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2014年7月10日木曜日

政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割

吉田寛 @H_YOSHIDA_1973
社会運動や政治運動は「学会の外」すなわち「学問以外の場」でやってくれ、と思いますね。「思想信条の自由」的な意味で。いかなるリベラルで正しい(そう自称する)運動も、「学問の自由」を脅かす程度には抑圧的ですから。「両者は切り離せない」とか言う人は結局まともに学問をできていない人です。

ここでの社会運動や政治運動が
何を意味するのかは瞭然としないが
いずれにせよ「象牙の塔」派なんだろうよ


象牙の塔とか、遊離した学問はいかんというようなことを言われますね。それはそれ自身いくら強調してもいいのですけれど、僕はやっぱり学問というものは生活とある緊張を保たなければいけない、そこには分離遊離じゃなくすることによって最もよく生活に奉仕するという、いわば逆説的な関係があるんじゃないかと思うんです。この考えは非常に危険なのですよ。一歩誤ると孤高になり、自分のものぐさ乃至は安易な生活態度をジャスティファイする論拠になり易いのです。僕なんかとくにそういう傾向があるので言う資格がないかも知れないけれども僕の考えはそうなんです。そうじやないと、ことに先程言いましたような、大衆文明の時代には日常的な現象に絶えず学問が引張られてしまって、時事の問題とかあるいは狭い意味の政治的要求に鼻面を引き摺りまわされて、結局学問自身の社会的使命を果せなくなる。学問じゃなくても果し得るもの、あるいは学問も果すかも知れないけれども学問以外のものでも果しうるような役割に学問が引張りまわされる事はやはり社会的な浪費です。学問にはやはりそれぞれの学問に固有の問題があります。(丸山真男 高見順との対談「インテリゲンツィアと歴史的立場」(雑誌「人間」昭和2412月)――象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

で、「象牙の塔」派の研究者くん、--というか准教授らしいがーーは
なんでツイッターなんかやってるんだろう

情報の交換だっていうんだろうな 
だが《情報とは権力である》(中井久夫)
《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)であり、
《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ドゥ ルーズ)だよな
やっぱり政治活動だせ
やめとけよツイッターなんか、
「象牙の塔」派のインテリくんよ

現在の大他者の不在(象徴的権威の崩壊)が意味するのは、どの倫理的体系も最も根源的な意味で「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とはまさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし他人と協議することである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』「conlulision 」私訳)

なあ、《心頭姑く用と無用とを度外に置いて》象牙の塔にひきこもって、
《大いなる功績》を齎すために《矻々として年を閲》みしろよ

学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちにこれを事に措こうとはしない。その矻々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるるものである。 この用無用を問わざる期間は、啻に年を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしている。もし時務の要求が漸く増長し来って、強いて学者の身に薄ったなら、学者がその学問生活を抛って起つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。 わたくしは安政二年に抽斎が喙を時事に容るるに至ったのを見て、是の如き観をなすのである。(森鴎外『渋江抽斎』ーーデモの猥雑な補充物としての「享楽」

フロイトの如く、な

フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』「conlulision 」私訳)

ツイッターなんかで「政治活動」すんなよ、ってことだな

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

「権力の道具である」こと、
すなわち《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
を囀らなくてもいいんだよ

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている…。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものか…(同『凡庸な芸術家の肖像』)

ようするに《何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ》ってことだよ

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中ツイート)

学問にひきこもりたいなら、ツイッターなんかで言葉のパフォーマンスするな、ってことだな

あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。(ロラン・バルト『文学の記号学』)

いいさ、「美学的」な態度も

詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。(……)

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(「芸術」「詩」の役割をめぐって(浅田彰、谷川俊太郎))

《R・Bはいつも政治を《限定し》たがっているように見える。彼は知らないのだろうか? ブレヒトがわざわざ彼のために書いてくれたと思われる考えかたを。》(『彼自身によるロラン・バルト』)

「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(ブレヒト『政治・社会論集』)


それとも貴君は不感症なんだろうか?

