このブログを検索

ラベル ファルス の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ファルス の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年12月19日日曜日

資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

◆ジャック=アラン・ミレールのセミネールCommentary On Lacan's Text,       in Reading Seminars I and IIより。

ミレールは、このセミネールで、ラカンの「ファルス」理論のひとつの頂点としても見られることのある『ファルスの意味作用』についてこのように語っている。


【ラカン自身による「欲望」と「欲動」の混同】
ラカンのテクスト「フロイトの<欲動>と精神分析家の欲望について」は、欲動と欲望のあいだの区別を強調することを目的としています。
このテクストは欲動と欲望との区別に充てられています。このテクストはそれら二つを混同してはいけないということを強調しています。ラカン自身、「ファルスの意味作用」(Ecrits)においてこの二つを混同していたのです。

欲望と欲動】

「欲望は<他者>からやってくる、そして享楽は<もの>の側にある」
ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――<他者>であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネールVII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である<もの>[das Ding]を経由して、この論文で取り上げられています。 
享楽と欲動については、ミレールは他の場所で次のように述べている。

【享楽と欲望】
フロイトは欲動のgoalaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」 ジャック=アラン・ミレール


ジジェクも次のように語っている。

終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。ラカン「欲求ー要求ー欲望」、あるいは「欲動」と「目標ー終点」


欲動をあらわすラカンの数学素はどうしてS/Dなのか(ここでのS/は斜線を引かれた主体ということ:引用者)。

第一の答えはこうだ。欲動はその定義からして「部分的」である、すなわちつねに身体の表面の特定の部位―――いわゆる「性感帯」―――と結びついている。ただしその部位は、皮相的な見解とは裏腹に、生物学的に決定されるのではなく、意味作用による身体区分の結果である。つまり、身体表面の特定の部位は、解剖学的な位置によってではなく、身体の象徴ネットワークにどのように取り込まれるかによって、性的な特権をあたえられるのだ。

この事実の決定的証拠は、ヒステリーの症候にしばしば見受けられる現象、すなわち通常は性的になんの意味ももたない身体部位(首、鼻など)が性感帯として機能しはじめるという現象に見出される。

だが、この古典的な説明ではまだ不十分だ。この説明では欲動と要求との密接な関係が見落とされている。欲動とはまさに、欲望の弁証法に取り込まれない、弁証法化に抵抗する要求にほかならない。要求はほとんどつねに弁証法的媒体を含んでいる。われわれは何かを要求する。だが、われわれがこの要求を通じて真に目指しているものは別の何かであり、時にはその要求そのものの否定であることすらある。何かを要求するたびに、かならず一つの疑問が生じる。「私はこれを要求する。だが、それによって本当は何を求めているのか」。反対に、欲動はある特定の要求に固執する。弁証法的策略には絶対的に引っ掛からない「機械的」なしつこさなのである。私は何かを要求する、そして最後までそれに固執する、というわけである。資料:「器官なき身体」と「身体なき器官」、あるいは欲動



ジジェクは上記の文に次のような注をつけている。

この欲動と欲望の関係について、われわれは精神分析の倫理に関するラカンの有名な格言ーーー「自分の欲望を諦めてはいけない」---を少々修正してもよいだろう。欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。「欲望する」ということは、欲動に道を譲ることを意味する。アンティゴネーに従い、「自分の欲望を諦めない」かぎり、われわれは欲望の領域から外へと足を踏み出し、欲望の様相から欲動の様相へと移行するのではないか。(鈴木晶訳)

もっとも享楽には次のような指摘もある。
Encoreにおいて、ラカンは«l’autre jouissance», «une autre que la jouissance phallique», «jouissance radicalement Autre»と表現されているものはjouissance féminineことだとしている(同掲書、p.26-7)。ここでは、「男性器官がにおいて、他者の(器官の)一部の享楽の体験を形成し、それだけでなく他の享楽les autres jouissances」とある。ファロスの享楽にはなしを戻すと、フロイトの『文明と居心地悪さ』において窺うことができるとして、意味は性的だとしても、それは性的ななにかに欠けているものに置き代わるからそうなのだとし、「意味は性的ななにかの反射ではなくそれを代補するsupléerするもの」とされます。「資料:ラカン 想像界 象徴界 現実界の結び目」あるいは、「資料:ラカン「Encore」(1973)をめぐって」





さて、ミレールのセミネールに戻る。フロイトの著作で、欲望が禁止によって設立されているわけだが、ミレールはラカンの「欲望は法に従属している」というテーゼをめぐって次のように語る。

【欲望は法に従属している】
禁止、つまりよく知られた近親相姦の禁止は、何よりもまず、母の欲望[desir de la mere]を満足させることに対する禁止へと形を変えます。それが享楽のシニフィアンの禁止[l'interdir signifiant]についての隠喩であると、ラカンはセミネールVII で既に言及していました。近親相姦の禁止が意味するのは「汝は汝の極上の享楽に到達してはならない」ということです。この物語において反響するのは、享楽それ自体にのしかかったシニフィアンの禁止です。この観点からラカンは、欲望はつねに享楽の禁止に繋がれており、それゆえ欲望の主要なシニフィアンが-φであることを強調しています。欲望はつねに欠如によって設立されます。それゆえに、欲望は法と同じ側にあるのです。

つまり、これが、「欲望は<他者>からやってくるということの意味」である。

【欲動あるいは享楽とはなにか】
欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。

この新たな概念の分割において、享楽は禁止に繋がれてはいません。欲動は禁止についてそれ以上考えることができません。つまり、欲動は禁止については何もしらず、禁止を破ることなど夢にも思わないのです。欲動は自身の性向を追い、つねに満足を得ます。一方、欲望は「彼らは私がそれをすることを望んでいる、したがって私はしたくない」「私はそっちに行くように想定されていない、だから私が行きたいのはそっちなのだ。しかし、最後の最後でそうすることはできなくなるだろう」などと考えて気を重くしています。
言い換えれば、欲望の機能は従属と動揺の両方において現れており、去勢、享楽の去勢に密接に関係したものとして自らを現しています。欲望の主要な記号が-φである理由はこれなのです。

【享楽をさらに具体的に】


享楽を具体化するものは何なのでしょうか? どのようにして享楽はこの弁証法に具体化されるのでしょうか?

