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2014年9月29日月曜日

ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語り

おまえ、馬鹿だなあ
騙されるなっていっただろう
コメントへの応答だって架空かもしれねえじゃないか
ドストエフスキーの《非ユークリッド》的語りのバクリだとか、な

《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》

ーー以前、削除してしまった記事、貼り付けておくよ

…………

◆『ドストエフスキー』[著]山城むつみ [評者]奥泉光(作家)より。

本書で著者が分析の主要な武器としたのは、バフチンの「ラズノグラーシエ」なる概念である。「異和」と訳してよいこのロシア語こそがドストエフスキーを読み解く鍵であると著者はいう。では「ラズノグラーシエ」とは何か?

 たとえば、ここに死の床にある男がいる。彼は自分の人生は満足すべきものであったと考えている。そこへ誰かがやってきて、「あなたの人生は満足できるものだった」という。もちろん男はそう思っているわけだし、その声に当然唱和するはずである。ところが、自分でそう思っているにもかかわらず、他人から同じことをいわれたとたん、男は激しい異和に襲われてしまう。他者の声で言葉が響くとき、同じ言葉であるのに、まるで違う、むしろ正反対の意味を帯びて聴こえてしまうのだ。ドストエフスキーの小説の人物たちは、たえずこの「異和=ラズノグラーシエ」にさらされる。つまり自己と他者の間には越え難い閾(しきい)があって、言葉の意味は閾の強烈な磁場のなかでねじ曲がり、言葉が予想のつかぬ運動をして渦巻くのが、ドストエフスキーの小説のあの熱感の秘密だと著者は解析する。

 さらに興味深いのは、小説作者のかたりですら、この異和を引き起こす事実である。死の床にある男。彼の内面を作者はもちろん描ける。透明なかたりでもって、「自分の人生は満足すべきものだった」と男に内語させることは容易だ。ところがドストエフスキーの人物たちは、そうしたニュートラルな作者の声にすら異和を覚える! 彼らは「違う」と作者に向かって反発する。作家が人物の内心を描くという行為そのものが、人物のありかたを揺るがしてしまうのだ。結果、小説はどこへ向かうか分からぬものになり、作家は自己の創造した人物たちとの「対話」をひたすら続けるほかなく、目指す場所へと至る奇跡を祈り願いながら言葉の秘境をさまよい歩く。


◆バフチン「ドストエフスキイ論」(柄谷行人『探求Ⅰ』より)。

この予想して先廻りすることには独特の構造上の特徴がある。それは悪しき無限となる。相手の応答に先廻りするということは結局自分のために最後の言葉を保留すると同じことである。最後の言葉とは主人が他者の視線や言葉から完全に独立している、他者の意見や評価に全く無関心であるということを現わすものでなければならぬ。ところが主人公は、自分がひとの前で懺悔し、ひとの許しを乞い、ひとの判断や評価に頭をさげ、自分の確信はひとの是認や承認を必要していると、ひとが考えはすまいかということをなによりも恐れているのである。こういう傾向を持っているので彼は他者の応答に先廻りする。ところが答えを予想し、その先をこすことによって彼は新たに相手(と自分自身)にむかって自分は相手から独立していないのだということを示しているわけだ。彼は自分がひとの意見を恐れていると、ひとが思いはしないかと恐れる。だがこの恐れによって彼は自分が他者の意識に依存し、自分自身の判断に安んじることはできないことを示しているに他ならない。彼は自分の反駁によって自分が反駁しようとしたことを肯定していることになり、しかしそのことを自分で承知している。ここからきりのない堂々廻りが始まり、そのなかへ主人公の自己意識と言葉がまきこまれていう。《いや諸君、諸君はこう思ってるんじゃないかな、わたしがなにか諸君のまえに懺悔し、しかも許しを乞うているとね……諸君はそう思っているに違いない……ところが、言っておきますがね、諸君がどう思おうと、わたしにはどうでもいいんだ》である。(バフチン「ドストエフスキイ論」新谷敬三郎訳)

《これは過剰な自意識というものとはちがっている。また、サルトルがいったように、対自存在に対して抗おうとすることともちがっている。《他者》は、「地獄とは他者」(サルトル)よいうような他者ではない。バフチンが、ドストエフスキーの人物たちは他者によってモノ化されてしまう意識の「自由」をぎりぎりのところで確保しようとするのだというとき、どうもサルトル的にみえてくることは否定しがたい。

しかし、実際はその逆のように思われる。彼らが「語る」のは、他者を「説得する」(教える)ことにほかならない。たんに事実言明的constantiveな語りは、彼らにはありえない。《他者》とは、いわば、言語ゲーム(規則)を異にする者のことである。彼らは、何かをしゃべればそれが他者に或る意味(規則)で理解(誤解)されてしまうということを惧れている。だが、彼ら自身のなかに、明示しうるような規則(意味)もないのである。ドストエフスキーの人物たちを緊張させているのは、「教える」ことに存するパラドックスなのだ。

ドストエフスキーの小説が対話的なのは、人物たちが対立しあい多様な意見を「語る」からではなく、そんな意味ではもはや「語り」えないからである。われわれは、言語ゲームを共有するかぎりで語り合うことができ、対立することさえできるだろう。が、もしそうでないとしたら、「他者に語る」ことは戦慄すべき事柄である。ドストエフスキーの人物たちは、誰もが相互にこのような《他者》に直面しあっている。ここでは、客観的な言明も、私的な内面もありえない。むろん、そこから生じる涯しない饒舌の対極に、沈黙(ソーニャ、ムイシキン、ゾシマ長老)がある。だが、この沈黙も、饒舌と同様に、“他者”とのあいだにひらかれた「深淵」(キルケゴール)を飛びこえようとする言語行為なのである。

「人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである」と、バフチンはいう。「他者の言葉」とは、くりかえしいうが、異なった言語ゲームである。同一の言語ゲームに立つかぎり、どんな対立や葛藤があろうと、モノローグ(独我論)的である。逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。逆に、そのような他者の前でのみ、自己の単独性が存する。》(柄谷行人『探求Ⅰ』P168-170)


……今日まで批評家や研究者はドストエフスキーの主人公たちの思想にとらわれてきた。作家の創作の意志は明確な理論的認識にまで達していない。思うにポリフォニイ小説の迷宮に入りこんだ人びとはみんなそこに道を発見できず、個々の声たちの背後に全体を聞きとれないでいる。しばしば全体の漠然たる輪郭すら捉えられず、声たちを結び合わす芸術の原理は全く耳に入らない。ひとはそれぞれ勝手にドストエフスキイの最後の言葉をあげつらい、しかもみんな一様にそれをひとつの言葉、ひとつの声、ひとつの抑揚〔アクセント〕だと思いこんでいる始末だが、そこに根本の間違いがある。ポリフォニイ小説の言葉を超え、声を超え、アクセントを超えた統一の世界は未開拓のままに残されている。(バフチン『ドストエフスキイ論』)

《ぼくはドストエフスキーのなかに、人間の魂の、度はずれに深い、だがあちこちの地点に孤立している、いくつかの井戸を見出します……あの道化役者たちも、『夜警』の人間とおなじように、照明と服装の効果でしか幻想的ではなく、ほんとうはどこにでもいる普通の人間なのかもしれません。……ただぼくをうんざりさせるのはね、人がドストエフスキーについて語ったり書いたりしているあの肩肘をいからせたいかめしさですよ。あなたは彼の諸人物の内面で演じている自尊心と誇の役割に注意したことがある? 彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです……ドストエフスキーといえばね、さっきはぼくはあなたが思うほど彼から一転してトルストイのことを話しているわけではなく、トルストイはじつは大いにドストエフスキーをまねているのですよ。ドストエフスキーのなかには、やがてトルストイのなかで満面のほころびを見せるものが、まだしかめっ面をした、不平そうな顔で、たくさん詰まっているのです。ドストエフスキーのなかには、やがて弟子たちによって晴れやかにされる、プリミティヴ派のもつさきがけの不機嫌さがあるのでしょうね。》(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

……それはカーニバル独特の時間であり、まるで歴史の時間から飛び出し、カーニバル独特の法則によって流れ、急激な転換と変身とを無限に内包しているところの時間である。かかる時間――もっとも、厳密にいうとカーニバルの時間ではなく、カーニバル化した時間――こそドストエフスキーが彼独自の芸術的課題を解決するのに必要だったのである。彼がその内部の深い意味を描き出したところの閾のうえや広場での事件、あるいはラスコリニコフ、ムイシュキン、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフといった主人公たちは日常の生物学的、歴史的時間では明らかにすることのできないものであった。いやポリフォニイそのものが、それぞれ全権を有し、しかも内的に完結することのない意識たちの相互作用の事件として、時間や空間の全く別な芸術的概念、ドストエフスキイ自身の表現を用いると、《非ユークリッド》的概念を要求したのである。(同バフチン『ドストエフスキイ論』)

…………

◆ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。こういう理由からディスクールにおいてはつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たります。というのは、意味sensは、意味があるのは常にその彼方ですから、むしろその人が言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。


◆柄谷行人『探求Ⅰ』より

言葉が話し相手に向けられていることの意味は、はかりしれないほど大きい。実際、言葉は二面的な行為なのである。それは、それが誰のものであるかということと、それが誰のためのものであるかということの、二つに同等に規定されている。それは、言葉として、まさに、話し手と聞き手の相互関係の所産なのである。あらゆる言葉は、《他の者》に対する関係における《ある者》を表現する。言葉のなかでわたしは、他者の見地にみずからに形をあたえる。と言うことは結局、みずからの共同体の見地からみずからを表現する。言葉とは、私と他者とのあいだに渡されたかけ橋なのである。もしそのかけ橋の片方の端が私に立脚しているとすれば、他方の端は話し相手に立脚している。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである。

だが話し手とはいったいなにものであろうか? たとえ言葉が全面的にはその者に属さないーー、いわば、彼と話し相手の境界ゾーンであるーーにしても、やはりたっぷり半分は言葉は話し手に属している。(パプチン「マルクス主義と言語哲学」桑野隆訳)

いうまでもなく、彼は、話し手と話し相手の両方が同時にみえるような「客観的」立場に立っているのではない。むしろ、“対話”とは「命がけの飛躍」であり、「私と他者とのあいだに渡されたかけ橋」は、それを渡るというより飛びこえるほかないものだといわねばならない。「言葉が話し相手に向けられているということ」は、話し手自身にとって「意味している」という特殊な内的経験などは存在しない、ということを意味する。フッサールがいうような「孤独な心的生活」においては、意味というものが“意味をなさない”のだ。そのかぎりで、“対話”は、独我論(方法的独我論=現象学)に対する決定的な批判の視点となりうるだろう。それは、われわれが「教える」側の視点と読んだものにほかならない。

パプチンは、近代の哲学・言語学・心理学・文学などは、すべてモノローグ的であり、単一体系性のなかに閉ざされているといっている。それに対して、彼は、ポリフォニックな、多数体系性を対置する。個人の意識に問いただすかぎり、われわれが見出すのは、きまって単一(均衡)体系である。ニーチェがいうように、「私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている」(『権力の意志』)からだ。しかし、多数(不均衡)体系を、たんにそれに対置するだけでは、何もいったことにならない。P21-22

柄谷行人は後年、次のように書いている。

前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これはカントの「無限判断」、ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」、さらにはジジェクによればラカンの非-全体の論理に関係する(参照:「密閉した全体じゃない」)。

ドストエフスキーの「他者」が超越論的な他者であるなら、ドストエフスキー小説の語り口は超越論的であるといえるだろうし(もちろんそれだけではない)、それは「無限判断」、「家族的類似性」、「非-全体の論理」にもかかわる。

カントの哲学は超越論的――超越的とは区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

「超越論的」とは、すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(柄谷発話 『闘争のエチカ』P53)ということになる。

ここで浅田彰の発言を挿入しよう(共同討議『トラウマと解離』 2001)。

メディア環境がどんどん解離的な状況を作り出す方向に向かっているのは、よく言われるとおりで、かなりの程度まで事実だろうと思います。メディアに接続することで、ここにいる自分とメディア空間の中の自分が多数多様なペルソナーー場合によっては性を年齢も異なったーーを演じ分けることができる、云々。

また逆に、そこから人間自身の捉え方も変わってくるんですね。統一性のもった心身で手ごたえのある世界を体験する、それこそがリアリティだと言うけれど、哲学的に反省してみれば、実はそれもヴァーチュアル・リアリティのひとつに過ぎない、と。

