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2014年4月30日水曜日

四月卅日 妻の「挙止に気を附けよ」

同遊者の渋江六柳は抽斎である。小野抱経は富穀である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻に亘るを忌んで此に記さない。(森鷗外『伊沢蘭軒』その二百五十)

《事の褻(せつ)に亘るを忌んで此に記さない》とある。卑しくなるので書かないという節度にこの作品は全篇領されていると言ってよい。だが僅かな例外がないではない。

《此年(天保元年 1830年)十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。》(森外『伊沢蘭軒』 その百九十五)

伊沢蘭軒死後、長子榛軒が江戸に住んでいた阿部正寧に扈随して福山に戻る。福山藩主阿部氏が戻ったのは、おそらく参勤交代によるものだろう。

《此年天保元年十月二十一日は、福山へ立つた榛軒が始て留守に寄する書を作つた日である。宇津の山輿中にあつて筆を把ると云つてある。》とある。

この留守宅の弟柏軒に寄せる手紙の内容が面白い。

榛軒は最も妻勇のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。(その百九十七)

妻勇のことを気遣っている。なにを気遣ったのかと言えば、おそらく独り江戸に過ごす妻の大きな意味での「不義」ではないか。どうも夫の不在中の、叔母にたいして不遜な態度をすることのみを憚っただけではないように憶測する。

次の年もまだ榛軒は福山にある。どうやら早く江戸に戻りたいらしい。

《天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。榛軒は阿部正寧の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。》

 《わたくしは榛軒が初の妻横田氏勇を去つて、後の妻を納れたのが、前年暮春より此年天保三年に至る間に於てせられたかと推する。榛軒は前年二月の末に福山より江戸に帰つた。その福山にあつた時、留守に勇がゐたことは、荏薇問答に由つて証せられる。》

しかし柏軒に与ふる幾通かの書に、動もすれば勇を信ぜずして、弟にこれが監視を託するが如き口吻があつた。榛軒が入府後幾ならずして妻を去つたものと推する所以である。(その二百一)

ーーこれ以上は書かれていない。事が褻(せつ)に亘っているわけではない。だが『伊沢蘭軒』の気品と沈静に貫かれた文章のなかでは、例外的にある種の「想像力」を刺激させてくれる箇所ではある。もっとも、《勇の挙止に気を附けよ》を、勇の「腰」に気を附けよ、などと読んでしまう褻に亘ってはいけない。

ここでは大田南畝(蜀山人)ーー榛軒の父蘭軒と師弟関係、いやほとんど友人関係にあったーーの狂歌を反芻しておくだけにしよう。

世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし  
世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい


「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。

なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』)

かたい奥  さてはりかたは  よく売れる
小間物屋  よっきよっきと  出して見せ
いぼ付きは    切らしましたと    小間物屋
ずいきは皆な    かえと    女房たずね  (諧風末摘花」より)


ところで、当時「間男」は建て前上は死刑であったらしい。「女敵討」などいう言葉もあったようだ。《人妻が他の男と関係を持った場合…夫が武士 である場合、妻と相手の男を斬り殺す「女敵討」(めがたきうち)が認 められていた。参勤交代で夫が江戸に行っている間、出入りの男と関係を 持ってしまった妻がいた。夫は帰郷して事実を知り激怒。妻と相手の男を 斬り捨ててしまった。こういう事件もけっこうあったようだ。》

江戸では密通はありふれたことだった。密通は不倫より意味が広い。正式な婚姻以外の男女の性交渉はすべて密通である。ただし玄人の女との性行為は密通ではない。密通と刑罰を定めたのが、吉宗の時代の「密通御仕置之事」である。処罰は厳酷で密通した男女のほとんどは死刑になった。

江戸の男と女は厳罰におびえていたのか?けっしてそんなことはない。あっけらかんとセックスを享楽していた。刑罰はあくまで建前である。というよりあまりに過酷なため、人々は訴えるのをためらった。もちろん密通で処刑された男女もいるが、これは殺傷事件にまで発展し、町奉行所の役人が乗り出さざるを得なかったからである。ひとたび町奉行所に持ち込まれると杓子定規に厳格な刑罰が適用された。

ここで大岡越前が登場する。「世事見聞録」(文化十三年)によると、世間にあまりに密通が多いため、密通御仕置之事に定められた処罰を厳格に適用すると死刑者が続出するし、奉行所も仕事に支障をきたす。そこで大岡越前が間男代を七両二分と定め、内済による穏便な解決をうながしたのだ。(永井義男『お盛んすぎる江戸の男と女』)




ーー江戸期の浮世絵作家は「黒」の扱いがすばらしい、マネ以前に「黒」を発見したのは彼らである、と加藤周一は書いている(春信の女と歌麿の女の胸)。


とここまで書いて、上に《榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた》のは参勤交代だろうとしたが、よく読むと、天保元年十月出発、天保二年二月十五六日頃入府の予定とあるので、わずか四ヶ月ほどの江戸不在であり、これは参勤交代とは異なるのかもしれない。

諸大名一年替りに御城下に詰居れば,一年はさみの旅宿也。其妻は常江戸なる故,常住の旅宿也。御旗本の武士も,常江戸にて常住の旅宿也。諸大名の家中も,大方其城下に聚り居て面々の知行所に居ざれば,皆々旅宿成上に,近年は江戸勝手の家来次第に多くなる。是凡武士といはるる程の者の旅宿ならぬは一人もなし。(荻生徂徠 「政談」)

これは徂徠の「旅宿の境界」という概念をめぐる叙述のひとつなのだが、当時の武士階級はすべて旅宿の人なのであり、妻子の江戸常住も将軍家の「人質」なのであって、すなわち《常住の旅宿》ということになる。孤閨悶々とした武士の妻はあまたいたことだろう。

徂徠が書くように、参勤交代とは一年おきに、領地住まいと江戸住まい(参勤)を交代する制度なのだから、繰り返せば、四ヶ月ほどの領地滞在ということからして、阿部氏が領地福山に戻ったのは参勤交代とはまた別の旅だったのかもしれないが判然としない。

江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)

ここまでの引用にしようと思ったが、やはり以下を続けよう、というのは《一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである》とあり、江戸期の時代の史伝を読んでいると、ときにそう思わざるをえない感慨を抱くから。二百年近くまえの話だが、人びとの人情の機微がとても近しい気がするのはそのせいかもしれない。

そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。

二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。

いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的なあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。

日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(同上)


たとえば柄谷行人《日本的な生活様式とは実際には江戸文化のこと》と語っている(いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」)。

中井久夫は、別の論で、江戸的生活様式を生み出した制度として、「大家族同居の禁」、「刀狩」、「布教の禁」の三つを挙げている。

このシンポジウムで私の前に米山俊直先生が話された中で私の印象に強く残ったのは、信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。それ以降、秀吉と家康がした大きな改革が三点くらいある。一つは「大家族同居の禁」である。江戸時代のほうが明治以降よりも小家族であった。森鴎外の『阿倍一族』のような反乱を起こされたら困るからである。もう一つは刀狩という「武装解除」である。最後の一つは「布教の禁」で宗教は布教してはいけないということである。おそらく幕末のいろいろな宗教運動がものすごい抵抗に遭ったのは、布教の禁に真っ向から対立するからだろうと思う。布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。以上の三つに付随して「宗教者医療の禁」がある。「医は仁術なり」という言葉は「お医者さんは非常に親切であれ」ということではなくて、「仁」という儒教の道徳にもとづいた非宗教人だけに医術を許すということである。ただし日蓮宗は狐憑きを治療してよいなどいくつかの例外はある。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収 P. 98)

…………

さて、もう一度上に書かれた「参勤交代」に戻る。

鷗外の『伊沢蘭軒』から、《此年(天保元年 1830年)十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた》、あるいは《天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。榛軒は阿部正寧の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。》の二文を引いて、これでは領地滞在が四ヶ月ほどにしかならず、一年おきに、領地住まいと江戸住まい(参勤)を交代して行われる「参勤交代」による滞在とは異なるのではないかと記した。

ところで鷗外の史伝物蘭軒伝前作の『渋江抽斎』にもいささか奇妙な記述がある。抽斎は,藩主越中守信順に扈従して弘前に滞在するのだが、「詰越」により二冬を過ごすことになるとあるのだ。これも足掛け二年の滞在であり、通常の参勤交代の滞在期間一年ではないということになる。

初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉を噉うようになったのはこの時が始である。(『渋江抽斎』 その二十七)

この「参勤交代」制度の実態をインターネット上で調べてみようとしたら、まさに『渋江抽斎』のこの箇所を引用して、鷗外の記述の誤謬を指摘する梅谷文夫氏の論文に行き当たった(「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」1993)。

梅谷氏は棭斎研究家であり、Wikipediaの『狩谷棭斎』の頁には、《森鴎外が晩年、史伝『澁江抽斎』、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』の続編として著述しようと資料を集めたが、公務と病で果たせなかった。事績は、梅谷文夫 『狩谷棭斎』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1994年)に詳しい》とある。

《信憑すべき証拠が得られない場合は、判断を留保し、私見をもって真偽を論じない》と言うのが棭斎の信条だそうだ。その優れた考証家であることが明らかな梅谷文夫氏の津軽 信順弘前滞在の詰越をめぐる記述を抜き出す(この箇所も含めて、抽斎伝の四箇所の記述に疑義を発しているが、いまは弘前滞在の箇所のみを引く)。

鷗外は,『渋江抽斎』その二十七・二十八に,抽斎は,藩主越中守信順に扈従して,天保八年七月十二日,江戸を立って弘前に行き,二冬を弘前で過して,同十年,越中守信順に随行して江戸に帰ったと記述している。

ところで,天保十年五月十六日,越中守信順の隠居と左近将監順徳の襲封を公儀が允許したことが諸書に記録されている。鴎外が言うように,越中守信順が,詰越をして,この年に江戸に戻ったのであれぱ,参府の時期は,五月十六日以前であったということになる。武鑑には三月参府と記載されているので,そのこと自体は異例とするには当たらないが,参府の直後に,病気を理由に,公儀に隠居を願い出たということになる点が,以前から,少々,気になっていた。詰越をした理由は何であったのか,病気が理由であったとすると,詰越を決めたのは,鷗外によれば,天保八年であったというから,かなりの長患いをしていたことになる。参府の直後に隠居を願い出たとすると,本復しなかったのであろう。そういう状態の越中守信順が,まだ雪が残っていたはずのこの時期に,江戸まで百八十二里の旅に出ることを,他の家臣はともかく,医者である抽斎が,それをよしとしたということになる点が,特に気になったのである。

『江戸日記』を検したところ,越中守信順は,鷗外が言う通り,天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して弘前に向かっている。着城の日を鷗外は明らかにしていないが,八月七日であった。八月五日着城の予定が二日遅延したのである。『御国日記』を検したところ,越中守信順が,この年,詰越を決意したとか,詰越せざるを得ないような病患に見舞われたというような記事は,何も見出だせなかった。それどころか,越中守信順は,翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府していることが確認されたのである。鴎外が,「此年(天保八年)藩主が所謂詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに,二冬を弘前で過すことになったのである。」と記述しているのは,全く事実に反することであったことが明らかになったのである。また,越中守信順の代に,詰越を例としたことがないことも,あわせて確認し得たのである。証拠の引用は,すべて省略する。抽斎もまた,天保十年にではなく,天保九年十一月九日に江戸に戻っているのである。

これより先,抽斎は,天保四年四月六日,越中守信順に扈従して江戸を立ち,四月二十七日,弘前に着き,一冬を弘前で過して,翌五年十月十七日,弘前を立ち,十一月十五日に江戸に戻っている。

二冬を弘前で過したというのは,この両度の弘前行を合わせれば,そういうことになるということと混同したのであろう。誤記の責めは,鷗外ではなく,鷗外に材料を提供した渋江保が負うべきもののようである。

抽斎が初めて弘前で冬を越すことになった天保四年は大凶作の年であった。弘前藩の収納は皆無であったという。その前年三年も違作の年で,公儀に対し,損毛五分六厘七毛と届出ている。また,抽斎が再び弘前で冬を越すことになった天保八年も違作の年で,損毛四分九厘と公儀に届出ている。その前年七年も凶作で,損毛九分一厘であったという。天保三年から続いていた冷害のため,遂に四万五千人余の餓死者を出した天保八年の冬を,抽斎は,弘前で過したのである。

