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2014年7月21日月曜日

「おれは彼女とは生きられない、だがまた彼女なしでも生きられない」



                  (Eliot and Vivienne at 18 Crawford Mansions in 1916.)



Hysteria by T.S. Eliot

AS she laughed I was aware of becoming involved
in her laughter and being part of it, until her teeth
were only accidental stars with a talent for squad-
drill. I was drawn in by short gasps, inhaled at
each momentary recovery, lost finally in the dark
caverns of her throat, bruised by the ripple of un-
seen muscles. An elderly waiter with trembling
hands was hurriedly spreading a pink and white
checked cloth over the rusty green iron table,
saying: “If the lady and gentleman wish to take
their tea in the garden, if the lady and gentleman
wish to take their tea in the garden . . .” I decided
that if the shaking of her breasts could be stopped,
some of the fragments of the afternoon might be
collected, and I concentrated my attention with
careful subtlety to this end.


Vivienne Eliot was imprisoned in an asylum from 1938 until her death in 1947

「いつもでわたしは信じていますのよ、
あなたはわたしの気持を理解してくださる、共感してくださる、
底なしの溝を超えて、あなたのお手をさしのべてくださると。

なんてあなたは不死身なのね、アキレス腱もないのだわ。
あなたはそれでいいのでしょう、それで押し通していったなら、
おっしゃれますわね、世間のたいていの人間がつまずくのは此処だとね。
でもわたしには、でもわたしには、いったいあなたに
なにがあげられるっていうの? あなたはなにをわたしから受けとれるっていうの?
旅路の果てもそろそろ近づこうという女の
差しのべる友情と思いやりだけのものではないのかしら。
みなさんにお茶でも入れながら、わたしはここの坐って暮すのね……」

ーーーエリオット「或る婦人の肖像」より 深瀬基寛訳



     (Vivienne_Haigh-Wood_Eliot_and_T.S._Eliot,_1931)

「あの女をごらん、
彼女をせせら笑っているみたいに開いている戸口の
明りを浴びて、君の方へためらっている。
その彼女の着物の裾は裂け
砂利で汚れているだろう、
彼女のまなじりは
曲ったピンのようにねじれているだろう。」

ーーエリオット「風の夜の狂想曲』 深瀬基寛訳






◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』より私意訳。

性差異の矛盾する性質は、性関係の障害として現れたものが同時にその可能性の条件であることを意味する。――ここでの、「否定の否定」とは、障害を取り除くことが同時に邪魔していたものを失うことを意味するのだ。われわれは今、エミリー・ヘイルEmily HaleがT. S. エリオットの「沈黙の淑女」、すなわち慎重な愛のアタッチメントの対象であったことを知っている。それは、長い年月のあいだの妻ヴィヴィアンとの別居中だった。

The antagonistic nature of sexual difference means that what appears as the obstacle to the sexual relationship is simultaneously its condition of possibility—here, “negation of the negation” means that in ridding ourselves of the obstacle we also lose that which it had thwarted. We now know that Emily Hale was T. S. Eliot’s “lady of silences,” the object of his discreet love attachment, in the long years of separation from his wife Vivienne:
この期間中、ほとんど二十年の間、エリオットは、エミリーと結婚するために自由になる瞬間を待ち続けていた。しかしながら、何が起ったというのだろう、エリオットが、1947年1月23日ヴィヴィアンが死んだことを知らされた時。彼は妻の死に動顛したのだが、その後の成行きはさらに驚かされるものだった。今、予期せずエリオットは自由にエミリー・ヘイルと結婚できるようになった。この15年間の間、彼女と彼の家族はそれがエリオットの望むところだと信じていた。だが唐突に彼は悟ったのだ、共に生活しようとするどんな激情も欲望もないことを。「おれは中年の男としての己に出会ったI have met myself as a middle‐aged man」と新しい詩劇『カクテル・パーテイ』の主人公は言う。主人公は気づいたのだ、彼の妻がいなくなったあと、輝かしい、献身的なシーリアCeliaと結婚しようという切望を喪失してしまったのだ。最悪の瞬間、と彼はつけ加える、それは、もっとも手に入れたいものへのすべての欲望を失ったと感じたとき、と。

all this time, almost two decades, was spent waiting for the moment when Eliot would be free to marry her. However, here is what happened when, on January 23, 1947, Eliot was informed that Vivienne had died: He was shocked by his wife’s death, but even more by its consequences. For now, unexpectedly, he was free to marry Emily Hale, which, for the last fifteen years, she and his family had believed was what he wanted. Yet at once he realized that he had no emotions or desires to share … “I have met myself as a middle‐aged man,” says the hero of Eliot’s new play, The Cocktail Party, when he discovers, after his wife departs, that he has lost his wish to marry the shining, devoted Celia. The worst moment, he adds, is when you feel that you have lost the desire for all that was most desirable.49


問題は、ヴィヴィアンが、その期間を通してエリオットの“症状”のままだったことにある。彼のリビドーの注入の“つなぎ目”だったのである。「ヴィヴィアンの死は、エリオットの責苦の焦点の喪失を意味する」(Lindall Gordon)、あるいは、エリオット自らが『カクテル・パーティ』の主人公を通して、このトラウマのフィクションによる開陳であるならば、「おれは彼女とは生きられない、だがまた彼女なしでも生きられない」。ヴィヴィアンー〈モノ〉の堪えがたい核心は、彼女のヒステリカルな奔出に凝縮される。エリオットは決してヴィヴィアンをその保護施設に訪うことはなかった。というのは彼は怖れたのだ、「彼女の激情する要求…抵抗しがたい‘Welsh shriek’(ウェールズ女の金切り声)の力」(Lindall Gordon)を。ヴィヴィアンはレベッカのようであり、それに対してエミリーは新しいウィンター夫人だ。「絶え間ない圧迫と非現実性/その役割をもって彼女はほとんど私に押しつけようとした/執拗な、無意識の、人間の奈落にある力で/ある種の女が備えているもの」: “The whole oppression, the unreality / Of the role she had almost imposed upon me / With the obstinate, unconscious, sub‐human strength / That some woman have.” このように、彼女はエリオットの欲望の対象-原因だった。それが彼にエミリーを欲望させたのだ。あるいは彼は彼女を欲望していると信じさせたは不思議ではない。そしてヴィヴィアンが消え去った瞬間、彼女とともにエミリーへの欲望も消え去った。エリオットのもつれた糸から引き出せる結論は明白である。すなわちヴィヴィアン、あるいはエミリーとの関係のいずれにも愛はなかった。というのは、ラカンが指摘するように、愛は性関係の不可能性を補うものだから。
The problem was that Vivienne remained Eliot’s symptom throughout, the “knot” of his ambiguous libidinal investment: “The death of Vivienne meant the loss of Eliot’s focus of torment,”50 or, as Eliot himself put it through his hero in The Cocktail Party, a fictional account of this trauma: “I cannot live with her, but also cannot live without her.” The unbearable core of the Vivienne‐Thing was concentrated in her hysterical outbursts: Eliot never visited Vivienne in the asylum, because he feared “the nakedness of her emotional demands … the compelling power of her ‘Welsh shriek’.”51 Vivienne was like Rebecca versus Emily as the new Mrs. De Winter: “The whole oppression, the unreality / Of the role she had almost imposed upon me / With the obstinate, unconscious, sub‐human strength / That some woman have.” As such, she was the object‐cause of Eliot’s desire, that which made him desire Emily, or believe that he desired her—no wonder, then, that the moment she disappeared the desire for Emily disappeared with her. The conclusion to be drawn from Eliot’s imbroglio is clear: there was no love in his relationship to either Vivienne or Emily, for, as Lacan pointed out, love supplements the impossibility of sexual relationship.