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)

とプロフィール欄を見てみたら、《専門は感性学》だと?

専門は感性学(エステティックス)。ヒトの感覚や認知全般に関心があります。広義の哲学をベースに認知科学や工学への越境を試みています。新刊は『民謡の発見と〈ドイツ〉の変貌』(青弓社)。

てっきり象牙のムラ社会の住人だと思ってしまったが

(ムラ社会の執着気質タイプの人間は)、「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)


芸術の享受ができるのかい?
政治の土足の足音きこえないで
「マルス感覚」なしで

私は戦争直前の重圧感を「マルス感覚」と呼んだことがある。湾岸戦争直前、私はテレビを見ていて、太平洋戦争直前に似た「マルス感覚」を起こしている自分に驚いた。「ああ、あの時の感じだ」と私は思った。フランスの哲学者ベルクソンは第一次大戦の知らせを聞いて、「部屋の中に目にみえない重苦しいものが入ってきていすわった」と感じたそうである。これをも「マルス感覚」とすれば先の「事前的マルス感覚」に対して「事後的マルス感覚」となろうか。私は二〇〇一年九月十一日以後、アフガニスタン戦争の期間を通じて、「事後的マルス感覚」をしたたかに味わった。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)
一九一四年夏には第一次大戦が始まる。早く「方法的制覇」「鴨緑江」によってこの危機を予言していた彼は、後の有名な論文「精神の危機」(一九一九年)に見るごとく、自己を西欧(彼の場合はほとんど英国とフランス)と同一化していた。「パルク」をおのれの個人的な最後の詩とするつもりの彼は、文明の破局によってこれが最後のフランス詩となる可能性に思い至っている。かれは徴兵を覚悟し、妻子を疎開させ、パリに残留して詩作を継続した。「若きパルク」は「軍神マルスの相のもとに書かれた」と彼はいう。「パルク」がどういう詩であるかはさんざん論じられてきた。「内容でなく形式が私の自叙伝である」と詩人自身は韜晦している。形式とは何であろうか。それが構成であれば、純粋予感というべきもので始まり、比較的唐突な肯定が喚起されては次第に否定的なものに転調変化しつつ、この反復によって次第に深く沈下してゆくという構成を持っている。周知のように最終的な形は、昇る太陽に向かって感謝しつつ乙女が立ち上がって終わるのであるが、一九一六年初めの第四稿では、この詩句の後、再び下降が始まり、入水に終わろうとして中断する。彼は一八九六年秋ロンドンで自殺未遂をしている。引き返そうとしてはさらに深みに下降する形は知的な自殺者の行動にしばしば見られる。(「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の深淵』所収)

《芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

なあ「相対的には聡明(=凡庸)」そうなインテリ芸術ケンキューシャくんよ
ツイッターはインテリのパチンコだっていうがね
パチンコならパチンコらしいものいいがあるぜ
もっともらしく無意識的に「ボクチャンは権力の道具です」発言すんなよ
なにもしないでいる連中を喜ばすような呟きだけはやめとけよ
それとも「象牙の塔」くんも、実は去勢されたマジョリティの一員かね?

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

もっとも「サラエボの傘」まで否定するつもりはないがね

雨よりも遙かに危険な砲撃に対して傘がまったく無力であり、それがいつ自分の頭上に炸裂するかもしれないと知っていながら、彼らは、それでも傘をさして外出するし、傘の選択には自分の趣味を反映させさえするだろう。それが現実というものにほかならず、砲撃から身を守るのに無力だという理由で、雨の日に傘を差す人々を嘲笑するのは、非現実的である。(蓮實重彦「柄谷行人 またはサラエボに住む人々も、雨が降れば傘をさして外出する」『「国文学解釈と鑑賞」別冊 柄谷行人』一九九五年所収)

シツレイした、誤解があるかもな
だがあくまで投壜通信だよ、これは

《海に投げ入れられた壜はいつも戻ってくる》(ブランショ 投壜通信)