鷗外は,抽斎が二度目の越冬に備えて,「種々の防寒法を工夫して,家の子を取り寄せて飼養しなどした。」と記述し,また,「江戸で父の病むのを聞いても,帰省することが出来ぬので,抽斎は酒を飲んで悶を遣った。」とも記述している。しかし,二度目の弘前行は,事前に国元の惨状を知り得ていて,旅立ったのである。抽斎が,この時,獣肉を食らい,酒を飲むことを覚えたのは,鷗外が記述するような個人的事情が因であったとばかりは言えぬこと,くだくだしく論ずるまでもあるまい。

これがすぐれた考証家の仕事というものなのだろう、目を瞠らざるをえない記述である。もっとも鷗外の抽斎伝がこの指摘によって価値が減ずるということはない。鷗外はこの抽斎をめぐる論を書きつづけるなかで、抽斎の嗣子渋江保に出会ったのであり、保氏や彼が提供する資料に批判的ではありにくかっただろうとも思う。蘭軒伝においてさえ渋江保氏からの情報提供を受けている。さらにこうも言えるだろう、これらの史伝の真骨頂は、むしろ書き続けるなかで、鷗外自身の出会いがあり驚きがあり、読み手にとっても史伝というよりもエクリチュールの実践の驚きを与えてくれる、それが晩年の鷗外のいわゆる「史伝」の魅惑である、と。

一般的に学者たちの論文は、考察してしてしまったことを書く、あるいは《自分のパロールを活字にし、公表する者である》(ロラン・バルト(「作家、知識人、教師」)。他方、鷗外の晩年の作品は、ドゥルーズのいう如く書かれている、《自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。》(『差異と反復』)

さらには、こう言ってもよい、学者たちの論文は言説化のための分析しか行われていないが、鷗外の作品は分析の言説化がなされている、と。あるいはまた《挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せる》のだ。


波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)









2014年4月29日火曜日

果たして「シェアすることは歓びを増す」だろうか

真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ。シェアすることは歓びを増す。美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う。それが実は「反貧困」ということではないのか。(佐々木中)

佐々木中氏の昨晩(2014.4.28ツイートだが、《シェアすることは歓びを増す》とある。《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》とある。

だが愛する女と巡り合ったとき、なぜシェアしたくならないのだろう、とひねくれ者のわたくしは言う。なぜ良い音楽や藝術、知的遺産が〈女〉と違うのだろう。愛する女に接するように、音楽や美味に向かうとき、ツイッターなどにその画像や音声を貼り付けたりしてシェアしたいと思うのだろうか。いやけっして。シェアしたいと思うのは、快楽の次元にあるもので、悦楽(享楽)の次元にあるものではない。

快楽plasirのテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り


享楽jouissanceの次元、あるいはプンクトゥムの次元にあるものは、トラウマ的であり、冥府からの途切れがちの声として呟くほかあるまい。すぐれた作家としての佐々木中氏(たとえば古井由吉のすぐれた読み手である彼)はそんなことはとっくに知っているはずなのに、知らないふりをした発言であるように思う。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽

ひとは本当のところは、《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)であったり、《まもなく、私の二十年来の友人が須賀敦子さんを”発見”した。私たちは、少年が秘密の宝を共有するように、須賀さんの作品について、声をひそめるような感じで語り合った。ひとにはむしろ触れ回りたくなかった。》(中井久夫『須賀敦子さんの思い出』)ではないか。

われわれは、次のように書くジュネを忘れるわけにはいかない。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)


佐々木氏の冒頭のツイートはたんなるスローガン的言説に過ぎないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。あるいは営業活動の一環でしかないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴーー大いなる個人的快楽ーーになぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』ーー承認欲望と承認欲動

《のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの惹き起こした喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。(……)

のがれよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蠅どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ、強壮の風の吹くところへ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト『見出されたとき』井上究一郎訳)

再度、佐々木中氏の「愛している」はずのニーチェを引用するなら、次のように引用することもできる。

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳ーー
症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」)

ーーそれとも、やはりこうでも言っておくよりほかないのだろうか、《ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。》(中井久夫「ヴァレリーと私」

少なくとも、《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》という発話文のなかの《可能なら》という言葉は、「ほとんど可能ではないが」、と書き換えなくてはならないのではないか。


《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

――フロイトがそう言っている(ここでのフロイトは、正常さの典型とみなされるだろう)。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「嫉妬」の項より)

愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである。(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)

われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

《母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的状況になるのであって、けっして危険の状況ではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。》自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。 (フロイト『制止、症状、不安』人文書院 旧訳からだが山括弧の個所は「翻訳正誤表」にて修正――「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)

――と引用を中心に書いてきたが、佐々木中氏の冒頭のように言いたくなるのは、ある側面からは(たとえば大きな意味での「政治的」な側面からは)、よく分かると言えないでもない。上に書かれたものは批判ではなく批評(吟味)の言葉である。

以前、《「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている》(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)などをめぐってメモ書きをしたことがある(「おっかさんと蛍」)。それらは宙吊りのままである。

たとえば、宙吊りになっている問いへのヒントをわたくしは次の文に読む。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

ーーとすれば、これらの言葉は実は佐々木中氏の《真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ》に限りなく近づくとも言える。

だが、たとえば、現在のツイッターという場での「人びとのあつまりかた」は、あまりにも醜悪だと感じることがある。それは、クラスタ内、小さな共感の共同体内での、湿った瞳の交わし合い、うなずき合いであり、クラスタ外の者の排除なのだ。その場を変えなければならない。肯定的に佐々木中氏のツイートを拾うことが多いわたくしではあるが、彼のツイートは場を変える力として機能していないときもある、と感じることがある。むしろその発言は、受け取り手によっては、「アーバン・トライバリズム(部族中心主義、同族意識)」を助長してしまう機能をもつと思うことがある。

…………


冒頭の佐々木中氏のツイートは次のような文脈で書かれていることを附記しておこう。

@AtaruSasaki RT@gonoi 雨宮処凛さんが「反富裕」という「贅沢は敵だ」的なスローガンを出しているが、私は「贅沢は素敵だ」派なのでまったく賛成できない。RT @karin_amamiya 今年の「自由と生存のメーデー」、熱くなりそう!「反貧困」ではなく「反富裕」!pic.twitter.com/7T9HJThq48

@AtaruSasaki @gonoi 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか。

‏@gonoi 肯定を禁止し続ける言説たる「反〜」以前の、スローガンを与えられた群れによる「反〜」への先祖返りが窮極的に行き着く先は、民主カンプチアでしょう。RT @AtaruSasaki 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか

‏@AtaruSasaki @gonoi 全くその通りだと思います。ある局面でいかに強固な「アンチ」が必要になろうとも、究極的にはこの世界とその歓びの肯定に至らなくてはなりません。

@gonoi @AtaruSasaki 今日の本務校ゼミで、歓びの肯定がなされる社会としてバタイユ『呪われた部分』のLa société de consumationについて、見田宗介を補助線に解説したばかりです。可視的に数値化された効用に回収されることのない、生命の充溢と消尽を解き放つ社会。

@AtaruSasaki @gonoi 僕、卒論バタイユだって話はしましたっけ……笑

このような頷き合いが仲間内の「知識人」の間で、平気でなされているのをみると、あきれ果てるよりほかない。反富裕が一歩間違うとどこにいくのかを語るならば、「贅沢は素敵だ」が一歩間違えばどこに行くのかを語らずにどうしよう。だがツイッターというのはおおむねこの程度の頷き合いの場である。

われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)


◆追記:ジジェクと浅田彰と対談『「歴史の終わり」と世紀末の世界』より

浅田)……あなたの言われるように、ここで「北」と「南」というのは、地理的な意味とは限らないので、「北」の世界の中にも「南」の世界が入り込んでいる例は多々ありますーーたとえばアメリカの都市のスラムのように。


ジジェク)そう、そういう傾向は東西の冷戦の終結とともにいっそう強まっていると思いますね。

浅田)(……)自由民主主義と資本主義の勝利によってモダンな世界が普遍化するかに見えた瞬間、ポストモダンな「ネット」とプレモダンな「島々」への新たな分極化が生ずる。

ジジェク)そこであらためて強調しておくべきことは、そういう一見プレモダンな要素が、フクヤマの言うような過去の残滓などではなく、むしろモダンな資本主義システムの生み出したものーーいってみればポストモダンな産物だということです。それは自由主義的資本主義に内在するネガティヴな緒契機なのであり、ヘーゲル主義者として言うなら、自由主義的資本主義の勝利を語ることは同時にそういうネガティブな諸契機の露呈について語ることでもなければならないのです。そこには、内外の「第三世界」の貧困と退行、そして、そこから出てくる復古主義や原理主義といったものが、すべて含まれます。

ヘーゲル的に言って、それらが自由主義的資本主義に内在する「否定判断」、つまり自由主義的資本主義の普遍性の主張に対する内的否定にあたるとすれば、さらにラディカルな「無限判断」にあたるのは、カンボジアのクメール・ルージュやペルーのセンデロ・ルミノソでしょう。資本主義と伝統との矛盾に直面したとき、かれらは二重否定を行い、資本主義を拒否すると同時に、伝統をも解体してゼロからやりなおそうとするからです。この二重否定の逆説の中に反転した形で表現されている真実は、資本主義が前資本主義的な社会的紐帯の支えなしには存続しえないということです。言い換えれば、それは現代の資本主義に内在する矛盾を表現する激烈な症候なのであり、原始的なユートピア志向のラディカリズムの残滓などではありません。そもそも、クメール・ルージュの指導者のポル・ポトはマラルメやランボーを読み解く仏文学の教授だったし、センデロ・ルミノソの指導者のアビマエル・グスマンはカントの空間論について博士論文を書いた哲学の教授だったんですから(笑)。

そういうわけで、フクヤマに対するヘーゲル的警告は、自由民主主義と資本主義について語るとき、人権や経済成長といったポジティヴな面――「肯定判断」だけでなく、ネガティヴな面――「否定判断」や「無限判断」についても語らなければならないということです。たしかに自由民主主義は勝利したかもしれない。しかし、その勝利の瞬間は、そのラディカルな分裂の瞬間でもあるのです。

※否定判断と無限判断については、「「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)」を参照のこと。



2014年4月28日月曜日

四月廿八日 「蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたり」

早朝蝉の声。今年になってはじめて聴く。形状や鳴声はニイニイゼミなのだが、今こうやって書こうとして調べてみると、《北海道から九州・対馬・沖縄本島以北の南西諸島、台湾・中国・朝鮮半島まで分布する。ただし喜界島・沖永良部島・与論島には分布しない》とWikipediaにあり、この記述からすれば南方には生息しないということになる。たぶん異なった種類なのかもしれない。もともと蝉は、当国の北部に多く南部には少ないなどと言われるが、たしかにこの南部の土地にはニイニイゼミ状のセミしか見たことがない。妻や息子になんというセミだ、と訊ねてみても、セミはセミよ、というだけだ。




ところで大正七戊午年の荷風の日記に奇妙な記述がある。

七月十五日。去十二日より引つゞきて天気猶定まらず風冷なること秋の如し。四十雀羣をなして庭樹に鳴く。唖ゝ子の談に本郷辺にては蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたりといふ。昨日赤蜻虫の庭に飛ぶを見たり。是亦奇といふべし。

蜩は蝉ではないと読める。だがすくなくとも現在、蜩はセミ種に分類されており、かつてはこういう区別をしたということなのだろうか。ではツクツクボウシは蝉の分類内だったのか、それとも分類外だったのか。ーーいずれにせよ、蜩とツクツクボウシは、わたくしの知っている限りでのほかの蝉の鳴声とは区別してもいい声音をもっている、という印象はもたないでもない。

ひぐらしの鳴き声3時間版などというものがYoutubeにあるが、この鳴声の「ゆらぎ」を愛惜しむひとがいるのはよく分かる。





……この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。

夜半に街灯の明るさに欺れてか、いきなり嗚咽を洩らすように鳴き出し、すぐに間違いに気がついたらしく、ふた声と立てなかった。狂って笑い出したようにも聞こえた。声に異臭を思った。

異臭は幼年の記憶のようだった。蜩というものを初めて手にした時のことだ。空襲がまだ本格には本土に及ばなかった、おそらく最後の夏のことになるか。蜩は用心深くて滅多に捕まらぬものなので、命が尽きて地に落ちたのを拾ったのだろう。ツクツク法師と似たり寄ったりの大きさで、おなじく透明な翅にくっきり翅脈が浮き出て、胴体の緑と黒の斑紋の涼しさもおなじだったが、地肌が茶から赤味を帯びて、その赤味が子供の眼に妖しいように染みた。箱に仕舞って一夜置いた。そして翌朝取り出して眺めると、赤味はひときわ彩やかさをましたように見えたが、厭な臭いがしてきた。残暑の頃のことで虫もさずがに腐敗を来たしていたのか、子供には美しい色彩そのものの発する異臭と感じられた。すぐに土に埋めて手を洗ったが、異臭は指先にしばらく遺った。