そもそも、人工知能のパイオニアのミンスキーが『心の社会』という表現を使っているように、心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるけれど、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ、と。(……)人口知能で複数のモジュールを並列的に走らせる実験から逆に類推して、人間だって同じようなものだと考えるわけです。

こうした流れが、フロイトからジャネへの退行にもつながるわけでしょうし、柄谷行人流に言えばカントからヒュームへの退行につながるわけでしょう。ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、と考えている。自己の一貫性と言ったって、選挙で内閣が替わっても外国との約束は引き継ぐという程度のものだ、と。ヒュームによるそういう徹底的な解体の後に、カントが、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図るわけですね。(……)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。


木村敏『時間と自己』より

われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら!きのううだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。

ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』P150)







2014年9月23日火曜日

ジャン・ジュネの「どろぼう」というシニフィアン

”Ordinary psychosis: the extraordinary case of Jean. Genet”(Pierre-Gilles Gueguen) は、ジュネを「倒錯」ではなく、「普通の精神病」タームで解釈し直そうとする小論だが、そこでの議論を簡略に記せば、養母に愛されていたよい子のジュネーー引っ込み思案で少女たちと遊ぶことを好む、あるいは教会の少年合唱団員だったらしいーーその彼が、母親の財布から小銭をくすねて飴玉のたぐいを友人に振舞った十歳前の行為、それに引きつづき、サルトルが『聖ジュネ』で特筆したことで有名な、近所の雑貨屋の些細なものの盗みの際の、年輩の女性からの「あんたはどろぼうよ!」の指弾からジュネが受けた衝撃、更にその直後の養母の死、などの伝記的「事実」から、母親とのイマジネールな関係(鏡像関係)にあったジュネ(あるいは緩やかな「父の名」の排除という精神病的構造にあったとも解釈される)が、「どろぼう」というシニフィアンを、なかば空席の「父の名」の場に押しいれて、それと「同一化」したのではないか、というものだ。

――ただし、この議論によって、ジュネが「倒錯」であるのか「普通の精神病」であるのか、あるいはいわゆるボーダーラインであるのかは、わたしには判然としないし、ここでの話題でもない。

Pierre-Gilles Gueguenはミレール派であり、ここで、若いラカン派の精神科医松本卓也氏のツイートから、J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009の「父の名」の説明を掲げておこう(一部、編集)。

・身体の外部性.普通の精神病では,身体が自己に接続されず,ズレをはらむことがある.たとえば、ジョイス『若い芸術家の肖像』の身体落下体験.この身体の不安定性に対する対処行動として,ミレールは「タトゥー」をあげている.「タトゥーは身体との関係における父の名になるだろう

・ 主体の外部性については、次のような側面もある。普通の精神病では,独特の空虚感がみられることがある.もちろんこのような外部性は神経症でもみられうるものであるが,普通の精神病の場合はdialectiqueがないこと,つまりその空虚感を弁証法的否定することができないことが相違点であるとされる.

・また、排除の一般化として、後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名に似た機能を果たせば何でもいい

刺青が「父の名」となるのなら、「どろぼう」というシニフィアンが「父の名」となってもなんの奇妙なことはない。

最晩年のラカンは次のように語っている。

“Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente — ce signifiant, il le reçoit, et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Nos signifiants sont toujours reçus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?”(J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979)

どんな場合でも、私が今言っていることはシニフィアンの発明は記憶とは異なった何かだということだ。子供が発明するのではないーー彼はシニフィアンを受け取るのだ。そしてこのことでさえ、もっとそうすることはやりがいのあることだ。われわれのシニフィアンはつねに受け取られる。どうして新しいシニフィアンを発明していけないわけがあろう。たとえば、現実界のように、まったく意味のないシニフィアンを。(私訳ーーいいかげん訳)

これはサントームの発明にもかかわるはずだし、ジュネの「どろぼう」のシニフィアンも「刺青」の話も同様。

the sinthome has a universal place as the way in which each subject may singularly knot his psychic structure, or form a social bond with the Other. In such a clinic, the Name-of-the-Father is merely one form of the sinthome. The Name-of-the-Father is merely an especially stable form of knotting. ("Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant." Thomas Svolos)

後期ラカンにとっては、「父の名」とはサントームのひとつの形に過ぎないのであり、Pierre-Gilles Gueguenの話もミレールの話も、サントームへの言及がないにもかかわらず、サントームの話に相違ない。

《“Sinthome” : symptôme (symptom), saint homme (holy man), Saint Thomas (the one who didn't believe the Other – Christ – but went for the Real Thing).》

ジジェクは90年代初頭にすでにこのように書いている。

外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。(ジジェク『斜めから見る』)

最近の見解の一部(『LESS THAN NOTHING』(2012)は、「メモ:「幻想の横断」(症候との同一化)とサントーム)」を参照のこと。


…………

ところで子供の「盗癖」は、ファルスを「持つ」、あるいはファルスで「ある」に関わる大人への抗議、つまり「わたしは男なのか、女なのか」という大人への問いかけであるというのがフロイト以来の精神分析学の通念であるようだ。大岡昇平の『幼年』には、《盗癖は、私の生涯の汚点であり、成長しても私の心に重くのしかかった》とある。大岡氏は「お袋の財布から小遣いをちょろまかす」、おそらく多くの子供がそれをなし、後年になっても取り立てて重大視しないだろう記憶に長年拘ったのが分るが、つまりは「それを悪いと思うか、思わないかにかかって来る」のであり、幼少時に盗癖があったかどうかは肝要ではない(大岡氏は幼い頃仏壇に向かって「自分を女の子にかえて下さい」と祈ったという記述もある)

ーーこの大岡昇平の、後年盗癖を悪いと思う、すなわち生涯の汚点であるとする態度は、遡及的な外傷にもかかわるはずだ。

遡及的な外傷とは次のようなことである。たとえば、子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなく、なんら衝撃を受けたわけではない。意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。だが後年性的な袋小路に遭遇して子供は幼いときの記憶を引っ張り出す、それが遡及的に外傷化されるという意味である。内的なトラウマと言われるものはオリジナルな外傷があるのではなくて、多くの場合、このような遡及的な外傷だとされる。(参照:「原初とは最初のことじゃないんだよ」)


あるいはGueguenによるジュネの「よい子」をめぐっては、中井久夫の記述を引いておこう。

分裂病者の幼少期は、多くが「よい子」であるといわれるが、この手のかからず、めだたず、反抗しない、“すなお”な「よい子」とは違う意味で、うつ病者の幼少期も、多くは「よい子」である。ただし、かいがいしい、よく気のつく、けなげな「よい子」であるようだ。(……)どちらも「甘えない」子であるが、分裂病者の幼少期が「甘え」を知らないか「甘え」を恐怖するのに対して、うつ病者の幼少期は「甘え」をよくないこととして断念している印象がある。いや、親をいたわり、「甘えさせる」子であることすら多い。(「執着気質の歴史的背景」『分裂病と人類』所収)

※ここで言われる「分裂病」は、ラカン理論では、「精神病」の下位分類である。



ジュネが幼少期に育った地は、パリの南東250キロの中央山塊の麓、林業と農業が盛んなアリニィ村で(当時人口1650人)、里親は50歳をこえていたレニエ夫妻でした。このアリニィ村があるモルヴァン地方は、パリの金持ちの赤ん坊の面倒をみる乳母の輩出地として当時名をはせ、あちこちに「乳の家」と呼ばれる豪華な家が建てられました(……)。フランス全土の孤児のなんと3分の1がこの地方に受け入れられていたのです。壊滅した石炭産業の代わりに「里親業」が”地域産業”として促進されたのがその理由でした。ウィキペディア日本語版は、レニエ夫妻のことを単に木こりとして紹介していますが(英語版はcarpenterー大工)、実際にはレニエ夫妻の家は、「教会」と「学校」(この2つは少年ジュネになんと大きな影響を与えたことか!)の間に挟まれて建っていた大きな家でした。

あるいはこうもある、《他の多くの里子と比べ、ジュネはその幼少期、3つ程の点で幸運だったようです。一つは、一日中忙しい農家ではなく職人の家が里親で、しかも比較的裕福で本を読んだり勉強する時間がたっぷりあった(養母はジュネが聖職者になることを望んでいた)。二つめは家の隣が学校だったこと(……)。そのため学校の図書館が自分の部屋の本棚のような感じで、好きな先生にもよく会いに行きいろいろ刺激を受けることができたことでした。ジュネは学校の図書館の本をすべて読んだというほど読書好きだったようです。》《里子は小学校を終えると(13歳)、養家から引き離されることになっていたため、いくら成績がよくとも上の教育を受けることは制度上叶わないことになっていました。職業訓練校に入学したジュネは(擁護施設出身者として滅多にない栄誉と考えられていたという)すぐに失踪事件を起こし退校処分をくらいます。そして送られたパリで、ジュネは過激に変わっていくのです。》

十歳時の「盗み」は、ここで「凡庸」に語ることが許されるなら、まずは、この捨子の宿命を課す社会的システムへの抗議ともいえるだろう(あるいは近い将来、イマジネールな愛に浸っていた養母から引き離されることへの怖れ、絶望)。

《この里親があまりにも立派だったため、ジュネは後年、里親には鞭でよく折檻されたものだと「伝説づくり」をしなくてはならないほどでした(『泥棒日記』にも当初、里親のことを立派な人たちだったと書いたが後に削除している)》ともある。

『泥棒日記』には、たしかに里親の記述はわずかしか出てこない。

次の文は、後年、「泥棒」となり、街を歩いているときの記述。

わたしは不用心な振舞いを次々と行う、――盗んだ自動車に乗ったり、盗みを働いた直後にその店先の前を歩いたり、偽造であることが一目瞭然であるような身分証明書を差出したりする。わたしは、まもなくすべてが壊滅するだろうという気持を味わう。わたしの不用心な行動は重大な結果を招きうるものであり、そしてわたしは、光明の翼を持った大破綻がごく小さな過失から生じるだろうということを承知している。P300

この文の原注にこうある。

誰がわたしの破綻を阻止しうるだろう。大破綻について語った以上、わたしはわたしが見たある夢をここに記さずにはいられない。一台の機関車がわたしを追いかけていた。わたしは鉄道線路の上を懸命に走っていた。すぐ背後に機関車の荒々しい息づかいが聞こえていた。わたしは線路から野原へ走り出た。しかし意地悪にも機関車はあくまでわたしを追いかけてきた。が、ある小さな、か細い木の柵まで来ると、優しく、丁重に、止まった。そしてわたしは、その境界柵が、わたしを育ててくれた農夫の所有地で、子供の頃わたしが始終雄牛の番をしていた草原を囲っていたものだということに気づいたのだった。ある友人にこの夢の話をしたときわたしは言った、「……汽車はおれの少年時代の境界まできて止まったんだ」と。

もう一つ、友人の喪のために花を盗む、そこでの《花を盗むという行為は、死者への訣別の慣例的作法を果たすことができないという絶望感によって招来された》倫理的な、ひとつの英雄的行為なのだ、と語る文脈で次のような記述がある。

……そのとき、わたしがまだ子供だった頃のある日曜日に、村の墓地で、わたしを育てていてくれた農婦が、あたりをそっと見回した後、誰のだか知らないま新しい墓から一本の金盞花を抜きとって、それを彼女の娘の墓にさしたのだった。どこからであろうと、愛する死者の柩を飾るために花を盗んでくることは、盗んだ人間の心を決して満足させない行為であることを、ギーも理解していたのだ。P328

具体的に出てくるのはこの二箇所だけだ。そしてその二箇所は、あまりにも多くの解釈を誘発させる叙述ではあるが、そんな愚かな真似をしてジュネの「歌」を汚すことはしまい。

※「泥棒日記』には、「生みの母」をめぐっての叙述はそれなりにある。ここでは一つだけ挙げよう。

もしその頃わたしの母にめぐり会っていたならば、そして彼女がわたしよりもさらに卑しい境涯にあったならば、わたしは彼女と共に上昇をーーもっとも、言語の一般の慣例ではこのかわりに堕落その他いずれにしろ下へ向う運動を表わす言葉を用いることを要求するらしいが、――困難な、苦しい、汚辱へと導く上昇を懸命に遂行しただろう、わたしは彼女と共にこの冒険に従事し、そしれそれを書き記しただろう、最も卑しい言葉――それが表現する行為の点で、あるいは辞句そのものとして、――最も卑しい言葉を愛によって光輝あらしめるために。P127