ここでのラカンの答えは、享楽はトカゲが自分自身を切断する〔災難にあったときに自らの尻尾を切る〕場合と同じように具現化されるということです。言い換えれば、享楽は失われた対象に受肉化されるのです。そして「利益と損失を含んだ」 それら全ての対象は、ラカンが言うように-φの格納場所[place holders]なのです。

言い換えれば、ここで私たちはa/-φという主要な公式を提供することが出来ます。この公式は、欲望は-φに繋がっており、一方で享楽は対象a に繋がっているということを意味しています。

a ◇jouissance[享楽]
----
-φ ◇desir[欲望]
神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir auxhaies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。
欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。

【対象aと-φ、あるいはファルスの再説明】


a/-φの公式に戻りましょう。まず始めに、-φはシニフィアン体系における欠如、つまり<他者>における欠如を指し示しています。それは享楽の欠如を指し示しています。これは私たちが去勢と呼ぶものであり、ラカンはこれを謎[enigma]とみなしています――主体はしばしばこの謎を避けることによって解決しています。

つぎに、失われた対象がこの〔欠如の〕場所を占めにやってきます。ラカンがシニフィアン体系と享楽のあいだの繋がりとして示しているのはこのことです。この対象は、-φ、つまり去勢によって示されるシニフィアン体系の欠如あるいは-1 に関わる一方で、他方では失われた対象の機能にも関わっています。

後にラカンは去勢に正確な意味を与えています。性的関係の不在について語ることによってこの謎に回答を与えているのです。ラカンはシニフィアン体系に欠けているものに以下のような意味を与えています――欠如しているものは何にもまして両性の関係を符号化することができる諸シニフィアンであり、ファルスのシニフィアンがこれらの欠けている諸シニフィアンの場所にやってくる。ファルスはそのとき性的関係の不在についての覆いとして現われることになる。この謎についての最終的解答ではなく、偽の解答として現われるのである。


【ラカン理論の転換】――「欲望」から「欲動」「幻想」へ

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。特にパスの理論においては、失われた対象への主体の関係の二つの様態として、幻想と欲動が理論の中心となります。

フロイトの著作では幻想について他に何かあるでしょうか? 幻想は満足に関連した意味です。意味の生産と満足の生産は幻想においてもっとも結合されます。この意味において、欲望が価値を落とす一方で、幻想は本質的な用語となるのです。

【袋小路としての欲望と成就されるものとしての欲動】


欲望に本質的なのはその袋小路[impasse]です。この原則は不可能性において見つけられるとラカンは言っています。そして私たちは、この活動は本質的に行き止まりに到達するといいうるでしょう。ラカンが「1967 年の提案[Proposition de 1967]」 で「私たちの袋小路[impasse]〔は〕無意識の主体の袋小路である」と言っていることはおおよそこのようなことです。「私たちの袋小路は欲望の主体の袋小路である」ということも出来るでしょう。主体と欲望が分割される 一方で、主体と欲動は分割されないのです。欲動が袋小路にたどり着くことはありません。

主体は幸福であるとラカンが言い、陽気な様子でコメントしているのはこのことです。存在欠如は欲望の側にあり、それは基本的に-φと書かれます。その一方、欲動の側では、存在欠如は存在しません。フロイトが欲動と呼んだものはつねに成就する活動です。欲動は確かな成功へとつながりますが、その一方で欲望は確かな無意識の形成物へとたどり着きます。つまり、「自分の番を間違った」「鍵をなくした」等の失策行為や言い間違いです。反対に、欲動はその鍵をいつも手の中に持っています。

【まとめ】
主体は主体自身を欲動と、そして欲動の確かな足取りと整列させることが出来るのでしょうか? 幻想の除去という問題は、そして幻想が表現しているスクリーンを横断するという問題は、享楽をむき出しにすることを狙っています。

それはデュシャン[Duchamp]が言うように、 「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にさ れて、さえも」なのです。

花嫁とは享楽のことです。人は彼女と結婚できるのでしょうか?

分析の終結の引き伸ばしにおいて、つまり結論に達するのように思えない分析の終結において、主体の失敗の意味の強化が観察されることが時々あります。その極点において、制止であるように思える「私はそれをできない」が強化されることがあるのです。これは存在欠如[manque-a-etre]の悪化[exasperation=憤激]であり、望むものになることの失敗[manque-a-etre]の悪化であり、またなりたいと望んだものになることの失敗[manque-a-etre]の悪化です。それは同一化と欲望の最後の連関を示しています。

花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも。誰が花嫁を裸にするよう望んだのでしょうか? 誰が享楽を裸にするよう望んだのでしょうか? 〔基本的〕幻想の下にある享楽を誰が発見しようと望んだのでしょうか?

二人の独身者が存在します。つまり、分析主体と分析家です。ラカンは彼の「フロイトの<欲動>について」を「精神分析家の欲望」をもって完結させるにあたって、享楽を裸にするよう望むのは分析家という独身者なのだと言っています。つまり、分析家の欲望は主体の享楽を裸にすることであり、一方で幻想として知られる欲動の誤認によってのみ主体の欲望は維持されるのです.