2014年6月4日水曜日

過去を変えることは不可能であるという思い込み

@RichterBot: (ジャン=フィリップ・コラールのシューマン『ピアノソナタ第三番』を聴いて)
それまでのコラールは第一級のピアニストのように私には思われていた。
ところが聴き終わって残念ながら見解を改めた。(スヴャトスラフ・リヒテル)

おそらく誰にでもあるだろう
それまで信頼していた人物への評価が
あるひとつだけののきっかけで
積み木の山のように
がらがらと崩れてしまうということが。

たとえば映像作家のある作品にメロドラマの汚点を感じ
遡って振り返ると以前には気づかなかった
その甘さの汚点がしみのように拡がって見えて
チャオ! あなたはもう結構というのが。

ツイッターでの発話者にさえある
なかなかよい詩を引用しているではないか
いい趣味だな
と感じ入っていたところ
ひとつの自己陶酔に溺れたツイートで
ああこの人物の詩への愛はすべてがナルシシズムに由来している
そのように唐突に悟り
もう結構となるというのが。
むしろそのとき己れのメロドラマ性に気づかされ
いっそう倦厭するようになるということが。

 フロイトに「遡及性」という概念
Nachträglichkeit (retroactivity)があるが
遡及的に欠点が明らかになるということが
われわれの生にはふんだんにある。
もちろんそれも誤解であり得るし
遡及的に美点が明らかになることもある。


フロイトの遡及性は次のようなことだ。
「遡及的」な外傷という形で使われる
子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、
そこには外傷的なものは何ひとつなかった
子どもはなんら衝撃を受けたわけでは毛頭なく
意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。
だが後年性的な袋小路に遭遇して
子供は幼いときの記憶を引っ張り出し、
遡及的に外傷化されるというふうに。
内的なトラウマと言われるものは
オリジナルな外傷があるのではなくて
多くの場合、このような遡及的な外傷だと
フロイトはある時期から外傷論の見解を変更している。

ボルヘスのカフカ論や
エリオットの「伝統と個人的な才能」
ドゥルーズの「純粋過去」などとも
しばしば指摘されるが遡及性にかかわる
個人あるいは文化の歴史の過去が変わる
正確には「再構成」される

過去を変えることは可能であるとする
中井久夫の次の文はおそらく
フロイトやエリオットを参照しているはず。

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

《フロイトの夢の研究に徴しても、老人の回想に照らしても、「現在との緊張における」という限定詞つきの意味での「個人的過去の総体」は一般に「人格」と呼んでいるものにほぼひとしい。》(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」)

このように「現在との緊張関係における」という但し書きが必要なのだ
個人の過去、あるいは「人格」というものは。
他人や作品の評価も同じく。


…………

ボルヘスはカフカの先駆者として
「運動を否定するゼノンのパラドクス」
(たとえば『城』の運動の否定のパラドクス)
9世紀の作家、韓愈の麒麟にかんする寓意譚
キルケゴールの「中産階級的主題にもとづく宗教的寓話」
等々を挙げながら、次のように書く。

程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然とあらわれているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。(……)
ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。(ボルヘス「カフカの先駆者」)

決定的な「芸術家」とはこのように過去の総体を再構成する
過去を変えてしまう、未来を変えるだけではないのだ
そんな芸術家の作品に遭遇できることは稀であるにしろ。

あるいはエリオットの《過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない》。

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(エリオット「伝統と個人的な才能」吉田健一訳)

さらにはまた ドゥルーズ=プルーストの「純粋過去」。

紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)

《かつて現在であったためしがない純粋過去》、すなわち、

たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である<私>は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)

この「純粋過去」は中井久夫のよって「メタ記憶」と言い換えられる。
それが正確に合致する概念であるかどうかは別にして
おそらく「メタ記憶」のほうがわれわれには馴染みやすい言葉だろう。

マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」)

索引-鍵によって過去が再び生きられるのであり
しかも初めて生きられる過去なのであって、
ただたんに古くなっただけの過去(相対的過去)を
そのまま想起したのではない。
「現在との緊張関係における」過去なのである。

現在のあるささいな出来事が
潜在的でしかなかった過去を「遡及的に」構成しなおす
それが《再び生きられ、かつ初めて生きられる》ということだ。


ドゥルーズの「純粋過去」概念は、
「反復」概念にも大きくかかわる。

そこにはまず想起/反復という二項対立がある。

恋愛”においてある個体にこだわることは、その個体を単独性においてではなく、一般的なもの(イデア的なもの)のあらわれにおいてみることであるからだ、たとえばこの女しかいないと思いつめながら、また次に別の女にこの女こそと思いつめていくようなタイプがある。フロイトがいったように、この女への固執は、幼年期における母への固執の再現(想起)である。次々と相手を変えながら、そのつどこの女と思い込むようなタイプは、フロイトのいう「反復強迫」である。実は、反復強迫は、キルケゴールのいう反復ではなくて想起であり、同一的なものの再現なのである。ここには他者は存在しない。たんに、法則的(構造的)な再現(表象)があるだけだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

この「想起」から抜け出て「反復」しなければならない。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(同『探求Ⅱ』)

高橋悠治にひどく美しい「ふりむく」をめぐる文がある。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』

われわれは、過去に受身であり
かつそれに決定されている、
「自由意志」などないというスピノザの言う如く。
にもかかわらず「ふりむく」という行為によって
過去の座標軸そのものを変えることができる
高橋悠治の言葉はそのように読みたい。


確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛をすでに反復しているのだ。…極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝の流れが貫流している(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)







2014年2月8日土曜日

女神の舌

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(吉田健一訳「伝統と個人的な才能」『エリオット選集 第一巻』)

《英文学者でもないかぎりエリオットなんて今の人は読まないでしょうが、彼が「伝統」とよんでいたのは、いわばインターテクスチャアリティのことなんですね。一つのテクストは、過去のテクストの総体のなかで書かれ、かつそれは過去のテクストの意味を変える、というような考えなんですね。》(柄谷行人『闘争のエチカ』)

こういった、過去のテクストの意味を変えるような出逢いがどれほどわたくしにあったのか、といえば、たいして多くの作家や芸術家を思い浮かべることができるほど、よき鑑賞者でもなく、繊細な神経を持ちあわせているわけでもない。

もちろんおそらく多くのひとと同様まったくないというわけではない。
わたくしの場合は十代の後半から二十歳前後に出遭ったのいくつかの作品以降、下にプルーストが書くような世界が古い世界とはちがって見えるというような衝撃は少ない。おそらくほとんどそのときのままなのだ。もちろん映画や文学、音楽、あるいはフロイトなどによりその後も小粒な世界の一新ということはある。

ジャコメッティの彫刻のようにすくっと立ち上がった空気が簡素な活花のまわりに流れているなとか、あの女の頬はモジリアーニのようだ、マティスの女のような髪と瞳,、あるいは唇の歪み、ゴーギャンの女の肉厚の足の甲のカンボジア娘などと今でも感じることがあるのは、二十歳前後、東京八重洲にあったブリジストン美術館に熱心に通ったせいだが、もともと当時週に空けずに通ったのは「アテネの女神のような髪を結つた」受付の女性に魅せられたためであり、何ヵ月後かに女がおなかが大きくなったのに気づき、通う足が間遠になった。

