みずから言説を担っているつもりの「主体」が、より大きな時代の言説の一部ともいうべきものの一部としてほどよく分節化されてしまうという事態が、いたるところで起きている(……)。実際、率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまうという滑稽な錯覚が広く共有され、誰ひとりとして、そのことを滑稽だと思わなくなっているのです。それは、権利の行使と思われていたものが、知らぬ間に大がかりな義務の達成に貢献してしまうという近代独特の皮肉な表現に他なりません。(「知性のために」 蓮實重彦)
《率先して自分の言葉を語っているはずなのに、実はそれが他人の言葉の反復にすぎず、しかも、そのことに無自覚なまま、みずからを言説の「主体」だと勘違いしてしまう》ことに苛立つことはないかい?
「おかしいと思うのは」と彼(シャルリュス男爵)は言った、「そんなふうに戦争下の人間や事件を新聞だけでしか判断していない大衆が、自分の意見でそれを判断していると思いこんでいることですよ」(プルースト『見出された時』)
それは当然、自他ともなのだが、まずは他人の語りにだけ気づくのだっていいさ。
他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)
自分の「無意識」よりは、他人の「無意識」のほうが気づきやすいに相違ないから。
ーーここにある「虚構」という言葉にも注意しておこう。
どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。
しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。(『彼自身によるロラン・バルト』)
ーーここにある「虚構」という言葉にも注意しておこう。
冒頭の言葉は、フローベールの『紋切型辞典』にその起源のひとつがある蓮實重彦の長年のテーマのひとつである。
あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(『物語批判序説』)
冒頭の文には、たとえば次のような変奏がある。
どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)
・同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆といいうやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。P7
・説話論的な磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は、語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかはないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっとも意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。P27
・制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する不可視の装置なのである。あるいは、きわめて人称性の高い個体としてあったはずの発話者を、ごく類型的な匿名者に変容させてしまう磁場だとしてもよい。この磁場に織りあげられては解きほぐされてゆく言葉、それがこの章に冒頭で触れておいた現代的な言説なのである。その担い手たちは、知っているから語ろうとする存在ではない。だからといって知らないことを饒舌に語ってみせる香具師のたぐいでもない。知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こそが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが、『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者たちは、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。P50(『物語批判序説』)
さらにトーマス・クーンの「パラダイム」概念やフーコーのエピステーメを視野に入れるなら次のようなことになる。
……だが、解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批判宣言』所収)
…………
素顔が本物で仮面は贋者であるという信念や感覚、自己同一的な内面が本当の私であってそれ以外はすべて外面的で皮相的なものにすぎないとする信念や感覚は、「近代という時代そのものの病い」である。(小泉義之『倫理学』ーー仔猫の屍骸)
素顔というのは、もうひとつの仮面である。素顔が本物だと信じるのは上にあるように近代以降の「病気」に過ぎない。
レヴィ・ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである。「構造人類学」》
カフカは、《自分の不安を根絶する》ために、いいかえれば、《救いを得る》ために日記をつけた。私にはこの動機は自然とは思えない。少なくとも終始不変とは思えない。伝統的に「私的日記」に与える目的についても同様である。もはやそれが適切とは思えない。それは《誠実さ》(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)の効用や威光と結びつけられてきた。しかし、精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が告白を空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。(ロラン・バルトーー痛みやすい果実)
バルトがこう書いてからもすでに三十年以上経っている。インターネットの時代以降、さらには21世紀に入って、別のコペルニクス転回があったわけでもあるまい。
ここから逃れるにはどうしたらいいのか。最初から仮面を被っているのに意識的であるのはそのひとつの方法だろう。
小説にくらべてみた、エッセーの宿命、それは《信憑性》を避けられぬこと―――カギ括弧の排除作用なしですませられないこと。(『彼自身によるロラン・バルト』「疲れと新鮮さ」の項より
『彼自身によるロラン・バルト』の表紙裏にはこう書かれている。
《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。》
あるいは本文中には、
《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。》
あるいは本文中には、
ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物―――というより、むしろ複数の登場人物たち―――によって語られているものと見なされるべきだ。なぜなら、想像界とは小説の宿命的材料であり、自分自身について語る人間がさまよい歩く、歯形の段階構成をもつ迷路であり、その想像界を、複数の仮面(《ペルソナエ》)が分担しているのだから。それらの仮面は舞台の奥行きの深さに応じて段階的に登場している(しかもその背後には《誰も》いないのだ)。この本は、選択をせず、交替原理によって作動している。それは、単純な想像界が次々に噴出するにつれ、批評的発作が次々とおこるにつれて、進行する。が、それらの発作そのものはつねに、よそからの反響によって生ずる効果でしかない。(自己)批評以上に純粋な想像界はないのだ。この本の内実は、究極的に、それゆえ全体にわたって、小説的である。エッセーの言述の中へ第三人称が闖入し、しかもその第三人称がどんな虚構的人物をもさしていないとしたら、それは、ジャンルというものの再編成が必要であることを示している。すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。
たとえば、現在、政治的発言を「真摯に」繰り返すひとたちも「象徴的仮面=偽善の面」を被っているのに意識的であるひとはいるだろう。そしてそれはなんら否定されるものではない。
人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。(柄谷行人 「マッチョイメージとしての「革命家」)
あるいは、瞞着、すなわち世間を真に受けぬための積極的な方法だってときには必要さ。
【瞞着Mystification】
もっぱらこっけい味のある欺瞞を指すものとして、リベルタン精神の横溢する十八世紀のフランスにあらわれた、それ自体おもしろおかしい(神秘〔ミステール〕という言葉に由来する)新語。ディドロはとてつもない悪ふざけをたくらんで、クロワマール侯爵に、ある不幸な若い修道女が彼の保護を求めていると、まんまと信じこませてしまうが、このときディドロは四十七歳。数ヶ月のあいだ、彼はすっかり感動した侯爵に宛てて、実在しないこの女のサイン入りの手紙を書き送る。『修道女』――瞞着の果実。ディドロと彼の世紀とを愛するための、さらなる理由。瞞着とは、世間を真に受けぬための積極的な方法である。(クンデラ「七十三語」(『小説の精神』)所収)