※参照: 欲動と原トラウマ


2010年12月15日水曜日

補足資料:ラカン「女=ファルス」をめぐって

の補足資料である。

ジジェク『How to read Lacan』より(鈴木晶訳p193~)一部、原文を挿入したが、特に意味はない。和訳ですぐさま理解できなかった箇所を原文を参照したまでである。

ラカン的な視点からすると、最も根源的な見かけとは何か。妻に隠れて浮気をしている夫を想像してみよう。彼は愛人と密会するときは、出張に行くふりをして家を出る。しばらくして彼は勇気を奮い起こし、妻に真実を告白するーーー自分が出張に行くときは、じつは愛人と会っていたのだ、と。しかし、幸福な結婚生活といううわべが崩壊したとき、愛人が精神的に落ち込み、彼の妻に同情して、彼との情事をやめようと決心する。

※こういったメカニズムはよくあるパターンであって、愛人の欲望は、他者の所有物への欲望であったに過ぎず、つまりは禁止されていることによる欲望(幸福な結婚生活をしている<男>を愛することは禁じられているので、そのために欲望する)が、実際に実現されそうになると、拍子抜けして、身をひいてしまう。ジジェクは「精神的に落ち込み」などと書いているが、このあたりのことはよくわかっているはずで、ただ論旨・文脈とは違うので、簡便に書いているに過ぎない。以下、上記の引用の続きに戻る。

妻に誤解されないようにするためには、彼はどうすべきだろうか。出張が少なくなったのは自分のもとに帰ってきたからだと妻が誤解するのを阻止するには、どうすべきだろうか。情事が続いているという印象を妻に与えるため、彼は情事を捏造し、つまり二、三日家を空け、実際には男友達のところに泊めてもらわなくてはならない。

これこそが最も純粋な見せかけである。見せかけが生まれるのは、裏切りを隠すために偽りの幕を張るときではなく、隠さなくてはならない裏切りがあるふりをするときである。この厳密な意味において、ラカンにとっては幻想そのものからして見せかけである。

見せかけとは、その下に<現実界>を隠している仮面のことではなく、むしろ仮面の下に隠しているものの幻想のことである。したがって、たとえば、女性に対する男性の根本的な幻想は、誘惑的な外見ではなく、この眼も眩むような外見は何か計り知れない謎を隠しているという思い込みである。
From the Lacanian perspective, what then is appearance at its most radical? Imagine a man having an affair about which his wife doesn’t know, so when he is meeting his lover, he pretends to be on a business trip or something similar; after some time, he gathers the courage and tells the wife the truth that, when he is away, he is staying with his lover. However, at this point, when the front of happy marriage falls apart, the mistress breaks down and, out of sympathy with the abandoned wife, avoids meeting her lover. What should the husband do in order not to give his wife the wrong signal? How not to let her think that the fact that he is no longer so often on business trips means that he is returning to her? He has to fake the affair and leave home for a couple of days, generating the wrong impression that the affair is continuing, while, in reality, he is just staying with some friend. This is appearance at its purest: it occurs not when we put up a deceiving screen to conceal the transgression, but when we fake that there is a transgression to be concealed. In this precise sense, fantasy itself is for Lacan a semblance: it is not primarily the mask which conceals the Real beneath, but, rather, the fantasy of what is hidden behind the mask. So, for instance, the fundamental male fantasy of the woman is not her seductive appearance, but the idea that this dazzling appearance conceals some imponderable mystery.



このような二重の欺瞞の構造を説明するために、ラカンは、古代ギリシアの画家ゼウキシスとパラシオスの、どちらがより真に迫った騙し絵を描くことができるかという競争を引き合いに出す。ゼウキシスはすばらしくリアルな葡萄の絵を描いたので、鳥が騙されて突っつこうとしたほどだった。パラシオスは自分の部屋の壁にカーテンを描いた。訪れたゼウキシスはパラシオスに「そのカーテンを開けて、何を描いたのか見せてくれたたまえ」と言ったのだった。ゼウキシスの絵では、騙し絵がじつに完璧だったので、実物と間違えられたのだったが、パラシオスの絵では、自分が見ているこの月並みなカーテンの後ろには真理が隠されているのだという思い込みそのものの中に錯覚がある。

ラカンにとって、これはまた女性の仮装の機能でもある。女性は仮面をつけ、われわれ男性に、パラシオスの絵を前にしたゼウキシスと同じことを言わせる……「さあ、仮面をとって、本当の姿を見せてくれ!」(……)

男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができるのだ。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができるのだから。

ふりをするという行為がひたすら女性的な行為であることを説明するために、ラカンは、自分がファルス(男根)であることを示すために作り物のペニスを身につけている女性を引き合いに出す。

ーーーこれがヴェールの背後にいる女性です。ペニスの不在が彼女をファルス、すなわち欲望の対象にします。この不在をもっと厳密に喚起すれば、つまり彼女に、仮装服の下に可愛い作り物のペニスをつけさせれば、あなたがたは、いやむしろ彼女はきっと気に入るにちがいありません。(エクリ)