箪笥に仕舞われた着物から、樟脳のにおいにまじってえ立ち昇ってくる、知らぬ人のにおいにも似ていた。(古井由吉『蜩の声』)

…………

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。(H・ド・バルザック「骨董屋」)

これは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフであるが、冒頭の「第一章 具体の科学」は、こう書き始められる。

動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。(『野生の思考』)

これはなにも「未開人」の言語の話ではない。たとえば日本には“waterという語がない。水であり、お湯であり、熱湯である、ということはしばしば指摘されてきた。反対に、わたくしの住んでいる国の言葉では、waterにあたるnướcは、より高い抽象性があり、水であり、液体であり、ジュースである。カフェやお茶という言葉はもちろんあるが、たとえば仕事を終えた働き手に労働賃以外にチップを渡すとき、これでnướcを飲んで!、という言い方をする。これは、渇きを癒して! ということで、すなわち日本語の「お疲れ様!」にほぼ相当する。この”nước“は、カフェでもお茶でも水でもジュース、ビールでもよいということで、いかにも暑い国の言い方である。ヌックマム(”nước mm“)でさえ水という語を使う。 ”mm“は蝦・魚などを塩漬けにした食物のことで、直訳すれば「魚を塩漬けした水」となる。あるいは外人は、"nước ngoài"、ーー"ngoài"は漢語の「外」なのだが、これも直訳すれば「外の水」ということになる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(『野生の思考』)

この意味で、つまり”waterに関して、日本人はwaterという大きな分類ではなく、より細かい「水」「お湯」の区別があるという意味で、その概念が豊富であるということができる。お風呂と茶道の国である。他方、当国では近親者の呼び方の種類が驚くほど豊富である。国の文化によって、それぞれ概念の豊富さの多寡があるのはあらためて言うまでもないことかもしれないが、それでも住み始めた当初は驚いた。

業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)


2014年4月26日土曜日

四月廿六日 「密閉した全体じゃない」

ちょっとかなりいい加減に書いたな、いま読み返してみてそう思うが、書きなおすのはメンドウなのでそのまま投稿する。「小説」のひとになっていいてね、いま。邪魔するなよな、おい!

…………

むかし書いたのをいまごろ何人かの人が読んでくれると、
ああこんなことを書いたんだなと思い出すのだけれどさ

非-全部はメタランゲージである」は、三ヶ月ほど前に書いたんだな
非全体の論理、あるいは女性の論理ってやつだけれど

あんまりむつかしいこときいてくるなよな
思いつきで書いているところも多いんだから
自分で考えろよ、資料は提示するからさ

資料:ラカンの男性の論理と女性の論理/カントの力学的アンチノミーと数学的アンチノミー)」ってのは、かなり昔に書いたのだが、ここで引用されている田中純の論文はまず読んどけよ


ジジェクが『Less Than Nothing』(2012)で
前期ウィトゲンシュタインを、ラカンの「男性の論理」
後期ウィトゲンシュタインを「女性の論理」とを
関連させて語っている箇所があるけれど
(後期というのは「家族的親和性」のこと)
こっちのほうがまずは分かり易いかもしれない

英文のままにするよ
いくらなんでももうそろそろ邦訳でるだろ

Slavoj Žižek: Formulae of Sexuation: The All With an Exception
Lacan elaborated the inconsistencies which structure sexual difference in his “formulae of sexuation,” where the masculine side is defined by the universal function and its constitutive exception, and the feminine side by the paradox of “non‐All” (pas‐tout) (there is no exception, and for that very reason, the set is non‐All, non‐totalized). Recall the shifting status of the Ineffable in Wittgenstein: the passage from early to late Wittgenstein is the passage from All (the order of the universal All grounded in its constitutive exception) to non‐All (the order without exception and for that reason non‐universal, non‐All).

That is to say, in the early Wittgenstein of the Tractatus, the world is comprehended as a self‐enclosed, limited, bounded Whole of “facts” which precisely as such presupposes an Exception: the mystical Ineffable which functions as its Limit.

In late Wittgenstein, on the contrary, the problematic of the Ineffable disappears, yet for that very reason the universe is no longer comprehended as a Whole regulated by the universal conditions of language: all that remains are lateral connections between partial domains. The notion of language as a system defined by a set of universal features is replaced by the notion of language as a multitude of dispersed practices loosely interconnected by “family resemblances.”

《私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。》(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66節)

《私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。》(『哲学探究』67節)

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。同 P112

ーーとあるけれどさ
ラカンの非全体の論理ってのは、はっきりはわかんないねえな
家族的親和性だけじゃないには決まってるからな

非全体の論理が説かれるラカンのアンコールのセミネールなんて
オレはどう頑張っても精読する気にならないからな
英訳ですこしは読み流したのだけれど
前半と後半でいっていることがすこしずづ動いていくんだよな
非全体の論理の実践の書だね、あれは

『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』 E D I T E D B Y Suzanne Barnard Bruce Finkってのを以前、ウェブから無料で手に入れたのだが、いま見当たらないがどういうわけか

まあ探せばこの手のものはいくらでもあると思うぜ


ところで、「ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論―― 言語の「転位」 ――(朝妻恵里子)」に

言語は孤立し密閉した全体と解釈することができず、全体としても部分としても同時に見なければならない

とあるけれど、この「密閉した全体じゃない」ってことなんだな、まずは。

「無限判断」ってことなのだよ

二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。

『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96ーー「否定判断」と「無限判断」

こういったことは頭でわかっていても、
つい否定判断の領域で語ってしまうのだよな
でも女性の論理を男性の論理で語ってもどうしようもないぜ
論文形式で図式的に書いたら「女性の論理」はどこかにいっちまうからな

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

「女性の論理」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬ「女性の論理」となり、「女性の論理」の労働となれねばならぬ、ということだよ。

メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。》(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)

小説のようなエクリチュールしかないんじゃないか

たとえば、金井美恵子は、《中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。》(『小説論』)とするし、クンデラなら、「相対的で両義的な小説の言語」や「小説の知恵(不確実性の知恵)」(『小説の精神』)としたり、あるいは「神の笑いのこだま」とか「非論理的・非合理的なものの介入」などの表現を駆使しつつ何人かの(男性)小説家について語るとき、それは非-全体の論理(女性の論理)に近しいことを語っているに相違ない。

アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのか、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、…どちらが正しくてどちらが間違っているか。エンマ・ボヴァリーは我慢のならない女なのか、あるいは勇敢で人の心をうつ女なのか。ウェルテルはどうか。彼は多感で気高いのか。あるいは、のぼせ上がった攻撃的な感情家なのか。小説を注意ぶかく読めば読むほど答えることはできなくなる。(……)小説の<真実>は隠されており、表ざたにされず、また表ざたにされ得ないものなのである。(クンデラ『小説の精神』)

やっぱ小説じゃないか

蓮實重彦『表象の奈落』所収の「小説の構造」(初出=「国文学」1977年12月号)の冒頭にこうある。

もしかりに、ヨーロッパが真の反省的思考に目覚める瞬間があるとするならば、そのときヨーロッパが描きあげるだろうその自画像は「小説」を中心にした構図におさまることになるだろう。あるいは逆に「小説」を構図の中心に据えたヨーロッパ像が想定されぬ限り、ヨーロッパはその自意識を獲得することはなかろうというべきかもしれない。「小説」を視界におさめなかったが故に、デカルトは真の反省的思考を実践しえなかったし、マルクスも、またニーチェも、そしてフロイトも、「小説」を曖昧にとり逃がしてしまったが故に、ヨーロッパ的な現実を周到に描きつくすにはいたらなかったのだ。階級闘争も、永劫回帰も、無意識も、「小説」に対してはひたすら無効の身振りしか演じてはいない。そしてその事実を自覚する瞬間に、ヨーロッパは初めて真の反省的な思考を獲得することになるだろう。またそうでない限り、ヨーロッパは、ルイ十四世の時代と質的にはほとんど変わらぬ仕草で思考をめぐらせ続けるほかあるまい。

これは、ただ蓮實重彦一流の挑発であろうか?
『表象の奈落』は2006年に出版されている。なぜ彼は今頃30年以上前のこの小論をここに掲載する気になったのか。

小論の最後には、こう書かれている。

もしかりに、過去一世紀を「小説」の時代と呼ぶのであれば、それは、この身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れから、賎しさといかがわしさを分離し、それを見ずにすごすことの歴史であったといえる。それに視線を落とさずにいることがもはや不可能となったいま、「小説」の歴史は、必然的に近代がその真の反省的意識に目覚めるという事件の生まなましい叙述たらざるをえないところにさしかかっていると思う。

《身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れ》を
見ずにすませているヤツばかりだからな
対話とか議論とか論文とか言ってさ

そもそも議論するってのはこういうことだからな

よく定義されたことばをつかって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作しても 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことばは無限に増殖する(現代から伝統へ  高橋悠治

別にラカン理論なんてどうでもいいのだよ
どうでもいいというのは言い過ぎだが
高橋悠治のように理論を参照せずに
たとえばカフカを読んで
カントの無限判断やら
ラカンの非全体の論理や
ヴィトゲンシュタインの家族的親和性
に近い処に自ら到達するってのが肝心かもな

それが考えるってことさ

ーーという具合に胡麻化しておくよ


※附記(ジジェク『斜めから見る』における「非-全体」の論理の叙述)

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62~)

《…Winston Churchill's wellknown paradox. Responding to those detractors of democracy who saw it as a system that paved the way for corruption, demagogy, and a weakening of authority, Churchill said: "It is true that democracy is the worst of all possible systems; the problem is that no other system would be better." That sentence is based on the logic of "everything possible and then some." Its first premise gives us the overall grouping of "all possible systems" within which the questioned element (democracy) appears to be the worst. The second premise states that the grouping "all possible systems" is not allinclusive, and that compared to additional elements, the element in question turns out to be quite bearable. The procedure plays on the fact that additional elements are the same as those included in the overall "all possible systems," the only difference being that they no longer function as elements of a closed totality In relation to the totality of systems of government, democracy is the worst; but, within the nontotalized series of political systems, none would be better. Thus, from the fact that "no system would be better," we cannot therefore conclude that democracy is "the best"—its advantage is strictly limited to the comparative. As soon as we attempt to formulate the proposition in the superlative, the qualification of democracy is inverted into "the worst."》

フロイトは『非医師による精神分析の問題』の「あとがき」において、女性に関して、ウィーンの風刺新聞「ジンプリチシムス」に載ったちょっとした対話を思い出し、( ……)「すべてではない」というパラドックスを持ち出している。「一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』」。だからこそ女は男の症候なのである。女には我慢がならないが、女以上に素敵なものはない。とても女とはいっしょに暮せないが、女なしで生きるのはもっと困難なのだ。(同上)
……女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」

(……)さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』ーー低級な人種ですよ!/その種のものとしては最高さ






2014年4月25日金曜日

四月廿五日 「天閹」

湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁うて責任ある地位を遯れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳にしない。 懐之の養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業豊島屋の子であつた。離縁の理由としては、所謂天閹であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。(森鷗外『伊沢蘭軒』)

「天閹」とある。調べてみると、「閹官」としたら「宦官」のことらしい。「閹」とは、門に面して気息奄々ということか。天から授けられた玄牝の門入ず。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子 「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

この「天閹」という語も、前回の「易簀」に引き続き、青空文庫全文検索で調べてみると、やはり外の蘭軒伝しか使用されていない。ただし「閹」は何人かの作家が使用している。中島敦の『李陵』にはこうある。

宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ともいうのは、その創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない。 司馬氏は元周の史官であった。

ほかに芥川龍之介の『酒虫』にも使用されている。

宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。

もうひとつ桑原隲藏というわたくしには初めて聞く作家の『支那の宦官』にこうある。

この火者とは、もと印度語のコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて、意義不明なるを恐れ、かくは注解的に閹割の二字を添加したものであらう。