ーーなんとかサラエボの傘にひきこもりたいタチでね

理念や良心(超自我)では限界を感じるのだよな、やはり
加藤周一や大江健三郎、あるいはジジェクなどのようにはいかないね
戦争の心的外傷性記憶を抱えた人たちじゃないと限界があるんだろうな

なかんずく、いまの若い連中は、
その父母たちさえ戦争体験のないものがほとんどだろうからな

戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない(中井久夫「戦争と平和についての観察」)



2014年7月6日日曜日

「生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね」

インターネットで、金井美恵子や中上健次の真似をして、「バカ、死ね」と書いてはいけないのは、アラタメテ言うまでもない。で、引用ぐらいはいいだろう?

人間は諸関係の中で死ぬのである限り、死ぬ自由などありはしないと思った。死のうとする意志がどうしようもなくあるのは認めるが、死ぬ自由などないのである。

その考えは、ぼくの倫理でもあるが、ぼくはその時、奇妙なことに、なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、と思ったのだった。おもしろい反応である。(中上健次『鳥のように獣のように』)

もうすこし穏和系も引用しとこう

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』――フロイト『文化への不満』から孫引き)

…………

さて冒頭の話とはマッタクカンケイガナイ

@dongyingwenren: 正直、イデオロギー抜きで各論検証した場合、脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる(→消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる)」この現象は何なんだろう。煽り抜きでヤバい気がするのだが。

などとソウメイな方がツブヤカレテオラレ、たくさんのRTやファボを集めてオラレル

ノンフィクション作家、多摩大学「現代中国入門」非常勤講師。著書『中国人の本音』(講談社) 、『独裁者の教養』(星海社)、『中国・電脳大国の嘘』(文藝春秋)ほか。近著に『和僑』(角川書店)amzn.to/YOIgIX 。講談社『COURRiER Japon』誌で「ダダ漏れチャイニーズ」好評連載中です。

マジョリティに好まれる呟きであるに相違ない

闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。(浅田彰『憂国呆談』)

 しばしば見かける典型的な「インテリ」系譜の囀りでもある。一応、大学人でもあるらしい

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

「消極的賛成を示さざるを得ないかと思えてくる」とは、ひょっとして《混乱に対して共感を示さずにおくことの演じうる政治性に無自覚であることの高度の政治的選択》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P582)かもな

自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている(……)。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが、…… 同『凡庸』P461


…………

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385---丸山真男とジジェクのシューマ

《実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」》とはなんだろう?

あれら原子化した個人の群衆のぶざまな醜態は「原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止」ってわけでもあるまい?

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

《フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。(……)フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。

だが……)“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』――デモの猥雑な補充物としての「享楽」


それとも連中は「賤民」ってわけかい? まさか!

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

憎悪だけで寄り集まった連中だってわけでもないだろ?

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

なんにもしないよりなんかしたほうがマシじゃないのかい?

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)
私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』ーー「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)

インテリくんたちは、どっちかしかないことぐらいワカッテルダロウナ?、権力の道具か権力を批判する道具か

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

岡崎乾二郎の昨日のツイート、削除してしまってるな

@kenjirookazaki: まさか、自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった 花 でした。てっ!

ところで、《自分の国が道ならぬ道を歩むこといになるとは思ってもみなかった》という痛恨の思いに囚われている人でも、「脱原発も秘密保護法反対も集団的自衛権反対もそれなり以上に主張する意味があると思えるのに、実際に支持する人を見ると「生理的に嫌になる」なんて呟くもんだろううか?