この論理は見かけ以上に複雑である。それはたんに、偽のペニスが「真の」ペニスの不在を喚起するということだけではない。パラシオスの絵の場合とまったく同じように、偽のペニスを見たときの男の最初の反応は、「そんな馬鹿げた偽物は外して、その下にもっているものを見せてくれ」というものである。かくして男は偽のペニスが現実の物であることを見落としてしまう。女が「ファルス」であることは、偽のペニスが生み出した影、つまり偽のペニスの下に隠されている存在しない「本物の」ファルスの幽霊である。まさしくその意味で、女性の仮装は擬態の構造をもっている。というのも、ラカンによれば、擬態(物まね)によって私が模倣するのは、自分がそうなりたいと思うイメージではなく、そのイメージがもついくつかの特徴、すなわち、このイメージの背後には真理が隠されているということを示唆しているように思われる特徴である。パラシオスと同じく、私は模倣するのは葡萄ではなく、ヴェールである。「擬態は、背後にあるそれ自身と呼びうるものとは異なる何かを明らかにするのです」(エクリ)。ファルスの地位そのものが擬態の地位である。ファルスは究極的に人間の身体にくっついているいぼみたいなもので、身体にふさわしくない過剰な特徴であり、だからこそそのイメージの背後には真理が隠されているという錯覚を生むのである。
a man can only pretend to be a woman; only a woman can pretend to be a man who pretends to be a woman, as only a woman can pretend to be what she is (a woman). To account for this specifically feminine status of pretending, Lacan refers to a woman who wears a concealed fake penis in order to evoke that she is phallus:
Such is woman concealed behind her veil: it is the absence of the penis that makes her the phallus, the object of desire. Evoke this absence in a more precise way by having her wear a cute fake one under a fancy dress, and you, or rather she, will have plenty to tell us about. [7]

The logic is here more complex than it may appear: it is not merely that the obviously fake penis evokes the absence of the ‘real’ penis; in a strict parallel with Parrhasios’ painting, the man’s first reaction upon seeing the contours of the fake penis is: “Put this ridiculous fake off and show me what you’ve got beneath!” The man thereby misses how the fake penis is the real thing: the “phallus” that the woman is, is the shadow generated by the fake penis, i.e., the spectre of the non-existent ‘real’ phallus beneath the cover of the fake one. In this precise sense, the feminine masquerade has the structure of mimicry, since, for Lacan, in mimicry, I do not imitate the image I want to fit into, but those features of the image which seem to indicate that there is some hidden reality behind. As with Parrhasios, I do not imitate the grapes, but the veil: “Mimicryreve als something in so far as it is distinct from what might be called an itself that is behind.” [8] The status of phallus itself is that of a mimicry. Phallus is ultimately a kind of stain of the human body, an excessive feature which does not fit the body and thereby generates the illusion of another hidden reality behind the image.


最後にジョン・リヴィエール(Joan Riviere)「仮装としての女性性」
    Womanliness as a Masquerade(1929),International Journal of Psycho-Analysisの結論部分だけ引用しよう。この論文は当面、未公開となっており、「東京精神分析サークル」HPから会員用のパスワードを取得することで読むことができる。http://psychanalyse.jp/translation-list.htmlri
リヴィエールは、のちにメラニー・クラインなどによって発展される「対象関係」論者のさきがけであり、ラカンは全面的に、この論に賛同しているわけではない。女性性を考える上での、あくまで参考資料である。
明らかになったのは以下のようなことである――彼女は、彼女が至上のものとなり、彼女に害が及ぼされないような状況を幻想のなかで作った。そして、その幻想を作ることによって、彼女は、両親の両方に対しての彼女のサディズム的激怒から帰結する耐え難い不安から自分自身を守ったのだ。この幻想の本質は、両親-対象に対する彼女の卓越性である。それによって、彼女のサディズムが満足させられ、彼女はそれに打ち勝つことが出来た。この卓越性はまた、彼女が両親の復讐を避けることを成功させる。このために彼女がとる手段は、彼女の反応形成と敵対性の隠匿である。このようにして彼女は自らのエス衝動とナルシシズム的自我、そして超自我を同時に満足させることが出来た。幻想は彼女の人生と生活全体の原動力であり、完璧を目指すことを通してそれを成し遂げるという狭い余白に入りこんだ。しかし、この幻想の弱点は誇大妄想的な性格であり、すべての見かけの下で卓越性を必要とする性格である。もし、分析の途上でこの卓越性が真剣に動揺させられたなら、彼女は不安の深遠に陥り、激怒と絶望的なうつ状態になる。つまり、分析の前に病気になってしまうのである。
アーネスト・ジョーンズの同性愛女性のタイプについて一言いっておこう。このタイプの女性の目的は男性に自分の男性性を「承認」してもらうことである。このタイプにおける承認の欲求は、私が記述した症例と違った風に作動している(演じられた任務の承認)としても、同じ欲求の機制と繋がっているのだろうか、という問いが浮上してくる。私の症例ではペニスを所有していることの直接的な承認がはっきりと主張されたわけではなかった。それはペニスの所有がそれらを可能にすることを通してのみ、反応形成を求めた。それゆえ、間接的に、承認はそれでもなおペニスを求めてのことなのである。
この間接性は彼女のペニスの所有が「承認されないように」、言い換えれば「見つからないように」するためだと理解することが出来る。私の患者はペニスを所 有していることを男性に承認してもらうことを公然と求めることにはあまり不安を持っておらず、アーネスト・ジョーンズの諸症例のように、このような直接的 な承認が欠けていることを実際はひそかにひどく嫌がる。ジョーンズの諸症例においては、原初的サディズムがより満足を得ていることは明らかである。つま り、父親は去勢され、自分の欠点を認めすらしている。しかし、これらの女性たちは、どのようにして不安を避けたのだろうか? 母親〔からの報復の不安〕に ついて考えれば、これは当然、母の存在を否定することによってなされる。私が行った諸々の分析の示唆から判断するなら、以下のように結論できる。第一に、 これは原初的なサディズム的要求の移動[displacement]に過ぎず、欲望された対象、つまり乳首、ミルク、ペニスがたちどころに諦められること になる。第二に、承認の欲求は概して赦免の欲求である。いまや母親が辺獄へ追いやられる。つまり、母親との関係はまったく不可能になる。母親の存在は否定 されるために現れるが、母親の存在が恐れられすぎているということが真実である。それゆえ、両親に勝利したことの罪は父親によってのみ赦される。もし父親 が彼女のペニスの所有を認め、認可するならば、彼女は安全である。彼女に承認を与えることによって、父親は彼女にペニスを与え、しかもそれは母親に与える のではなく、その代わりに彼女に与えるのである。彼女はペニスを持つのであり、また持っていてもかまわないのであり、それで全て順調なのである。「承認」 とはつねにある部分、自信回復[reassurance]であり、認可[sanction]であり、愛[love]である。さらにすすんで、承認は彼女を再び至上のものにする。父親がそのことをあまり知らずとも、彼女に対して男性は自分の欠陥を認めることになる。その内容において女性の父親への幻想-関 係は通常のエディプスのそれと似通っている。違いは、それがサディズムという基盤の上に置かれていることである。彼女は母親を実際に殺害したが、それに よって彼女は母親が持っていたたくさんの楽しみから除外されてしまう。そして、それでも彼女は父親から得るものを大いに巻き上げ、引き出す。