《アテネの女神のような髪を結つたそこの/おかみさんがすっぱい甘酒とミョウガの/煮つけをして待つているのだ》

《槇の生垣の中でおなかの大きくなつた女が/舌をつき出してヘラヘラと笑つた》(西脇順三郎)

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)






《二十三の時のレンブラントの自画像に/似ている男に会つた/女神の舌にふれた時の/よろこびに驚いたような眼つきをした/……》(西脇順三郎》

女神の舌にふれた経験などわずかしかない。





彼がいまになって私たちを訪問しにやってくるのは、私には数年おそきにすぎる思いだった、なぜなら私はもはそのころとおなじほど彼を讃美してはいないからだった。そのことは彼の名声のあの拡大と矛盾するものではない。昔から、一つの作品が完全に理解され勝利を博するころには、まだ無名の、べつの作家の作品が、一段と気むずかしい何人かの知識人のまわりに、新しい礼讃をまきおこしはじめ、やがて強い威力をほとんど失ってしまった有名作家にとってかわらなかったためしはめったにない。私が何度も読みかえしたベルゴットの書物のなかの、彼の文章は、私自身の思惑、私の部屋のなかの家具、街のなかの馬車とおなじほど私の目にはっきりしていた。そこでは何もかもたやすく目に見えた、それは過去にいつも見ていたままではないまでも、すくなくとも現在見慣れているままに見えたのだ。ところで新しい作家はすでに何篇かの作品を発表しはじめていて、その作品のなかでは、事物相互のあいだの関係が、私のむすびつけかたとひどくちがうために、彼の書いていることがほとんど何も私にはわからなかった。その作家はたとえばこんなふうにいうのだ、「撒水車のホースは道路のみごとな舗装に感心していた」(これはまだやさしかった、私はそれらの道路に沿ってすらすらと進んでいった)。「それらの道路は五分ごとにブリアンやクローデルから出てくるのであった……」こうなるともう私にはわけがわからなかった、というのも、私は街の名を期待していたのに人の名が出てきたからであった。ただ私には、この文章の書きかたが下手なのではなく、私のほうが最後までついてゆくねばり強さと敏捷さとももたないのだ、と感じられるのであった。

私は躍動をあらたにし、足と手のたすけを借りて、事物相互の新しい関係を自分で見通せるような場所に達しようとするのであった。そのたびに、文章のほとんどなかばまできて、私ははたと行きずまってしまうのだが、それはのちに軍隊で梁木と呼ばれる器械体操をやらされたときとおなじであった。それでもやなり私はその新しい作家に、体操の点でゼロをもらう無器用な子どもが、自分より上手な他の子供をながめるときの、賞讃の念を抱くのであった。そのときから、私はベルゴットを賞讃しなくなり、彼の透明さは私に物足りなく見えた。かつて、フロマンタンが描くとよくわかる物が、ルノワールだともうわからない、といった時代があった。

こんにちならよい趣味の人たりはわれわれに向ってこういう、――ルノワールは十八世紀の大画家である、と。しかし、そういうことを口にするとき、彼らは忘れているのだ、時を。すなわちルノワールが大芸術家としての待遇を受けるには十九世紀のただなかにあってさえ多くの時を必要としたことを。そのようにして世に認められることに成功するには、独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。はじめて見た日どうしても森とは思えず、たとえば無数の色あいをもっているがまさしく森に固有の色あいに欠けているタペストリーのようだった、そんな森に似た森のなかを、われわれは散歩したくなってくる。そのようなものが、創造されたばかりの、新しい、そしてやがて滅びるべき宇宙なのである。その宇宙は、さらに独創的な新しい画家や作家がひきおこすであろうつぎの地質的大変動のときまでつづくだろう。

ベルゴットのお株をうばって私をひきつけた作家は、私が習慣にしたがって意味をたどろうとした文章の関係の不統一のためにそれの理解に苦労させたのではなく、むしろ関係の申しぶんのない統一の新しさのために私を苦労させたのであった。いつもおなじ点まできて私がはたと行きづまるのを感じるのは、私の力の出しかたが毎回おなじであることを示していた。それにしても、千に一度、その文章のおわりまでその作家についてゆくことができたとき、私の目に見えてくるものは、かつてベルゴットを読んで私が見出したものに似てはいるが、つねにそれより快い、一種のおかしさ、真実性、魅力なのであった。私は思いかえすのであった、そういえば私がいまベルゴットの後継者から期待しているものに類する、世界を見る目とおなじ一新を、そう何年もまえにでなく私にもたらしたのはベルゴットであったことを。そして、内心こんなことを自分に反問するにいたった、ホメロス時代から大して進んでいるわけでもない芸術と、たえまのない進歩の状態にある科学とのあいだに、われわれがつねに投げるあの区別には、なんらかの真実があるのだろうかと。もしかすると、芸術は、その点では普通に考えれらているのとは反対に、科学に似ているのかもしれなかった、独創的な新しい作家はいずれもおのれに先だった作家を乗りこえて進歩をとげるのだと、私には思われてくるのであった。したがって、こんにち新人といわれる作家に、二十年後になって、私が苦労なくついてゆけるであろうときには、またべつの作家が出現して、その人のまえに現在の新人がベルゴットのあとを追ってすみやかに後退しないとは、誰が私にいえたであろう? プルースト「ゲルマントのほう 二」より 井上究一郎訳)

…………

フロイトは前期だけでなく後期にいたるまで「美は性感覚の領域に由来している」とオッシャル。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 人文書院 P26  原著1905年)
……ここで、興味ある例を一つつけ加えることができよう。それは、人生の幸福を主として美の享受に求める態度である。その場合の美とは、われわれの感覚および判断が美と認める一切のものを含み、人間の身体や身振りの美、自然物や風景の美、芸術創造物の美はもとより、学問的な業績の美さえも例外ではない。人生目的についてのこのような美的態度は、外界から迫ってくる苦難にたいしてははなはだ無力である反面、さまざまの不幸の償いになりうる。美の享受には、そっと麻痺させるような、特別の感覚としての性格がある。美の効用はかならずしもはっきりせず、美が文化にとって必然的なものかどうかも曖昧だ。けれども、文化に美は不必要だと主張する人間はいないだろう。美学は、美が感知されるための条件を研究しているが、美の本質と由来の解明には成功していない。そして、よくあることだが、この失敗を隠すため、威勢こそいいが、内容は空疎な言葉のかずかずがまき散らされる。残念なことに、精神分析もまた、美については、他の学問にもまして発言権がない。ただ一つ確実だと思われるのは、美は性感覚の領域に由来しているにちがいないということだけである。おそらく美は、目的めがけて直接つき進むことを妨げられた衝動の典型的な例なのであろう。「美」とか「魅力」とかは、もともと、性愛の対象が持つ性質なのだ。そのさい注意すべきことは、性器そのものは眺めた場合にはかならず刺激として働くのに、美しいと評価されることはほとんどないことで、これに反し美は、ある主の第二次性徴のように思われる。(フロイト『文化への不満』著作集3 P446~ 原著1930年)

「性」といえばいまではいささか奇異の念を抱くひとがいるかもしれない。だが「性感覚」はエロス感覚なのだ。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P111-112)

2014年1月16日木曜日

承認欲望と承認欲動

乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳ーーPaul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics"ーーラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書より)