いやいや、まだ若い人の囀りなのだ、なんのウラミもない、寡聞にして、はじめて知った名でね

《私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本……》、犬が四匹、人間の皮をはいで肉をあたえたことはまだない








2014年6月26日木曜日

象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

《現代の批評とは、或る対象の構造を分析し、対象がどのように価値づけられるかの可能性を多面的に考察することです。》(千葉雅也ツイート)

この千葉雅也氏の云う「現代の批評」とする態度が、つねにそうあるべきかなのかは断言しまい。だが、日本では、このようなむしろ「合理論」、「構造論」、あるいは形式的な思考が必要だとは、かつてから何度も語られてきた。

ところで対象の構造を分析するという場合、ある意味でメタレベル、「超越的」な立場に立つといってよいだろう。すなわち科学的な態度、その方法を、徹底的に対象化したモノに対して適用すること。《主題を主題として維持するためにそれをカギ括弧で厳重に梱包し、概念として自立させ、<地>の部分をなす分析と思弁の言説から隔離された<図>として目立つように留意》すること(松浦寿輝『官能の哲学』)。

僕の夢は、本当の構造主義者が日本に出現することなんです。別に文学に限らないけれど、徹底的な構造分析を本気で試み、しかもそれで成功する人がね。
(……)
分析を言説化する手続きってものが、共同体的な倫理によって支えられていてもかまわない。またそのかぎりでは分析の対象が僕の興味のないものでもかまわない。

(……)意味生成の可能性をとことん拡げてその一つひとつのケースを検討することがないから、分析の言説化ではなく、言説化のための分析しか行われない。要素に分解すること、その諸要素の組合わせが示す表情をくまなく記述するという、ごく古典的な論述形式さえ定着していない、だからレクリチュールとエクリチュールに関してはわれわれは近代以前にあるわけです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

もしほんとうに、われわれが「近代以前」にあるのなら、まず「近代」の合理論を尊重しなくてはならない。出発点はここだ。《もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。》(浅田彰

近代の構築的なものがない処で、ポストモダン的な「生成」などをいたずらに主張したら悲惨な「現場主義」の寝言(プレ・モダンの戯言)に終わる。

もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

「現場主義」の寝言? いやここではもうすこし遠慮して、《三面記事的な偽の現場主義が支える物語的な真実の限界》としておこう。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

…………

◆柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」より

そもそも、日本に、大衆の動向から遊離した知識人の優位などあったためしがないのだ。しかるに、抽象的な観念にもとづいて大衆を見下し現実から 遊離しているというような理由で、知識人を批判する言説はつねに横行してきた。知識人を批判する者こそ典型的な知識人だ、といったほうがいいくらいである。たとえば、日本に は「象牙の塔」のようなものは一度もなかった。むしろ、つねに象牙の塔に対する批判があ り、それが勝利してきたのである。(注1)
注1)象牙の塔とか、遊離した学問はいかんというようなことを言われますね。それはそれ自身いくら強調してもいいのですけれど、僕はやっぱり学問というものは生活とある緊張を保たなければいけない、そこには分離遊離じゃなくすることによって最もよく生活に奉仕するという、いわば逆説的な関係があるんじゃないかと思うんです。この考えは非常に危険なのですよ。一歩誤ると孤高になり、自分のものぐさ乃至は安易な生活態度をジャスティファイする論拠になり易いのです。僕なんかとくにそういう傾向があるので言う資格がないかも知れないけれども僕の考えはそうなんです。そうじやないと、ことに先程言いましたような、大衆文明の時代には日常的な現象に絶えず学問が引張られてしまって、時事の問題とかあるいは狭い意味の政治的要求に鼻面を引き摺りまわされて、結局学問自身の社会的使命を果せなくなる。学問じゃなくても果し得るもの、あるいは学問も果すかも知れないけれども学問以外のものでも果しうるような役割に学問が引張りまわされる事はやはり社会的な浪費です。学問にはやはりそれぞれの学問に固有の問題があります。(丸山真男 高見順との対談「インテリゲンツィアと歴史的立場」(雑誌「人間」昭和24年12月)。
鶴見は抽象的な思想あるいは原理の支配を批判する。しかし、西洋あるいはアジアでは、 そのような批判が必要且つ有効であろうが、日本では、話はそう簡単ではない。知識人が 支配したことがないし、思想や原理が支配したことがないからだ。ゆえに、簡単にそれを 「漢意」(本居宣長)として斥けることができる。むしろ、日本に必要なのは「思想」あるいは 「原理」なのだ。丸山はつぎのように述べている。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗 教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はない んですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』な んかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。 人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつか れる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想に よって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思 想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(針生一郎との対談『丸山座 談5』p138-139)

