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2014年4月20日日曜日

偽の現場主義が支える物語的な真実の限界

@fujitatakanori: みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。

@fujitatakanori: 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。

《ほっとプラス代表理事。反貧困ネットワーク埼玉。ブラック企業対策プロジェクト共同代表、生活保護問題対策全国会議、福祉系大学非常勤講師。著書『ひとりも殺させない』。》

――という方の発言なのだが、ツイッター上のことである程度やむえないこととは言え、いわゆる「左翼」的スローガンにしか聞えないでもない。

まず欧州と日本を比べるなら、国民負担率を比較するべきだろう。国民負担率が低い今の日本なら、まずは消費税増の問題になってくる(参照:「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人))。

また、《財源が足りないという理由》で、国民の生存権や社会権が剥奪されている「後進国」は世界中のいたるところにある。

結局、このような、現場で苦労されて、その場かぎりでは頗る「正論」である経験主義者の言説にめぐり合うと、いやそれだけではないと呟かざるを得ない。《独断的な経験論に対して合理論的に立ち向か》わざるを得ない。

一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

現実の矛盾に直面して、なにがその矛盾を引き起こしているのかを問わないまま、人間主義的モラリズムのみで彌縫する態度は、数十年来、とくにベルリンの壁が崩壊以降、いっそう支配的なイデオロギーとなっている。あるいは、高福祉でできるだけ増税しないという「理想的な」考え方は、可能であるならば誰でも取ってみたいものだ。中福祉・中負担は幻想」(武藤敏郎)などという見解は見て見ぬふりをしてみたいものだ。

衆知を集めてことにあたれば、誤った断定をする気遣いのない時代に生きていると確信し、あるとき、根拠の根拠ともいうべきものが理性の統禦を離脱し、識別の基盤を揺るがせはしまいかといった疑念とはいっさい無縁の世界に彼は暮らしている。実証主義的な楽天性ともいうべきものが、彼にたえず断定の根拠を提供しているのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P529)

《中長期の課題は、短期の課題が片付くまで棚上げにしておきましょうという話は成り立たない。》(池尾和人「経済再生の鍵は不確実性の解消」2011 fis.nri.co.jp/ja-JP/knowledge/thoughtleader/2011/201111.html )

冒頭のような「生活保護問題対策」者のスローガン的な発言に代表される「心性」ーー《被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、(……)私たちを正義の側に立たせてくれる》(中井久夫)--が、財政赤字をいっそう増大させ、社会保障制度への不安・不信を増幅させているという視点をもつことができないものだろうか。

たとえば、《みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ》という発言に対しては、《世界一の少子超高齢化社会で、極めて低い消費税率(あるいは国民負担率)のままでありえるのか》という問いを発してみよう。あるいは、《人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない》(田中康夫)、――ここでの年金制度はもっと大きく「社会保障制度」としよう。

これも別の考え方があるだろう、消費税増は必要ないという経済学者たちもいるのだから。あるいは国家という収奪マシンと捨て台詞を吐き出すこともできるのかもしれない。だが他方で、「左翼的」な誠意の、正義の活動が、国家による生活困窮者保護のための(資金的)余裕をいっそう失わせているのではないかという問いがあってもよいのではないか。

未来に不安がある。破滅が予想される。すくなくとも制度は変更される、悪い方に変更される。不確かな未来に備えなければならない。それはたとえば予備的貯蓄を生む。アベノミクス? だが消費はたいして伸びない。税収は伸びない。

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的に その必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005,』

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。

環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命>と ( 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。

つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

十年後、二十年後の視点に立って、「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」――ここでの文脈での「破局」とは、社会保障制度の破綻、あるいは「国民の生存権や社会権の剥奪」の渦巻、奈落の底であり、「これこれをしておいたら」というのは、財源逼迫への対応である。

もちろんこの見解も《三面記事的な偽の現場主義が支える物語的な真実の限界》に応答する《一つの虚構にすぎない》。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)