……これらの結論は、さらに以下の問いを強いることになる。完全に発達した女性らしさ[femininity]の本質的性質とはなんであろうか? das ewig Weibliche(永遠の女性)とは何か? マスクとしての女性性[womanliness]という概念は、その背後に男性が隠された危険を想定するものであり、謎にわずかな光をあててくれる。

ヘレーネ・ドイチュやアーネスト・ジョーンズが述べたように、完全に発達した女性性は口唇-吸乳期[oral-sucking stage]に発見できる。その原初的秩序の満足は唯一、(乳首、ミルク)ペニス、精液、子供を父親から受け取ることの満足である。それ以外では、満足は諸々の反応形成に依存している。「去勢」の受け入れ、謙虚さ、男性への尊敬は、口唇-吸乳的平面の対象の過大評価からやってくる部分もあるが、主となるのは、後の口唇-噛みつきレベル[oral-biting level]に由来するサディズム的な去勢願望の断念(強度の低下)である。「私はとってはいけない、頼まれたとしてもとってはいけない、それは私に与えられたに違いないのだから」 自己犠牲、献身的愛情、自己否定の能力は、母親的人物、あるいは父親的人物に、彼らからとったものを返済し回復しようという努力を表現している。これはまた、ラッド(5)が高い価値を持つ「ナルシシズム的保護手段[narcissistic insurance]」と呼んだものである。

完全な異性愛への到達がいかに性器性欲と同時に発生するかが明らかになった。もう少し進むなら、アブラハムが初めて述べたように、性器性欲はポスト-アンビヴァレント状態への到達という意味を含んでいる。「正常な」女性と同性愛者の両方が父のペニスと欲求不満(あるいは去勢)に対する反抗を欲望している。しかし、「正常な」女性と同性愛者の違いの一つは、サディズムの度合いと、サディズムが二つのタイプの女性に引き起こす不安とサディズムとの両方を取り扱う力の度合いにある。

※参照:すこし文脈は違うが、ジジェクの同じ「How to read Lacan」よりの引用を付加する。
紳士面した似非フェミニストの<あなたたち>に捧げる。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。

フェミニストを装う男性優位主義者にとって、問題は、女性は身を守れないだろうということではなく、女性は性的嫌がらせを受けることで過剰な快楽を覚えるだろうということだ。男性の侵入が、女性の内部で眠っていた、過剰な性的快感の自己破壊的な爆発を引き起こすのではないかというのである。要するに、さまざまな嫌がらせへのこだわりには、いかなる種類の主体性概念が含まれているかに注目しなければならないのである。
「ナルシシスト的」主体にとっては、他者のすること(私に声をかける、私を見る、など)はすべて潜在的に脅威である。かつてサルトルが言っていたように、「地獄、それは他者である」。侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。

ということで、私は、「覆えば覆うほど」を、決して「規制すれば規制するほど」などと読み替えるつもりはない……。あるいは「現実に性的暴力」が頻発しているのに何を呑気なことをいっているのか」という反論に対して、たとえば強姦などは性的欲望の問題ではない、支配欲、権力欲の問題であるなどという「常識的な」見解を述べるつもりもまったくない。さらに言えば中井久夫の「いじめの政治学」などを持ち出して、セクシャル・ハラスメントの別の様相をさらに叙述するつもりなど毛頭ない……。


※参考資料:
1、ラカンの『ファルスの意味作用』母の去勢、女の見せびらかし、男の浮気癖などをめぐって
3、マルクス「貨幣のフェティシズムに取り付かれた人々、それこそが資本家であり、最大の癌である。資本家の欲望は尽きることがない。いくら儲けても決して尽きることがないのだ。その欲望は恐ろしいほどの底なし沼」

※追加 貨幣のフェティシズムと、主体のフェティシズムの関連は、ここに詳しい。


ラカン「女=ファルス」をめぐって



【母が欲望するファルスへの欲望】
……両性の相互的な位地にたどりつくために男性から始めるならば、ファルス=少女――この等式はフェニケルによって賞賛に値する、しかし手探りなや り方によって提出されたものです――がウェーヌス山において増殖し、男性が自分のパートナーを構成する「あなたは私の妻だ」を超えたところに位置づけられ ることを理解しましょう。すなわち、主体の無意識から再び現われるものは<他者>の欲望、つまり<母>が欲望するファルス〔への欲望〕である、ということ がここで確かめられているのです。
それ以後、現実のペニスが――なぜなら現実のペニスは女性の性的パートナー〔である男性〕に属していますから――女性を二つとない愛着 [attachement]にささげるかどうかを知るという問題がおこります。しかし、その問題は、ここで自然に起こってくると推定される近親相姦的欲望 を除去する効果を生じさせることはありません。

