)

未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

《ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、
事変はそのたびに、作家たちに、
そのような書物を判読しないための
べつの口実を提供したのだった》だって?

だったら「芸術家」たちが政治的発言するのは
真の創造的行為をしないための「口実」かもな

もっともプレヒトの言葉はあるがね

私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)


まあいいさ、ひとそれぞれだからな
だが仲良し子良しさんたちは
自らの「高度な政治的選択」だけは自覚しておけよ
きみらのようなインテリのつもりだか
感性がユタカだかのつもりになっている輩が
闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら
「やれやれ」と肩をすくめてみせる、
去勢されたアイロニカルな自意識の
マジョリティをいっそう鼓舞してんだからさ

サラエボの傘まで否定するつもりはないからな、オレは

雨よりも遙かに危険な砲撃に対して傘がまったく無力であり、それがいつ自分の頭上に炸裂するかもしれないと知っていながら、彼らは、それでも傘をさして外出するし、傘の選択には自分の趣味を反映させさえするだろう。それが現実というものにほかならず、砲撃から身を守るのに無力だという理由で、雨の日に傘を差す人々を嘲笑するのは、非現実的である。(蓮實重彦「柄谷行人 またはサラエボに住む人々も、雨が降れば傘をさして外出する」『「国文学解釈と鑑賞」別冊 柄谷行人』一九九五年所収)