この文をより詳細に、そして〈他者〉の欲望に同一化する(想像的ファルスになる、とラカン派では言われる)ことまで含めて書かれている文を次に掲げる。

Paul Verhaeghe(ポール・ヴェルハーゲ)の『Sexuality in the Formation of the Subject』 より(同私訳)。

フロイトにとって、人間の成長の出発点は最初の不快の経験である。その不快とは、「痛みSchmerz」と呼ばれ、すなわち典型としては空腹や渇きにより齎される内的な欲求の結果としての痛みだ。フロイトはこの痛みを緊張の蓄積として理解する。この興奮を、「寄せあつめられた欲動component drives」(ほぼ「部分欲動」に等しいが、いくつかの部分欲動ということだろう:訳者)によるものとして理解するのはそんなに難しくはない。この不快な状態への乳児の反応は典型的なものであり、引き続いておこる間主観的な関係の基礎となるものだ。すなわち無力な赤子は他者に向かって泣き叫ぶ。他者は、乳児の内的な緊張をやわらげる「具体的な行動」に気を配る者と見なされる。そのような介入はつねに言葉と行動の組合せによって成り立っている。すなわち、〈他者〉は要求を理解しそれに応えることを子どもに示す。

この原初の相互作用の重要性を買いかぶってはならない。というのはそれに引き続く関係の基礎を構成するからだ。

まず第一に、寄せ集められた欲動によってひき起こされた最初の身体的な緊張は、永続的に〈他者〉に繋がることになる。その意味するところは、部分欲動はまさに最初から間主観的な次元をもつということだ。なおさらに、〈他者〉は己れの緊張をやわらげる責任があるものとして捉えられる。

二番目には、初期から、未来の主体subject-to-beは受身的な立場をとる必要がある。彼、あるいは彼女は、〈他者〉に完全に隷属している。

三番目に、われわれはここに、すべての主体における原初の不安に出逢う。すなわち引き離される不安separation anxietyだ。〈他者〉の不在や〈他者〉反応の欠如は耐えがたい。その結果、われわれは原初的な憧憬をも見出すことができるだろう、そのあこがれとは、〈他者〉と一緒にいたい存在ということだ。ーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書より
欲動の緊張に対処しようとするなか、子どもは、最初の〈他者〉に訴えかける。母はこの訴えかけを要求として解釈するが、それは彼女自身の部分欲動に向けた自己の立場を元にする。そしてこのようにして自己の欲望を含んだ答えをつくり出す。結果として、子どもはこの〈他者〉によって現わされたイメージに自己自身を同一化する。すなわち、自己の興奮に応答を受け取るために、〈他者〉の欲望に同一化するということだ。

簡単な例をあげよう。子どもの泣き叫びは食べ物への要求として最初の〈他者〉により解釈される。その結果、子どもは、ただ食べなければならないのではなく、この〈母〉の解釈を元にして、自分自身の興奮を食べ物の欠如として解釈することを余儀なくされる(引用者:場合によってはほかの興奮であることもあるのだ、たとえば、寒い、おっしこをして不快だ、抱っこしてほしいなど。究極的には母と合体(融合)したいということ)。

この解釈とともに、最初の〈他者〉は彼女自身の欲望を表現するのだが、その〈母〉の欲望に子供は服従しなければならないのだ、もし子ども自身の欲動の応答を受け取るためには。他者が子どもの欲求に応答する責任をもつという原初的な相互関係と比較して、われわれはここにふたたびおどろくべき逆転に出逢う。自己の欠如の応答をえるためには、子どもは〈他者〉の欲望に従いつつ己れの手本model itselfにしなければならない。〈他者〉の欲望に同一化しなくてはならないのだ。これ以降、主体は〈他者〉の欲望に応答する責任をもつ。そして主体と〈他者〉の欲望の相違はぼんやりしてくる。すなわち、主体の欲望は〈他者〉の欲望である。

主体は、己のa(対象a)への完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母他〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(同ポール・ヴェルハーゲ)

さらに想像的ファルスと象徴的ファルスの相違が書かれているのは向井雅明氏の次の文がよいだろう。
一般にはラカンのファルスの話(想像的ファルス(φ)、象徴的ファルス(Φ)はこう語られる。子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。 (向井雅明『精神分析と心理学』)psychanalyse.jp/archives/M_MUKAI/Psychanalyse_et_psychologie.doc‎

「父の機能」が不充分なとき、つまり「去勢」がされていない、あるいは「去勢」が不充分だ、というとき、この象徴的ファルスの介入が不充分だということになる。

もっともこのあたりの言葉遣いは微妙なところがあり、ラカン派(日本で言えば向井雅明派にあたるはずだ)の若き俊英松本卓也氏のツイートでは次のようなことらしい。このあたりは混乱するところで、傾聴に値する指摘だ。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです。

…………

ところで承認欲求という言葉が巷に跳梁跋扈している。それは実はラカン派的観点からは、承認欲望、あるいは承認欲動と呼ぶほうが正しいのではないか。

ひとが絶え間なくイマジネールな(想像的な)他者の欲望の対象になろうとする振舞いは、承認欲望とすることができる。

他方、より根源的な、ヴェルハーゲの云うところの、《己のa(対象a)への完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母他〔(m)other〕を独占したい》という意味では、承認欲動とすることができる。ここでのa(対象a)は、《永遠に到達できない究極的な愛》と呼んでもいい。

仮に承認欲望をひとがコントロールできても、承認欲動をコントロールすることはできない。それは〈愛〉を失うことになる。

…………

《誰もが、誰かに見られていることを求める》。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

クンデラはこう書き、四つの視線のカテゴリーをあげる。

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)

①②は、鏡像的他者の視線(想像的ファルスになること)、③が<対象a>の視線、は、「想像上の視線」と書かれているにもかかわらず、大文字の他者の視線(象徴的ファルスの眼差し)などとすることが、ひょっとしてできるのかもしれないが、このあたりはもう少し考えてみる必要があるだろう。③は、ラカンの中期までの解釈による自己愛的な〈愛〉ではなく、後期の、神への愛、無償の愛(見返りのない愛)として捉えたら、さてどうなるのかという問いも生まれる(参照:ラカンの愛の定義)。

晩年のラカンは、ほとんどドゥイノ悲歌のリルケに近づいたといってもよい。

愛の応答〔いらえ〕を求めての叫びかけではない、もはやそのような呼びかけではなく/おさえてもおさえきれぬ声のほとばしり、それがおまえの叫びの本性であれ。おまえは鳥のように無垢にさけびもしよう、/……/思ってはいけない、運命は幼い日の密度よりゆたかだと。/いかにしばしばおんみらは恋人を追いぬいたことか、いかなる獲得をも目ざさず、/ただ自由の世界へ突きすすむ至福の疾駆に息をはずませながら。/……/ただわれわれは、笑いさざめく隣人たちが/承認してはくれぬもの、うらやんではくれぬものを忘れやすいのだ。疑いようのないものとして/われわれは隣人たちに承認された幸福を高くかかげようとする。疑いようのない幸福が/われわれに顕現するのは、ただわれわれがそれをわれわれの内部において変化さすときだけなのに。/……/天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛〔もと〕めたとして! おんみは来はしない。なぜならわたしの/声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶〔こばみ〕につねに充ちているのだから。このように強い/気流に逢ってはおんみはそれを冒して歩みよることはできない。さながら高くさしのべられた/腕だ、わたしの呼びかけは。そして摑もうとして花さいた指は、/捉ええぬもの天使よ、おんみを前にして/大きく押しひろげられたままなのだ/さながら拒否と警告のしるしとして。(リルケ『ドゥイノの悲歌』「第七の悲歌」(手塚富雄訳)