※ラカンにとって、両性とも、その原初的欲望は、母の欲望、あるいは母における欲望であり、それはつまりファルスであって、男女とも、ファルスへの同一化がおこる。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまし母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる「ファルス」と「享楽」をめぐって (向井雅明)


【女性への崇拝の覆い=ファルス】
なぜ以下のようなことを認めないのでしょうか? じっさい、去勢が捧げない男らしさはないとすれば、それは去勢された愛人 [amanta]か死んだ男(あるいはその二つの混ぜ合わせ)であり、女性にとってその男性は、女性の崇拝[adoration]を呼びおこすために覆い の後ろに隠れています。すなわち、本当は女性には係わりのない去勢が女性にやってくる源泉である母親の同類[semblable]の彼岸の同じ場所から男 性は呼びかけているのです。
このように、抱擁に似た受容性はペニスについての鞘のような感受性に移動させられなければならないということは、この理念的インキュバスのためなのです。
これは、女性が行うであろう(欲望にささげられた対象としての女性の身の丈に応じた)想像的同一化のすべてによって、つまり幻想を下支えするファルス的原器[etalon]との想像的同一化のすべてによって邪魔されます。
〔女性の〕主体が純粋な不在と純粋な感受性のあいだに捕らわれている自分を発見する「あれかこれか[ou bien-ou bien]」の位地において、私たちは欲望のナルシシズムがそのプロトタイプである自我のナルシシズムと関係があるということに驚いてはいけません。
このような巧妙な弁証法によって取るに足りない存在[etres insignifiants]が住まわれているという事実は、分析が私たちに慣れ親しませてくれるものであり、自我のささいな欠点はその平凡なことであるということがそれを説明してくれます。

※ジジェクによれば、男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができる。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができる。
女の同性愛は倒錯的ではなく、男の同性愛だけが倒錯である、とラカンが仮定するのも、このことであろう。資料:「ファリック・マザー」「仮装」「同性愛」などをめぐって  (ラカン)参照。たとえば、ミレールの指摘。

「私 たちがA/(斜線を引かれた<他者>)と書くとき、A(<他者>)は去勢されています。そして、この意味において倒錯は去勢についての恐怖、本質的に<他 者>の去勢についての恐怖であると言えるでしょう。このために、女性の同性愛は特にパラドキシカルなのです。なぜなら、女性の同性愛においては、器官の不 在〔=ペニスの不在〕が、愛の条件として機能しているからです。これが、ラカンが女性の同性愛が倒錯であると認めるのをためらう理由です。女性の同性愛 は、倒錯的満足の領野より、むしろ愛の領野に構成されています。」("On Perversion", in Reading Seminar I and II, p.317)

ラカンのこのあたりの議論は、ラカンが再三引用する、ジョーン・リヴィエール「仮装としての女性性」に示唆を受けているはずだ。バトラーもこの論文を引用してはいるのだが、ラカンの解釈とは異なっているようにみえる。

 【秘儀のシニフィアンの覆いをとる役割としての女性】
キリストの姿は、この観点からいっそう昔の他者の姿を呼びおこし、主体の宗教的忠義[allegeance]が含んでいるものより広大な 審級[instance]を担っています。そして、もっとも隠されたシニフィアン、つまり秘儀[Mysteres]のシニフィアンの覆いを取ること [devoilement]は女性に割り当てられた[reserve]ことである、ということを指摘しておく価値があります。

いっそう俗っぽい水準で、私たちは以下のことを説明することができます――a)主体の二重性[duplicite]が女性では隠されていると いう事実、パートナーの隷属が男性を特に去勢の犠牲者を代表しがちにさせるだけにこれはなおさらです、b)<他者>が誠実であること[fidelite] の要請[exigence]が女性に特別の特徴となっていることの真の動機、c)女性がこの要請を、自分自身の誠実を前提にした議論によっていっそう正当 化しているという事実。

※人類の罪を自分の身に引き受け無実のイエス・キリストをラカン的に解釈し直すとどうなるか。ここでもジジェクの解釈を引用しよう(Looking awryp151)。
罪人たちの罪を引き受け、その贖罪をするということは、罪人たちの欲望を自分のもとと認めるということである。キリストは他者(罪人)の場所から欲望するーーーこれが彼の罪人への共感の基盤である。
リピドー経済という面からみて、もし罪人が倒錯者だとしたら、キリストは明らかにヒステリー症者だ。なぜならヒステリー症者の欲望は他者の欲望である。言い換えれば、ヒステリー症者について発せられる問いは、「彼/彼女の欲望の対象は何か」ではない。真の謎が表現されているのは、「彼/彼女はどこから欲望しているのか」という問いである。したがって、明らかにしなければならないのは、自分自身の欲望に同意できるためには、ヒステリー症者は誰に自分を同一化しなければならないか、である。

補足資料:ラカン「女=ファルス」をめぐって

2010年12月12日日曜日

「ファルス」と「享楽」をめぐって (向井雅明)

向井雅明「精神分析と心理学」より抜粋( 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)


子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまし母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる

だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。



だが、そんな父親はいるのだろうか、と向井氏は問い、フロイトのエディプス・コンプレックス論の説明をしているがここでは割愛。なおオイディプス神話と原父殺し神話の非対称性については、ジジェクの説明箇所をリンクしておく。この点については、向井氏は、ジジェクの解釈とほぼ同じといってよい。ドゥルーズのラカン「オイディプス化」反論の弱さ (ジジェク)
……このようなしだいで父親殺しは、実は父親の支配力をより強くするという結果を生むこととなる。ラカンはそれゆえに、フロイトは結局父親を救っているのだと言う。フロイトはこのような父親から超自我を考え、彼の第二の局所論の中心的な審級として置いた。