《あらゆる思想は実生活 から生まれる。併し生まれて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、 凡そ思想といふものに何んの力があるか》(小林秀雄「作家の顔」)

僕は「ニュー・アカデミズム」は本質的に思想運動ではなく「闘争」だったと思っています。その「闘争」は、出発点において共同体内の戦いだった。浅田彰にしても中沢新一にしても、その戦いを一つの攻撃として組織したんだと思います。そうした姿勢を勇気づける雰囲気はある程度準備されてはいましたけれど、より持続的な戦いの端緒として『構造と力』や『チベットのモーツァルト』は出版されたわけです。その際、共同体内の敵はもっと強力なものだという自覚があったはずです。その自覚とは、あっさり蹴散らされるほどの理論的な強力さではなく、いわば無視されるといった程度の負の強力さを予測していたということです。

ところが、仮想敵がまるで強くなかった。浅田氏にしろ中沢氏にしろ、積極的な敵意に出会う以前に共同体内的な嫉妬によって受け入れられ、それをバネにして共同体内で勝利してしまったのです。これは、日本社会の無責任的な柔構造にからめとられたということにほかなりませんが、大学といった「アカデミズム」の場にまで拡がり出しているこの柔構造の無責任性は、いつでも逆転しうるものだ。王殺しはたえず共同体的な健康維持として可能ですが。ところで、いわゆる「ニュー・アカデミズム」が一時的に占有しえた王の位置というのは、彼らが意図してそこについたわけのものでない。いわば、彼らの書物が読まれたことからくる思想的な勝利ではなく、共同体が容認しうるイメージに翻訳された観念に支えられたものでしょう。「アカデミズム」でさえ、そのイメージに汚染されているわけで、まあ、僕の場合なら、そうしたイメージ汚染の現状を物語批判として展開したのだけれど、「ニュー・アカデミズム」の当事者たちの方は、ある程度、そのイメージ汚染の醜悪さを楽しんでいました。それが柄谷さんのいう「調子に乗ってやってきた」という側面だと思いますが、いまや、彼らの書物が持っていた「闘争」性があらためて問われるときだと思う。(蓮實重彦『闘争のエチカ』P176)

 …………

柄谷行人の「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」には次の文がある。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理 論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。

「第三の立場」を言い募るだけでは、永遠の「モラトリアム」になってしまう。もちろん「モラトリアム=引き篭もりがかならずしも悪いわけではない。ただ「永遠」がいただけないだけだ。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p54)

永遠の「ひきこもり」者とは次のような手合いである。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

上にあげた柄谷行人の丸山真男小論には、《カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ》とあるように、柄谷行人の主著のひとつ『トランスクリティーク』の繰り返しである。

カントやマルクスはたえず「移動」をくりかえしている。そして、他の言説体系への移動こそが、「強い視差」をもららすのだ。亡命者マルクスにかんしてそれはいうまでもない。実は、カントに関しても同じことがいえる。彼は空間的にはまったく移動しなかったが、移動への誘いを拒否したことにおいて、そしてコスモポリタンであり続けたことにおいて、一種の亡命者であった。一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p21)
カントがいっているのは、自分の視点から見るだけでなく、「他人の視点」からも見よ、ということではない。そのようなことならありふれている。なぜなら、「反省」とは他人の視点で自分を見ることであり、哲学の歴史はそのような反省の歴史なのだから。しかし、ここでカントがいう「他人の視点」はそのようなものではない。それは「強い視差 parallax」においてしかあらわれない。(『トランスクリティーク』p78)