…………

という具合で、蘭軒伝を牛歩の如く読み進めているうちに、やや面白い読み方を発見した。不明な「漢字」を探るなかで、別の書の断片に出逢うことができる。そのうち飽きるにきまっているが、飽きなかったらまた同じことをやってみよう。

iPadの画面(青空文庫)で読んでいるのだが、長さを比べてみると『渋江抽斎』は420頁あり、『伊沢蘭軒』は1237頁ある。三倍ほどの長さである。いま漸く半ばほどに達したのだが、前半をやや粗雑に読みすぎたかな、という気がしてくるのはよい傾向、すなわち愛着が湧いてきたしるしだ。

抽斎伝さえ、さる学者が、無用の長文としたのだから、『伊沢蘭軒』をいまどき読むひとは少ないかもしれない。

寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎に曾て山陽を舎したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦れたる蘭軒の裔が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。

これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥ける。わたくしの目中の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである。(『伊沢蘭軒』)

この学者は和辻哲郎である。

私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)


伊藤整は鷗外の史伝をこう評している(「鴎外文学に対する三つの視点 井村紹快」からだがそこには「伊藤整全集十九」からとある)。

それは所謂小説らしい角度から人生を眺めたり描いたりすることを放棄し、ただ記録者として作者なる自己を置こうとしていることである。その態度で押しとおして行くことは、どういう自信から来ているのかという驚きの念でもあった。(……)

私は現在の日本の小説の一般の書き方に根本的な疑念を持っている。そして私は鷗外がこの種の作品を書いた動機の中に、やっぱりそういう、時の小説一般のあり方に対する疑問があったらしいことを感じて一層興味を持った。つまり鷗外は、人生を小説風にやつすことを極度に嫌ったのであろう。その結果、人生の事実を、小説らしいやつし方から全く洗って、修飾や外衣や説明なしの事件そのまま並べようとしたのである。
私はやっぱり一種の驚嘆を感じた。こう戸籍しらべのような書き方で描かれた人生が、とても小説らしい書き方ではとらえられない深さまで人生を抉り出しているからである。鷗外は勿論自分の考証をたのしみはした。しかしそれ以外には彼は作家としての我侭を何一つ読者に押しつけなかった。退いて記録者たる地位に止った。そして彼のそに退き方が正しかったことは、彼が退いただけ人生が作品の中にしっかりと歩み入っていることによって明らかである。

柄谷行人の評は、この伊藤整の評に準ずるとしてよいだろう。

鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)





2014年4月24日木曜日

四月廿四日 「易簀」

青空文庫全文検索というものがある。古典作品の文字検索にすこぶる有効に活用できる、――などと書いているが、実はつい先日はじめてそんなものがあることを知った。

このところ寝る前に森鷗外の『伊沢蘭軒』を少しずつ読んでいるのだが、この作品には見慣れない漢字がたくさん出て来る。漢詩、漢文などが多く引用されており、それらの素養のまったくないわたくしのような者には当然ではあるが、鴎外の説明的な地の文にさえ見慣れない漢字に遭遇し、すべてではないがたまには調べてみることをする。

たとえば《此日菅茶山は神辺にあつて易簀したのであつた。》などとある。この「易簀」は調べずにやりすごしたのだが、数行後に《茶山は死に先つて「読旧詩巻」の五古を賦した。》とある。はて、どこに菅茶山が死んだことが書かれてあったか、どこかで読み落したかと、前に戻って眺めてみると、どうやら「易簀」が死んだという意味らしい。

大辞泉をみると、「易簀」:《「礼記」檀弓上の、曽子が死に臨んで、季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を、身分不相応のものとして粗末なものに易()えたという故事から》学徳の高い人の死、または、死に際をいう語。》とある。


以前にもどこかで使われていたかと『渋江抽斎』を見てみても、そんな文字はない。では他の鴎外の著作は? あるいは他の作家はこの「易簀」という語彙を使用しているのか、(もちろんグーグル検索で中国語使用には行き当たるのだが)――というなかで、青空文庫全文検索というツールに遭遇する。

これによれば、青空文庫の全文のなかで鴎外の『伊沢蘭軒』一箇所のみの使用ということになる。


…………

上の話とは関係ないのだが、すこし訳ありで最近多用されるらしい「当事者」という語も検索してみたのだが、これはどうやら由緒正しい言葉で、漱石をはじめ多数の文章に使われている。

(すこし訳ありで、と書いたが、直接的には貴戸理恵さんというまだ若い社会学者の方の「当事者」論やらインタヴュー記事をいくつか読んだせいだ。)

この「当事者」という語はこの青空文庫全文検索を知る前に、Evenoteに保存してある文書のなかを探してみたのだが、精神医学系(土居健郎や木村敏、中井久夫)の文にはしばしば出て来る。ジジェク訳文にも多用されている。岩井克人は「利害関係の当事者」という使い方をする、等々。そのなかで高橋源一郎のインタヴュー記事に行き当たった。これもここでの話と関係ないのだが、すこし面白いので引用しておく。


「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11

――「書けなかった理由」というのは?

高橋 ひとことで言うと、9.11は他人事だったからです。だから、逆にすごく真面目な小説になってしまった。でも3.11は僕もある意味で当事者と言える。だからこそ、「原発なんて関係ないよ」とか「被災地なんて知らん」とも堂々と言えるんです。「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。そういう発言をすれば、当然、問題になるでしょう。何を言っても問題が発生するというのは、非常にいいことです。言論とはそういうことなんです。

――ご自身の"事件との距離感"というものが左右した、と。

高橋 3.11から最初の数日間のこと、覚えてます? 結構、明るかった。ニューヨーク・タイムズに東浩紀や村上龍とともに寄稿したんですが、論調はほぼ同じでした。「すさまじい被害にあったけど、国民はパニックに陥っていない。日本には閉塞感があったけど、これを機会に変われるかもしれない」。でも、そんな空気もいつの間にかもとに戻ってしまい、前よりひどくなってしまう。

――どういった部分で、前よりもひどくなったと感じますか?

高橋 暗くなってると思います。僕はTwitterをやっています。3.11の前のTwitterはまったりしていて、つまんないことを言える空間だったんです。でも、3.11以降、Twitterが「戦場」になってしまった。他人を攻撃するような言論が多くなり、みんながそういう相手を求めるようになった。

――「まったりする」余裕がなくなったことによって、他者を攻撃するようになってしまった。

高橋 もともとそんなに余裕はなかったんだけど、なんとなくあるような気がしてたんですね。「お金ないし景気悪いし、嫌だよね」と言いながらも、カタストロフィーは起こっていなかった。

《「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。》という言葉が、ふむなるほど、と考えさせられる。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書





2014年4月23日水曜日

四月廿三日 Bêtise(愚かさ)をめぐって

「愚劣さ」は誤りとは関係ありません。つねに勝者(打ち負かすことが不可能)ですが、その勝利は謎の力に属します。それは、まさに、むき出しの、輝くばかりの現に存在することそれ自体です。そこから恐怖と魅惑、死体の魅惑が生じます(何の死体でしょうか。おそらく真実の死体です。死んだものとしての真実です)。「愚劣さ」は悩みません(プーヴァールとペキッシュです。もっと賢かったら、もっと悩むでしょう)。だから、「愚劣さ」は「死」のごとく鈍重に、現に存在するのです。呪文も形式的な操作でしかありません。それは「愚劣さ」を一括して外側から捉えます。《愚劣さは私の苦手だ》(テスト氏)。この言葉は最初のサイクルではこれで十分です。しかし、話は間隔を置いて無限にくり返されます。それはまた愚劣になるのです。(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

――など、「「人はどこかよそに行きたくなる」、あるいは蜩の声」にて引用したのだが、ここでの「愚劣さ」の原語はなんだろうか、気になるが調べていない、と書いたところーーすなわち学生時代以来ご無沙汰の仏語はできるだけ遠慮したいーー、さっそくさる方から次のような情報を頂いた。多謝。

・沢崎訳とバルトの原文との対応ですが、括弧附きの「愚劣さ」は定冠詞附き大文字の"la Bêtise"(La Bêtise n'est pas liée à l'erreur.)で、括弧なしのそれは冠詞なし小文字の"bêtise"(...il y a bêtise.)であるようです。

・なお、沢崎訳で二度出現する「愚劣になる」の用法は、日本語訳では形容詞述語として「愚劣」という体言にならざるを得ませんが、バルトの原文では形容詞の"bête"(...ça redevient bête. / ...ces systèmes deviennent bêtes.)です。

・例外として、沢崎訳で《反「愚劣さ」》とあるものは定冠詞なし大文字の"contre-Bêtise"、ヴァレリーによる原文は参照していませんが、『テスト氏』の引用部分は定冠詞附き小文字の"La bêtise"(« La bêtise n'est pas mon fort »)でした。

――というわけで、「愚劣さ」は“Bêtise”ということらしい。別にウェブを検索してみると、ヴァレリーの『テスト氏』の冒頭の原文と訳文を並べられている方がいる(「現代化と文学」 SeibunSatuw Oct, 5. 2009)。誰の訳かはわからないが、Satuw氏自身のものかもしれない。ここではそこにある訳ではなく、手元の恒川邦夫訳(ポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』――新訳の試みと訳注――)、を抜き出して原文と並べる。

愚か事はわたしのよくするところではない。沢山の人たちを見てきた。いくつかの国も訪れた。熱心ではなかったが色々な事業にも首をつっこんだ。ほとんど毎日食事もしたし、女にも手を出した。今ふり返ってみれば、数百の顔、二つ三つのすばらしい光景、そして恐らくは二十冊ばかりの本の中身が脳裡にうかぶ。ただわたしとしては格別上等なもの、あるいは下等なものを記憶にとどめたつもりはない。残ることができたものが残っただけだ。
 
 La bêtise n’est pas mon fort. J’ai vu beaucoup d’individus, j’ai visité quelques nations, j’ai pris ma part d’entreprises diverses sans les aimer, j’ai mangé presque tous les jours, j’ai touché à des femmes. Je revois maintenant quelques centaines de visages, deux ou trois grands spectacles, et peut-être la substance de vingt livres. Je n’ai pas retenu le meilleur ni le pire de ces choses : est resté ce qui l’a pu.

La bêtise nest pas mon fort.》――《愚か事はわたしのよくするところではない》には、恒川氏の註がながながと付いている。

有名な書き出しの一文La bêtise n’est pas mon fort.の訳。文型はごく簡単であるが、全体のトーンを決定するような一文であり、bêtiseという言葉の使い方が極めて特殊であるため、原文の簡潔さをあまり損なわないように翻訳するのは至難の技である。まずはっきりしているところからおさえておくなら、mon fortは「わたしの強いところ、得意とするところ、よくするところ」の意である。とすれば要はbêtiseの意味するところである。まずbêtiseという言葉が現代フランス語として持っている(響かせている)普通の意味は「愚かさ(愚鈍、軽率)、愚かな(軽率な)言動、とるにたらないこと(つまらないこと)といったものであることを頭に置いておくとして、テキスト読解の基本である作品にもどって考えてみれば、ここでbêtiseと言われていることの具体的な内容はこの最初の一文に続く「沢山の人々をみてきた……」以下「残ることができたものが残っただけだ」までに至るパラグラフに示されているのではないか。すなわち「わたし」にとってbêtiseとは「人と会ったり、旅行をしたり、事業に手を出したり、食事をしたり、女を抱いたりする」ことなのであり、もう少し広げれば「本を読む」ことも入りそうである。そうしてみれば、bêtiseとはbête(動物、〔人間の〕獣性)がなせる業のこととも考えられる。すなわち、動物としての人間のするすべてがbêtiseなのである。それならbêtiseに対する概念はなにかといえばintelligenceであって(……)、このあたりの事情を思いきって簡単に言い切ってしまえば「わたしは精神/知性の人間であって、こと動物的な人間の営みについては平々凡々としていて、また自分からことさらの関心も抱かない」といったところだろう。(……)

さて以上のように考えて旧訳を吟味してみると言わば小林秀雄の定訳と考えられているAでは「僕には、自分の愚かさは、うまく扱えない」となっていて、「自分の愚かさ」といったところが少し的が外れているように思われる。もっと古い訳ではbêtiseが「馬鹿な真似をする」となっていてこれもおかしい。馬鹿な真似は馬鹿な真似でも、個人の愚かさとしてではなく、「人間が生きるためにするさまざまな馬鹿々々しい真似」でなくてはならない。さらに翻訳Bでは「愚かしさは私には、自分ながら扱いかねる部分なのだ」となっている。「自分の愚かしさ」が「愚かしさ」となっているが、文章全体の印象からすると、「愚かしさ」というからにはやはりかく言う自分だけに関わっているようで、Aと同工異曲ではないか。

