@HistoryInPicsより
若いときにこういった写真をみて、ああ、うらやましいなあ、オレも一度はこのお零れにあずからなくちゃな、と思わない男は、やっぱりどこかいかがわしいぜ、ちがうかい?
おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)
ところで「いかがわしい」とは便利な言葉だが、若く聡明なきみたちは多用しないほうがいいんじゃないか? 相手にされなくなるぜ。多用するヤツは、オレのように「いかがわしい」ヤツだな。
……イカガワシサときみがいい、H氏やK氏の僕への言葉だともいうんだが、きみ自身として当の言葉をよく考えてのことだろうか? そのように僕は内心の思いを展開させていたのだ。鋏でよく髯を刈りこんでいるが、それゆえにかえって薄汚れた風情の、若い同胞よ。初対面の会話できみが軽く使う、その言葉を、僕は相当の心づもりに立たずには使ったことがない。いったいきみはどういう対決の理由があって、この旅先まで僕を訪ねて来ているのか? それをまず聞くことができれば、話は早手まわしとなるはずだが。きみがイカガワシサという言葉について、それを発したとたんに始まる厄介な闘いへの、心準備なしにしゃべりたてる人物なら、僕として真面目に答える必要もないわけだ……(大江健三郎「見せるだけの拷問」)
役者がちがうって感じだな、ーー「なんなの、ダリ坊や?」
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)
もちろんうらやましがるのは、こっち系でもいいのだが
これはやっぱり十代~二十代に修業を積んでからじゃないか
江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。(永井荷風「伝通院」)
ここで唐突にロラン・バルトと吉岡実のまねをしてわたくしの好きなものを書き出そう。
《私の好きなもの》、女の腰、脚、足指、チェロ、太股、イタリア産のサラミ・生ハム、サフランのリゾット、山羊のチーズ、恥垢の臭いがかすかにする女の膝で耳かきしてもらうこと、三時間後のCHANEL ANTAEUSの首筋の香り、五時間後のCHANEL五番の女の髪の匂い、くちなしの白い花と香り、散歩途次の金木犀の匂い、生牡蠣、トリュフ入りチョコレート、ヴェトナムカフェ、白い肌に真っ黒い縮れた腋毛、カンボジア産の葉煙草(なかったらダンヒルでもダビドフでもいいさ)、ダンヒル製のパイプ、40年代ロレックス、鮒寿司、このわた、テニスでトップスピンサーブがきまること、川蟹タマリンド煮、初期ヴェンダース(都会のアリスなどの三部作)、フォレ、ドガの踊子、タンニンくさい濃厚な赤ワイン、プルースト、丘のうなじ、西脇順三郎、吉岡実、バッハはあげたくないがあげる、かっこつけてヴェーベルン、霧のかかった高原の朝のかたつむりの白い足跡ーーといってもニブイヤツがいるからつけ加えておくよ、《枝をたわめている野性の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つく》(プルースト)ーー、飯田線で温泉場にいくこと(縄と蠟燭持参)、がらがらの渥美線で終点までいくこと(象徴的ファルス持参)、ーー象徴的ファルス? わからないだろうなこれもーー
伊良湖岬まで女とともにバスの最後部席でいちゃついて擦れ違うトラックを溝に嵌めること、夕刻、下穿きを履かずに浴衣で女と散歩すること(温泉場だぜ、もちろん)、マイルス・デーヴィスの「Kind of Blue」が好きな酔っ払い女、木綿のワンピースを無造作に着た汗ばむ女など
男ってのは、やっぱり女にかなわないんじゃないか?
