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2014年4月2日水曜日

備忘:Adam Magyarの「人間の彫刻」映像

少し前、《ホームで待つ人々のスーパースローモーション映像作品「Stainless」》としてAdam Magyarの作品がツイッター上で紹介されていたが、そこには日本(新宿)、ニューヨーク、ベルリンの映像があった。印象的な作品で昨晩再度鑑賞していたら、韓国の映像が追加アップロードされているようだ。→ Adam Magyar, Stainless - Sindorim (excerpt)




※新宿







これらの「人間の彫刻」たちは、同じ日本でも、たとえば東京と大阪では、かなり違うのだろうな、と思う。

神戸の町を歩いていますと、人間と人間の間隔が広いということを感じます。元町通りなんていう繁華街でも、人間と人間とのあいだが透けて見えるんです。神戸にも多少のラッシュアワーはありますが、東京のようなラッシュアワーではない。みな次の電車を待ちます。無理して乗らない。

都市それぞれには定数のようなものがあって、大阪に行けば、大阪ってなんて人が多いんだろうとぼくらは思うし、東京に来ると、さらにさらにそう思います。ぼくは東京で神戸にいるときのように行動するかというと、そうではないですね。定数に応じて行動形態が違ってきます。東京では雑踏のなかに身をゆだねます。しかし、神戸なら、誰もそういうゆだね方をしないし、私ももとよりです。こういう混み合いのかたち、あるいはどの程度の混み合いとするかというのは、場所によって違うんですね。私は、それぞれの町によって、自分が変身する、群れのなかで自分が変身していくということを感じますね。私だけではないでしょう。(中井久夫「微視的群れ論」『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕所収)
 
人の顔や仕草を眺めていて飽きることの少ない映像に廻り合い、断腸亭日記の戦後一年目、貸間同居人のラジオの音に苦しめられ、耳に綿を詰めてしのいだり、近くのお社の境内で日の暮れまで読書していた荷風が、夜にまた鳴り出して家を追い出され、駅の待合室のベンチに腰掛けて客の顔を眺めながら過ごし、思いの外退屈しなかった様が記された文を想い起こすことになる。

荷風散人年六十八 昭和二十一年
八月十六日。

晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。(『断腸亭日乗』)


…………

たいして多くの映像作品を鑑賞するほうではないが、Adam Magyarの作品には、若き日のヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュがいる、と私は感じる。








ヴェンダースの『都会のアリス』は、最近(今年の一月)、YouTubeで全篇通してみれるようになっている。上の映像は、1;30;00前後から始まるが、そのあたりからが、ことさら素晴らしい。









※『ベルリン・天使の詩』でお馴染みのブルーノ・ガンツ、あるいは映画監督のダニエル・シュミットの出てくる『アメリカの友人』の地下鉄場面(この映画にはほかに、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、ジャン・ユスタッシュなども登場する)。