結局、拙訳ではbêtiseを「愚か事」と訳し、文章の流れで、愚か事とは以下に述べることだとわかるように配慮したつもりだが、果たして成功したかどうか。

――ここで比較参照されている翻訳Aとは小林秀雄訳(1977年筑摩書房刊行の増補版ヴァレリー全集2『テスト氏』所収)であり、翻訳Bとは村松剛・菅野昭正・清水徹訳(1960年筑摩書房刊行の世界文学大系56『クローデル ヴァレリー』所収)である。

とメモして今はなにがいいたいわけでもない。ただ恒川邦夫氏の註釈には畏れ入る。以前にも上の冒頭ではなく別の箇所での他訳との比較で、その感想を書いたことがあるが(陶酔と脆弱な精神(ヴァレリー「テスト氏との一夜」))、テクストとはこのように読むものなのだ、あるいは訳文にはこのように接するものなのだ、ということを気づかせ、ほとんどいつも散漫な読者でしかないわたくしにさえも襟を正させる迫力がある。


…………

上に書かれたこととはあまり関係がないかもしれないが、”bêtise”の訳について、以前次のような文を拾ったことがあるので附記(ジャック・レヴィ「譲歩しえぬ「もの」」)。http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/4570/1/20012-355-006.pdf
……そして、まさに、現実界と呼ばれる域を直視するという姿勢を前提に置くことが、この『精神分析の倫理』の冒頭にある「我々のプログラム」の主張です。法や道徳の問題は象徴界の領域に属するものだと思われるでしょうけれども、そこでの射程、狙いは現実です、とラカンはあらかじめ述べるのです。フロイトにとっての現実とは何かと問い続けながら、快感原則対現実原則における「現実」という概念に批判の焦点をあて、多様に問題化して行くのですが、また同時に、こうした倫理を真っ向から扱おうとするラカンの姿勢は、1960 年のフランスにおける知的環境を考えた場合、極めて政治的でもあります。つまり、現実 réel を射程に置くことの政治性です。具体的には、セミネールの後半の「隣人愛」と題された章で、進歩主義知識人の bêtise(英語の fool に該当するフランス語として、「愚かさ」 )と右派知識人の canaillerie(英語の knave を訳したフランス語として、日本語訳は「悪党」となっています)といった表現で、政治的言説における「現実」との関係を示唆するまでに至っています。

以下のジジェクの文の悪党/道化は、もともとは「悪党 canaillerie」と「道化bêtise」ということらしい。

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』より





「いまヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか」

たとえばツイッター上には、《左派系の反差別の多くは、名詞形の民族概念による《線引き》を前提にしたうえで、「日本人」とレッテルを貼られる存在を攻撃する。――差別そのものに抵抗しているわけではなく、むしろ大っぴらに差別がやりたい、露骨に差別的な人たち。》などというたぐいのことをしきりに言い募る「ほどよく聡明な」人物がいる(このツイートとともに「しばき隊」の日本人殺害画像が貼ってある。つまりこれが左派系の反差別の象徴ということを言いたいのだろう)。

たしかに反差別運動者のなかには、どうしようもない「差別者」もいるだろうことは認めざるをえないのだろう、それが《左派系の反差別者の多く》であるのかどうかはわたくしには瞭然としないが。だが、ここでは、で、それでどうした? と反問したい。ヘイトスピーチ反対運動をする連中のある割合が「差別者」であったら、では、いまの反対運動をやめるべきなのか、と。

いや、そうではない、でもほかの回路があるとか、分析しなくてはいけないとか、技法の問題とか、を冒頭のような人物は、「回路」、「分析」、「技法」などの<名詞>を駆使して、なんらかの反論をするのだろう。これらの語彙は、その当人にとっては、「名詞」的なレッテル貼りを動詞化して「社会を改善」しようとする語彙らしいが。《擁護対象を名詞形の概念操作(「当事者」)に落とし込むスタンスは、いつの間にか差別的なマッチョ主義に陥ります》などとオッシャテもおられる。

それは「理論的」には正しいのだろう。わたくしも「分析的」であることを気取ってみたい折には、その種のことを書いてしまう。だが、ここで一歩譲って問い直すなら、マッチョ主義となにもしないこととどっちをとりたいのだろう、われわれがすぐさま行動しなければならないときに、分析している暇がないときに。

@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」(佐々木中ツイート)

こう書いたからといって発話者が運動に参加することを強いるものではない。わたくしもこうやって参加せずに海外から指先を動かしているのみだ。だが、なにもしないことの言い訳になる言説をもっともらしく言い募るのだけはやめておくがいい(参照:「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」、あるいは「剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」)。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

真に差別に反対したい心持をもっているなら、すぐさまやらなければならないはずの反「ヘイトスピーチ」運動の新しい「技法」なるものを提示すべきなのであり、それがないなら黙っておれ、とわたくしは彼曰くの「差別者」として、冒頭のような戯言に反吐を吐きかけたい。あのような発言は、日本のサイレントマジョリティの見て見ぬふりをする習慣を助長するだけのものだ、とわたくしは思う。すくなくとも反ヘイトスピーチ運動に関しては、冒頭のような発言は許しがたい、と「独断的に」振舞うことにする。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)
私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴 力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなけ ればなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。お そらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているので はないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳)

《わたしは仔細ぶった疑いぶかい猫どもの静かさよりは、むしろ喧騒と雷鳴と荒天の呪いを好む。そして人間たちのあいだでも、わたしは最も憎むのは、忍び足で歩く者たち、中途半端な者たち、そして疑いぶかい、ためらいがちな浮動する雲に似た者たちすべてである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

加藤周一はかつて《戦争に反対しないで、あなたは他に何をするのか》と語った。

だが私〔加藤〕は、戦争をなくすことができなくても、とめることができなくてもやっぱり反対する。なぜかというと、それをしないで、私は他に何をすることがあろうか、と考えてしまうのが私だからだ。他に私に何ができるのか、ということ。戦争に反対しないで、あなたは他に何をするのか?(戦争への向かい方:加藤周一から学ぶ

いま、「嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」などという現象さえ起こっている。

いま、ヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか、と言おう。

《闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。》(浅田彰)ーーこのサイレントマジョリティに加担するようにさえ見える発言を繰り返して、あなたは一体なにをしているのか、とも言おう。

…………

以下は、参考文献であるが、われわれは無意識的な差別者であり勝ちなのは、ほとんど免れがたい。それは「理論的」にはそうなのであり、それを指摘する言説を理論的に批判するものではない。いまは「実践的」に批判している(「私は何を知りうるか」、「私は何をなすべきか」、「私には何を欲しうるか」という問いが、カントの三批判のそれぞれ、真か偽かという認識的な関心(理性批判)、善か悪かという道徳的な関心(実践批判)、快か不快かという趣味判断(判断力批判)に相当する)。

ジジェク)……もちろん、一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ちのような事件そのものは、昔から何度も繰り返されてきた野蛮な暴力行為にすぎない。しかし、問題はそれが一般大衆にどう受けとめられるかです。カントは、フランス革命の世界史的意味は、パリの路上での血なまぐさい暴力行為にではなく、それが全ヨーロッパの啓蒙された公衆の内に引き起こした自由の熱狂にあるのだと言っている。それと同じように、今回も、それ自体としてはおぞましいネオ・ナチの暴力行為が、ドイツのサイレント・マジョリティの承認とは言わぬまでも暗黙の「理解」を得たことが問題なのです。実際、社会民主党の幹部の中でさえ、こうした事件を口実にドイツのリベラルな難民受け入れ政策の再検討を提唱する人たちが出てきている。こういう時代の空気の変化の中にこそ、「外国人」を国民的アイデンティティへの脅威とみなすイデオロギーがヘゲモニーをとる危険を見て取るべきだと思うのです。

厄介なのは、こうして広がりはじめた新しいレイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取り得るということです。この点で有効なのがエチエンヌ・バリバールの「メタ・レイシズム」(メタ人種差別)という概念だと思うのですが、どうでしょうか。(「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収)

この後引き続くメタ・レイシズム概念の解説は、「メタ・レイシズム(浅田彰、ジジェク)」という表題のもとに引用されているので、ここではそれを端折って、ロストク事件でメタ・レイシストとはどのように反応するのかを述べたところだけを抜き出せば次の通り。

メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。

…………

われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っているだろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする局面を、一定の時がくれば常態に復するはすの一時的な錯誤、やがては快癒して秩序へと帰従する束の間の混乱とみなして視界の外へ追いやってしまうという欠点である。こうした姿勢は、先天的であれ一時的であれ病気に冒されたものを、人間の範疇から除外して健康者のみを人間とみなそうとする差別者の視点にほかなるまいが、この無意識の差別を弄ぶ人たちの思考は、当然のことながら抽象的たらざるをえまい。(蓮實重彦 「パスカルにさからって」『反=日本語論』)



2014年4月22日火曜日

「人はどこかよそに行きたくなる」、あるいは蜩の声

「愚劣さ」は誤りとは関係ありません。つねに勝者(打ち負かすことが不可能)ですが、その勝利は謎の力に属します。それは、まさに、むき出しの、輝くばかりの現に存在することそれ自体です。そこから恐怖と魅惑、死体の魅惑が生じます(何の死体でしょうか。おそらく真実の死体です。死んだものとしての真実です)。「愚劣さ」は悩みません(プーヴァールとペキッシュです。もっと賢かったら、もっと悩むでしょう)。だから、「愚劣さ」は「死」のごとく鈍重に、現に存在するのです。呪文も形式的な操作でしかありません。それは「愚劣さ」を一括して外側から捉えます。《愚劣さは私の苦手だ》(テスト氏)。この言葉は最初のサイクルではこれで十分です。しかし、話は間隔を置いて無限にくり返されます。それはまた愚劣になるのです。(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

この「愚劣さ」は原語はなになのか、やや気になるところだが、いまは原文に当たることをしていない。ところで、《愚劣さとは真実の死体》とされているので、次の文を並べておこう。

ステレオタイプとは、魔力も熱狂もなく繰りかえされる単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰りかえされる単語は、その度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣することが、もはや模倣と感じられなくなることが在り得るかのように。図々しい単語だ。擬着性を求めていて、自分の固着性をしらない。

ニーチェは、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(ロラン・バルト『テクストの快楽』 沢崎浩平訳)

冒頭の「イメージ」は1977年の講演であり、最晩年のロラン・バルトの語りのひとつとしてよい。またドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』の出版のあとの発言なのだが、マルクス主義、精神分析を完全に拒否する人は、愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っているとしている。とはいえ、肝要なのは《人はどこかよそに行きたくなります》である。

言語活動に関してこの《サイクル》(エンジンのサイクルというような意味での)の機構は重要です。強力な体系(「マルクス主義」、「精神分析」)を見てみましょう。最初のサイクルでは、それらは反「愚劣さ」の(効果的な)働きをします。それらを経ることは愚劣さを脱することです。どちらかを完全に拒否する人(マルクス主義、精神分析に対して、気まぐれに、盲目的に、かたくなに、否(ノン)という人)は、自分自身のうちにあるこの拒否の片すみに、一種の愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っています。しかし、第二サイクルでは、これらの体系が愚劣になります。凝固するや否や、愚劣が生ずるのです。そこが裏側に回ることができない所です。人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです。

ここにも「凝固」という語彙が出てきていることから分かるように、ニーチェの、《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、という言葉の反映がある。

また《人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです》という文にかんしては、これもおなじく『彼自身によるロラン・バルト』から、二つばかり挙げておこう。

「真実は固形性の中にある」とポーが言った(『ユリーカ』)。それゆえ、固形性に耐えられない人は、真実にもとずく倫理に対して自分を閉じてしまう。彼は、語や命題や観念が《固まり》はじめ、固形状態へ、《ステレオタイプ》の状態へ移行するやいなや、それらを手離してしまう(《ステレオス》とは《堅い》という意味である)。
反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひとつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。

――というわけだが、70年代以降のロラン・バルトの言葉は、『彼自身によるロラン・バルト』の註釈のように読めることが多い。いま例をあげたのは僅かだが、気づいた範囲でそのうちまたメモする習慣をもつことにしよう。

原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。(森鷗外『伊沢蘭軒』)

