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2014年9月20日土曜日

逃げ水と海へ向かう道

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。
暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」より)

ブログ「ハクモクレンの城」(暁方ミセイ)に次の画像が貼り付けてあるのをみて、はっとしてしまう。道の向こうにある半円の光の輝き。これはわたくしの「原光景」のヴァリエーションだ。






彼女の詩、ーー暁方ミセイの詩集が手元にあるわけではなく、
ウェブ上で僅かにめぐりあった詩の断片ということだが、
そのいくらかの詩行を想起しつつ
ここに暁方ミセイが「逃げ水」を見ていないと想像するのは難しい

真夜中はアスファルトに電気をまき散らし
昼間とは無関係の、
たとえば朝へは通じていない路地。
物の表面から溢れ、道に満ちてくる水。
これらの発育を助長する。
細胞と水と、
一瞬ずつ反応する神経が
私である。
同じ夜にいる、あなたの家の前を通る。

ーー暁方ミセイ「アンプ」

そして彼女とともに、草いきれのにおいだって嗅いでしまうのは、
わたくしの「転移」のし過ぎのせいか

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

いや、むっとする草いきれを嗅ぎ取らないのは、
きみたちが文明人すぎるせいではないか
そして草いきれだって、オレには菌臭の一種さ

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収ーー「赤い靴と玄牝の門」)

他の若い詩人たちの作品の断片もいくらか掠め読むことはあるのだが
(オレの場合、若い〈女〉の詩人だけだけどね、やや熱心に読んでみるのは)
どうも不感症のままか、あるいは金井美恵子とともに、
この三文詩人! う・ん・ざ・り・よ、と呟きたくなる
詩行に遭遇することが多いなか
暁方ミセイには、なんだか惚れこんじゃったんだよな

うんざりよ
う・ん・ざ・り・よ。

ほんとに、うんざりした表情で唇をへの字に曲げ、湿った咽喉を震わせるようにして、唇を軽く閉じ、鼻の先で嘲笑するといった調子で鼻孔を微かに震わせ、うとんの微妙にくぐもって湿っているのにもかかわらずとてつもなく鋭く響く音を吐き出す。

センチメンタルな三文詩人だったら、ブドウの種を吐き出すように、とでも書くところだろうか。(金井美恵子「恋愛<小説について>」)

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、/五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》(「駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム」)

なんたるエロスとタナトスの混淆!
フロイトがエロスとタナトスが殆ど常に融合して現れることとした
「欲動融合Triebmischung」だぜ、この詩行は

暁方ミセイは、リルケのいう生と死という
二つの無限な領域から養分を摂取している
に違いない

死とは私たちに背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。私たちは私たちの存在の世界が生と死という二つの無限な領域に跨っていて、この二つの領域から無尽蔵に養分を摂取しているのだという、きわめて広大な意識をもつように努めなければなりません。まことの生の形体はこの二つの領域に跨っているのであり、この二つの領域を貫いて、きわめて広大な血の循環がなされているのです。此岸というものもなければ彼岸というのもありません。あるのはただ大いなる統一体だけで、そこに私たちを凌駕する存在である『天使』が住んでいるのです。(富士川英郎・高安国世訳『リルケ書簡集2:1914–1926』――『ドゥイノの悲歌』の翻訳者への書簡らしい)

…………

とまで書いたところで、いやあの画像に魅了されるのはそれだけではないことに気づいた。

あの光景は、高校時代に遭遇した「海へ向かう道」でもあるのだ。



◆ヴァレリーの「海辺の墓地」の冒頭二連

Le cimetière marin

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée
O récompense après une pensée
Qu'un long regard sur le calme des dieux!

Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d'imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir!
Quand sur l'abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d'une éternelle cause,
Le temps scintille et le songe est savoir.


◆中井久夫訳

鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間(ま)に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め

細かな燦めきの清らかな働きが
見えぬ飛沫(しぶき)のダイヤを費ひ(つかい)尽くし、
何たる平和のはらまるるかに見ゆることよ!
一つの陽の影が深い淵の上に休らふ時
「永遠の動因」の純粋な所産――
「時」は輝き、「夢」はただちに「知」! 