いずれにせよ、ひとは誰かに見られることを求めることから逃れることはできない。この「求める」を、欲求と翻訳するなら、「承認欲求」という語彙に文句をつけるつもりはない。ただし、上に書かれたように、承認欲望はコントロール可能だが、承認欲動はコントロールし難い。その区別をしないと、だれもが承認欲求があるのさ、ということで済んでしまう(もっとも「承認「という語も検証されなければならないだろう、それは究極的には大文字の母と融合したいというエロス欲動であるのだから)。


さてクンデラの小説の四つの視線の箇所を抜き出しておく。

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分されるであろう。

第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別なことばでいえば、大衆の視線に憧れる。これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである。彼は自分の読者に慣れており、ある日ロシア人が彼の週刊誌を廃止したとき、百倍も薄い大気の中に残されたように感じた。何人〔なんびと〕も、知らない人びとの目という視線を彼におぎなってやることはできなかった。彼は息がつまるように思えた。するとある日のこと、たえず警察につけられ、電話が盗聴され、それどころか路上で密かに写真を撮られていることに気がついた。無名の目が突然いたるところで彼と共にあり、彼はふたたび息をふきかえすことができた。幸福になった! 壁に仕込まれたマイクに芝居のせりふのように話しかけた。警察の中に失われた大衆を見出したのである。

第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。ここにマリー・クロードとその娘が入る。

次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。この人たちの中にテレザとトマーシュが入る。

そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。例えば、フランツ。彼はただサビナのためにのみカンボジア国境まで歩を運んでいる。バスはタイの道路をがたがたと走り、フランツは彼のことをじっと見ているサビナの長い視線を感ずるのである。

その同じカテゴリーにトマーシュの息子も入る。彼をシモンと呼ぼう(父と同じく、聖書にある名を与えられて嬉しいであろう)。憧れを抱く目はトマーシュの目である。署名運動にまき込まれた後、彼は大学からほうり出された。彼がつき合っていた娘は田舎の司祭の姪であった。彼女と結婚し、集団農場のトラクター運転手、カトリック信者、父親になった。そのあと誰からか、トマーシュも田舎に住んでいることをきき、喜んだ。運命が二人の人生をつり合いのとれた道へと導いた! このことが、トマーシュへ手紙を書かせる勇気を与えた。返事は要求しなかった。ただトマーシュが視線を彼の人生にあてることだけを欲した。 P310-312

中井久夫は、作家の孤独を強調しすぎてはいけない、と書いている。作家の孤独とは「承認欲望」の拒絶としてみることができないか。そして《彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠》と書かれるときに、それは「承認欲動」に近いことを語っているのではないか。

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

承認欲望とは次のようなものだろう。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』ーー合理的な守銭奴より)

なお欲望と欲動の相違の説明のいくらかは、「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」にある。

…………


二十世紀前半の三大詩人の二人の名を出したのだ。もう一人の詩人エリオットをめぐって、そして最晩年のラカンのピュアラブを語るジジェクの『LESS THAN NOTHING』の叙述を資料として附記しておこう。

We now know that Emily Hale was T. S. Eliot’s “lady of silences,” the object of his discreet love attachment, in the long years of separation from his wife Vivienne: all this time, almost two decades, was spent waiting for the moment when Eliot would be free to marry her. However, here is what happened when, on January 23, 1947, Eliot was informed that Vivienne had died:

He was shocked by his wife’s death, but even more by its consequences. For now, unexpectedly, he was free to marry Emily Hale, which, for the last fifteen years, she and his family had believed was what he wanted. Yet at once he realized that he had no emotions or desires to share … “I have met myself as a middle‐aged man,” says the hero of Eliot’s new play, The Cocktail Party, when he discovers, after his wife departs, that he has lost his wish to marry the shining, devoted Celia. The worst moment, he adds, is when you feel that you have lost the desire for all that was most desirable.

The problem was that Vivienne remained Eliot’s symptom throughout, the “knot” of his ambiguous libidinal investment: “The death of Vivienne meant the loss of Eliot’s focus of torment,” or, as Eliot himself put it through his hero in The Cocktail Party, a fictional account of this trauma: “I cannot live with her, but also cannot live without her.” The unbearable core of the Vivienne‐Thing was concentrated in her hysterical outbursts: Eliot never visited Vivienne in the asylum, because he feared “the nakedness of her emotional demands … the compelling power of her ‘Welsh shriek’.” Vivienne was like Rebecca versus Emily as the new Mrs. De Winter: “The whole oppression, the unreality / Of the role she had almost imposed upon me / With the obstinate, unconscious, sub‐human strength / That some woman have.” As such, she was the object‐cause of Eliot’s desire, that which made him desire Emily, or believe that he desired her—no wonder, then, that the moment she disappeared the desire for Emily disappeared with her. The conclusion to be drawn from Eliot’s imbroglio is clear: there was no love in his relationship to either Vivienne or Emily, for, as Lacan pointed out, love supplements the impossibility of sexual relationship. It can do this in different ways, one of which is for love to function as perversion: a perverse supplement which makes the Other exist through love, and in this sense a pervert is a “knight of love.” Historical forms of love are thus, from a clinical standpoint, forms of perversion (and Lacan complains here that psychoanalysis did not invent any new perversions). In clear contrast, the late Lacan affirms love as a contingent encounter between two subjects, of their unconsciousnesses, subtracted from narcissism—in this authentic love, sexual relationship “cesse de ne pas s’écrire.” Here we are beyond pure and impure, love for the Other and self‐love, disinterested and interested: “Love is nothing more than a saying [un dire] as event.”

The standard notion of love in psychoanalysis is reductionist: there is no pure love, love is just “sublimated” sexual lust. Until his late teaching, Lacan also insisted on the narcissistic character of love: in loving an Other, I love myself in the Other; even if the Other is more to me than myself, even if I am ready to sacrifice myself for the Other, what I love in the Other is my idealized perfected Ego, my Supreme Good—but still my Good. The surprise here is that Lacan inverts the usual opposition of love versus desire as ethics versus pathological lust: he locates the ethical dimension not in love but in desire—ethics is for him the ethics of desire, of the fidelity to desire, of not compromising on one’s desire.

Furthermore, the late Lacan surprisingly reasserts the possibility of another, authentic or pure love of the Other, of the Other as such, not my imaginary other. He refers here to medieval and early modern theology (Fénélon) which distinguished between “physical” love and pure “ecstatic” love. In the first (developed by Aristotle and Aquinas), one can only love another if he is my good, so we love God as our supreme Good. In the second, the loving subject enacts a complete self‐erasure, a complete dedication to the Other in its alterity, without return, without benefice, whose exemplary case is mystical self‐erasure. Here Lacan engages in an extreme theological speculation, imagining an impossible situation: “the peak of the love for God should have been to tell him ‘if this is thy will, condemn me,’ that is to say, the exact opposite of the aspiration to the supreme good.” Even if there is no mercy from God, even if God were to damn me completely to external suffering, my love for Him is so great that I would still fully love him. This would be love, if love is to have le moindre sens. François Balmès here asks the right question: where is God in all this, why theology? As he perceptively notes, pure love must be distinguished from pure desire: the latter implies the murder of its object, it is a desire purified of all pathological objects, as desire for the void or lack itself, while pure love needs a radical Other to refer to.This is why the radical Other (as one of the names of the divine) is a necessary correlate of pure love.