 いずれにせよ、『泥棒日記』は「半自伝」ではあるにしろ、それが過去を現在によって構成したものにすぎないことにジュネはすこぶる自覚的である。

わたしがこうして言葉によって当時のわたしの精神的態度を再構成しようと試みているとしても、読者もわたしと同様、決して瞞されはしないだろう。我々は、言語がこうしてすでに死に去った状態、したがって現在と異質な状態についてはその反映さえも喚起することができないことを知っている、この日記全体についても、もしそれがわたしがかつてそうであったところのものについての記述を意図しているとしたら、同じことが言えるだろう。それゆえ、わたしはこの日記は、それを書いている現在わたしがそうであるところのものについて何事かを知らせるためためのものだということを明確にしておこう。それは、過ぎ去った時を索めるのではなくて、わたしの過去の生活がその托言材料〔プレテクスト〕であるところの一つの芸術作品なのだ。それは、過去の援けをかりて定着された現在、となるべきものであって、その逆ではない。したがって、ここに語られているいろいろな事実はわたしが述べるとおりのものであったこと、しかし、それからわたしが引出す解釈はわたしが現在そうであるーーそうなったところのものを表すことそ承知していただきたい。p98わたしがサンテ刑務所で、ものを書きはじめたとき、それは決してわたしのさまざまな感動をもう一度生きるためでも、また、それらを人に伝達するためでもなく、それらの感動によって課せられた、それらの感動の表現をもって(まだ第一にわたしにとって)未知の一つの(精神的)秩序を組み立てるためだったのだ。P246


※追記:Pierre-Gilles Gueguenの《泥棒も売淫も他者から何かを抜き出すことであり、所有はジュネにとって重要性を持たない》をめぐって(『泥棒日記』より)。

・才能とは、素材に対する礼譲にほかならず、それは声なきものに歌を与えることなのである。P155

・裏切りと、盗みと、同性愛が、この本の本質的な主題なのだ。それらは互いに連関関係にある。この連関は必ずしも常に露わではないとしても、わたしには少なくとも、わたしの裏切りと盗みへの嗜好とわたしの情事とのあいだに、一種の血脈的交流が認められるように思われるのである。P245

・たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。P279

・わたしは今、絶望のただ中における至高の幸福というものの現実に、鋭い注意を注ぎたいーーすなわちそれは、人がただ独りで、突然、自己の急激な破滅に直面したとき、人が自己の作品(事業)と彼自身との取返しのつかない崩壊に直面したとき、である。わたしは、わたしがそれを知っているということを何人も知らない、ひそかな、絶望の状悲を経験するためならばこの世のありとあらゆる財宝を手離すだろうーーそのために事実それらを手離さなければならないのだが。ヒットラーがただひとり、彼の宮殿の地下壕の中で、ドイツ敗北の最後の刻に、確かに、この純粋な光明の一瞬――脆くそして堅固な、曇りない意識――自己の失墜の自覚を、経験したはずだ。P303

・裏切る者が自己の背信を自覚していること、彼がそれを欲し、そして彼を人間仲間に結びつけていたもろもろの愛の絆を断ち切ることができさえすれば十分なのだ。美を得るために不可欠なものーー愛。そして愛をぶち壊す残酷さ。P356

棄子であるということのために、わたしは孤独な少年時代と青春とを持った。泥棒であるということが、わたしに泥棒という職業の独異性を信じさせた。おれは怪物的な例外なのだ、とわたしは自分に言い聞かせていた。事実、わたしの泥棒への嗜好、泥棒としての活動は、わたしの男色癖と関係があったのであり、この、それだけですでにわたしを世の常ならぬ孤独の中に閉じこめるものであった性癖から派生したものだったのだ。盗みという行為がどれほど広く行われているものであるかということに気づいたとき、わたしの驚きは大きかった。わたしは一挙に月並みさの中に投げこまれてしまったのだ。それから抜け出すために、わたしが必要としたのは、ただ、わたしの泥棒としての運命を自己の栄光とし、この運命を希求するだけでよかったのだ。人はこれを負け惜しみと見なし、馬鹿どもはそれを冷笑した。人はわたしのことを悪しき泥棒だと言うかもしれないが、そんなことは問題ではない。泥棒という言葉は、その主要な活動が盗みであるところの人間をさす。そういう人間からーー彼がこう呼ばれているかぎりーー彼の中の泥棒以外のあらゆる点を除去して、その人間を明確化するはらたきをする。彼を単純化するのである。ところで詩〔ポエジー〕は、彼の、泥棒という境涯への最も深い自覚にあるのだ。もちろん、泥棒以外のいかなる境涯の場合でも、その人間に名称を与えるほどに本質的になることができる自覚ならば、それもまた同様に詩であろう。しかし、いずれにしろ、わたしの独異性への自覚が、盗みという一つの非社会的活動によってよばれるということはよいことである。P358


ーーこの最後の引用文をどう読むかは、われわれの自由だが、男色癖は泥棒から派生したものであり、この時点でのジュネにとって「泥棒」というシニフィアンがいかに重要だったかが露さまに書かれているには相違ない。

上の引用のなかにジュネの優雅さをめぐる文がある、《たとえ彼らが、それが人に害悪を与えるということによってある行為を嫌悪すべきものであるとわたしに証明しうるとしても、ただわたしだけが、それがわたしの裡に湧きあがらせる歌によって、それが美しいかどうかを、それが優雅であるか否かを決定しうるのだ。ただわたしだけが、それを拒否、あるいは是認いするのだ。人は決してわたしを正道に連れ戻すことができないだろう。》

この「優雅さ」をめぐって、ジュネは重ねてこう書いている。おそらくジュネが『泥棒日記』にて、最も強調したかったこと、--少なくともその代表的なひとつだろう。

わたしは(……)、それが優雅であるかどうかが行為の価値を決める唯一の規準だといった。わたしが裏切り行為を選びとるということを確信しても、それは上の言葉と決して矛盾しない。裏切るということは、神経的な力と優美さとからなる、優雅な、美しい行為でありうるのだ。

才能とは、素材に対する礼譲にほかならなず、それは声なきものに歌を与えることなのである。わたしの才能は、刑務所や徒刑場の世界を構成するものに対してわたしが寄せる愛以外のものではないだろう。わたしは決してそれらのものを変化させること、それらをあなた方の人生にまでいたらせることを欲するのでもなく、また寛容や憐憫をもってそれらに対するのでもない、―――わたしは泥棒に、裏切り者に、殺人者に、邪悪な者、狡猾な者たちに、あなた方にはないと考える、深い美しさ―――落ち凹んだ美しさ―――を認めるのである。


2014年8月6日水曜日

「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」

あなたは語る、だが誰に向けて?
何処かに受け手はいる、
それは究極的には己自身かもしれなくても

話し手 → 受け手

受け手はあなたの話を聴いて
なにやらかやらを思いつく

話し手 → 受け手
         ↓
        生産物


ここまでは古典的なコミュニケーションの形にすぎない

だがフロイトが示したのは
われわれがなにかを語るとき、
われわれ自身の知らない「真実=無意識」に
衝き動かされて(driveされて)話していること


話し手 → 受け手
 ↑       ↓
 真実    生産物


これをラカンは次のように書いた





これは四つのディスクールのベースとなる形式的構造である
agent(審級)、other(他者)、product(生産物)、truth(真実)の
四つの空箱のなかに、
S1(主人)、S2(教育者)が、
a(分析家、あるいは対象a)、$(分裂した主体、欲望)が入る




主人のディスクールをベースに
右回りしたり左回りしたりする
ラカンのセミネールⅩⅩ(「アンコール」)での表現
regressionとprogress(フィンク英訳)に注目しておこう



※参照
As we consider this theory to be a condensation of Lacan’s evolution, every bibliographic reference to his work is too limited; that is why we will avoid giving concrete references in this paper. The theory itself was coined during the seminar of 1969-70, L’Envers de la psychanalyse (Paris, Seuil, 1991, pp.1 – 246), Radiophonie (Scilicet, 1970, nr.2/3, pp. 55-99) and the next seminar: D’un discours qui ne serait pas du semblant. A further elaboration can be found in Encore, the seminar of 1972-73. (FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES Paul Verhaeghe)

ーーおそらくラカンの四つのディスクールの解説としては、ヴェルハーゲの『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY』と、より最近の『Teaching and Psychoanalysis: A Necessary Impossibility』が水際立っている。彼は、四つのディスクールとアンコールの性別化の図式をラカン理論の華と呼んでいる。

From Impossibility to Inability--I had expected a literal translation of Lacan’s blunt “impotence”--on the theory of the four discourses, is one of the best available presentations of this aspect of Lacanian endeavor.(Roberto P. Neuburger

もっともヴェルハーゲはラカンの五つ目のディスクールと言われる「資本家のディスクール」には触れていない。

…………

ところでラカンがフロイトの遺書と呼んだ
1937年の論文でフロイトはすでにこう書いている

分析analysieren治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能の職業」といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育edukierenすることと支配するregierenことである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

ただしフロイトは一番肝心な「欲望desire」を書き落としている

こうして四つの「不可能な職業」が出揃った
regierenはS1(主人)
edukierenはS2(教育者)
そして$(欲望)、a(分析家analysieren)

ラカンの四つのディスクールの要点は、
話し手の「内容」ではない、「形式」なのだ
空箱のなかになにが入ろうとも
生産物と真実は一致しない
それがインポテンツなのは
「真理は半分しか言えない」(ラカン)
 “le mi-dire de la vérité”
すなわちインポシブルだからだ(逆も真なり)

真実と生産物のあいだに”//”とあるのはこのゆえである
話し手は、みせかけ(semblant)に過ぎない
とはこのことを意味する

フロイトなら
「自我は自分自身の家の主人ではない」
“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”
ラカンヴァージョンなら
「シニフィアンは、主体を他のシニフィアンに対して代表象する」
 “Le signifiant, c’est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”

人類は時の流れのなかで、科学のために二度その素朴な自惚れに大きな侮辱を受けねばなりませんでした。最初は、宇宙の中心が地球ではなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分であることを人類が知ったときです。・・・二度目は、生物学の研究が人類の自称する想像における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性は消しがたいことを教えたときです。この価値の逆転は、現代においてダーウィンやウォレスやその先人たちの影響のものと、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。ところが、人間の誇大癖は、三度目の、そしてもっとも手痛い侮辱を、今日の心理学的研究によってあたえられることになります。自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない、ということを、この心理学的研究は証明してみせようとしているのです。人間の反省をうながすこの警告もまた、私ども精神分析家が最初に、しかも唯一の警告者として提起したものではありません。しかし、この警告をもっとも強力に主張し、一人一人の胸に身近にひびくような経験材料によって裏書きすることは、私どもにあたえられた使命であるように思われます。このためにこそ、私どもの学問に対して総反撃が起こり、いっさいのアカデミックな丁重さはかなぐり捨てられ、公平な論理からはまったくはずれた反対論が起こったのです。( フロイト『精神分析学入門』)


言表行為と言表内容といわれるものも
四つのディスクールの形式的構造のヴァリエーションにすぎない
すなわち人間の発話にどうしようもなく本来的にそなわってしまう
言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差
(発話者の「言表内容」と無意識の「真理=言表行為」との間のギャップ)

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。(ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』)

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』)ーーただし「行間にはなにも書かれていません」、あるいは次の蓮實重彦の諌めをつねに忘れてはならないだろう。

「小説には、面白いことがいっぱい書いてある。私は人間に興味がある。それは、『目に見える運動』であって、見えない彼らの考えではない。見えないところに逃げてはならない。目に見えるものだけで判断せよ。映画もそうですね」(構想45年!蓮實重彦さん「ボヴァリー夫人」論

そもそもまがいの「深読み」などという振舞いは
いまここにあるものを見ずにすましてしまう傾きをもってしまう

いまここにあるはずの「作品」をいったん虚構化してなかったことにして、逆にいまここにはない不在の作者の思想を問題化し、隠された意味をさぐるべく距離の彼方へ視線をなげかけるという仕草をともなうが故に、すぐれて抽象的な運動だということになろう。(蓮實重彦の「大江健三郎殺し」

