ーー実はこちらを先に聴いて、どんなピアニストなのかと調べてみたら、バッハ弾きとのこと→Rameau - Jill Crossland (2012) Various clavier works
冒頭のラモー「鳥のさえずり」はギレリスの至高の演奏がよく知られているがーーというかほとんどそれしか知らなかったがーー、10 great pianists perform Rameau, Le Rappel des oiseauxの比較などというものもある。誰が演奏しているかが書かれていないところがなかなかよい。
連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。
ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。
いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)
(10名のピアニスト名は、コメント欄にほかの人が演奏者名を書いているので、安心して聴きたまえ!)
さて寄り道はやめて平均律に戻り、リヒテルのフーガだけ聴いてみよう。
そして、シューマンOP 72のフーガ(一曲目)。リヒテルの演奏もあるが、ここでは楽譜付きのイェルク・デムスの演奏で(この時期シューマンはバッハにことさら惚れこんでいたらしい)。
《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して。》(ニーチェ遺稿)