 ◆白井健三郎訳

鳩たちがあゆむ、この 静かな屋根、
松の樹の間に、また墓石の間に 脈打ち――
「真昼」正しきもの そこに 炎でつくる
海よ、海、いつも繰り返される海を!
おお ひとすじのおもいのはてに このむくい
神々の静けさへの なんという久しい眺め!

こまかな光の なんという純粋なはたらきが
眼に見えない水沫の あまたの金剛石を灼(や)きつくし、
そしてまた なんというやすらぎが はぐくまれるものか!
深淵の上に 疲れ知らぬ 一つの太陽が 休むとき、
永劫因(えいごういん)が生んだ 二つの純粋な作品、
「時間」はきらめき 「夢」はそのまま叡智となる。


十代後半の少年は、この白井健三郎訳の「海辺の墓地」に魅せられた。海辺近くの町に住んでいた彼は、自転車通学の帰り道に、ときおり家とは反対の方角の太平洋に面する海岸に向かい(そもそもふだんは電車を使っての通学だったが、寝坊すると十キロあまりの道のりを自転車を使って通って、そうすると、のんびりした郊外電車よりもはやく高校に到くこともある)、道すがら、アスファルトに干された牧草のにおいやしだいに濃厚になってくる潮のかおりに包まれ、「しぶきをあげて廻転する金の太陽」が西に傾いてゆくなか、同道する友たちの笑顔の口もとからこぼれる白い歯の輝きに、いささか重苦しいものを抱えもした日頃のうさをも忘れた。

友たちの笑いの泡立ちが「波紋のように空に散る」あの光景ーー、「海辺の墓地」の詩句に促されてその光景を回想している初老の男がここにいる、《自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮かぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?》(大江健三郎『燃えあがる緑の木』第一部)――そう、これから「砂浜にまどろむ(青)春を堀りおこし」(大岡信)にいくのだった。

そうやって彼らは近道で浜辺にでる絶壁のそばに辿りつくと、今度は、崖を削りとっただけで石ころだらけの、獣道のようでもある急峻な下り坂を、ハンドルをとられて転倒しころげ落ちるのを怖れながら、それでも傍らの友たちに臆病だとなじられないように、速度を落とさずに疾駆して海に向かって下りてゆく。そのスリルあふれる趨走の短い刻限、赫土からいびつな姿をなかば覗かせている大きな荒石をなんとか避けようとして、でこぼこ道の佇まいに眼を凝らして俯いたままなのだが、いささか緊張で汗ばんだ顔、その額のななめ上方の樹々の間のかなたには、季節や時刻によってそれぞれの、茫漠とした水平線の拡がりが,青い色のまばゆい背中が、夕暮れ近くなら「千の甍」が,浮かびあがり脈うっているのを掠め見る。ああ,それはまさに、眉の上にある「静かな屋根」なのであり、甍のうえには、「鳩たち」が歩んでもいよう、――ひとときのこわばりのはての なんというむくい! 神々の静けさへの なんという久しい眺め! そしてまた浜辺にたどりつけば、あの波のとどろきと潮のかおり、そこでは、なんというやすらぎが はぐくまれるものか!

いまではあの崖道は、いつのまにか舗装され整備され、しかもそのあと、廃道となっているようだ。(伊古部廃道




伊古部海岸から半島は西に延びていき、伊良湖岬にいたる途中に、このあたり唯一の赤羽根漁港があって、そこから「赤羽根」の鳩たちが、伊古部の海の沖合いにたむろすることもあった。ーー《何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。》(暁方ミセイ)

「海辺の墓地」の最終節(その一行目が,堀辰雄の訳『風立ちぬ、いざ生きめやも』(小説『風立ちぬ』のエピグラフ)として人口に膾炙している)を読めば、「鳩たち」は,三角帆の漁船(foc)でもあることが知れる。ーー((ちがうよ、あれは鳩だよ))

風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を! (中井久夫訳)