聰子は清顯に先立つて山道をゆき、目ざとく咲殘りの龍膽を見つけて摘んだ。清顯の目には、すがれた野菊のほかのものは映らなかつた。
平氣で腰をかがめて摘むので、聰子の水いろの着物の裾は、その細身の躰に似合はぬ豊かな腰の稔りを示した。清顯は、自分の透明な孤獨な頭に、水を掻き立てて湧き起る水底の砂のやうな、細濁りがさすのをいやに思つた。
数本の龍膽を摘み終へた聰子は、急激に立上つて、あらぬ方を見ながら従つて來る清顯の前に立ちふさがつた。そこで清顯には、ついぞ敢て見なかつた聴子の形のよい鼻と、美しい大きな目が、近すぎる距離に、幻のやうにおぼろげに浮んだ。
「私がもし急にゐなくなつてしまつたとしたら、清様、どうなさる？」
と聴子は抑へた声で口迅に言つた。
尤も聰子は昔からそんな風に、ことさら人をおどろかす口ぶりをすることがあつた。
意識して芝居がかりにしてゐるのではあるまいが、聽手をはじめから安心させる悪戯気なみぢんも顔にあらわさず、大事中の大事を打ち明けるやうに、大まじめで、悲愁をこめて言ふのである。
馴れてゐる筈なのに、清顕も、ついかう訊かずにはゐられない。
「ゐなくなるつて、どうして？」
無關心を装ひながら不安を孕んだこの反間こそ、聰子が欲しがつてゐたものに他ならない。
「申上げられないわ、そのわけは」
かうして聰子は、清顯の心のコツプの透明な水の中へ一滴の墨汁をしたたらす。防ぐひまはなかつた。（三島由紀夫「春の雪」――『豊饒の海』第一巻 28頁）
――今日の芝居のことで、なにかいえよ。しかしワザワザ滑稽なことをいおうとすれば、見破られるぜ。みんな凄い連中だからね！ といったのであった。やはり酔って大きい口がさらに獰猛そうな、そしてされにいたずらっぽい魅力をあらわす沖さんの隣で、恋人役だった女子高校生が、それが自慢らしい黒い眼をパッチリ不思議そうに開いて、これから珍しいものを見るお姫さまという様子をした。僕はなんとか気のきいたことをいおうとし、（……）イェーツの……詩の話をしようと思い立った。（……）
沖さんが、僕の森のなかのなまりを口真似するたびに、かれの脇で済ましこんだ素人女優は、珍奇な動物を見るように僕を見つめて笑い、そこで僕は、もの悲しくかつ嬉しさに胸がせまるような感情のとりこになっていた。（……）
――僕も、劇団にいれてもらおうかな……
徹底した沈黙がそれに続き、胸がつまるような沈黙の波は店の入口の側の座敷の人々にも伝わった。僕はもう秋山君の顔を見る気力もないまま、ついで起った哄笑のなかを引きさがって、自分の靴を足に引っかけると狭い通路を店の外に出た。この地方都市に転校して来て初めて歩く夜更けの繁華街の、表通りへと曲ろうとして、追いかけるようにもう一度笑い声が背後に起ると、僕は石の礫でもよけるように、ヒョイと頭を低くしたのだが……（大江健三郎『懐かしい年への手紙』P213～）
……女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ！」
（……）さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。（チェーホフ『犬を連れた奥さん』）
フロイトは『非医師による精神分析の問題』の「あとがき」において、女性に関して、ウィーンの風刺新聞「ジンプリチシムス」に載ったちょっとした対話を思い出し、（ ……）「すべてではない」というパラドックスを持ち出している。「一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』」。だからこそ女は男の症候なのである。女には我慢がならないが、女以上に素敵なものはない。とても女とはいっしょに暮せないが、女なしで生きるのはもっと困難なのだ。(ジジェク『斜めから見る』）
それにしても、われわれの欲望は、相手の女たちに、いつもおなじ力ではたらくとはかぎらない。ある夜は、われわれは、その女なしではすまされないが、それが過ぎると一、二か月のあいだは、その女のことで心を乱されることはほとんどないだろう。それに、交替の法則というものがあって、いまここはそれを研究する場ではないが、肉体の愛による大きな疲労のあとには、われわれに一時的な老衰がくることになる、そしてそんな時期にわれわれの映像につきまとう女は、ほとんどその額にくちづけしたにすぎないような女なのである。（プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳）
《三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。》（クンデラ『存在の耐えられない軽さ』）
昭和十八年葵未 荷風散人年六十五
六月初二
街談録
公園の芸人某より玉の井の噂をきくに、例の抜けられますかとかきし路地の女の相場まづ五円より十円となれり。閨中秘戯に巧みなるもの追々少なくなれり。花電車といふ言葉も大方通ぜぬやうになりたり。お客に老人少なくなり青二才の会社員また職工多くなりしためなるべし。されど七、八百人もゐる事なれば中には尺八の上手なものもなきにはあらず。この土地にて口舌を以てすることをスモーキングといふ。一部賑本通西側なる大塚といふ家には去年頃まで広子月子なな子勝子といふ四人いずれも五円にてスモーキング専門の放れわざをなしたり。只今は時子といふ女一人居残りたり。それより四、五軒先土井といふ家の女も拾五円にて口舌のサービスをするなり。その先の市川といふ家にも同様の秘術をなすもの一人あり。されどこれはお客にもおのれのものを嘗めさせねば承知せぬ淫物なり。桑原の店には金さへ出せばのぞかせる女あり。無毛の女はこの土地では案外いそがしくその数も随分あり。一部広瀬方、四部長谷川方にゐる女は無毛を売物となし曲取り至って上手なり。云々。
A recent survey showed that many women experience fellatio as a sense of power—on condition that they take the initiative, and that it is not imposed on them, in other words, on condition that they take the active role.（Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe）
……the typical male fantasy, well known to every prostitute, of 'saving' a woman. A large number of her clients want to 'save' her from her ruin. They want to restore to her the status of being an object of love. In other words, they want her to become a wife-mother, which brings them back to respect, and completes the circle. Interestingly, in either case, whether he saves her or humilates her, the power lies with the man. This in itself is a rewrite of the original mother-child scenario. His position has shifted from passive to active.（Paul Verhaeghe）