ジジェクは、よく知られているように、この柄谷行人の「視差 parallax」を借用して、パララックス・ヴューという表題をもつ大著を書いたわけだ。

In his formidable Transcritique, Kojin Karatani endeavors to assert the critical potential of such a "parallax view": when confronted with an antinomic stance in the precise Kantian sense of the term, one should renounce all attempts to reduce one aspect to the other (or, even more, to enact a kind of "dialectical synthesis" of the opposites); one should, on the contrary, assert antinomy as irreducible, and conceive the point of radical critique not a certain determinate position as opposed to another position, but the irreducible gap between the positions itself, the purely structural interstice between them. Kant's stance is thus "to see things neither from his own viewpoint, nor from the viewpoint of others, but to face the reality that is exposed through difference (parallax)." (Is this not Karatani's way to assert the Lacanian Real as a pure antagonism, as an impossible difference which precedes its terms?) This is how Karatani reads the Kantian notion of the Ding an sich (the Thing-in-itself, beyond phenomena): this Thing is not simply a transcendental entity beyond our grasp, but something discernible only via the irreducibly antinomic character of our experience of reality.(”The Parallax View”)
今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』)

…………

《丸山真男ぐらいは高校までにクリアしといてほしいと思うよ》とオッシャル人もいる。そこのメタレベル批判を反復させる「貴君」たちよ、わかるかい?

日本の教育について、乱暴を承知であえて世代論的にいうと、昔は、良くも悪くも、権威があり、権威に対して反抗するってことがあったけど、70年代後半からは、権威をつぶすことしかやってこなかった連中が教師になったわけだから、権威なんて全くない、それこそ反抗の対象になんかなりえないわけ。そんな中で、最低限の常識さえ崩れちゃったんだね。オウム真理教事件なんか見たって、人は宙に浮かないとか、来世について有意味に語ることはできないとか、そのくらいなことは小中学校でちゃんと教えといてほしい(笑)、あるいは丸山真男ぐらいは高校までにクリアしといてほしいと思うよ。

ところが、そういう最低限の常識さえ無いみたいなんだな。全共闘が大学の研究室の本を放り出したとき、丸山真男は、ナチスにも匹敵する暴挙だって言った。それに対して、吉本隆明は、国民の税金で買った本を後生大事に独占するようなやつが何を偉そうに言うかって批判した。その時点では吉本隆明が勝ってるわけ。ところが、吉本隆明におだてられた全共闘は、本を捨てただけで、その後に何も作れなかった(笑)。丸山真男を超えたつもりで、あるいは左翼からさらに新左翼にいって近代を超えたつもりで、実は前近代的な共同体主義に戻っちゃってた。その連中が親や教師になってるわけじゃない? だから、若い連中が今ごろになって丸山真男なんかを「再発見」するのも仕方がないと思うし、そうやって近代の最低限の常識は身につけてほしいと思うけど、だからと言って、ぼくらが今さら言いたくもない、ほんとに徒労感が募るばかりだよ。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」


というわけで、「知の密教主義者」、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」(吉本隆明曰く)の三人の引用をしてしまったぜ。それとジジェクだな。この四人に《騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが》


蓮實重彦と浅田彰の対談『新潮』(2005年5月号)より 
 
ラカン派であれ何であれ、精神分析には分析を受けることでしか伝わらない何かがあって、それは映画作家から映画作家にしか伝わらないものがあるというのに近いんです。それを、ラカン派というのは要するにこういうものなんだよ、とマンガ的に図解した途端、それは嘘になってしまうわけです。(中略)……(ラカンの娘婿である)ミレールの校訂するラカンのセミネールより海賊版の方が正確なのに著作権継承者として海賊版の出版を差し止めたりするといった状況になっているとき、旧社会主義政権下のスロヴェニアの反体制知識人で、ヘーゲル=マルクス主義のベースを除けば、アメリカ文化への憧れから映画でも何でも貪欲に吸収してきたに過ぎないジジェクという野蛮人が無手勝流で乗り込んできて、ヒッチコックをラカン的に理解するというか、むしろラカンをヒッチコック的に理解してみれば、要するにこうだろう、とマンガ的に整理した、それでずいぶん風通しがよくなって、ラカン=ミレール派が世界的に流通することになったわけですね。