貪欲なワニの口のような母の欲望につっかえ棒をしてくれる父親は、母の口から語られたパロールの中にあるゆえにサンボリックな父親だと言える。不確定な父は確実な母の言葉によって確定されるのだ。ではこの父親と、原始集落の神話的な父親の間にはどのような関係があるのだろう。

父の名はひとつのシニフィアンであって、現実的な父親の姿は取っていない、母親の前で無力な子ども、つまり有効なファルスを持たずに途方に暮れている子どもにとって、どこかにファルスを持つ父がいるんだよという証となる印である。子どもはそれによって母親の世界から解放される。母親を満足させるためにもう直接母親に対峙する必要はなくなり、ファルスを探して外の世界に向かえるのだ。子どもにとってはそれは救世主の印である。このとき、まさに手のつけられない母親の欲望を満足させるものを持っている父親というのは、フロイトが『トーテムとタブー』に描いたような父親である。そこでは父親はすべての女性を独占して享受していたのであり、すべての女性に満足を与えられる能力を持っていた。このような父親が実際に存在するかどうかは別にして、父の名の存在からこのような父親を想像するのはまったく自然である。そしてフロイトはそこから『トーテムとタブー』を書いたのだ。

彼は神話のかたちをとった一般的な理論としてこの父親像を創りだしたが、われわれすべて何らかのかたちで理想的な父親を創りあげている。それは決して父親という外見を取らなくても、たとえばおばあさんの姿を取っていても良い。各自は自分たちの置かれた状況の中で様々な要素を組み合わせて理想的な父親を創る。フロイトは自分の患者の中にそのような父親像を認めたのであろう。フロイトはそのエッセンスを描こうとしたのだ。この父親はイマジネールな父親である。


この父親が上で述べた支配者として愛される力強い父親に相当する。そしてこの父親が超自我となりわれわれを支配するようになる。超自我形成においてフロイトはエディプス・コンプレックスが破壊され消滅すると言うが、実際は完全に消滅するわけではなであろう。抑圧され無意識に残り、抑圧されたものの回帰を伴って症状形成をなすことになる。たとえば、エディプス的な父親殺しのファンタスムは常にあらわれ、ある父親像を葬ったところで次々と新しい父親像が生まれるし、禁じられた母親はしばしば愛する女性の背後に隠れている。超自我には父親への愛が向けられ、その父親から叩かれることは父親に愛されているという意味となり、超自我にいじめられて悦ぶという道徳的マゾヒズムが成立する。また、超自我は欲動断念をせまり、それに従うとその禁止した欲動の力を己の内に吸い取りますます強い罪責感をわれわれに押しつける峻厳な姿をとり、同時に不可能なことを強要し「享楽せよ」という命令を出のだ。

この超自我の「享楽せよ」と言う命令はおそらく母親的な「享楽への意志」を引き継いでいるのであろう。この理想的な父親は一方ではその理想によってわれわれをむち打つが、もう一方ではわれわれはこの理想にたいして不満をぶちまける。私をこんなにしたのはお父さんのせいだ、お母さんのせいだというわけである。キリストも十字架の上で父よどうして私を見捨てるのだと嘆いている。これがフロイトの言う文化における不満(居心地の悪さである。

※この最後の超自我の「享楽せよ」という命令は、別に「母なる超自我maternal superego」という呼び名があり、後期ラカンは、欲望から、欲動へ、あるいは享楽へ理論の重点が移動する。つまりは、フロイトの「死の欲動」にかかわってくるわけだ。

資料:ミレールのラカン解釈

1、• Suture • ........ (elements of the logic of the signifier) .........Jacques Alain Miller
2、Matrix 
3、Sarah Palin: Operation “Castration” Jacques-Alain Miller

三番目のものは、女性のポスト・フェミニズムのあり方を、ファルス、あるいは去勢などの概念を使い、とても面白く説明しているので、下記に全文転載。




The choice of Sarah Palin is a sign of the times. In politics, the feminine enunciation is hence called to dominate. But be careful! It’s no longer about women who play elbows, modeling themselves on the men. We are entering an era of postfeminist women, women who, without bargaining, are ready to kill the political men. The transition was perfectly visible during Hillary’s campaign: she began playing the commander in chief and, since that didn’t work, what did she do? She sent a subliminal message, one that said something like: “Obama? He’s got nothing in the pants.” And she immediately took it back, but it was too late. Sarah Palin is not only picking up where she left off but, being younger by fifteen years, she is otherwise ferocious, slinging feminine sarcasm like a natural; she overtly castrates her male adversaries (and with such frank jubilation!) and their only recourse is to remain silent: they have no idea how to attack a woman who uses her femininity to ridicule them and reduce them to impotence. For the moment, a woman who plays the “castration” card is invincible.


In France, we were able to see Ségolène accomplish Operation “Castration” on Fabius and Strauss-Kahn, but, subsequently, she tried to give herself a motherly image and thus she neglected Sarkozy, who was able to paint her as a twit. And thus she joined the ranks of Martine Aubry or Michele Alliot-Marie, the standard models…


What is the precise difference between the women of these two generations? The first ones imitated man, respected the phallus, and performed as if they had one. The second wave knows that the phallus is only a semblance and, furthermore, one not to be taken seriously: it is the de-complexified femininity. A Sarah Palin puts forward no lack: she fears nothing, churns out children all while holding a shotgun, and presents herself as an unstoppable force, “a pitbull with lipstick”.


Has Obama already lost? By not choosing Hillary as his partner – in the instances of his spouse, who is quite a pitbull herself – he paved the way for McCain to drive right in. Thanks to Palin, McCain is back in the race. Sarah impassions America, she brings a new Eros to politics. If Obama wins, she has better chances to be his challenger in four years. If it’s McCain, Hillary will be his number one adversary. In any case, a new race of political women rise to power.
 