さて話をもとに戻そう
いやわたくしはこうやって思いもよらぬ方向へ運ばれていくのを
楽しんでいるところがある
(ーーと書く言表内容ではなく、言表行為はなにを示しているのだろう?
と問うてもよい)

これら錯綜して引用される文は場合によっては
インターテクスチャリテでありときには反撥しあう
ああ「不確実性の知恵」(クンデラ『小説の精神』)、
「神の笑いのこだま」であったらよいのだが!
すくなくとも「非論理的・非合理的なものの介入」ではある

ウィトゲンシュタインは、「動物は考えないから、話さないのではない、たんに話さないのだ」といった、逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。ロラン・バルトは、「書く」という動詞は他動詞ではなく、自動詞だといったが、「話す」という動詞も同様である。つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。だが、それをわれわれ自身が聞くとき、その言葉が何かを意味していると思うのみならず、まるで前もってそのような「意味」が内的にあったかのように思いこむ。

デリダが、明証性を「自分が話すのを聞く」ことにあり、そこで“差延”が隠蔽されるのだというのは、いわばこのことである。結局「話す」立場に立つというとき、われわれは実際は「聞く」立場に立ってしまっている。(……)

ところで、このことは、「書く=読む」立場についてもそのまま妥当する。デリダの「音声中心主義」への批判は、まるで書くことや読むことの優位性を意味するかのように受けとられている。しかし、「書く」ことや「読む」ことが、純粋に存在することなどありはしない。

たとえば、われわれは一語あるいは一行書いたそのつど、それを読んでいる。書き手こそ読み手なのだ。そして、書き手の“意識”においては、この“遅延”は消されてしまっている。実際はこうだ。われわれは、一語または一行書くとき、それが思いもよらぬ方向にわれわれを運ぶのを感じ、事実運ばれながら、たえずそれをわれわれ自身の「意図」として回収するのである。書き終わったあとで、書き手は、自分はまさにこういうことを書いたのだと考える。

このような錯誤は、語られ書かれることを、われわれ自身が聞き読んでしまうということに存する。ここでは、他者とはわれわれ自身であり、したがって《他者》ではない。そして、語られ書かれることが、他者にとってはたして「意味している」かどうかは、すこしも疑われない。だが、他者が、あなたは、語り書く以前あるいは過程で、内的にべつのことを意味していたはずだと主張するとき、われわれにはそうではないと証明するすべはない。

このことは、しかし、テクストを「読む」者の、優位性あるいは創造性を意味するわけではない。読む者は、自らの読解を示したければ「書く」ほかない。そうでなければ、彼の読解は「私的言語」にすぎないからだ。そして、彼が「書く」とき、先にのべた過程をたどるほかないのである。(柄谷行人『探求 Ⅱ』「第二章 話す主体」P27-28)


ーーーこれは冒頭に書いた、
語り手、あるいは書き手の真の宛先は
自分自身かもしれないことの説明となりうる

だが柄谷行人の「他者」を書き出したら終わりそうがない
ここでは素直にもとの文脈にーー繰り返すがーー戻らなくてはならない


コミュニケーションはつねに失敗する
失敗しなければならない
それゆえわれわれは話し続けることができる
もし互いに完全に理解し合ってしまったなら
残るのは沈黙だけだ
幸福にもわれわれは「真理は半分しか言えない」

ーーと書けば浅田彰がこう言っているのを憶い出す

(斉藤)コミュニケーション・チャンネルは複数が平行して使われて、会って話し、携帯で話し、メールを送り、手紙を渡してと、非常に密に使われている一方、内容には深まりがない。とくに個人的な葛藤がほとんど語られなくなっている。もちろん恋愛などの対人葛藤は出てくるのですが、個人の内面的葛藤は相手にまったく受け入れれないことが分かっているので、出てこない、出そうとしない。

(浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、その一方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。
(……)

人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたら、まったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。(「批評空間」2001Ⅲ―1斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より)

さてなんの話だったか
エノンセとエノシアシオンの落差の話だ
ロラン・バルトは日記を書く動機を四つ並べている
四番目の動機は次の如し

第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収ーー痛みやすい果実


2014年8月5日火曜日

象徴的ファルスとしての「こけし」

まず前投稿「男なんざ光線とかいふもんだ」で冒頭に掲げた文の再掲からはじめる。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

そして、この文とは一見、まったく関係のないようにみえる文を続けることにする。


◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』(2012)より。

ラカンの「〈女〉は存在しない」(la Femme n'existe pas)とは、どの経験上の生きた女もけっして〈大文字の彼女〉ではないという意味ではない。すなわち到達しがたい〈女〉の理想に沿って生きることができないということではない(経験的な「現実の」父が、象徴的機能、彼の〈名〉に沿って生きることができないというような)。経験上のどんな女と〈女〉を永遠に分離するギャップは、空虚な象徴的機能とその経験上の担い手の間のギャップとは同じものではないのだ。女における問題は、逆に、空虚な理想的象徴機能を定式化することが不可能だということであり、これがラカンが「〈女〉は存在しない」と断言したときに、言わんと意図したことなのである。不可能な〈女〉とは、象徴的フィクションではなく、幻想的な亡霊なのであり、その支えは対象aであって、S1ではないのだ。「〈女〉は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の享楽-の-父である(伝説の前エディプスの父、すなわち彼の集団のすべての女を独り占めした父)。こういうわけで、この父の地位は<女>の地位と相関的なのである。(私訳)

Lacan's “Woman doesn't exist” (la Femme n'existe pas) does not mean that no empirical, flesh‐and‐blood woman is ever “She,” that she cannot ever live up to the inaccessible ideal of Woman (in the way that the empirical, “real” father never lives up to his symbolic function, to his Name). The gap that forever separates any empirical woman from Woman is not the same as the gap between an empty symbolic function and its empirical bearer. The problem with woman is, on the contrary, that it is not possible to formulate her empty ideal‐symbolic function—this is what Lacan has in mind when he asserts that “Woman does not exist.” The impossible “Woman” is not a symbolic fiction, but again a fantasmatic specter whose support is objet a, not S1. The one who “does not exist” in the same sense as Woman does not exist is the primordial Father‐enjoyment (the mythic pre‐Oedipal father who had a monopoly over all women in his group), which is why his status is correlative to that of Woman.(zizek”LESS THAN NOTHING”)

ここに出てくる”the primordial Father‐enjoyment”、すなわち「原初の享楽の父」の説明を挙げておこう。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

ここで、ジジェクは、「エディプスの父/原初の享楽の父」を対比させているが、ラカン派では、この剥き出しの権力としての「原初の享楽の父」の審級を、「母なる超自我」とも呼ぶ(参照:ナイーブなフェミニストたち、あるいは権威と権力)。


ジジェクの『LESS THAN NOTHING』における《不可能な〈女〉とは、象徴的フィクションではなく、幻想的な亡霊なのであり、その支えは対象aであって、S1ではないのだ》ーーこれは、S1が「エディプスの父」とすれば、対象aとしての「不可能な〈女〉」は、母なる超自我にかかわるはずだ。


リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ラカンの娘婿でもあるジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org

“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される以前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして象徴的権威の失墜の時代とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代ということになる。

「母なる超自我」をめぐっては、ウェブ上に田中純氏の「暗号的民主主義──ジェファソンの遺産」にもそのいくらかの説明がある。

ジジェクは、主人のシニフィアンが有する象徴的権威は、それが構造的な曖昧さを抱えた仮想的なものであるからこそ成立すると言う★一二。全能であるか不能であるかが決定しえないがゆえに、父は支配的な権威を帯びる。この決定不能性に依拠してはじめて、民主主義の主体は自らの単独性を維持することも可能となる。だが、サイバースペースにおいては象徴秩序の次元に幻想の次元が融合してしまい、共同体の法は明確なルールとなってすみずみまで透明化されてしまうために、主人のシニフィアンの仮想的な地位そのものが失われ、象徴的権威は成立しえなくなるのである。

このようなサイバースペースの主体は、ゲームの場である社会関係のなかで、複数の規則を操りながら、本来の象徴的任務ではなく、局面に応じてさまざまな役割を演じわける〈病理的ナルシスト〉にほかならない。〈病理的ナルシスト〉は「本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者アウトローとして経験する」★一三。

 ジジェクがここで注意を促しているのは、病理的ナルシストにおいては、主人のシニフィアンの権威、言い換えれば父性的自我理想が失効することによって、はるかに強力で脅威的な母なる超自我の支配が招かれるという点だ。母なる超自我は享楽を禁止することなく強要し、正常な性的関係を妨害する。あらゆる個人がサイバースペースのなかで自由に自己を表現できるような民主主義的共同体は、むしろ逆に、猥雑な超自我的な法によって享楽を強制し、自己破壊的な不安によって脅かす抑圧的な社会でありうる★一四。

(……)もとより、このような象徴的権威の失墜と病理的ナルシストの出現は、サイバースペースの結果であると言うよりも、後期資本主義社会の現実であり、それが〈摩擦なき〉抽象的空間としてのサイバースペースを必要としたと言うべきだろう。この空間の内部では、主体の〈社会的ポジション〉という象徴的委託が失われるとともに、母なる超自我が暴走を始める。

ここでふたたびジジェクの『LESS THAN NOTHING』に戻る。「象徴的ファルス」のフェミニストたちの誤解(かつての? いやいまもほどんどそうであろう)を説く箇所である。

ラカンの「男根中心主義」のたいていの批判のトラブルは、一般的に、彼らは“ファルス”と/あるいは“去勢”を前-概念的な通念の隠喩的な方法で言及してしまうことだ。標準的なフェミニストの映画研究の内部では、たとえば男が女に向かって攻撃的に振舞うたびに、あるいは女に彼の権利を強く主張するたびに、彼の行動は“ファリック”であることを示していると確かに信じ込む。女がどうしようもない状況に追いやられ、詰め寄られ等々に陥れば、彼女の経験はたいていは“去勢される”を示すことになる。ここで失われているのは、まさに去勢のシニフィアンとしてのファルスのパラドックスである。もしわれわれが(象徴的)“ファルス”の権威を行使するなら、支払わなければならない代価は主体者(エージェント)の立場を放棄して、媒体としての役割――その媒体を通して<大他者>が行動し話すのだがーーその役割を承諾しなくてはならないのだ。シニフィアンとしてのファルスが象徴的権威のエージェントを示すかぎりにおいて、その決定的な特徴はそれゆえ次の事実にある。それは“私自身”、生きた主体の器官ではないのであり、“場”なのである。その場所に外部の権力が介入し、私の身体にそれ自身を刻印するのである。その場所において<大他者>が私を通して行動するのだ。要するに、ファルスがシニフィアンという事実が意味するのは、結局、構造的には身体なき器官ということである。私の身体からともかくも“切り離された”ものなのである。ファルスの決定的な特徴、その切離性は、わかりやすく目に見えるようになっているではないか、レスビアンのサドマゾ的実践で使用される人工的なプラスチック製のファルス(“ディドロ”)の使用によって。それは玩具として普及している。――その玩具、ファルスはその使用を男のような愚かな手合いに委ねるにはあまりにも深刻なものである。

The trouble with most criticisms of Lacan’s “phallocentrism” is that, as a rule, theyrefer to the “phallus” and/or “castration” in a pre‐conceptual, common‐sense metaphorical way: within standard feminist film‐studies, for example, every time a man behaves aggressively towards a woman or asserts his authority over her, one can be fairly sure his actions will be designated as “phallic”;every time a woman is framed, rendered helpless, cornered, and so forth, her experience will most likely be designated as “castrating.” What gets lost here is precisely the paradox of the phallus as the signifier of castration: if we are to assert our (symbolic) “phallic” authority, the price to be paid is that we have to renounce the position of agent and consent to function as the medium through which the big Other acts and speaks. Insofar as the phallus qua signifier designates the agency of symbolic authority, its crucial feature therefore resides in the fact that it is not “mine,” the organ of a living subject, but a place at which a foreign power intervenes and inscribes itself onto my body, a place at which the big Other acts through me—in short, the fact that the phallus is a signifier means above all that it is structurally an organ without a body, somehow “detached” from my body. This crucial feature of the phallus, its detachability, becomes clearly visible in the use of the plastic artificial phallus (“dildo”) in lesbian sadomasochistic practices, where it circulates as a plaything—the phallus is far too serious a thing for its use to be left to stupid creatures like men.42

ジジェクはブラスチック製のファルスとしてディドロを挙げているが、張り形の類がわが国は先進国なのかどうかは寡聞にして判然としないにしろ、日本には古来「こけし」というすぐれて古典的なファルスがある。



《苔清水湧きしたたり、/日の光透きしたたり、》(北原白秋)
この象徴的ファルスによって、こけし水湧きしたたり、日の光透きしたたるまでに悦楽に耽る道具であっただろう。





小間物屋 すぽすぽさせて 一本売り

かたい奥 さてはりかたは よく売れる

小間物屋 よっきよっきと 出して見せ

いぼ付きは 切らしましたと 小間物屋

ふとどきな 女房へのこを 二本もち

  ーーーー諧風末摘花」より






ーーなどとすこし探っていたら、鼈甲製張り型などというものがあり、これを見ると。中空になっており、かつてのコンドームのような使用法もなされたのではないか(これではオレのサイズには合いそうもないな、--と書いておくべきだろうか)。




ーーーーーShunga: sex and pleasure in Japanese art


ははあ、天狗の鼻をうっかり失念していた。






いずれにせよ、「肌触り」(咥え触り)はとてもよさそうで、まあなんという偉大なる亀頭芸術よ!