いまごろようやく悟るってのもなんだが。
いまごろようやく悟るってのもなんだが。
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)
ジジェクは、バダンテールの“On Masculine Identity(1996)”を引用して次のように書いている。
The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)
現在の真の社会的危機は、男性のアイデンティティである、――すなわち男性であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(私訳)
若い男性たちよ、安心したまえ! きみたちが悪いのじゃない。ただ女性たちが真実を語り始めた〈不幸な〉時代に〈運悪く〉生れ合わせただけさ
ーー《女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである》(ヴァージニア・ウルフの『私ひとりの部屋』)
・女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映してみせるえも言われぬ魔力を備えた鏡の役目を果してきた。
・文明社会における用途が何であろうと、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。ナポレオンとムッソリーニがともに女性の劣等性をあれほど力説するのはそのためである。女性が劣っていないとすると、男性の姿は大きくならないからである。女性が男性からこうもたびたび必要とされるわけも、これである程度は納得がいく。また男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてるわけも、これで納得がいく。
・つまり、女性が真実を語り始めたら最後、鏡に映る男性の姿は小さくなり、人生への適応力が減少してしまうのである。もし男性が朝食の時と夕食の時に、実物よりは少なくとも二倍は大きい自分の姿を見ることができないなら、どうやって今後とも判決を下したり、未開人を教化したり、法律を制定したり、書物を著したり、盛装して宴会におもむき、席上で熱弁をふるうなどということができようか?そんなことを私は、パンを小さくちぎり、コーヒーをかきまわし、往来する人々を見ながら考えていた。
・鏡に映る幻影は活力を充たし、神経系統に刺激を与えてくれるのだから、きわめて重要である。男性からこれを取り除いてみよ、彼は、コカインを奪われた麻薬常用者よろしく、生命を落としかねない。この幻影の魔力のおかげで、と私は窓の外を見やりながら考えた、人類の半数は胸を張り、大股で仕事におもむこうとしているのである。ああいう人たちは毎朝幻影の快い光線に包まれて帽子をかぶり、コートを着るのだ。
《男性が女性の批判にあうとき、あれほど落ち着きを失うことも、あるいはまた、女性が男性にむかってこの本は良くないとか、この絵は迫力がないなどと言おうものなら、同じ批判を男性から受けるときとは段違いの絶えがたい苦痛を与え、激しい怒りをかきたてる》だって? マイッタネ
さきほどつけ加えるのを忘れた、私の好きなもの、女の去勢。
……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(フロイト『呪物』ーー倒錯と女の素足(谷崎潤一郎))
もっとも、男性諸君! こっちのほうだけは牛耳られないほうがいいらしいぜ、あとはどうでもいいさ。
「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)
ある写真が気に入り、それに心をかき乱されると、私はいつまでもそれにこだわる。そうやって写真を前にしているあいだずっと、私は何をしているのか? 私は写真に写っている事物や人間についてさらに詳しく知ろうとするかのように、写真を見つめ、子細に検討する。……(ロラン・バルト『明るい部屋』p123)
どうしてこんな「平凡な」写真に心をかき乱されるんだろ? なにが突然向うからやってきたというのだ? 覗き窓から覗くようにして学生たちが宴の卓を囲んでいるのが見える(背中を向けているのは教師か)。若く知的な男女の慎みと節度、はじらいの気配に領され、無礼講になるようすはまったくない……
まあ、いいさ
オレの一見反フェミ風というのは、こういうことだぜ
自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」手塚富雄訳)
ーーというわけで、文明国の男女のみなさんは、こういったものを読んどかなくちゃな
イラク北西部、ヤズディ(ヤジディ)教徒の町シンジャルを制圧したイスラム国は、住民の殺戮と迫害を開始した。イスラム過激派から「邪教」とされてきたヤズディ教は銃をつきつけられ、イスラム教への改宗を迫られる。さらに数百人を超えるヤズディ教徒の女性を集団拉致。戦闘員と強制結婚させられたり、「奴隷」として売られたりしたという。その多くは今も行方不明のままだ。このひと月間に女性たちの身に何が起こったのか。イスラム国に拉致され、脱出してきたばかりの女性は声を震わせながら語った。(イラク北部ザホー 玉本英子)
ーーとすれば日曜日にはふさわしくない読み物かい? ならば、
季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)
「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)
この何年かのあいだでめぐり合ったもっとも忘れ難い女の表情の画像も附載しておくよ。