『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講議』はどのように読まれたか 

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙され る連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦)

蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2 

……じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。


丸山真男とジジェクのシューマ

未定稿。かなり前書いたもので、もうすこし二つのシューマを関連づけたかったのだが、いまは保留。前回、ジジェクのフェティシズムモードをめぐる引用したこともあり、失念しないうちに暫定投稿(あまり読み返してもいないので、なにかピントはずれのことが書かれているかも)。

…………

まず、柄谷行人の「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」より、丸山真男の「個人析出のさまざまなパターン」における図式(シューマ)とその説明を掲げる。

丸山真男は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出される(individuation) のパターンを考察した。日本の事例は、たとえば、テンニースのように、ゲマインシャフトに対するゲゼルシャフトとしては説明できないし、さらにリースマンのように、伝統志向に対して、内部志向と他人志向という二タイプをもってくることでも理解できない。そこで、丸山は、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的associativeと非結社形成的dissociativeというタテ軸と、政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度というヨコ軸による座標において分析したのである。それは図のように四つのタイプになる。




簡単に説明すると、民主化した個人のタイプ(D)は集団的な政治活動に参加するタイプである。自立化した個人のタイプ(I)は、そこから自立するが、同時に、結社形成的である。民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。つぎに、私化した個人のタイプ(P)は、民主化タイプの正反対である。すなわち、Pは、政治活動の挫折から、それを拒否して私的な世界にひきこもるタイプである。さらに、Pと原子化したタイプ(A)の関係はつぎのようになる。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385)

つまり、私化した個人のタイプは政治参加しないが、原子化した個人のタイプは、「過政治化と完全な無関心」の間を往復する。

この四つのタイプについて、丸山は「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」という。そして、それは社会全体についてもいえる。各社会は、こうした諸タイプの分布によって構成され、またその分布の度合いは文化的社会的条件によって異なるのである。丸山によれば、一般的に、近代化が内発的でゆっくり生じる場合、IとPの分布が多くなり、他方、後進国の近代化においては、DとAの分布が多くなる。

このように見ると、近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っているにもかかわらず、私化と原子化の「早発的な登場」があったこと、また、これらのタイプが圧倒的に多かったことである。といっても、丸山がそういうのは、一般的な図式にもとづいて日本のケースを見た結果ではない。その逆に、彼は日本の特異性から出発し、それを例外とせずに扱うことができるような普遍的な図式(シェーマ)を考案したのである。この論文はもともと英語で書かれた。それは、日本を一ケースとするかたちをとりながら、普遍的な理論を目指している。事実、この図式は一般的に近代について考えようとするときに不可欠である。たとえば、「近代的個人」や「近代的自我」というような言葉がしばしば使われるが、その意味はあいまいで、議論を混乱させるだけである。


次にジジェクの『ポストモダンの共産主義』より、症候モードとフェティッシュモードの図式を抽出する(ジジェク自身はこの図式を提示していないが、その記述から導き出したもの)。(参照:ジジェクによる政治的「症候/フェティシズム」モード



このように図式化してみれば、丸山真男のシューマとの類似性がある。とくに縦軸の「同一化」とは、「結社形成的」と言い換えられるし、「距離」とは、「非結社形成的」であるだろう。

横軸はどうか。ジジェクはの議論のポイントはフェティシズムモードである。

現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。

すなわちフェティシズムモードが主要な関心のため、従来型の「症候」(神経症型)については詳しく説明していないが、《暗黙の限界(自由/平等についての)がリベラルな平等主義の症候である》とはある。おそらくこの記述は、「リベラル」と「イデ批判」の両方に当てはまるだろう。すなわち「同一化」タイプも「距離」タイプも、自由と平等についての暗黙の限界は感じているはずだ、だが症候派はその事実を「抑圧」する。すなわち自由と平等の(限定的な)死を抑圧するのだが、その抑圧されたものは「症候」として回帰し復讐する。あるいは別の言い方をすれば、自由と平等の死を「知っていることを知らない」 “unknown knowns,”。だが、それらが症候派の行為や感情を決定している。