わたくしは老眼用に、鼈甲眼鏡がひとつあるのだが、濃いブラウンであって、鮮やかな黄色のタイプは手に入れがたい。だが当地には水牛の角の眼鏡フレームがあり(これもいまでは台湾商人が買い占めてしまってなかなか手に入らないが、十年ほどまえは比較的安く手に入った)、鼈甲ほどの美しさはないにしろ、慈しんで使っている。





ーーこれはウェブ上で拾った鼈甲眼鏡の画像だが、形状、色合いはまさにこのとおり。ただ肌ざわりがやや粗いのが玉に瑕ではある。


西洋にも古来から、たとえばキクラデス諸島の彫刻( 紀元前3300 - 2000年)というすばらしいものがある。これは母なる超自我と象徴的ファルスが合体したかのようなシロモノである。







わたくしのかつての知り合い(というか前妻なのだが)は、ルーヴルでキクラデス諸島の彫刻の模造品(みやげ物)を購入して(亀頭の形のあきらかなものでしかも疣つき)、ことある毎にその頭を撫ぜて、ひどく愛玩していたのをいまでもよく憶えている。。






もちろん、たとえば、かなまら祭り/金山神社などという由緒正しき象徴的ファルス祭りをわれわれも持っている。

巫女たちは長さ60cmほどの白木で男根をかたどった御神木を抱え、神明神社から田県神社まで2kmほどを練り歩く。(今年も始まるシンボル祭り



ーーーあまり巫女らしい巫女でないのはどうしたぐあいか?


ここでも、ジジェクの別の書から「象徴的ファルス」と「象徴的去勢」の説明を挙げておこう。

……私の直接的な心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者であるかを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファルス(男根)である。なぜラカンにとって、ファルスはたんなる授精のための器官ではなく、シニフィアンなのか。伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力の行使する立場に立たせる。王が手に錫杖をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。この去勢は、私が象徴的秩序に取り込まれ、象徴的な仮面あるいは称号を身にまとうという事実そのものによって起きる。去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。したがってわれわれはファルスを、私の存在の生命力をじかに表現する器官としてではなく、一種のしるし、王や裁判官がそのしるしを身につけるのと同じように私が身につける仮面である。ファルスはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の身体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳 P64-65)




2014年8月2日土曜日

レイプファンタジーの統計調査

米国ではレイプファンタジーの統計調査があるらしい。どのくらいの規模のもので信憑性はどうなのかは窺い知れないが。

1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。

From 1973 through 2008, nine surveys of women's rape fantasies have been published. They show that about four in 10 women admit having them (31 to 57 percent) with a median frequency of about once a month.(Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean?

ところでジジェクによれば《最も基本的なファンタジーの構造というのは私がヤッテいるとき、誰かが私を観察しているのを幻想しているfantasizeことだな。》(Conversations with Zizek)とのことだが、レイプファンタジーはこれには当てはまらない。いや当てはまる場合もある。

◆ミレール 愛について(私意訳)より

Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、不在だと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。

――まるで操り人形みたいですね!

いや、男と女のあいだには、前もっては何も書かれていません。どんな方向を示すコンパスもないですし、前もって設定された関係などないのです。彼らの出逢いは精子と卵子のあいだのようにはプログラムされていません。われわれの遺伝子はなすすべがないのです。

幻想における欲望とは他者の欲望なのだから、女性がレイプファンタジーを抱くのは、男性の強姦欲望の反映という言い方もできるのだろう。

では幻想とは何なのか? 幻想において“実現されている”(上演されている)欲望とは主体自身の欲望ではなく、他者の欲望である。すなわち、幻想、幻想的な構成とは、“Che vuoi?” (あなたはなにを欲しているの?)という謎への答であり、それは主体の原初の本質的な(構成的な)立場を表わす。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。ジジェク『LESS THAN NOTHING』(2012)私訳ーー三種類の幻想、あるいは幻想と妄想

もっとも上もミレールの説明にも見られるように、男と女ではファンタジーの具合が異なる。

女は男の症候であり、男は女の幻想であるという見解もあるくらいだから(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)、ファンタジー(幻想)は女のほうが得意なのではあろう。

《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)ーー精神分析的な視点でなくても、このニーチェの言葉自体が、すでに女性のファンタジーへの傾きを説いているとさえいえる。

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(Zizek『Less Than Nothing』私訳ーー女たちによる「猥談」

さていささかセンシティブな話だが、冒頭にその一部を掲げた記事を全訳しておく。私意訳(いいかげん訳)なので、原文を十分参照のこと。

Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean? by Michael Castleman

る種の女たちは、セックスを強制されるファンタジーを抱く。一見したところ、レイプファンタジーなんてのは、まったく筋が通らない。どうしてそんなことを幻想(ファンタジー)しなくちゃいけないわけだい? 実生活ではトラウマ的な、不快で命にかかわるとさえいえることを。

でもちょっと念入りに調べてみると、こういったファンタジーは稀なわけじゃないのだな。男たちの多くは若い女を危険な状況から救い出すことを夢想するんだ、武装した悪党に直面したり高層ビルの二十三階で火災の罠に嵌るなんて毛筋ほども考えないでね。

ファンタジーというのは私たちの想像力のぎりぎりの限界を安全に“経験”させてくれるんだな、なんの危険もなしにね、ある種の人たちにとっての、無理やりのセックスのファンタジーも含めてね。ファンタジーなら全ては許され、なにも悪いことはないのさ。

とはいえレイプファンタジーは悩ましい問題にはちがいない。そんなファンタジーを抱く多くの女たちは異常だとか倒錯しているとかの思いを振り払えないだろうからね。

1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。実際の割合いはたぶんもっと高いんじゃないか。というのは女たちはそのファンタジーを気楽には認める気にはならないだろうからね。

直近のレポート(Bivona, J. and J. Critelli. "The Nature of Women's Rape Fantasies: An Analysis of Prevalence, Frequency, and Contents," Journal of Sex Research (2009) 46:33)では、ノーステキサス大学の心理学者が355人の女学生に訊いているんだが、どのくらいの頻度で、男もしくは女に、制圧され/余儀なくされ/レイプされるーーあなたの意志に反してオーラル/ヴァギナ/アナルセックスということだが、――そういったファンタジーを抱くのかという問いだ。

62パーセントの女学生が、少なくとも一度は、そういったファンタジーを抱いたことがあると言っている。だけれど返答はまちまちなんだな、その問いで使われた用語によってね。「男に制圧されるoverpowered」と問えば、52パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。その状況というのは、女たちの読むロマンスフィクションに最も典型的に表現されているものだ。けれどもし用語を“レイプ”としたら、わずか32パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。これは以前のレポートと似たり寄ったりだね。

レイプファンタジーの頻度はまちまちだね。回答者の38パーセントは一度もない、と。25パーセントは一年に一度以下。13パーセントは一年に数度抱く、と。11パーセントは月一、8パーセントは週一。5パーセントは週に数度(21パーセントは実際に性的暴行を受けていると答えている)。

レイプファンタジーはエロティックであったり嫌悪感を抱いたりするものがある。エロティックファンタジーなら、「私は強制されて、そしてそれを楽しむ」と考える。嫌悪感のファンタジーなら、「私は強制されて、それを憎悪する」と考える。最近の調査では、45パーセントがエロティックファンタジーで、9パーセントが完全に嫌悪感を抱く。そして46パーセントがふたつのファンタジーのミックスだ。

レイプやほとんどレイプに近いファンタジーは、ロマンス小説の主流で、フィクションの永続的なベストセラーのカテゴリーのひとつだ。これらの本はしばしば"bodice-rippers"(主人公が性的に暴行される恋愛小説)と呼ばれているんだな、タイトルは“Love's Sweet Savage Fury” (『爱的甜美狂野之怒』という題らしね、中国語では:引用者)とかね。すくなくとも力による制圧を意味するタイトルが多いな。そこでは、ハンサム野郎がヒロインの魅力に参ってしまって理性を全く失い、女を是非ものにしなくちゃならなくなる、ヒロインが拒絶してさえね、――女は最初はそうするのさ、でもそれから結局は降伏、欲望にとろけ込み、めでたしめでたしという結末になるんだな。

ロマンス小説はよく「女たちのためのポルノ」と呼ばれてる。ポルノとは結局のところセックスファンタジーということさ。男たちのポルノでは、ファンタジーはありあまるほどのセックス――飽くことを知らないやる気まんまんの女で、関係性なんかに見向きもしないタイプだ。ロマンス小説に描かれている女たちのポルノなら、その女性のファンタジーは、男が理性をまったく失う限界にまで達して、欲望されることだね。もっとも男は実際のところは女を傷つけることは決してなく、最後は、結婚するというわけさ。

レイプファンタジーって何なのだろう? 私の意見を言わせてもらえば、ほかのファンタジーとの違いは何にもないね。悪いものでもないし倒錯的でもないさ。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものさ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からないな。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておくよ。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものなんだ。あなたはどう思う?

ーーどう思う? と訊かれても、残念ながら女ではないのでよくわからない。蛇の呪いで七年のあいだ女性に変じられたティレシアスのような経験もない。

だが、《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね》(中井久夫)と嘯くには、こうやって引用しているのだから嘘八百であることがバレてしまっている。

もっとも現役であるなら、こんなことは書きはしない。

ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(中井久夫「カヴァフィス論」)

ここに書かれている文は性戯引退間近男の「距離のパトス」というわけだが、遺憾ながらとっくの昔に、あるいはいつものごとく硬質さの魅力は欠けている。また海苔を捲く必要など毛頭ありはしない。

やおら卓袱台にかけ上がり 見上げる奥さんの顔を38文で蹴り上げ いやがり柱にしがみつく奥さんの御御足をばらつかせ NHK体操風に馬乗り崩れてくんずほぐれつする奥さんを 御小水に畳が散るまで舐めあげ 奥さんの泡吹く口元に蠅が止まるまで殴り倒し ずるずると卓袱台にのせ さあ奥さんいただきまあす 満点くすぐる奥さんりコマネチ風太股をひらいて奥さんの性器を箸先でさかごにほじり 食べごろに粘ってきたところで ぼくの立ち魔羅に海苔を巻いて・・・・・(「ヤマサ醤油」ねじめ正一ーーあだしごとはさておき

というわけで、ここでは当面、ジジェクの文を貼り付けておくだけにする。

この幻想の逆説的な地位は、われわれを、精神分析とフェミニズムがどうしても合意できない究極の一点へと導く。それは強姦(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)である。

少なくとも標準的フェミニズムにとっては、強姦が外部からの暴力であることは自明だ。たとえ女性が、強姦されたり乱暴に扱われたりするという幻想を抱いていたとしても、それは男性の幻想であるか、もしくは、その女性の父権的なリビドー経済を「内面化」しているために自らすすんで犠牲になったのだということになる。裏を返せば、強姦の白昼夢という事実を認めた瞬間、われわれは男性優位主義的な決まり文句への扉を開けることになる。その決まり文句とは―――女性は強姦されることによって自分が密かに望んでいたものを手に入れるだけのことであり、彼女のショックや恐怖、彼女が自分の欲望を認めるほど正直ではないという事実を示しているにすぎない……。

このように、女性も強姦される幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされていることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的な立場(性的に虐待されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかしフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。

このことから得られる現実的な結論はこうだ―――(一部の)女性は実際に強姦されることを空想するかもしれないが、その事実はけっして現実の強姦を正当化するわけではないし、それどころか強姦をより暴力的なものにする。

ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。

主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けるとこは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンの主体の消滅(自己抹消)と読んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。

(ジジェク注:これはまた、実際に強姦をする男は女性を強姦する幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。強姦は、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道」なのである。)

結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)




2014年8月1日金曜日

知識欲の源泉としての女性器リサーチ

前投稿「スフィンクスの謎」の補遺。

まず前回の最後に付け加えるようにした文(Paul Verhaeghe TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 』私意訳)を再掲する。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさと公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。

ヴェルハーゲは最近のレクチャーでも似たようなことを、より一般に分かり易い言葉で語っている。

◆“Is Psychoanalysis Teachable?  Annual conference of The College of Psychoanalysts.  London, 12th February 2011 in the Library at 21 Maresfield Gardens.  Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility.