わたくしは鴎外の晩年の歴史物の中では、『渋江抽斎』はしばしば読み返すのだが、『伊沢蘭軒』はどうもいけなかった。漢詩や漢文が多すぎる。いくら当時でもあれが新聞に連載されれば不評を買ったことは已む得ない。ほとんど引用ばかりの回が続くなどということもある。とくに蘭軒の長崎への旅日記を引用する第二十九から第五十までは、一二割程度しか鴎外の言葉は差し挟まれず、殆ど引用である。

伊沢蘭軒は、安永6年11月11日生れ(1777年12月10日) - 文政12年3月17日没(1829年4月20日))であり、いまから二百年ほど前の人物で、古井由吉が《あきるようであきず、いまにも投げ出しそうで投げ出さず》とする古い時代の書物、《人が死んでただちに生まれかわっても五十代近くも隔たる大昔の声》どころか、せいぜい五代昔の人物に過ぎないのだが、その《古い時代の物の考え方と言い方が基本のところでよくもわかっていないよう》なのだ。蘭軒とその仲間たちは、漢字フェティシズムなんじゃないか、と呟きつつ読むことになるのだが、我慢して読み進めるうちに、いささか《不思議に読めているような境に入った》。

あるいはこんな文を眺めていると、むしろ「現代的」な感覚を与えてくれるという錯覚に陥るなどということにもなる。

伊沢徳さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡下の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」

どこかで読んだ(眺めた)印象と似ているな、などと。

「黙視」「陰視」「黙惑」「黙瞥」「黙殺」「黙笑」「黙怯」「黙訝」「黙認」「黙嘲」「黙憫」「黙索」「黙諾」「黙嘆」「黙惜」「黙難」「密囁」「密索」「黙戒」「悟惚」「黙悦」「隠嗤」「憤黙」「黙呆」「黙嫉」「沈躁」「黙脱」「黙錯」「黙忖」「黙敬」「微解」「黙謀」「爆黙」「擬黙」「黙索」「偽忌」「耽黙」「謬殺」「黙悩」「封舌」「駄黙」「躍黙」「黙狽」「黙滅」「浄黙」「専黙」「斜黙」「黙謝」「慈黙」「甘黙」「案黙」「黙揺」「静観」「歪黙」「黙愁」「黙訥」「熱黙」「黙染」「黙絶」「是黙」「濃黙」「黙祷」「黙賞」「純黙」「黙発」「畏黙」「黙慄」「黙測」「冷黙」「淫黙」「断推」「黙抜」「黙憬」「盲黙」「凝黙」「否視」「黙略」「黙質」「瀰黙」。演習問題:それぞれの具体的表情と視線の振幅を推測的描写せよ)。(三浦俊彦『偏態パズル』

さて、ここで古井由吉の「蜩の声」をすこし長く引用する。五十代近くも隔たる大昔の声に、呼吸に、つまり「魂」に、拍子を取り合おうとする文である。

夜の執筆、夜間の労働は真夏と言わず、あとの眠りに障るので、とうの昔からやめている。かわりに本を読む。読んでどうこうしようという了見もない。しかも年を取るにつれて現在の自分から懸け離れたものを読むようになった。古い時代の物の考え方と言い方が基本のところでよくもわかっていないようで、いずれたどたどしい読み方になる。あきるようであきず、いまにも投げ出しそうで投げ出さず、それでかえって長続きする。一日の疲れから半分ほどしか働かぬ頭で文をなぞっていると、睡気を寄せては払いながらもうすこしもうすこしと先へ続ける夜なべの心に近い。しかしこんなとろとろとした読書でも夜なべはやはり夜なべ、肉体労働のうちなのか、いきなり額から首から胸にまで汗が噴き出して、喘いでいることがある。

机の前からおもむろに立ち上がり、洗面所で汗を拭い、顔を洗って眼も冷やす。テラスに出てそよりともせぬ幕に向かって腰をおろし、風も通らぬところで、甲斐もなく、息を入れる。そして机の前にまた仔細らしくもどれば、身体はよけいに火照る。まるで音にならぬ狂躁が熱気とともにあたりに凝って、耳の奥が聾され、頭の内も硬く詰ったあまりにからんと、空洞になったかに感じられる。これでは本を仕舞って酒でも呑むよりほかにないところだがあいにく、汗の噴き出るのは、文章にも坂の上りと下りがあり、そのやや急な上りにかかる時と決まっている。ここは仮にも当面の上り下りを済ましておかないことには、床に就いて寝入り際に、半端になった始末がふっと頭に浮かんで、眠りをさまたげかねない。ところがそこをようやく上って下って見るとその先に、自明の続きのように、つぎの上りが待ち受けている。

ついても行けない眼を先へ先へと上っ滑りにひきずられているうちに、ある夜、不思議に読めているような境に入った。頭の内はひきつづき痼るっているので、とても理解とは思えない。まして認識からはるかに遠いが、なにがなし得心の感じが伴ってくる。しかもその得心は、心の内のことのようでもない。心は心にしても蒸し暑さに堪えかねて内から抜け出し、おなじく痼った眼を通して頁から浮き出した文章と宙で出会って、互いに言葉は通じぬままに、うなずきあい、拍子を取りあっている。なまじ天気も頭の調子もよろしくて理解しに掛かる時には、読み取ったところから手答えがなくなる。意味は近代の「文法」になぞられて摑んだつもりでも、音に声に、そして呼吸に、つまり「魂」に逃げられるらしい。音痴なんだ、と我身のことを顧る。人が死んでただちに生まれかわっても五十代近くも隔たる大昔の声のことにしても、近代の人間はおしなべて、耳の聡かったはずの古代の人間にくらべれば、論理的になったその分、耳が悪くなっているのではないか、すぐれた音楽を産み出したのも、じつは耳の塞がれかけた苦しみからではなかったか、とそんなことを思ったものだが、この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。(古井由吉『蜩の声』)








2014年4月21日月曜日

意図的な誤読の「楽しみ」

レヴィ=ストロースの『野生の思考』の冒頭近くに次の文がある。

北アメリカ北西部のチヌーク語は、人や物の特質や属性を示すために抽象語を多用する。(……)「悪い男が哀れな子供を殺した」がチヌーク語では「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。また、女の使っている籠が小さすぎることを述べるのに「女は、はまぐり籠の小ささの中にエゾツルキンバイの根を入れる」という。

ところで小林秀雄には、《美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない》という文がある。これについて柄谷行人は次のように語っている。

柄谷行人) 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。(共同討議「芸術の理念と<日本>」 浅田彰、磯崎新、岡崎乾二郎、柄谷行人 『批評空間』 No.10 1993年 )

この発話は、この小林秀雄の文だけ取り出せば、いかにも「正しい」批判であるように見える。だがその前後を読んでみると、いささか小林秀雄の言わんとすることは異なっているように思える。

中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間 の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。僕は、かういふ形が、社会の進歩を黙殺し得 た所以を突然合点した様に思つた。要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの 慎重に工夫された仮面の内側に這入り込むことは出来なかつたのだ。世阿弥の「花」は秘められてゐる、確かに。  現代人は、どういふ了簡でゐるから、近頃能楽の鑑賞といふ様なものが流行るのか、それはどうやら解かうと しても労して益のない難問題らしく思はれた。たゞ、罰が当つてゐるのは確からしい、お互に相手の顔をジロジ ロ観察し合つた罰が。誰も気が付きたがらぬだけだ。室町時代といふ、現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑はなかつたあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心してゐる。

それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆どそれを信じてゐるから。そして又、僕は、無要な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何んの疑はしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」があ る、「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方 が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言つてゐるのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやく ざなものは、お面で隠して了ふがよい、彼が、もし今日生きてゐたなら、さう言ひたいかも知れぬ。

僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。あゝ、去年(こぞ)の雪何処に在りや、いや、いや、そんな ところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。(小林秀雄「当麻」)

小林秀雄が、《美しい「花」》というとき、それは世阿弥のお面としての「花」なのであり、《「花」の美しさ》というとき、そのお面の後ろに秘められた「花」の美しさというふうに読める。そして仮面としての「表層」に現れた美の向こうを探ろうとばかりして、「表層」の動きに瞳を向けること少ない「現代の美学者」のあり方を批判している。すなわち、お面の後ろなどに「花」の美しさなどというものはない、「表層」としての「形象」の動きを見よ、と言い放っているのだ。それは上に抜き出した文のすぐ前にある次の文によっていっそう証される。

仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。ルッソオはあの「懺悔録」で、懺悔など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者も気が付かなかった女々しい毒念が、次第に方図もなく拡がったのではあるまいか。僕は間狂言の間、茫然と悪夢を追う様であった。

この文はむしろ、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で書いた近代文明におけるパラダイムの変換――「風景の発見」――をめぐる文章との近縁性を示唆する。

伊藤整には、市川団十郎がその当時大根役者と言われたことを伝える文があるが、ーーおそらく九代目の市川団十郎であろうーー、その伊藤整の「日本文壇史」の文、《大根役者と言われたのは、その演技が当たらしかつたからである。彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した》ーーを引用しつつ、柄谷行人は次のように書いている。

団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠であったのである。歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちに新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば「素顔」だといえる。

しかし、それまでの人々は、化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、「概念」としての顔にセンシュアルなものを感じていたのである。それは、「概念」としての風景に充足していたのと同じである。したがって、「風景の発見」は素顔としての風景の発見であり、風景についてのべたことはそのまま演劇についてあてはまる。

レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである》(「構造人類学」)。顔は、もともと形象として、いわば「漢字」のようなものとしてあった。顔としての顔は「風景としての風景」(ファン・デン・ベルク)と同様に、ある転倒のなかではじめて見えるようになるのだ。

風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめる。
(……)

伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が何かを意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその何かなのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。

それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものと探らなければならなくなる。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』所収)

この柄谷行人の文を読めば、小林秀雄の《仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい》という文を受けて書かれる、《美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない》とは、仮面のみがある、素顔の向こうの内面などというものはない、というふうに読むことができるのではないか。それは近代文明の内面という病いを指摘しているのだ。おそらく柄谷行人は、敢えて忘れたふりをして、《「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない()。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない》と発言している(そして、この発話自体の「面白さ」を否定するつもりはない)。それは当時の小林秀雄批判の「風潮」にいっそう加担するようにして、とまで言うつもりはないが。

ここではむしろ柄谷行人のかつての小林秀雄賛を並べておくに如くはない。


彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)

もちろん小林秀雄の言説は、高橋悠治や蓮實重彦、あるいは岡崎乾二郎などが批判したように、当時のモダンのパラダイムの「意味としての病い」に汚染されている言葉が散見される。だが小林秀雄の世阿弥をめぐる文章は、いわゆる「ポストモダン」の思考、「表面」やら「表層」やらへの回帰への扉を開こうとしている、として読み得る。

ここで、《表面的、いいかえれば表面であるというこの単純な事実がなぜ、同時に貶められた意味を、少なくとも暗黙のうちに、つねにになわされてこなければならなかったのか》という、宮川淳の『紙片と眼差とのあいだに』を引用することもできる、《背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後にまで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない、アリスの冒険について、ジル・ドゥルーズがいみじくも指摘しているように、表面の背後はその裏がわ、つまりまたしても表面なのだ》。

あるいは蓮實重彦の『表層批評宣言』から次のような文を。

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいまこの瞬間ここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いまこの瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(「言葉の夢と「批評」」ーー黒字強調箇所は原文では傍点)

あるいはさらにラカン派の「仮装」やsemblant(見せかけ)概念をめぐる言説さえ想起させる。

A man stupidly believes that, beyond his symbolic title, there is deep in himself some substantial content, some hidden treasure which makes him worthy of love, whereas a woman knows that there is nothing beneath the mask( ZIZEK” Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation “

「素顔」さえ「無」を覆う。覆うことによって、なにかが隠されているような幻想の効果を生む。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

これは柄谷行人が、《それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものと探らなければならなくなる》と言っていることに、限りなく近似する。

われわれは、《お互に相手の表情なぞ読み合っては得々としている。滑稽な果敢無い話である。幾時ごろから、僕等は、そんな面倒な情無い状態に堕落したのだろう》(小林秀雄ーー「仔猫の屍骸」より)



…………

最後に附記しておくが、《「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう》といささか不用意に、あるいは挑発的に発話された柄谷行人のここでの「概念」と、《風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとして見えるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめる》(『日本近代文学の起源』)における意味されるものとしての「概念」、いわゆるシニフィエ、あるいは思考のイマージュとしての「概念」とは、別のことを「意味している」ようにも見えるが、ここではそれは追求はしていない。