ミレール「ファルスと倒錯」

There is a clinical pair that presides over Lacan’s first elaboration of the theory of the phallus. We devote ourselves to finding the genesis of the phallic function in his teaching, formulated in Écrits in relationship to psychosis, for the purpose of returning its true nature to the phallus, which doesn’t come from the paternal metaphor. For that reason, interest turned to the Name-of-the-Father and, correlatively, a certain shadow fell over the phallus. No doubt this shadow revived in Lacan what perhaps was a necessity to dedicate and publish a conference on the signification of the phallus. But, he invested the theory with this signification of the phallus in a recovery of the psychopathology of Freud’s love life. By formulating the theory itself as exclusively signifying—and this was a great exploit at that time—the clinical practice from which it was born remained veiled.

Here we must remember the clinical pair that was mentioned, and that dominates in the theory of the phallus: I am referring to phobia and fetishism. This pair that Lacan tackled in his Seminar IV, La relation d’objet, continues to be present in Écrits and will reappear recurrently over the years. On the last page, the warning that the phallus in play is that of the mother accompanies the mention of phobia and of fetishism. So the Lacanian phallus is born on the side of the woman, between fetishism and phobia. The Phallus and Perversion



倒錯については、ジジェクは次のように言っている。
そこから引き出すべき教訓は、超自我の圧迫を軽くすることは、その「不合理」で「逆効果的」で「硬直」しているように思われる圧迫を、合理的に受け入れられた放棄・法・規則に置き換えることによっては、達成できないということである。むしろ、享楽の一部は最初から失われており、内在的に不可能なのであり、「どこか別の場所」、すなわち語りかけてくる禁止の審級が位置している場所に集中しているわけではない、ということを認めなければならないのである。

同時にこのことから、ラカンの「オイディプス主義」にたいするドゥルーズの反論の弱点を指摘することができる。ドゥ ルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプスそのものだということである。オイディプス的父親は父―のー名とし て、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父親は、享楽―のー父という超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その 権威を振るうことができるのだ

まさしく、オイディプス的父親、すなわち秩序と和解を保証する象徴的法の審級が、享楽―のー父と いう倒錯的な姿に依拠しているからこそ、ラカンはperversionと書く代わりにpere-version(父―親―版)と書いたのである。前オイ ディプス的な「多形倒錯」を抑え込んでそれを性器の法に従わせ、たんなる象徴的審級として機能するだけではなく、父の「版」、父の方へ向かうことは、あら ゆる倒錯のなかでもっとも根本的な倒錯なのである。ドゥルーズのラカン「オイディプス化」反論の弱さ (ジジェク)


※佐々木中『ラカン、フーコー、ルジャンドルにおける宗教と主体の形成をめぐる探究』
まず、出発点として想像界と象徴界の理論を取り扱う。想像界から象徴界へ。彼の理論のこの道筋を精密に追うことによって、初期の鏡像段階論がそれだけで 「精神分析の密室」をはみ出すものを含んでいることを示し、かつ象徴界が「パロールの象徴界」(協定の象徴界)と「ランガージュの象徴界」(機械の象徴 界)に区分されることを示す。さらには、実は想像界と象徴界がまったく同一の構造を持ち、重複するものであることを(想像的同一化と象徴的同一化、自己イ メージとトレ・ユネール、嫉妬の弁証法と欲望の弁証法、小他者の「死の筆触」と大他者の「死の姿」等々)、また象徴界の構成要素であるシニフィアンも想像 界の構成要素であるイメージも、決定的な不均質性を持っている概念であることを立証する。

そこから想像的でも象徴的でもある〈鏡〉の概念が導出される。つまり、〈鏡〉とは超越論的な機能を持つ「装置」であり、シニフィアンとイメージと相互浸透 から組み立てられた「モンタージュ」である。このような〈鏡〉は単なる道具ではなく、「詩的な閃光」「隠喩」としての「主体」を産出する。

次に彼の「現実界」と、「現実界」概念と切り離すことのできない「享楽」について論じた。ラカンの「享楽の分類学」とも呼びうる論旨を精密に跡づけること によって、「絶対的享楽」(殺人と近親姦の享楽)と区別されるべき「ファルスの享楽」と「対象aの剰余享楽」を導き出した。また前者が二つに分離さるべき ものであることを論証した。つまり、「器官」としての「象徴的ファルス」の享楽と、「権力の屹立する象徴」としての「象徴的・想像的ファルス」の享楽であ る。二種類のファルスと対象a、それは享楽のレギュレータであり、享楽を馴化する役目を果たしている。

最後に、ラカン自身が打ち立てた「享楽の分類学」の一分類でもあるが、ファルスの享楽および対象aの剰余享楽を「超過する」特性を持つ「女性の享楽=大他 者の享楽」を論じた。ラカンのセミネールの出席者たるミシェル・ド・セルトーの理論を援用し、元々「偶然性」の相のもとにあるとされている現実界に属する 「女性の享楽=大他者の享楽」が、根本的な「社会を定礎する享楽、〈テクスト〉を創出する享楽」であることを示した。また、女性の享楽の概念化におけるラ カン自身の「婚姻神秘主義」への言及が、実は彼の理路全体を、とりわけその形式主義的な言語論を揺るがすものであること、彼自身の精神分析の数学化を転覆 するものであること、そしてそれ以上に「精神分析の歴史的臨界」を露呈させるものであることを指摘した。ラカンは、もっとも自身が重視した論点において、 自ら自身の理路を破綻させたのである。そして、ここにこそラカンの真の可能性があると筆者は考える。