子供は三つの互いに関連する問いに答を知りたいのである。第一は、少年と少女の相違にかかわる。二番目は赤子の起源。最後のものは、父と母について。彼らはどんな関係があるのだろう?と。フロイト曰く、子供は、科学者のように追及する。そして純粋に解釈的な理論をでっち上げていく。それがすなわちフロイトが呼んだ幼児の性的リサーチであり幼児の性理論である。そこに生み出される知識の繰り返し出てくる問題は、それらが決して最終的なものではないということである。正しい知識の代わりに、子供は原幻想に甘んじなければならない。真の、偽の、知識の欠如はイマジネールな構造物に結集する。

the child wants to know the answer to three related questions. The first concerns the difference between boys and girls; the second question concerns the origin of babies; the last one is about the father and the mother: what is their relationship? The child, says Freud, proceeds like a scientist and will forge genuinely explanatory theories, that is why Freud calls them infantile sexual researches and infantile sexual theories. The recurring problem with the knowledge produced is that the answers are never final. Instead of a correct knowledge, the child must content itself with the primary fantasies, combining true, false and lack of knowledge into imaginary constructions.

これらの三つの謎が、人間の誰にでもある「内的トラウマ」の源であるとするヴェルハーゲの捉え方は、その「トラウマ」という言葉遣いに違和がある向きもあるだろうが、このスフィンクスの謎が、われわれの知識欲の源泉のひとつであるには相違ない。この知識欲を親の禁止で早期に抑圧された子供は、生涯、探究心が欠ける傾向にあるとさえ言える。ーーとするのはいささかマズイのだが。すなわち抑圧されればよりいっそう欲望するようになるというのが古来からの論理であるから。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350

もっとも代表的な謎は、《子供たちはどこからやってくるのか、という謎》であり、それが女の性器にかかわるとすれば、知識欲の発展において少女は少年より「不利」な肉体的特徴をもっている。子供たちがやってくる出口を自ら手鏡で覗くことができるのだから、――などどバカにされるかもしれないことは言わないでおこうぜ、と前回書くのは思い留まったのだが、やはりこうやって書いておこう。料理でさえ味覚を追求するのさえ女性ではなく男性コックではないか。もっとも少女たちもすこぶるソーセージに関心はあるのだろうが、やはりより始原の関心はがま口ではないか。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910  フロイト著作集3 P116)


とすれば最近、インターネットで容易に女性器のぐあいの画像や映像を眺めることができる少年たちは探求欲の衰えがあるのではないだろうか。わたしのような旧世代は、十代前半には、ボカシやモザイクの向こうの神秘に眩暈がしたものである。


 ミレールは、《科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです》という。これはすなわち象徴界(言語の世界)には、女は表象不可能なものとしてあるということであり、その表象不可能なものを追求する始原の問いが、《子供たちはどこからやってくるのか、という謎》への問いであるだろう。

無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

で、やっぱりすぐれた科学者も哲学者にも、女はすくないよな

ーーーというわけで、なにかバカげたことを、わたくしは書いていないだろうか? 

いささか気が弱いタチなので、最後に中島義道氏に応援してもらっておこう。

男のズボンの中を盗撮する女性がほとんどいないように、男が排泄するシーンに興奮を覚える女性がほとんどいないように、哲学する女性はほとんどいない。逆に言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。(『生きにくい…』 中島義道)

応援はもうすこし格調高い老子にもたのんでおくことにする。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

…………

※附記


子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910 フロイト著作集3 p116)










2014年7月30日水曜日

「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」

私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ! アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』の序文(ジジェク)

ーーもちろん、これはジジェク一流のレトリックであり、かつてからの朋友、スロヴェニアの三羽鴉(ジジェク、ムラデン・ドラー、ジュパンチッチ)の一人を顕揚するための惹句である。





結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』冨樫剛訳)
What, after all, are insults like 'your sister (or mother) is a whore' other than vulgar reminders of the fact that 'Woman doesn't exist', that she is 'not whole' or 'wholly his [ toute a lui] ' , as Lacan put it? Thus, the point is that the dictum 'woman is not-all' is most unbearable not for women but for men, since it calls into question a portion of their own being, invested as it is in the symbolic roles of the woman. This is best established by the extreme, utterly disproportionate reactions which these insults occasion, up to and including murder. Such reactions cannot be accounted for by the common explanation that man regards woman as his 'property'. It is not simply his property, what he has, but his being, what he is, that is at stake in these insults. Let us conclude this digression with another dictum. Once we accept the fact that 'Woman doesn't exist', there is only one way to define a man: a man is - as Slavoj Zizek put it in one of his lectures - a woman who believes she exists. (ALENKA ZUPANCIC『 Ethics of the Real Kant, Lacan』)


上の邦訳は、ウェブ上から拾ったので、正確な写しであるかどうかは判然としないが、“as Slavoj Zizek put it in one of his lectures”における“in one of his lectures”が抜けている。おそらくジジェクはどこかのレクチャアでも語ったのだろうが、これは『イデオロギーの崇高な対象』1989にも出てくる。

 Now it is perhaps clear why woman is, according to Lacan, a symptom of man - to explain this, we need only remember the well-known male chauvinist wisdom often referred to by Freud: women are impossible to bear, a source of eternal nuisance, but still, they are the best thing we have of their kind; without them, it would be even worse. So if woman does not exist, man is perhaps simply a woman who thinks that she does exist. (ZIZEK  THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY)

さてジュパンチッチに戻れば、冒頭の文の前に書かれている文もすばらしい。

《'Woman doesn't exist' is not a result of the oppressive character of patriarchal society; on the contrary, it is patriarchal society (with its oppression of women) which is a 'result' of the fact that 'Woman doesn 't exist'》

「〈女〉が存在しない」のは父権制社会の抑圧的特質の結果ではなく、「〈女〉が存在しない」という事実の結果が父権制社会なのである、とされている。

At this point, we can introduce Lacan's infamous statement that 'Woman [la f emme] doesn't exist'. If we are to grasp the feminist impact of this statement, it is important to realize that it is not so much an expression of a patriarchal attitude grounded in a patriarchal society as something which threatens to throw such a society 'out of joint'. The following objection to Lacan is no doubt familiar: 'If "Woman doesn't exist", in Lacan's view, this is only because the patriarchal society he upholds has oppressed women for millennia; so instead of trying to provide a theoretical justification for this oppression, and this statement, we should do something about it.' Yet -as if the statement 'la femme n'existe pas' were not already scandalous enough by itself - what Lacan aims at with this statement is even more so. The fact that 'Woman doesn't exist' is not a result of the oppressive character of patriarchal society; on the contrary, it is patriarchal society (with its oppression of women) which is a 'result' of the fact that 'Woman doesn 't exist', a vast attempt to deal with and 'overcome' this fact, to make it pass unnoticed.  For women, after all, seem to exist perfectly well in this society as daughters, sisters, wives and mothers. This abundance of symbolic identities disguises the lack that generates them. These identities make it obvious not only that Woman does indeed exist, but also what she is: the 'common denominator' of all these symbolic roles, the substance underlying all these symbolic attributes. This functions perfectly well until a Don Juan shows up and demands to have - as if on a silver platter - this substance in itself. not a wife, daughter, sister or mother, but a woman.


これは柄谷行人が、マルクス、ニーチェ、スピノザ、あるいはアリエスなどを引用しつつの結果と原因を取り違える「遠近法的倒錯」のことを語っている。

系譜学的な思考、つまり原因と結果の遠近法的倒錯を見出す思考は、《超越論的》な思考に固有のものである。実際に、そのことを最初にいったのは、前章で引例したようにスピノザである。

……いまや、自然が自分のためにいかなる目的因もたてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(中略)だが私は、さらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけくわえておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に<結果であるものを原因>と見なすからである。(『エチカ』第一部付録)(柄谷行人『探求Ⅱ』P191)

ところで、女性が《「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい》とあるが、逆にそれだからこそ〈女〉に魅惑されるのだとも言える。

《女は存在しないil n’y a pas La femme》の否定は、定冠詞Laにかかっており、femmeにかかっているのではないことに注意しなければならない。



存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

さて、科学さえもが女が存在しないためにあるとされているが、それはこの際うっちゃるとしても、〈女〉は女たちにとっても〈他者〉であるには相違ない。

「女」 もまた「男」にとってというよりはむしろ「主体」にとっての他者なのであり、この決定的な他者性が表象する /されるの関係の成立を原理的に阻害することになる。何ものも表象せず、また何ものによっても表象されえないものが「女」なのだ。(……)

西欧の男根的なまなざしが「女」を裸にすることにかくも執着してきたのは、実のところはそれが、剥いても剥いても実体が露わにならず、よそよそしい他者であることを やめない永遠の「不気味なるもの」だからこそなのではなかったか。(死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象 | 松浦寿輝
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)



「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

…………

※附記:ジジェク『斜めから見る』より。

ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)

アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)

《ふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。》(ジジェク 象徴界(言語の世界)の住人としての女

2014年7月28日月曜日

三種類の幻想、あるいは幻想と妄想

まずジジェク『LESS THAN NOTHING』(2012)により(私訳)。

では幻想とは何なのか? 幻想において“実現されている”(上演されている)欲望とは主体自身の欲望ではなく、他者の欲望である。すなわち、幻想、幻想的な構成とは、“Che vuoi?” (あなたはなにを欲しているの?)という謎への答であり、それは主体の原初の本質的な(構成的な)立場を表わす。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹等々が、彼のまわりで戦いを繰り広げる。子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。もっとも基礎的なレベルでは、幻想は私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。

What, then, is fantasy? The desire “realized” (staged) in fantasy is not the subject's own but the other's desire—that is to say, fantasy, a fantasmatic formation, is an answer to the enigma of “Che vuoi?” (What do you want?), which renders the subject's primordial, constitutive position. The original question of desire is not directly “What do I want?” but “What do others want from me? What do they see in me? What am I for others?” A small child is embedded in a complex network of relations, serving as a kind of catalyst and battlefield for the desires of those around him; his father, mother, brothers, and sisters, and so on, fight out their battles around him.While being well aware of this role, the child cannot fathom what object he is for the others, or the exact nature of the games they are playing around him. Fantasy provides him with an answer to this enigmaat its most fundamental level, fantasy tells me what I am for my others.

 ここで『ラカンはこう読め!』から幻想の「相互主観的な性格」をめぐる分かり易い叙述を挿差しよう。

たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


再び冒頭の『LESS THAN NOTHING』の文に続く。

再び反-ユダヤ主義、反-ユダヤ人妄想を取り上げるなら、典型的な形でこの幻想の根源的な相互主観的性格を見てとれる。ユダヤの陰謀の社会的幻想とは“社会は私から何を欲しているのか?”という問いへの答を提供する試みなのであり、それは私が余儀なく参加させられるあいまいな出来事の意味を明るみに出してくれる。こういった理由で、標準的な“投影”理論、――その理論によれば、反-ユダヤ主義者はユダヤ人の姿に己れの否認された部分を“投影する”ということーーそれだけでは不充分である。“概念上のユダヤ人”の姿は、反-ユダヤ人の“内的葛藤”の外在化したものには還元されえない。逆に、主体は最初から非中心化されている、意味や論理はコントロールから逃れてしまう不明瞭なネットワークの部分でしかないという事実を証し立てる。

It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control.

