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2014年4月4日金曜日

蕾の割れた梅の林

たとえば、《瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉として面を撲つ。俗塵を一洗し得たるの思あり》と、断腸亭日乗大正十年三月三十日にある。荷風四十歳のおりの日記だが、こうやって荷風の日記を繙くのは季節の変わり目のことが多い。ああ梅の季節が過ぎいまは桜の季節なのだな、と日本に住まうひとたちの言葉を目にして荷風の文を読み返すということもある。《四月四日。天気定まらず風烈し。梅花落尽して桜未開かず》。
                                        
荷風の日記には花や樹木の記述がふんだんにある。《五月廿六日。庭に椎の大木あり。蟻多くつきて枝葉勢なし。除虫粉を購来り、幹の洞穴に濺ぎ蟻の巣を除く。病衰の老人日庭に出で、老樹の病を治せむとす》と読めば、庭木の木蓮三株のうちの一株が葉がことごとく落ちてしまってあれはなんのせいなのだろうと思いを馳せることになる。

この時期の荷風は自ら雑草を抜いていたようだ。

四月十九日。風冷なり。庭の雑草を除く。花壇の薔薇花将に開かむとす。
五月三日。半日庭に出でゝ雑草を除く。
六月廿六日。雨の晴れ間に庭の雑草を除く。

いまこの大正十年の日記からのみを無作為に抜き出しても、次の如く如何に荷風が自然の風物を愛でていたかが瞭然とする。

去年栽えたる球根悉く芽を発す。
細雨糸の如し。風暖にして花壇の土は軟に潤ひ、草の芽青きこと染めたる如し。
毎朝鶯語窗外に滑なり。
雨中芝山内を過ぐ。花落ちて樹は烟の如く草は蓐の如し。
四月十五日。崖の草生茂りて午後の樹影夏らしくなりぬ。
新樹書窗を蔽ふ。チユリツプ花開く。
五月九日。日比谷公園の躑躅花を看る。深夜雨ふる。
五月二十日。夕刻雷鳴驟雨。須臾にして歇む。
五月廿五日。曇りて風冷なり。小日向より赤城早稲田のあたりを歩む。山の手の青葉を見れば、さすがに東京も猶去りがたき心地す。
六月六日。正午頃大雨沛然たり。薄暮に至るも歇まず。
清夜月明かにして、階前の香草馥郁たり。
桐花ひらく。
松葉牡丹始めて花さく。
門前の百日紅蟻つきて花開かず。
石蕗花ひらく。
久雨のため菊花香しからず。
暮雨瀟瀟たり。
夜、雨ふりしきりて門巷寂寞。下駄の音犬の声も聞えず。山間の旅亭に在るが如し。


もっともここで坂口安吾の「通俗作家 荷風」から引用しておくべきだろう。

荷風の人物は男は女好きであり女は男好きであり、これは当然の話であるが、然し妖しい思ひや優しい心になつてふと関係を結ぶかと思ふと、忽ち風景に逃避して、心を風景に托し、嗟嘆したり、大悟したり、諦観したり荷風の心の「深度」は常にたゞそれだけだ。

 男と女とのこの宿命のつながり、肉慾と魂の宿命、つながり、葛藤は、かく安直に風景に通じ風景に結び得るものではない。荷風はその風景の安直さ、空虚なセンチメンタリズムにはいさゝかの内容もなくたゞ日本千年の歴史的常識的な惰性的風景観に身をまかせ、人の子たる自らの真実の魂を見究めようとするやうな悲しい願ひはもたないのだ。

 風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた。情緒と道楽と諦観があるのみで、真実人間の苦悩の魂は影もない。たゞ通俗な戯作の筆と踊る好色な人形と尤もらしい風景とが模様を織つてゐるだけである。

だがすこしは容赦してもらおう、そもそも安吾は志賀直哉も夏目漱石も貶しているのだから(「志賀直哉に文学の問題はない」)。

志賀直哉の一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない。彼の小説はひとつの我慾を構成して示したものだが、この我慾には哲学がない。
夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。

…………

荷風を繙くきっかけになったのは直接には暁方ミセイの《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》という詩行だった。糸のように漂いやってくるのは、次の行に、《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》とあるので、過去の記憶だと「誤読」することもできるだろう。

…………

蕾の割れた梅の林、――今からほぼ三十年前から十年ほどのあいだ、京都の西にある梅宮大社の近処に住んでおり、そこには手入れのわるい寂れた梅園があった。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでに、お社の傍らの道を通り抜ける。梅の季節であれば境内にはいって、梅園の入口に一株ある形のよい白梅の蕾が綻びかけたのを愛でる。そもそもそれ以前は梅などに目もくれない不粋な人間だったが、これ以来桜よりも梅を愛す。

もっとも梅の木を観賞するために境内に入ったといったら嘘になる。お社に奉納された酒がほとんどつねに枡酒で飲めその無料の冷酒が目当てだったが、日本酒の芳香と梅の香との記憶がいまでも、《糸のように漂いやってくる》。ああ、アリアドネの糸! 《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》(ニーチェ) 当時なんの迷路に嵌っていたかは敢えて書くことはしない。