2013年8月3日土曜日

おれの心はムクロ(カヴァフィス=中井久夫)

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。》(松浦寿輝『クロニクル』)





浮き彫りの飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に坐る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、物語の陰に、おのれのさまざまな仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と改悛のあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと聖性の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。(リッツォス「カヴァフィスにささげる十二詩の一、詩人の部屋」中井久夫訳)


何度か中井久夫訳のカヴァフィス「市」を引用しているのだが、ここでも反復しよう。

「いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。/いつかおれは行くんだ」と。/「あっちのほうがこっちよりよい。/ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?/眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。/ここで何年過したことか。/過した歳月は無駄だった。パアになった。//きみにゃ新しい土地はみつかるまい。/別の海はみあたるまい。/この市はずっとついてまわる。/……/まわりまわってたどりついても/みればまたぞろこの市だ。/他の場所にゆく夢は捨てろ。/きみ用の船はない。道もだ。/この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには/きみの人生は全世界で廃墟になったさ」(カヴァフィス「市」中井久夫訳)


《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。》


「埋葬」といえば、エリオットの『荒地』の第一節の題は、The Burial of the Dead(死者の埋葬)である。

田村隆一は、中桐雅夫訳の『荒地』を引用しつつ次のように謳い呟く(「だるい根」)。

「死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす」

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている


老いてくると、《ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつた》、
あるいは、《おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ》、と
むなしい気分に襲われることがあるのさ
そうだな、若かりし頃熱狂した音楽や詩
あるいは女に
だるい根のおぼつかない顫えしかない
そんな刻限

まだだるい根は残っている
ときおり掘りかえして磨耗してしまったひげ根の
かすかな残留のさまを慈くしむため
水撒きしてみることだってあるさ
乾ききっているわけじゃない

驟雨のびっしょりした濡れ具合じゃなくていい
霧雨ほどのかすかな濡れ具合でいい
だるい根の表皮を蔽う鈍重なかさぶたが罅割れて
免疫の薄い年頃のかすり傷から新しいひげ根が芽生える
そんなむなしい願いだってないわけじゃない
老少年が埋葬された少年の屍を掘りかえすため


――この中桐雅夫訳「だるい根」は、西脇順三郎訳では「鈍重な草根」だが、これは前者でなくてはならない、すくなくともこの「老少年」にとっては。

「かなしみ」 谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

…………

ところで、中井久夫にはエリオットの詩句の次のような訳がある。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264


この中井久夫が「超訳」するエリオットの詩句は、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実 には堪えられない」とでもされるところだ。この詩句は『四つの四重奏』からくるのだろうが、エリオットの原詩では、“Go, go, go, said the bird: human kindCannot bear very much reality.”であり、いささかの相違がある。だが、中井久夫の引用するそのままの詩句あるいはフレーズは、エリオットのほかの詩や論のなかにはみつからず、おそらく、少年時から多くの詩の暗唱の習慣があるとしている中井氏が、その暗唱の記憶で書かれているのだろうと推測する。

ちなみに、バードン・ノートンの第二節には”Protects mankind from heaven and damnationWhich flesh cannot endure.”endureの語が出てくる。


あるいは『四つの四重奏』の「エピグラフ」(ヘラクレトスの英訳)は次の如し。
"Although logos is common to all, most people live
as if they had a wisdom of their own."
"The way upward and the way downward are the same."
Heraclitus

”most people live as if they had a wisdom of their own.”は、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである》と訳せないこともないだろう。


…………


《ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?》

この箇所のギリシャ語原詩は次の通り。






下線部の、中井訳では「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。」の箇所は、

And my heart is—like a corse--buried (代表的な英訳とされるKeeleySherrard

Mon cceur est enseveli comme un mort (ユルスナール仏訳)

などであり、もし直訳すれば「私の心はーー死体のようにーー埋葬されている。」となるらしい。


この箇所を、各国の十一もの翻訳を引用して比較されている中村幸一という方がおられる(「おれの心はムクロ。」――中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』における翻訳技法の研究

この部分の眼目は何といっても、(……)「死体のように」という煮え切らない明喩を、「おれの心はムクロ。」と吐き捨てるような片仮名表記で、ピリオドを打ち、暗喩に転換したことに尽きる、(……)中井訳の、ここまで思い切った、しかも作者の心奥に肉薄し、それに対応する表現を再構成して提示するのは、翻訳というより、詩作それ自体と変わらないであろう。普通の文学研究者に、これはできないのではないだろうか。目に見えない心理を把握し、言語化する精神科医の力はあまりにも大きいことを思い知らされる。


精神科医であることが強調され過ぎているきらいがないでもないが、中村氏のいう通り稀にみる訳であるには相違ない。

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。》(中井久夫『治療文化論』)

しかし、文学研究者のなかにも、「精神科医」のようにしてテクストを読む人たちが、仮に稀にせよ、いるのではないか。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?

私たちは星座をみるのではない。星座はコンヴェンションだ。むしろ、新しい星のつながりのための補助線を引く。いやむしろ、暗黒星雲を探し求める。語られないことば、空白域の推論である。資料がなければ禁欲する歴史家と、そこが違う。

また、時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。

テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかし、厖大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはものを書く時に、語る時に、私たちの中に起っていることだ。患者の中にもおそらく起っていよう。ただ、重症の患者の中では、揺らぎや置き換えが起らない。しかし、治癒に近づくと彼ら彼女らの文章はしばしばそんじょそこらの“健常者”をしのぐ。病いにはことばをきたえ直す力さえあるのだろうか? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

わたくしには、むしろ本来は詩人となるべき人が精神科医になったのだ、としたくなるときがある。

私が別に臨床医という仕事を持っていることは、この場合に大きな救いとなっている。専業著者であれば私は発狂しそうな気がする。しかし、臨床医であるということには大きな制約もある。私が訳詩で止まって詩を書かないのはなぜかと聞かれることがあるが、才能は別としても、もし詩を書こうとすれば、そのために、私は分裂病患者の診察の際に重要な何ものかを流用せざるをえなくなり、患者にたいへん申し訳ないことになるであろう。私は何も一般論として精神科医と詩人とが両立しないと言っているのではない。私の器量では双方が一つのうつわに収まらないという確実な感触があるというのである。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)


風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を!


ーーーヴァレリー『海辺の墓地』最終節 中井久夫訳


徹底的に暗誦すればよいかというと、どうもそこまでは行かないほうがよいらしい。私は十六歳が十七歳の時、翻訳する廻り合わせになるなどゆめ思わずにヴァレリーの「海辺の墓地」を暗誦してしまった。六十歳近くになってさて翻訳に取りかかった時、私の訳の歩みは完成した形の原文に先回りされてしまって何度も立ち止まった。訳文はできかけては霧散霧消した。しょせん、原詩の美と完成度に敵うわけがない。どうもある程度の覚え間違いと覚え残しがあるぐらいでないと、訳詩過程に必要な日本語の最適語juste motを選ぶための自由な言語空間が閉ざされて失われてしまうようだ。心理学には「本の内容を記憶し活用するためには完全に読み切らないで未読の部分をごく一部でも残しておくのがよい」という実験的事実があるが、それとどこか関連している事柄ではなかろうか。

また、読めば読むほどよいかというと、これにも限度がある。文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。詩というものは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。それだけではない。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなる。ヴァレリー詩の翻訳の際に、彼のフランス語の「イディオシンクラシー」(医学でいえばまさに体質的特異性!)が私の中で煮詰まってきて、生理的な不快感となった時期があった。彼の詩を英詩やイタリア詩あるいはボードレール詩に関連づけようと比較文学研究の真似事をしたのは、この不快感を中和するためであったとは後から気づいたことである。(中井久夫「訳詩の生理学」 『アリアドネからの糸』所収)