 このように「投影」だけで片付けてはいけないというわけだ。ここでフロイトの「投影」をめぐる叙述をひとつ抜き出しておこう。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))



さてジジェクの上の叙述は三種類の幻想にかかわるのだろう(参照:「きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい?」)。

まず第一に想像界の幻想がある。

誰でも次のフレーズは知っている、何度も何度も繰り返される、“欲望は〈他者〉の欲望である”と。しかしラカンの教えのそれぞれの決定的段階で、このよく知られた公式は異なった読み方に該当する。ます1940年代にすでに現れた“欲望は〈他者〉の欲望”とは、単純に、欲望のパラノイア的な構造を触れている。簡単にに言えば、羨望の構造だね。ここでは主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、外作用的な、想像的関係のたぐいだ。基本的な羨望の構造であり、私はある対象を欲望する、〈他者〉が欲望するかぎりにおいて等々。これが最初のレベル、いわば想像的レベルだ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳)

これ以外に通常の「幻想」(象徴界のファンタジー)がある。

「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

だがラカン理論において決定的なのは現実界の幻想である。

しかし私の考えではラカンの決定的な最後の公式は、分析家のポジションが大文字の他者 (A)、すなわち象徴的秩序の具現化としての分析家の場所からもはや始まらないと定義したときだね。分析家は小文字の他者 (a)、その幻想的な対象と同一化するときとしたときだ。言い換えれば、分析家は〈他者〉の欲望の不透過な謎を体現したときということ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳1995)

すなわち再度、『ラカンはこう読め』から抜き出せば次のようなことになる。

……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。

もっとも想像界の幻想と現実界の幻想が、ときに区別がつきがたいということはあるだろう。

セミネール III でさえ、 ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものは、このように精神病的なものでありますから、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。鏡像段階は投影によって構造化されているのです。主体の天然のパラノイア、想像的レベルに位置する主体、正常性(象徴的正常性)へと加入することを許可する象徴的秩序、をラカンはたびたび強調していました。しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。(ミレール『ラカンの臨床パースペクティヴへの導入』

また現実界の幻想と、妄想とはどう異なるのだろうという問いも生まれる。

欠如する〈他者〉の概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの〈他者〉の欠如を満たす試み、〈大他者〉の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。こういった理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは”他者の他者”の信念である。他の〈他者〉、外部に現われた社会的現実の〈他者〉の裏に隠れた〈他者〉、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる〈他者の他者〉への信念である。(私意訳)

This notion of the lacking Other also opens up a new approach to fantasy, conceived as precisely an attempt to fill out this lack of the Other, to reconstitute the consistency of the big Other. For that reason, fantasy and paranoia are inherently linked: at it most elementary, paranoia is a belief in an “Other of the Other,” in another Other who, hidden behind the Other of the explicit social reality, controls (what appears to us as) the unforeseen effects of social life and thus guarantees its consistency.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

※附記(「ラカン派の「転移」のいろいろ」より)

<大他者>に対する精神病者の不信、(間主観的共同体に具現化された)<大他者>は自分を騙そうとしている、という彼の固着観念は、つねに必然的に、一定不変の<他者>、断絶のない<他者>、すなわち「<他者>の<他者>」(……)に対する揺るがぬ信頼に支えられているのである。パラノイア症者が、象徴的共同体や「一般の意見」の<他者>をどうしても信用しないのは、騙されていない、手綱を握っている「<他者>の<他者>」の存在を信じているからである。パラノイア症者の誤りは、その徹底した不信や、すべては欺瞞に満ちているという確信にあるのではない。その点では彼はまったく正しいのだ。象徴的秩序は究極的には根本的に欺瞞に基づいた秩序なのだから。そうではなく、彼の誤りは、この欺瞞を操作している隠れた存在がいるという信念にある。(ジジェク『斜めから見る』P156)

…………

以上は佐々木中氏のツイートとさる匿名の人物のツイートの発話、さらにはそれへの彼のやや過剰ともみえる反応を読んで、ジジェクまわりを中心にその見解のいささかをまとめたものである。

 @AtaruSasaki【学生拡散・重要】私の講義を受ける学生は必ず読んでおいて下さい。→「レポートの評価について」http://www.atarusasaki.net/blog/?p=709

‏@tjummatsu@AtaruSasaki 20年後輩の佐々木先生へ。大学教授然としたこんな陳腐なツイートは見たくない。公然と拡散しなくていい。

‏@AtaruSasaki「あなたの⚪︎⚪︎する姿は見たくない」というのは自分の妄想を勝手に他者に投影している、すなわち他者がいない世界に住んでいる老いた幼児の言葉。“@tjummatsu: @私 20年後輩の佐々木先生へ。大学教授然としたこんな陳腐なツイートは見たくない。公然と拡散しなくていい。”

‏@AtaruSasaki傲慢に聞こえてもいい。こんな老人をつくらないために私は講義をしています。私の『夜戦』の鏡の理論、他者と投影の理論も理解できていないことを自ら暴露しているのに、勝手に脳内に佐々木中と名付けた何かを飼っている。「それは私ではない」!


ーー過剰な反応は、フロイトによれば……、などとはここでは書かないようにしておこう。ただし誰でも《彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います》には相違ない。

作家と大学教師が両立するかどうかについても、種々の見解があるだろう。


われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー嘘によってしか愛するものを語ることはできない

佐々木中氏の「政治的」な発言には共感することが多いのだが、彼とて完璧ではない。たとえば昨年(20131114日)の彼のツイート、ここにあるのはパラノイア的な「投影」や「嫉妬」ではないかと疑ってみることさえできる。

@AtaruSasaki或る「若手」哲学者だか批評家だかが昔「ボクが処女作を出版するときには、東浩紀に推薦文を書いた浅田彰、二人に推薦文をもらって華々しくデビューする!次はボクの時代だ!」と吠え出して、その閉じた醜い権力欲に唖然としたことがある。界隈そんな連中ばかりだよ。みんな、自分の仕事をしよう。

@AtaruSasaki何か身に覚えでも?“@masayachiba: 僕のこと?そんなことを佐々木さんに言った覚えはありません。"@AtaruSasaki: 或る「若手」哲学者だか批評家だかが昔「ボクが処女作を出版するときには、東浩紀に推薦文を書いた浅田彰、二人に推薦文をもらって華々しくデビュー

@AtaruSasaki申し訳ないですが、何を仰っているのかよくわかりません。えっ、千葉くんもこんなこと言っていたの? 他の人には?“@masayachiba: @AtaruSasaki あなた、こういうことしてると読者に見放されますよ。”

※附記:ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。こういう理由からディスクールにおいてはつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たります。というのは、意味sensは、意味があるのは常にその彼方ですから、むしろその人が言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。

2014年7月16日水曜日

きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい?

――ところで、きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい? オナニーしているときのことだけどさ

「耳だわ、もちろん」

'Which part of the body is most intensely used while masturbating? The ear.' (“THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE” Paul Verhaeghe)



鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)


◆Conversations with Zizek(Slavoj Zizek and Glyn Daly)より私意訳。

究極のファンタジーの対象は、まなざし自体だね。そして私は思うんだが、これは政治に当てはまるだけでなく、セックスも同じだね。ひとは、どうやってポルノは可能かという基本的な問いをいつもなすべきだな。精神分析の物議をかもす答は、セックスとしてのセックスはいつもすでにポルノだからだというものだ。私が愛人、あるいは愛人たちといっしょにいるとき、ーー強調しておくよ、複数形を。というのは二項ロジックとして非難されないためにねーー私はいつも第三のまなざしを想像しているんだな。つまり私は誰かのためにヤッテいるんだ。こういえるかもしれない、ここに恥の基本的な構造がある、と。きみがヤルことに没頭してるとき、いつも魅惑/怖れがあるんだな、〈大他者〉の眼にはどうみえるかというね。

The ultimate object of fantasy is the gaze itself. And I think that this goes not only for politics but also for sex. Here one should always ask the basic question as to how pornography is possible. The controversial answer of psychoanalysis is that it is possible because sex as sex is always already pornographic. It is pornographic in the sense that even when I am with my lover or lovers - let me stress the plural so as not to be accused of a binary logic - I always imagine a third gaze; that I am doing it for someone. One might say that there exists a fundamental structure of shame. When you are engaged in sexual activity there is always a fascination /horror as to how this would look in the Other's eyes.
私たちの最も内密の行動でさえ、いつも潜在的なヴァーチャルのまなざしのために行動してるのだよ。だからこの構造、すなわち誰かが私を観察しているという考えに取りつかれた構造ね、これはいつもセクシャリティ自体に刻みこまれてるんだな。ファンタジーとはヤッテいるのを観察している〈他者たち〉という考えにそれほどかかわるわけではなくて、むしろ逆だね。最も基本的なファンタジーの構造というのは私がヤッテいるとき、誰かが私を観察しているのを幻想しているfantasizeことだな。

Even with our most intimate acts, we always act for a potential virtual gaze. So this structure surrounding the idea that somebody is observing me is already inscribed into sexuality as such. Fantasy concerns not so much the idea of observing Others having sex but, rather, the opposite. The most elementary structure of fantasy is that when I have sex I fantasize that somebody is observing me.


◆『ラカンはこう読め!』より

貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」

目撃者としてつねにそこにいるこの〈;第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)


《セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである》とあるが、ではほかの行為はどうなのだろうか。「意識とは躊躇の別名だ」(荒川修作=河本英夫)とするなら、意識された行為はほとんどつねにそうではないか。いや神経症圏のひと(標準的な人びと)が眼差しであるなら、精神病圏のひとは声であるかもしれない。

欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。……《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。

In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

ところで、ラカン派の疾患分類は、神経症、精神病、倒錯が三大カテゴリーがあり、それぞれ抑圧、排除、否認の語彙によって規定される。神経症の下位分類にヒステリーと強迫があり、精神病の下位分類にパラノイアとスキゾフレニーとメランコリーがある。ラカン派においては、ひとはこのカテゴリーのどれかに入るのだが、上に書いたように、いままでは神経症が標準的だといわれた。

だが、最近は(前世紀末あたりから)、「ふつうの精神病」、あるいは「二十世紀の神経症の時代から、二十一世紀の精神病の時代へ(あるいは倒錯の時代へ)」などということが言われている。

晩年のラカンは、その副次的なテキストでありながら、《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである》としている(ミレール2008セミネールより)。この妄想的délirantという用語は、パラノイアにかかわり、すなわち、ひとは皆精神病であるということになる。ここにミレール概念の「ふつうの精神病」の起源のひとつがあるのだろうとは思う。

ミレールは同じ2008年のセミネールでサントームについてこう語っている。

(旧来の臨床、症状を中心とした象徴界の臨床ではなく)、第2の精神分析臨床は症状symptômeの概念を、この〔「終わりのない分析」で示される症状の〕残余のモデルに基づいて再構成するものです。こうしてラカンはそれを古い綴り方でサントームsinthomeと呼びました。サントームとは、治癒不可能なものの名前なのです。

ここで「終わりのない分析」とされるのは、もちろんフロイトの最晩年1937の論文(ラカンがフロイトの遺書と呼んだ)のことであるが、症状の彼方にある残余については、フロイトは初期から語っている(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」


だがここではラカン派内部でも論議がさかんな(すなわち異論の余地が多い)「ふつうの精神病」をや「サントーム」をめぐるのではなく、「ふつうの精神病」概念(1998年にECF)を言い出すまえの、ごく一般的なミレールの文を抜き出しておこう。


神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。たまに、さらなる神経症的存在として恐怖症に注目することもあります。ラカンの著作のなかには、あるときにはヒステリーと強迫の二項対立があり、またあるときには恐怖症・ヒステリー・強迫の三つ組みの区別があります。(ミレール「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」1996)

少し前にもどれば、そこでは、神経症者と精神病者は、それぞれ眼差しと声を意識する(幻想する)とした。だがここでの「幻想」の用語自体をも気をつけなくてはならない。幻想とは基本的には《欲望は〈他者〉の欲望》にかかわる。