京都のふたつの梅の名所の一処とはいうが、北野神社の整備された梅園とは段違いであり、社そのものも慎ましい住宅街のなかにあり、観光客も梅の季節になってさえまばらで、神主一家は、鳥居と楼門のあいだの駐車場の賃貸収入で、生計を立てているとしか思えなかった。

もっとも由緒は正しく檀林皇后、いつの時代の皇后かといえば、延暦5年(786年) - 嘉祥354日(850617日)などとあるその皇后が梅宮大社の砂を産屋に敷きつめて仁明天皇を産んだらしく、子授け・安産の神として、「またげ石」なるものがあり、男女のカップルが訪れ、その石をまたげば子が授かるということになっている。あるいは古来から酒造の神として名高く、すぐそばの桂川にかかった松尾橋を渡って正面にある著名な松尾神社の酒造の神よりも、由緒が正しいと聞いたことがある。松尾神社にはただ酒はなく、お社も味気ない。湧き水を汲んでその効験を尊ぶ習慣はあるが、わたくしはそれを飲んでお腹をこわした。

《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》とはエロスの詩行としても読めるだろう。少女の割れ目から糸が引く、などと書くまでもなく。

もし私がここで
ロンサールの“朱色の割れ目”とか
レミ・ベローの“緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘”
などと引用したら<あなた>はなんというだろうか

――とはナボコフ『ロリータ』のほぼパクリである。

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がってたりら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

――というのは、わが国至高の少女愛詩人吉岡実からの孫引きだ。

またぎ石とすれば吉岡実の詩句を想い起こさずにはいられない。

《一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく》

《大股びらきの洗濯女を抱えた》

《夏草へながながとねて
ブルーの毛の股をつつましく見せる》

《紅顔の少女は大きな西瓜をまたぎ》

《姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根》

…………


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え(同上)

吉岡実のエロティック・グロテクスな詩は次のような起源があるようだ。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』――小林一郎氏「吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈」から)。

…………

北野大社の梅園は整然としすぎていて好みではなかったが、京都で最も美しいお社であるのは、杉本秀太郎の書くとおり(『洛中生息』)。

北野天満宮 杉本秀太郎


京都で最もうつくしいお社は北野神社である。屠蘇の酔いにまぎれていうのではない。けれども私の酔眼には、北野のお社は猶いっそう美しい。

あの長い石だたみの、白い参道がいい。参道のつきるところで石段の上に見上げる門は、お参りにきた人をいかにも迎える様子をしていて、すこしも威圧的でない。

門をぬけると、すぐ左のほうにいって絵馬堂の下に立たずにはいられない。あごをつき出して、高い絵馬を見上げる。話に聞くと、仰ぐような姿勢になって酒杯を傾けると、酔いがたちまち回るそうだ。ふり仰ぐとき、われわれは自然と息を大きく吸いこむから、杯から立ちのぼる酒精が胸の深くに染みとおって、酔いつぶれるのである。なるほど、そうかもしれない。しかし、絵馬堂で天井をふり仰ぐときの私には、冷静に絵の出来具合を判定しようというつもりはまったくなくて、ただ絵馬の奉献の日付けや奉納者の名、また絵師の名が、ぼんやりと目にうつるのを楽しむつもりしかないのだから、天井の絵馬から降ってくる埃のおかげで、ますます楽しくなるだけだ。いま吹きさらしの絵馬は、古くてせいぜい明治も二〇年代のものだが、それでも、もうほとんど剝げて、図柄さえ定かではない。

それがいいのだ、ここでは裁きをつけるのは、くり返される四季の自然力であって、流行の美学ではない。しかし、剝げてしまえば絵馬はおしまいではなくて、のこったわずかな岩絵具と板の木目との偶然から生まれる古色が、北野のお社の、あの苔むす回廊の屋根や本殿の造作の一切と、わけもなく溶け合っている。

銅製や石彫りの幾頭かの牛の目が柔和に光っているのを見ながら、本殿に近づいて高い敷居をまたぎ、一気に鏡のまえに行く。この間合いが、よその神社では、ちょっと味わえないほど爽快である。ここには、逆立ちで歩いても、とんぼ返りをしながら横切っても、いっこう咎めがなさそうなほど、気楽な、くつろいだ広がりがある、しかも決してそういう曲芸をやるわけにはゆかず、歩幅ただしく、さっさと歩かねば恰好がつかないような、なんともいえない品位をそなえた空間の味わいがある。

回廊をひとめぐりして、次は本殿の外まわりを歩く。檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く。格子の窓や軒端の彩色は、あでやかで、しかも渋い。この色がまさに京都の色だ、と正月の礼者にありがちな屠蘇の酔いをいいことにして、私も少し大胆につぶやく。

私は北野のお社を飽かずながめつつ、遠いイタリアの、フィレンツェの町を思い出すことがある。そして、なつかしさに気もそぞろ、文子天神の横から、北のほうへ抜けてゆく。