「概念」をめぐっては、たとえば、柄谷行人が『探求 Ⅱ』で書く、《スピノザにおいて大切なのは、表象と観念の区別、あるいは概念と観念の区別である》とされるときの、表象=概念、あるいは『トランスクリティーク』での、《カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である》ときの、概念=一般性をめぐっての柄谷行人の文章があるが、ここでの議論はそれにももちろん触れえていない。

2014年4月20日日曜日

偽の現場主義が支える物語的な真実の限界

@fujitatakanori: みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ。それなら欧州の国々はとっくに破綻している。

@fujitatakanori: 財源が足りないという理由だけで、国民の生存権や社会権を剥奪していいなら、法秩序は崩壊する。

《ほっとプラス代表理事。反貧困ネットワーク埼玉。ブラック企業対策プロジェクト共同代表、生活保護問題対策全国会議、福祉系大学非常勤講師。著書『ひとりも殺させない』。》

――という方の発言なのだが、ツイッター上のことである程度やむえないこととは言え、いわゆる「左翼」的スローガンにしか聞えないでもない。

まず欧州と日本を比べるなら、国民負担率を比較するべきだろう。国民負担率が低い今の日本なら、まずは消費税増の問題になってくる(参照:「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人))。

また、《財源が足りないという理由》で、国民の生存権や社会権が剥奪されている「後進国」は世界中のいたるところにある。

結局、このような、現場で苦労されて、その場かぎりでは頗る「正論」である経験主義者の言説にめぐり合うと、いやそれだけではないと呟かざるを得ない。《独断的な経験論に対して合理論的に立ち向か》わざるを得ない。

一般に、カントは、合理論と経験論の「間」にあって、超越論的な批判をした人だとされている。しかし、『視霊者の夢』のような奇妙な自虐的なエッセイを見ると、カントがたんに「間」で考えたなどとはいえない。彼もまた、独断的な合理論に対して経験論で立ち向かい、独断的な経験論に対して合理論的に立ち向かうことをくりかえしている。そのような移動においてカントの「批判」がある。「超越論的な批判」は何か安定した第三の立場ではない。それはトランスヴァーサル(横断的)な、あるいはトランスポジショナルな移動なしにはありえない。そこで、私はカントやマルクスの、トランセンデンタル且つトランスポジショナルな批判を「トランスクリティーク」と呼ぶことにしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

現実の矛盾に直面して、なにがその矛盾を引き起こしているのかを問わないまま、人間主義的モラリズムのみで彌縫する態度は、数十年来、とくにベルリンの壁が崩壊以降、いっそう支配的なイデオロギーとなっている。あるいは、高福祉でできるだけ増税しないという「理想的な」考え方は、可能であるならば誰でも取ってみたいものだ。中福祉・中負担は幻想」(武藤敏郎)などという見解は見て見ぬふりをしてみたいものだ。

衆知を集めてことにあたれば、誤った断定をする気遣いのない時代に生きていると確信し、あるとき、根拠の根拠ともいうべきものが理性の統禦を離脱し、識別の基盤を揺るがせはしまいかといった疑念とはいっさい無縁の世界に彼は暮らしている。実証主義的な楽天性ともいうべきものが、彼にたえず断定の根拠を提供しているのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P529)

《中長期の課題は、短期の課題が片付くまで棚上げにしておきましょうという話は成り立たない。》(池尾和人「経済再生の鍵は不確実性の解消」2011 fis.nri.co.jp/ja-JP/knowledge/thoughtleader/2011/201111.html )

冒頭のような「生活保護問題対策」者のスローガン的な発言に代表される「心性」ーー《被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、(……)私たちを正義の側に立たせてくれる》(中井久夫)--が、財政赤字をいっそう増大させ、社会保障制度への不安・不信を増幅させているという視点をもつことができないものだろうか。

たとえば、《みんなが社会手当を受けたら、国の財源がなくなるという人々がいる。それはウソ》という発言に対しては、《世界一の少子超高齢化社会で、極めて低い消費税率(あるいは国民負担率)のままでありえるのか》という問いを発してみよう。あるいは、《人口構造も逆ピラミッド状態で、制度をいくらいじったって、年金制度が維持できる訳もない》(田中康夫)、――ここでの年金制度はもっと大きく「社会保障制度」としよう。

これも別の考え方があるだろう、消費税増は必要ないという経済学者たちもいるのだから。あるいは国家という収奪マシンと捨て台詞を吐き出すこともできるのかもしれない。だが他方で、「左翼的」な誠意の、正義の活動が、国家による生活困窮者保護のための(資金的)余裕をいっそう失わせているのではないかという問いがあってもよいのではないか。

未来に不安がある。破滅が予想される。すくなくとも制度は変更される、悪い方に変更される。不確かな未来に備えなければならない。それはたとえば予備的貯蓄を生む。アベノミクス? だが消費はたいして伸びない。税収は伸びない。

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的に その必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005,』

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。

環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命>と ( 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。

つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

十年後、二十年後の視点に立って、「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」――ここでの文脈での「破局」とは、社会保障制度の破綻、あるいは「国民の生存権や社会権の剥奪」の渦巻、奈落の底であり、「これこれをしておいたら」というのは、財源逼迫への対応である。

もちろんこの見解も《三面記事的な偽の現場主義が支える物語的な真実の限界》に応答する《一つの虚構にすぎない》。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)





2014年4月19日土曜日

「ポリティカル・コレクトネスとは、やましい良心の裏返し」

反レイシズム・カウンターの理念」というのをすこし前読んだのだが、冒頭に《金明秀氏がめちゃくちゃなことを言っている》とある。

われわれは当初から、《虐げられているかわいそうな外国人を守ってやる」みたいなこっ恥ずかしいパターナリズム》などなかった、それは明確に否定している、という反論が書かれているのだが、ここではどちらが「正しい」のかを問うつもりはない。もちろん「否定」しているのと、実際にそう思っているかどうかは異なるという議論もあるだろうが、それも問うつもりはない。

ただわたくし自身は、旧世代の人間であるせいなのかどうか、反レイシズムや反ハラスメントを応援するとき、どこかにパターナリズムの痕跡が残っているという感慨はときに抱かざるを得ないというだけだ。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

この文の言わんとする内容を、ジジェクは浅田彰との対談でもう少し分かり易く語っている。浅田彰の問いかけ、《PCが……やましい良心の裏返しの表現であることも否定しがたい》――そうではないかという自問めいたものとしても読める言葉も忘れがたい。

浅田彰)アメリカの状況は…有色人種や先住民族、女性、同性愛者、その他、何にせよマイノリティの側に立って、従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが「政治的に正しい」(politically correct――略してPC)という主張が、数年前から知的階層において支配的になってきている。(……)アメリカは粗野なレイシズムやセクシズムが根強く残っており、それとの対抗関係でPCが大きな社会的役割を果たし得ることは事実ですから、私はPCを一方的に批判しようとは思いません。にもかかわらず、PCが白人プチプル男性のやましい良心の裏返しの表現であることも否定しがたいと思うのですが。

ジジェク)PCの問題とは、端的に言って、「白人・男性・異性愛者でありながら曇りのない良心を保持するのはどうすればいいか」ということです。他のどんな立場の人間も、自らの固有性を主張し、固有の享楽を追及することができる。白人・男性・異性愛者の立場だけが空っぽであり、かれらだけが享楽を犠牲にしなければならない。これは神経症的強迫の典型です。問題は、それが過度に厳格であることではなく、十分に厳格ではないということです。見たところ、PC的態度は、レイシズムやセクシズムを連想させるすべてを断念する極端な自己犠牲のように見える。しかしそれは、自己犠牲という尊敬すべき行為そのものを、その行為をあえて引き受ける良心的な主体性そのものを、犠牲にしようとはしない。罪深い内容のすべてを断念することによって、それは白人・男性・異性愛者の立場を普遍的な主体性の形式として確保するのです。これはヘーゲルが禁欲主義批判において言っている通りです。PC主義者は、初期のキリスト教の聖人のように、自分の内なる罪をあくことなく暴き立てようとする。かれらが本当に恐れているのは、その探求がどこかで終わり、問題が解消されてしまうことなのです。言い換えれば、PC的態度は、アラン・ブルームらの言うように六八年以後の極左主義の偽装された現れであるどころか、ブルジョワ自由主義を守るイデオロギーの盾にほかなりません。

ちなみに、精神分析的に言えば、アメリカ人の強迫的なPC妄想に対して、ヨーロッパの古典的知識人のヒステリー的な問いを対置することができるでしょう。「私が曇りのない良心をもって従うことのできる正当な権力はどれか」という問いです。かれらは自分たちのアドヴァイスを聞き入れてくれる「良き主人」を探している。しかし、自分たちの側が勝利するたびに、「これは自分たちが本当に望んでいたものじゃない!」というヒステリー的な反応を示す。社会党が政権をとったときのフランスの左翼知識人の反応はその典型です。

浅田)あなたの精神分析的な診断は、そのアイロニカルな倍音も含めて、最終的には正しいと思います。ただ、重ねて強調したおきたいのは、PCならPCが、レイシズムはセクシズムが潜在的に広がっているアメリカの文脈においては、それなりの社会的役割を果たし得るということです。むしろ、私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993『「歴史の終わり」と世紀末の世界』)

このジジェクの指摘のなかで、アメリカの強迫神経症的な「自己犠牲」、あるいはヨーロッパのヒステリー的な「良き主人」を求める態度が語られている箇所も注目に値する。それが正鵠を射ているかどうかは別にして、PC的態度もそれぞれ国、あるいは地域によって異なるのではないかという問いを念頭に置く「促し」として。日本ではどちらでもないのではないかという問いさえ生まれ得る。

ラカン派文脈では、強迫神経症もヒステリーも父権制社会の「超自我」や「自我理想」にかかわるが、日本ではかつてから超自我が弱い社会であったのではないか、という中井久夫の指摘がある。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」『時のしずく』)

とすれば、ラカン派的には、日本的なPCは「精神病的」な態度ではないかという問いが生まれる。ラカン派では、精神病では〈父の名〉が排除されており、隠喩が作れず、よって神経症症状も形成されない、という説明がなされる。そのとき現れるのは「母性的」なものなのだ。中井久夫の上の文には、引き続き「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」という対比をめぐって語られるが、いまはそれには触れず、再び浅田彰の文を引用しておこう。

さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)


すでに三十年近くまえ、このようなことが語られてしまっている、母性的な「共感の共同体」のソフトな閉塞の可能性と。このヴァリエーションはいくらでもある、たとえば柄谷行人の「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」」。


あるいはかつての植民地統治でさえ、母性的なものが顕れているとさえいえるのだ。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)

《支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである》とされる文は、次の中井久夫の文と響き合う。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)




2014年4月18日金曜日

レッテル貼りとフライド・ポテト化

「レッテル貼り」の問題はけっして「名詞」の問題ではない。「イメージ」の、「形容詞」の問題であるだろう。すなわち「名詞」をCMのコンセプトのように流通させるのが、形容詞化ということだ。

彼にとって、自分自身の《イメージ》はどれもこれも耐えがたく、名づけられることは苦痛である。人間的なかかわりあいを完全なものにするためには、イメージを欠落させることが肝要だと彼は思っている。すなわち、人間同士のあいだで、互いに《形容詞》を廃棄することが大切なのだ。形容詞化されてしまうようなかかわりあいは、イメージの領域に属し、支配と死の領域に属する。(『彼自身によるロラン・バルト』)

インターネット上 の「情報空間」とは、ことさら、《イメージ》の、《形容詞化》の「マケー」(闘争)の場だ。<あなた>はそこでコード化され、他者の言語活動によって威嚇される。その多寡はあれ、誰でも「形容詞化」の餌食にならざるを得ない。形容詞化とは、「凡庸化」とも言い換えられる。

流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

これがフローベールの『紋切型辞典』に端を発する問題系なのであり、クンデラなら次のように言う、《フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。(……)現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。》(「エルサレム講演」『小説の精神』所収ーー「大量の馬鹿が書くようになった時代」)

ここにある「先入見の無思想」による「名詞」の流通が「凡庸化」ということなのであり、それはイメージ、あるいは「形容詞」にかかわる。

次のドゥルーズの言葉もこの変奏であるだろう、《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

蓮實)柄谷さんは、ものを考えたり、ものを書いたりするとき、形容詞というのをどう扱いますか。柄谷さんのなかにはあまりないんですね。形容詞というのを、僕は共同体的なものだと思うわけです。早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう。僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。(『闘争のエチカ』