…………


最後に四方田犬彦が驚愕した須賀敦子のタブッキ訳、「窓ぎわですっぽりはだかになって」をめぐるメモをつけ加えておこう(一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら(須賀敦子、プルースト))。


文芸別冊の須賀敦子追悼特集(1998)に四方田犬彦の「須賀敦子、文体とその背景」という追悼エッセイがある。

《翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けてみえるということがままある。とりわけ詩的言語を相手にしたときにそれは顕著となる。》

また、《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と、ある。


そうしてダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)の一節を、まず彼は自ら逐語訳してみて、須賀敦子の文体と比べてみる試みを読者に提示する。

彼女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)

須賀訳ではこうだ。

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(須賀敦子訳)

―――《平仮名が多用されているせいで、全体に柔らかい印象がする。「裸になる」は「すっぽりはだかになる」であり、「出る」は「どこかへ行く」となっている。……行動を示す言葉に、原文よりも派手な身振りが添えられていて、原文の持つ素気なさを越えて、強い官能性が伺える》、四方田犬彦はそう指摘する。

《あるいは付けられた句読点の多さ……。須賀敦子の訳文を眺めていると、イタリア語が本来的にもっている単語の凝縮性を簡潔性を、どのように日本語に置き換えていけばよいのかという問いをめぐって、彼女の長らく思索していたことが、ありありとわかる》、と。







2013年6月21日金曜日

なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか(ジョン・ケージ)

なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか。(ジョン・ケージ @jcbotjp



《閉じた眼と謂う言葉が、私に 開かれた耳 と謂う言葉を聯想させる》(武満徹)

――開かれた口という言葉は、閉ざされた耳という言葉を聯想させる


《どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。》(ロラン・バルト


あれらひとりでいられない者たち。

《芸術家が本当の意味で仕事をやれるのはまさに孤独のなかでしなかない。外的世界についてのその人の知識がつねに制限されていて、異物の侵入のせいで彼自身の想念とその実現を結び付ける一体性が破壊されたりしないような環境においてでしかない……ちょうどよい配分がどの程度なのかはわからないが、それでも、いわば直感から、ほかの人間と一時間一緒にいれば、x倍の時間はひとりでいる必要があると感じる……》(グレン・グールド)

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト「見出された時」)


あれら「外で吠える犬」たち。

ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。孤独という言葉は、たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手としている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手としていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間が自己喪失と呼びたい(その逆に、愛とは、ほかの誰かがいるのに、まるでいないような意識が生じる場合だ)。孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。


思惟は孤独の営みである。世界は少しばかり沈黙しなければならない。だが自己喪失は思考のはたらきに致命傷を与える。想像するに、グールドがどうしようもなく孤独だったのは、「イン・オン・ザ・パーク」の部屋でフーガの対主題の開始のフレージングをどのようにやるべきかひとりで考えているときではなくて、コンサートの終わった後、満足したファンがいい気になって楽屋に押し寄せるのを迎えるときだったと思う。たぶんそのときの彼は、悪を「外で吠える犬だ」と呼んだ聖女テレサと同じように、悪霊に対して苛立っていたにちがいない。(ミシェル・シュネデール)

T. S. Eliot The Four Quartets(エリオット『四つの四重奏』第一部の詩篇「バーント・ノートンBurnt Norton」より)

Descend lower, descend only
Into the world of perpetual solitude,
World not world, but that which is not world,
Internal darkness, deprivation
And destitution of all property,
Dessication of the world of sense,
Evacuation of the world of fancy,
Inoperancy of the world of spirit;


低く降りてゆけ、ひたすら降りて
永遠なる孤独の世界
世界ではない世界、まさしく世界ではないものに向かってゆけ
内部の闇、
すべては財産の剥奪と没収
感覚世界は乾燥し
想像世界は中身が抜かれ
精神世界は活動がやむ

親しさではなく人混みへの愚かな愛。

孤独のなかに存在する、そこに困難がある。存在しつづけ、おのれの存在感情――もはや他者がいなくなっても存在し、そして存在しつづけるーーをたもちつづける、そして自分が誰であるかの意識、つまり自分であって、他者ではないという意識をたもちつづける。単純な事柄だと思う人々もいる。そう思う人々は自分たちの真の部分が間断なく存在しつづけ、しかも他者から離れることでたぶんそれがはじまるとさえ信じている。こうしてひとりになるとは、彼らの言い方にしたがえば、私生活、書きもの机、自分の寝室などの意味になるのだ。しかしながら多くの人々の場合、他者がいなくなれば、存在は解体し変質を遂げる(だが、他者がいなくなれば自分が無のなかに落ち込んでゆかざるをえないというなら、そのときこの他者なるものは果たして他者といえるのだろうか)。彼らは孤独でないかぎりにおいて存在するにすぎないのだ(親しさではなく人混みなのだ)。(シュネデール)

あれら、ホモ・センチメンタリス(ホモ・ヒステリクス)たち。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(クンデラ)

 ………

“それはふつう〈音楽的〉と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否することです.(…)

1つの周期的リズムに多少とも結びつけられている音を聴くとき,私達は必然的に音そのものとは別のなにかを聞いているのです.音そのものではなく,音が組織されているという事実を聞くことになります.(…)

感情は,嗜好や記憶と同じように,あまりにも密接に自分自身に,自我(エゴ)に結びついています.感情は私たちが自らの内部に触れられたことを表し,嗜好は外部に触れられたことを各自のやり方で示すわけです.私たちは自我(エゴ)によって壁を築きます.しかしこの壁には,内部と外部が通じ合えるようなたった1枚の扉さえない.(…)

私は自分の感情から自由になろうとつとめています.そして自分の感情を殆ど主張しない人のほうが,感情がなんであるかを他の人々よりずっとよく知っていることに気づいたのです.”— ジョン・ケージ『小鳥たちのために』

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。(……)


だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。


音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(シュネデール)

 なぜ口を閉じ耳を開けておかないのだろうか。馬鹿なんだろうか。退屈しているのか、それとも孤独を失い自己喪失したいのか。あれら感情をひけらかそうとする「ホモ・センチメンテリス」、人混みへの愛、「外で吠える犬」の悪。それともたんなる「難聴者」なのだろうか。


いや、捏造された疑問符はやめにしよう。観客目当ての「演技」に決っている。

サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にもいつわらないということは、観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実でなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

そして、ひとは多かれ少なかれ、誰かの視線を求めることから免れない。だがその視線はいくつかのカテゴリーに分けられる。

クンデラ曰くは、

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)


これ以外にもあるだろう…(参照:「金儲け」の論理、あるいは守銭奴


少なくとも①②の観客目当ての演技によって失うものがある(③だって場合によってはそうだ)のを知らぬわけではあるまいに。
……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(プルースト「花さく乙女たちのかげに Ⅱ」)


※参照:John Cage quotes

2013年4月17日水曜日

創作家と批評家ーー夏目漱石『作物の批評』より


創作家と批評家(評者)について夏目漱石は前者が「生徒」で、後者が「教師」としている。

今の評家のあるものは、ある点においてこの教師に似ていると思う。もっとも尊敬すべき言語をもって評家を翻訳すれば教師である。もっとも謙遜したる意義において作家を解釈すれば生徒である。(夏目漱石『作物の批評』