まず第一に想像界の幻想がある。

誰でも次のフレーズは知っている、何度も何度も繰り返される、“欲望は〈他者〉の欲望である”と。しかしラカンの教えのそれぞれの決定的段階で、このよく知られた公式は異なった読み方に該当する。ます1940年代にすでに現れた“欲望は〈他者〉の欲望”とは、単純に、欲望のパラノイア的な構造を触れている。簡単にに言えば、羨望の構造だね。ここでは主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、外作用的な、想像的関係のたぐいだ。基本的な羨望の構造であり、私はある対象を欲望する、〈他者〉が欲望するかぎりにおいて等々。これが最初のレベル、いわば想像的レベルだ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳)

これ以外に通常の「幻想」(象徴界のファンタジー)がある。

「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

だがラカン理論において決定的なのは現実界の幻想である。

しかし私の考えではラカンの決定的な最後の公式は、分析家のポジションが大文字の他者 (A)、すなわち象徴的秩序の具現化としての分析家の場所からもはや始まらないと定義したときだね。分析家は小文字の他者 (a)、その幻想的な対象と同一化するときとしたときだ。言い換えれば、分析家は〈他者〉の欲望の不透過な謎を体現したときということ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳1995)

すなわち再度、『ラカンはこう読め』から抜き出せば次のようなことになる。

……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。

この現実界の「幻想」とパラノイア的な「妄想」とはどう異なるのだろうか。事実、ジジェクは最近の書で、幻想とパラノイアは本質的に繋がっているとしている。これは、すなわち、幻想と妄想はあるレベルでは(現実界のレベルでは)ほとんど同一なものだと言っていることになる。

This notion of the lacking Other also opens up a new approach to fantasy, conceived as precisely an attempt to fill out this lack of the Other, to reconstitute the consistency of the big Other. For that reason, fantasy and paranoia are inherently linked: at it most elementary, paranoia is a belief in an “Other of the Other,” in another Other who, hidden behind the Other of the explicit social reality, controls (what appears to us as) the unforeseen effects of social life and thus guarantees its consistency.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

さて、いささかややこしい話は、ここではこれ以上展開しない(というか、このあたりはわたくしには瞭然としていない。そもそも想像界でさえ、ラカンによれば精神病的なものなのだから、イマジネールな幻想と妄想の相違でさえも再考に値する。神経症者の幻想とは、象徴界の幻想のみなのではないか、と)

※参考

精神病者の世界は、想像界と現実界で構成されている。

1.想像界による症状:前述のパラノイア的世界=妄想(例、誰かが私を監視している、私を略奪する、という妄想)

2.現実界による症状:象徴界から排除されたものの回帰=幻覚(例、精神病性の幻覚として人の姿や顔があらわれたり、背中を血の塊が流れているなどの訴え)(「ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)


さて倒錯の一般的な話に戻ろう。

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。……主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。……サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)


すなわち、倒錯者は彼自身の快楽のために行動するのではなく、〈大他者〉の享楽のために行動する。《主体は他者の享楽の道具として己れを位置づける》(ラカン『エクリ』)。

視姦症と露出症において、倒錯者は覗見欲動の対象として自身を位置づける。他方、《サディズム/マゾヒズムは、主体は声の欲動の対象として自身を位置づける》(ラカン『セミネールⅩⅠ』)ということになるらしい。これについては、ジジェクのマイケルマンの映画『マンハンター』を例にしたすばらしく明晰な解説がある(参照:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$」)。もちろんこれらはラカン派内の見解であり、異論も種々あるだろう。


…………


ところで大江健三郎の『懐かしい年からの手紙』第六章では、次のような二つの似た叙述が短い間隔をおいて反復される。


《屋敷の囲む両側の森、谷あいの空、そしてありとあらゆるそこいらの樹木や石、草の眼にさらされながら、マスターベイションをすることを僕は想像し、その想像によって欲望のとりことなった》

《屋敷を囲む森から谷のありとあらゆる樹木、草、石にまで見まもられてマスターベイションするという着想に、カッと昂奮した》

これは大江が森という〈他者〉の眼差しのもとに自慰行為を、ラカン理論的に、あるいはサルトルのまなざし論をもとに、無意識的にせよ、意識的にせよ、書き綴った文だとしてよいだろう。

大江健三郎は、「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求しつつ長年執筆活動を続けてきたこと、かつサルトルの強い影響を受けて作家生活を開始している。


眼差しは意識の裏面である、という表現はまったく不適切というわけではありません。というのは、眼差しには実体を与えることができるからです。サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。

これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。(…)

眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。

彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。

欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)

…………

◆大江健三郎『懐かしい年への手紙』より

谷川を見おろす敷地の西の端に、風呂場が別棟になっている。石垣の上の狭い通路から風呂場を廻り込んで向うへ出ると、石垣でかこわれた一段低いところにセイさんが花を作っている小さな畑と物置がある。風呂の焚口は物置の並びにあり、戸外の水汲み場から風呂水を運びこむ戸口も開いている。風呂場の窓は石垣の上にに張り出して谷川を見おろし、対岸をのぞむ。窓は高く、庭から廻り込む通路からは風呂場を覗くことができない。足音をしのんでそこを通り抜けながら、ギー兄さんが窓をあおいで僕の注意をひくそぶりをしたので、なんらかの手段で内部を覗き見する手段をギー兄さんが考案したのだと見当はついていた。案の定! いったん畑の平面へ降りてから風呂の焚き口へ登る、小石を積んだ短い段々の中ほどに、そこで立ちどまれば顔の高さに、こちらへゆるくかたむいた50センチ×30センチの薄暗いガラスのスクリーンが風呂場の板壁を壊してとりつけられているのだ。剥がした羽目板や新しい角材の残りと大工道具が、物置の脇にたてかけられていた。僕らが並んで位置につくやいなや、僕らの頭をまたいで前へ出る具合に向うむきの若い娘ふたりの下半身が、かしいだスクリーンに現れた。

――この角度がな、Kちゃん、女をもっとも動物的に見せるよ、とギー兄さんは解説した……

若い娘たちが全裸でスックと立っている。その丸い尻の下で、それぞれの二本の腿が不自然に思われるほど広い間隔を開いているのに、まず僕は印象を受けた。セイさんとの経験に教えられながら、なお性的な夢に出て来る裸の娘の腿は、前から見ても後ろから見てもぴったりくっついていたから。いま現に見ている娘たちの、その開いた腿の間には、性器が剥き出しになっていたが、それはどちらも黒ぐろとした毛に囲まれ股間全体の皮膚も黒ずんで、猛だけしい眺めだった。

すぐにも娘たちは窓のすぐ下の低く埋めこんだ浴槽に向って進み、しゃがみこんだ。娘たちの尻はさらにも横幅をあらわして張りつめ、窓からの光に白く輝やいて、はじめて僕に美しいものを見ているという思いをあたえた。湯槽から湯を汲み出し、そろって性器を洗っているふたりの、その尻の下方にチラチラ見える黒い毛は、やはり油断のならぬ鼠の頭のようだったが。それから湯槽に入りのんびりとこちらを向いた様子は、日頃のももこさん、律ちゃんと比較を絶して幼く見えた。彼女たちがそろってスクリーンのこちらの僕らを見つめているふうであったのはーー放心したような顔つきからみてもーー僕らがひそんでいると見当をつけたのではなく、新しく浴室の入口脇にとりつけられた鏡を発見して、ということであったわけだ。そのうちスクリーンが翳ってきたのは、ふたりが湯を搔きまわしたので、湯気がこもって鏡の表面を曇らせたのだろう。

――よし。自分が曇りをふいてやる、とギー兄さんがすぐ脇から無警戒な微笑を僕に向けていった。

――なんのために? 自分も風呂に入るのなら……

――え? Kちゃんも楽しんでみているじゃないか?

そういいすてて、ギー兄さんは物置の側から母屋の方へ廻り込んで行った。逆に僕は、石垣の上の狭い道を通って庭へひきかえした。いかにもこちらのために覗き窓を造ってやった、というギー兄さんの口ぶりに僕は傷つけられていたのだ。ところが庭から窓ごしに勉強部屋に入りこみ、その勢いのまま机と壁の間の畳の上にデングリ返しをして寝ころがったとたん、僕はカッと燃え上がるような欲望にとらえられた。ギー兄さんもなかへ入ってしまった以上、風呂場の覗き見のスクリーンのところへひとり立って、屋敷の囲む両側の森、谷あいの空、そしてありとあらゆるそこいらの樹木や石、草の眼にさらされながら、マスターベイションをすることを僕は想像し、その想像によって欲望のとりことなったのである。僕はあたらめて窓を乗り越えた。ズボンのなかで勃起している性器が行動の邪魔になるのを感じながら、それでさらにもいどみかかるような気分になって、息使いも荒く。石垣の上を廻りこむ時には、頭上の窓からギー兄さんとももこさんの言葉にならぬせめぎあいのような気配が聞こえてきた。

そして僕があらためて明るくなっているスクリーンに見出したのは、すぐ眼の前の檜の床に横坐りして脇腹を洗っている律ちゃんの幅広の躰だった。その向うの湯槽の低いへりに、こちら向きに腰をかけたギー兄さんの、濃い毛の生えた腿の上にももこさんがまたがっている。僕がスクリーンから覗き見しているのを勘定に入れて、ギー兄さんがわざわざももこさんに性交をしかけているのだ。色白のギー兄さんの裸のそばでは淡い褐色に見える、ももこさんの筋肉質の背中が機敏に上下する様子は、床を蹴りたてるような足の動きともども、ももこさん自体性交に乗り気になっていることを感じとらせた。そしてすぐ眼の前に自分の躰を鏡に映しながら洗っている、つまりはスクリーンに泣きべそをかいたような顔つきで覗き込んでくる律ちゃんの、胸と喉の間をゆっくり動いていた右手が、そのうち下腹部に降りて来た。石鹸を塗った手拭いをピンクの腿に置くと、もう片方の太い腿をグイとずらせ、その手は自分の性器を優しげに覆うように押しつけて揉みしだいている。スクリーンのこちら側に立っている僕の、ズボンのあわせめから斜めに突き出したペニスは、自由になるやいなや勢いよくおののいて風呂場の腰板下方の石積みに、西陽に赤く光る精液を発射した…… 

頭をたれ、ペニスをしまいながらその場を引揚げようとして、僕はピクリと立ちどまった。物置への段々にそって焚木を積んだ上から、オセッチャンの三つあみにした丸い頭が覗いて、活気みみちた黒い眼をこちらへ向けているのである。僕は胸うちを真暗にして、畑の斜面へ跳び下ると、そのまま石垣をすべりおりるように谷川へ降りて行った。谷川に沿って走り、いったん暗い杉木立の中に入ってからそこを出はずれても、夕暮の谷間の陰鬱な土埃りの乾いた道を、そのうち脇腹の痛みに走り止めて歩きながら帰る間、僕は身悶えする後悔のなかにいた。家に帰りついても母親と顔をあわせぬようせだわの裏口から入り、そのまま狭い自分の寝場所にこもって、妹が夕食を知らせに来ても出て行かぬほど僕は思い悩んでいた……

幼いオセッチャンの純潔な魂にしみをつけた、という罪悪感に僕はとらえられていたのである。それこそ僕は幼女に暴行を働いた人間の血まみれの穢れが自分にかぶさっていると感じた。なぜオセッチャンの眼を警戒しなかったかと、僕は恥を塗りたくられた心で後悔した。屋敷を囲む森から谷のありとあらゆる樹木、草、石にまで見まもられてマスターベイションするという着想に、カッと昂奮したことを思い出しても、自分の愚かしい軽薄のしるしとして、それは後悔のたねとなるのみだった。

夜ふけまで眠れぬまま展転反側するうちに、後悔に染めあげられた想像力は、とめどなく逸脱する方向に行く。風呂場の建物の土台の、わずかに草が生えた石積みの上に飛び散り土埃りを吸って小さなナメクジのように点々とかたまった精液。好奇心からオセッチャンがあれを点検し、その手で性器をさわってしまったら、どうなるか? わずかに眠りえたと思うと、アッと叫ぶようにして眼をさます。自分の臭いのするセンベイ蒲団の上で汗をかいた躰を胴震いするようにして、いま見た夢のおぞましさから逃れようとする。それは試験問題集で読んだ『今昔物語』の「東の方へ行く者、蕪を娶ぎて子を生む語」とからんだ夢なのだった。とぎれとぎれの短かい夢のなかで、オセッチャンが僕の精液のたっぷりついた蕪の、《皺干たりけるを掻き削りて食ひて》いる様子まで見た…… (大江健三郎『懐かしい年からの手紙』p267~)