共同体はいたるところにある。「土人の国日本」(浅田彰)の村社会、「同調圧力」やら「絆」や「寄り添う」、湿った瞳を交わし合い頷き合う、ーーすなわち「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先しているーー「共感の共同体」ではことさら。浅田彰はかつて「アーバン・トライバリズム(部族中心主義、同族意識)」とも呼んでいる。

さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

プロフェッショナルは、《ある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている》。ーー学者村、原子力村、あるいは「クラスタ」などと称されるものをみよ。最近では「理研村」なるものも明らかになった。

もちろん、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)


言語活動の体系の闘争。吸盤の隠喩。今度は、「イメージ」の闘争に話を戻しましょう。(《イメージ》とは、他者が私について抱いていると私が思う事柄です。)私についてのイメージは、どうして私が傷つくほどに《凝固する》のでしょう。また別の隠喩をお目にかけましょう。《フライパンに油がしかれます。平らに、滑らかに、音もなく(わずかに蒸気が上がる)。そこにじゃがいもを一切れ入れてごらんなさい。それは寝たぶりをして機を窺っていた動物たちに餌を投げ与えたようなものです。いっせいに飛びかかり、取り囲み、音を立てて攻撃します。貪欲な饗宴です。じゃがいもの断片は包囲されますーー破壊されるのではなく。硬くなり、こんがり焼き色がつき、飴色になります。それは一つの対象、すなわち、フライド・ポテトになります。》このように、あらゆる対象にしたたかな言語体系は機能します。忙しく立ち回り、包囲し、音を立て、硬くし、金色に色づけます。あらゆる言語活動は沸騰の小=体系(ミクロシステム)、揚げ物料理です。これが言語活動の「マケー」の要点です。(他者の)言語活動は私をイメージに変えます。生のじゃがいもがフライド・ポテトに変えられるように。

どのようにして私がまったくマイナーな言語体系の攻撃を受けてイメージ(フライド・ポテト)になり果てるか、お目にかけましょう。『恋愛のディスクール・断章』のおかげで、ダンディーで《無作法》なパリ・スタイルになってしまうのです。《しゃれたエッセイスト、知的ヤングの人気者、アヴァンギャルドの収集家、ロラン・バルトは思い出を次々に並べてみせる。才気煥発なサロン的会話の語調というわけではないが、しかし、<法悦状態>について視野の狭いペダンティスムを少しばかり披露してくれる。またまた、ニーチェ、フロイト、フローベール等々の名前にお目にかかれるというわけだ。》どうしようもありません。私は「イメージ」を通過しなければなりません。イメージは社会的な兵役のようなものです。私はそれを免れることはできません、不合格にしてもらったり、脱走したりすることもできません。私は、「イメージ」に病んでいる、自分の「イメージ」に病んでいる人間を見ます。(……)

「イメージ」をはぐらかす一つの手段は、おそらく、言葉を、語彙を歪曲することでしょう。(……)私はゆがめることを承知で、他人の言葉を引用します。単語の意味をずらします。このようにして、私がその成立に手を貸した「記号学」についても、私は自分自身の歪曲者です。私は「歪曲者」の陣営に移りました。この「歪曲者」の陣営は美学である、文学である、といってもいいでしょう。……(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収)

「レッテル貼り」、すなわちフライド・ポテトにされるのは、インターネットの情報空間ではことさら避けがたいことだ。たとえばレッテル貼りに反抗すれば、たちまち反「レッテル貼り」の「イメージ」者として流通する。大切なことはロラン・バルトのいうようにあなたの「フライド・ポテト」をはぐらかすことだ。歪曲者になることだ。

だがそれにあきたらないのであれば、「概念の創造」をすることだ。 あるいは、「分割」--《混同されてはならないものを混同せずにおく》ことだ。

これは「概念の創造」や「分割」とはやや異なるが、たとえばこの三十年の日本での、ある種の人たちを疎外し有徴化する流通語をみても、「ネクラ」→「オタク」→「ニート」、「アスベ」などの変遷を経てはじめて、それぞれの「名詞」が陳腐化され、流通圏から逸れていく。いったん流行語となりそして「問題語」となってしまったものは、「はぐらかし」の手法や、新しい語彙の出現によってはじめて消滅する。


柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。

ぼくはそんなものは簡単に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えることなんですよ。(共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間 1996Ⅱ―9)
実際、ドゥルーズの目には、二人の著作(ベルクソン、ニーチェ)にちりばまれているギリシャ的な思考の断片が、「分割」という身振りのうちに、ブラトン的な姿勢を共有していることをほのめかしているのである。ギリシャ的なものにあって、とりわけ二人の哲学者を惹きつけてやまないのは、混同されてはならないものを混同せずにおくという、優れてプラトン的な「分割」の方法なのだ。(蓮實重彦(「ジル・ドゥルーズと「恩寵」」『表象の奈落』所収)

だがそうやってなされた「概念」もすぐさま「イメージ」、CMコンセプトのようなものとして流通してしまうのがインターネットの「情報空間」というものではあるだろう。

さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それは、また文学対言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層のことです。だから、ここでの階級闘争は、言語対文学だというべきかもしれない。言語は、作品を自分の中に閉じ込めようとする。作品はその外に出ようとする。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるとき、コミュニケーションが起こる。つまり、そこで初めてインターテクストの問題が語りうるわけです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

ここで蓮實重彦は文学対言語と語っているが、なにも「文学」でなくてもよい。肝心なのは「イメージを欠いた差異」なのであり、「イマージュなき思考」なのだ。

『プルーストとシーニュ』における、伝統的なロゴス的哲学とシーニュから出発する感受性という対立は、『差異と反復』においても継承されている。しかし、ここで使用されている「思考のイマージュ」という言葉は、もはや『プルーストとシーニュ』におけるような使い方ではない。逆に、かつて「哲学のイマージュ」と呼ばれていたものに相当している。『差異と反復』において「思考のイマージュ」と呼ばれているものはドグマティックなものであり、「差異と反復という、すなわち哲学的な開始という、二つの力を疎外する」ものなのである。ドゥルーズは、ここでは求めるべきシーニュの思考を、新たに「イマージュなき思考」と呼び直している。(上利博規『記号と論理、一九六十年代のドゥルーズ』ネット上 pdf)

ここでの上杉氏の論は、《プルーストは、哲学のイマージュに対立する、思考のイマージュを作り上げる》、とドゥルーズは『プルーストとシーニュ』の「結論 思考のイマージュ」の章で書いている文脈での解説文である。

『プルーストとシーニュ』では、「哲学のイマージュ」は積極的意志、「思考のイマージュ」は無意志的な強制に関わって語られるものでありーーー「見出された時」のライトモチーフは、forcer(強制する)ということばであるーー、プルーストは《あらかじめ考えられた決意》による思考の動きである前者を攻撃し、《思考させる》、つまり無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何か=シーニュによる「思考のイマージュ」を称揚する。

だが『差異と反復』では、「思考のイマージュ」=「哲学のイマージュ」とされ、望まれるべきシーニュの思考が「イマージュなき思考」と命名されるということだ。このあたりは『差異と反復』をまともに読んでいない身なので詳しくは分からないが、『差異と反復』の「イマージュなき思考」とは、『プルーストとシーニュ』における「思考のイマージュ」と近似したものらしい。

真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

上利氏の論には、次のような指摘もある、
『プルーストとシーニュ』と『意味の論理学』とを比較する時、次のような疑問が浮かぶ。前者においてドゥルーズは「アンチロゴス」という言葉に端的に表れているように記号を論理と対立するものと考え、プルーストの『失われた時を求めて』を記号を生産する文学機械とみなし、「アンチロゴス」と呼ばれる文学機械をロゴス的、論理的思考に対立するものとして捉えていた。ところが『意味の論理学』では記号と論理は必ずしも対立的には捉えられていない。それはなぜか。

そして『意味の論理学』に関して注意すべきは次の点である、と。

『プルーストとシーニュ』ではロゴス・論理が有機的な全体性・統一性を進めるものであるのに対し、『意味の論理学』ではもはや論理は全体性・統一性を与えるものとしては見なされておらず、「トポス的」と呼ばれている点である。

おそらくこの「トポス的」がひとつのキーワードなのだろうが、このあたりはドゥルーズの熱心な読者に今はまかせよう。「イメージ」についてもドゥルーズのこの語の扱いは多様であり、「シミュラークルの哲学」、すなわち真に内在的な哲学としての「イメージの哲学」という使い方もされるようだし、あるいは後年に『シネマⅡ』では、《イメージの文明? それは、実際には、あらゆる権力にとって、我々にイメージを隠すことが有益であるような、クリシェの文明に他ならない。イメージを隠すと言っても、イメージ自体を隠すというのでは必ずしもなく、イメージの中の何かを我々に隠すのだが》としつつも、すぐさま次のように言い添えられる、《イメージはたえずクリシェを突き抜け、クリシェから逃れ出ようとしている》と。いずれにせよ、この語も安易に使えば、たちまち「フライド・ポテト化」を恐れなければならない。


さて。蓮實重彦の『闘争のエチカ』での発言、《情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています》に戻れば、イメージを介しての語り、「説話論的磁場」とは次のようなことである。

だが、知っているとはどういうことなのか。ほとんどの場合、知っているとは、みずから説話論的な磁場に身を置き、そこで一つの物語を語ってみせる能力の同義語だと思われている。フローベールとは、十九世紀フランスの小説家で、『感情教育』などの客観的な長篇小説を書いた、というのがそうした物語である。青年時代に神経症の発作に見舞われていらい、世間との交渉を絶ち、ノルマンディーの田舎に閉じこもって、文章の彫琢に没頭した、というのも物語である。また、その他いろいろあるだろう。そんな物語の一つをつぶやくことができるとき、人は、そこで主題になっているものを知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また物語は知によって保証されもするわけだ。なにひとつ物語を語りええないものを前にして、人はそれを知らないという。だから、フローベールが未刊のままの草稿として残した倒錯的な辞典の題名をかかげてみても、知と物語との相互保証を導きだすことにしかならないだろう。ところで、フローベルが十九世紀の半ばに構想を得た辞典は、まさに、こうした知と物語との補完的な関係を断ち切ることにあったのだ。

実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。その物語の中で、最も多くの人に知られているものこそ、フローベールが執筆を企てた辞典の項目たる資格を持つものである。誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。

結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなるだろう。たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』p18-19)


もちろん、これらのフライド・ポテト化は、表象化、あるいは「表象作用」といってもよい。

長篇小説という装置によって、言葉は不断に加速度を帯び、同時に減速し、境界をまたぎ越え、あるときは理由もなく逃亡しながら、予期せぬ連帯を演じたてる。予期せぬ連帯とは、計らずも同じ物語を語ってしまうことから思い切り遠い体験なのである。

そうした言葉の独走を抑圧するものとして人が提起したのが「表象」の概念にほかならない。想像力という名で通称されている思考のイメージに言語的な形式を与えることで言葉の無方向な拡散を鎮静化するというのが「表象」の役割だとするなら、運動の軌跡として生み落とされる作品は、きまって「表象」されたものとして読者に送りとどけられることになるだろう。だが、こうした作品の送付はコミュニケーションにさからう一方的な運動でしかない。「表象作用」とは、それが小説的なものであれ他の表現形式によるものであれ、記号の発信者と受信者との間に既知のイメージが共有され、それにふさわしく言葉が組み合わされるという事実を両者が確認しあうことを前提としており、したがって、記号が文脈の維持に貢献すべく閉ざされた領域の内部に流通したにとどまり、そこに「交通」が実現されたとはいいがたいのである。そのとき人が獲得しうるのは、小説の作者と読者とが同じ共同体に属しているという同属意識の保証にすぎない。 (蓮實重彦『小説から遠く離れて』p296)


「小説の作者と読者が同じ共同体に属しているという同属意識の保証」とは、ドゥルーズのいう「ひとびとは慣習的なものしか伝達しない」積極的意志の領域(『プルーストとシーニュ』)に属するものであり、つまりそれらは《われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している》のであり、そこでは「交通」=コミュニケーションが実現されているとはいいがたいということになる。

さて、ロラン・バルト、蓮實重彦、あるいはドゥルーズのイメージ批判は上に書かれたようなことであるが、そこからどうやって免れるのかは生やさしい話ではない。とくにファストフード的読者が席巻する現在の「情報空間」では。ーー《真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。》(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)

ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本質が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。(……)ぼくたちの自我というものは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、それにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。(クンデラ『不滅』)