両者を比べれば、もちろん創作家の方が「エライ」と相場は決っている。だが殆どの創作者が批評をもとめるのは確かだろう。たとえば書物を上梓すれば、書評をねがう。なんの反応もなければ失望する。

厄介なのは、教師=評者が融通が利かないことが多いせいだ。

作家は造物主である。造物主である以上は評家の予期するものばかりは拵らえぬ。突然として破天荒の作物を天降らせて評家の脳を奪う事がある。中学の課目は文部省できめてある。課目以外の答案を出して採点を求める生徒は一人もない。したがって教師は融通が利かなくてもよい。 
「批評」は過去の作品を参照せざるをえない。だが批評の対象が破天荒の作物であったらどうするのか。過去の作品からえた法則は通用しない。
過去を綜合して得たる法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰えるとはこのためである。法則がわるいのではない。法則を利用する評家が変通の理を解せんのである。(同)

こうして抜き出してみれば、漱石はかなり早い時期にプルーストやエリオットと似たようなことを書いていたことが知れる。

 ……天才の作品がただちに賞賛をえることの困難なのは、それを書いた天才その人が異例であり、ほとんどすべての人々が彼に似ていないからである。天才を理解することができるまれな精神を受胎させ、やがてその数をふやし、倍加させてゆくのは、天才の作品それ自身である。ベートーヴェンの四重奏曲(第12、第 13、第14および第15番の四重奏曲)は、それを理解する公衆を生み、その公衆をふくれあがらせるのに五十年を要したが、そのようにして、あらゆる傑作の例にもれず、芸術家の価値にではなくとも、すくなくとも精神の社会に―――最初この傑作が世に問われたときには存在せず、こんにちそれを愛することができる人々によってひろく構成されている精神の社会―――一つの進歩を実現したのは、ベートーヴェンの四重奏曲なのである。人々がいう後世とは作品の後世で ある。作品自身が(……)その後世を創造しなくてはならないのだ。したがって、作品が長くとっておかれ、後世によってしか知れれなかったとしたら、その後世とは、その作品にとっては、後世ではなくて、単に五十年経ってから生きた同時代人のあつまりであるだろう。だから、芸術家は自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」より)

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(吉田健一訳「伝統と個人的な才能」『エリオット選集 第一巻』)

スーザン・ソンタグは、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)と書いているが、漱石の作品が世界文学観とはどのように異質なのかは判然としないにしろ、漢文学、俳句が、漱石の作品の根のひとつであるには違いない。

余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もまたかくのごときものなるべし、かくのごときものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、まったくこの幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。在学三年の間はものにならざるラテン語に苦しめられ、ものにならざるドイツ語に窮し、同じくものにならざる仏語さえ、うろ覚えに覚えて、肝心の専門の書はほとんど読む遑(いとま)もなきうちに、すでに文学士と成り上がりたる時は、この光榮ある肩書を頂戴しながら、心中ははなはだ寂寞の感を催ほししたり。(……) 
春秋は十を連ねてわが前にあり。学ぶに余暇なしとはいはず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏にはなんとなく英文学に欺かれたるがごとき不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、又西の方熊本にゆけり。熊本に住する事数年いまだこの不安の念消えぬうちロンドンに来れり。(夏目漱石『文学論』序論)

あるいは、もともと「漱石」は正岡子規の雅号であり、夏目金之助はそれを親友から頂戴したのだし(ロンドン滞在中に子規は病死)、学生時代のレポートには「老子の哲学」(明治二十五年1892年)がある。漱石の「水の女」のテーマは、オフェーリアと同様に、老子の「上善水のごとし」の影があるに相違ない。


子規は『墨汁一滴』のなかで、漱石がもっている滑稽趣味は俳句に向いていると評価している。

わが俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率いるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。
《もし漱石が小説をひとつも書かずに終わったとしても、明治時代を代表する俳人として記憶されただろう。》(夏目漱石のこと

漱石の「水の女」は、丘の上に立ち谷間の水を覘き見る(たとえば、地名「谷中」の頻出はただ単に住居のそばであったせいだけではないだろう)。
谷神不死。

是謂玄牝。

玄牝之門、
是謂天地之根。

緜緜若存、
用之不動。(老子)
福永光司氏による書き下し(玄牝の門)。
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。
綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ




 ところで『三四郎』には、「批評家」は、《自分はあぶなくない地位に立って》、《世の中にいて、世の中を傍観している人》と書かれる。

三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。

創作者側からみれば、この外部に立った「批評家」の態度が許しがたくみえる。だが、他方、すぐれた「批評」は作品になっている。たんに批評家、評論家だからといって貶すわけにはいかない。日本においても、小林秀雄、江藤淳、柄谷行人、蓮實重彦、…の系譜の「批評家」たちの「作品」がある(それらが果たして、同時代の小説に比べて「作物」として劣っているかどうか)。

小説でも批評、評論、あるいはエッセイでも、古井由吉の書くような文体をもっているかどうかーーそれがおそらく分水嶺のひとつになるのではないか。

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス』)

これは柄谷行人が蓮實重彦との対談『闘争のエチカ』での、批評と批判をめぐる発話にそのまま繋がってくる。

柄谷) 僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある
その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。しかし、これは「自己意識」とは別だと思う。小林秀雄はそれを自己意識にしてしまった。(……)僕は、以前に「ゲーテル的問題」とか「自己言及のパラドックス」ということをいっていましたが、それは自己意識とはちがいます。形式的なものにかかわるからです。ウィトゲンシュタインは「論理学は超越論的である」といっている。論理学は言語に対して自己関係するものだからです。僕は「超越論的」ということを、カントやフッサールよりも最も広い意味で、つまり意識の問題からはなれたところで考えたいのです。
あるいは蓮實重彦は同じ対談で次のように語っている、《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない……》


ここで別の視点を付け加えれば、岡崎乾二郎は「批評」をめぐって次のように語っている。

批評というものが不可能になったとか、力がなくなったとか言われるけれども、僕の理屈では、むしろ消費者や素人ほど批評家であらざるをえない。()彼らがデータとして頼りにできるものは、最低限、自分の身体的な反応しかないわけで、それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか。それが日常生きていく上で常に強いられる。これは基本的に批評の原理そのものでしょう。(岡崎乾二郎に関するテキスト 古谷利裕


この見解を尊重するなら、冒頭に引用した漱石の『作物の批評』の中の次の文、《評家は自己の得意なる趣味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、その縄張以外の諸点においては知らぬ、わからぬと云い切るか、または何事をも云わぬが礼であり、徳義である。》は、どう捉えるべきか。

ツイッターなどで、さる分野では専門家らしき人が、縄張り違いの批評をして、それが多大に流通しているのを垣間見るとうんざりさせられるのだが、「何事をも云わぬが礼」とは言い切れない。そもそもあそこは、あるいはこのブログなども、ひとによれば、気分転換の場である。

ルサンチマン批判のニーチェは、《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)とも書いているのを忘れてはならない。

嘲弄はときに楽しい。攻撃欲動のカタルシスもある。むしろ縄張り違いの分野への「称賛」に、いっそううんざりさせられることが、わたしの場合、多い。

何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

――《称賛することには、非難すること以上に押しつけがましさがある。》(ニーチェ『善悪の彼岸』170番)

《思い上がった善意というものは、悪意のようにみえるものだ。》(同 184


いずれにせよ、批評には、《自分の身体的な反応(……)それに対して疑いを持ちつつ、どうそれを解釈、判断し、それに賭けるか》があるかどうかが肝要ではあるには相違ない。

そして次の視点があるかどうかも。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の<神秘的>性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)