要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)


具体的になにを反復するのか、とは、はっきりしたことは言いづらいが、「無力感」「絶望感」などが、リベラルやらイデオロギー批判派を襲うということはあるに相違ない。

他方、フェティシストはどんな態度をとるのか。

最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

彼らは、自由と平等の(限定的な)死を完全に受け入れている。だが「自由」や「平等」のなにかの痕跡(フェティッシュ)にしがみつく(たとえば「私利私欲」の自由に)。

ジジェクは、ふたつのフェティシスト(大衆原理主義的フェティシストとシニカル・フェティシスト)について次のように書く。

◆大衆原理主義的(ポピュリズム・ファシズム的)フェティシスト
・拮抗と敵対の性質を併せ持つ偽りの帰属意識が伴う。

・「主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。

・明示される「悪い」内容(反ユダヤ主義)が、内在する「よい」内容(階級闘争、搾取への反感)をおおい隠してしている。


◆許容的シニカル・フェティシスト
・偽りの普遍性が伴う。主体が自由や平等を主張する一方で、この形態自体が狭量な(金持ち、男性、特定の文化に属するものなど、特定の社会階層に特権を与える)性質を内包していることに気づいていない。

・「主体が『自由と平等』と言うとき、じつは『貿易の自由、法の前の平等』などを意味している。

・明示される「よい」内容(自由、平等)が、内在する「悪い」内容(階級その他の特権および排除)を隠蔽している。

…………

さて、このように見てくると、縦軸だけでなく、横軸の「フェティッシュ/症候」をも、丸山真男の「求心的/遠心的」と関連づけることができないわけではない。たとえば丸山真男は《政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度》としているわけだが、ジジェクの「フェティッシュ/症候」を、自由・平等という理念にしがみつく態度と自由・平等の限定的死という抑圧されたものの回帰によって無力感に苛まれる態度とすれば。


もっとも個々のタイプをみてみると、相同的に扱うにはいささか無理がある。

民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。

この「民主化タイプ」を「原理的フェチ」とすることは困難であるし、「自立化タイプ」をそのままジジェクの「リベラル」とすることも難しい。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。

「私化タイプ」が政治的無関心であり「ひきこもり」であるなら、ジジェクの「イデオロギー批判派」をひきこもりの様相は示す場合もあるだろうが、政治的無関心とはしづらい。

「原子化タイプ」は逃走的とされるが、それをジジェクの「シニカル・フェチ」とするのはどうか。

原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(柄谷行人)

シニカル・フェチがファナティックな政治参加に転化することがあるだろうか。むしろ私化した個人のタイプがそうなりやすい傾向にあるのではないか。

私化した個人にとっては、たんなるデモでも大変な飛躍を意味する。もしデモに行くとすれば、原子化したタイプからなる群衆あるいは暴徒としてのみである。これは長続きしない。その後は、まったくデモがないということになる。それに対して、自立化した個人のタイプは、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合その他の種々のアソシエーションに属しているから、逆に、個人としても強いのである。結社形成的な個人はむしろ、結社の中で形成されるものだ。一方、私化した個人は、政治的には脆弱であるほかない。(柄谷行人)


というわけで、まったくまとまりのない話になってしまったが、丸山真男の言うように、「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」。しかも、時代はかつてのまがりなりにも「象徴的権威」のあった時代から、現在は「父なき時代」である。そしてインターネットの時代でもある。丸山モデルはよく整理されていて、かつ日本的な文脈では魅力溢れるが、やはりこの二十一世紀においては、ジジェクモデルがより汎用性が高いのではないか。

サイバースペースがもたらすのは、匿名の「原子化する個人」である。それは「結社形成的な個人」をもたらさない。もともとそのような個人が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性がある。しかし、日本のようなところでは、「原子化する個人」のタイプを増大させるだけである。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。(柄谷行人)