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2014年4月24日木曜日

四月廿四日 「易簀」

青空文庫全文検索というものがある。古典作品の文字検索にすこぶる有効に活用できる、――などと書いているが、実はつい先日はじめてそんなものがあることを知った。

このところ寝る前に森鷗外の『伊沢蘭軒』を少しずつ読んでいるのだが、この作品には見慣れない漢字がたくさん出て来る。漢詩、漢文などが多く引用されており、それらの素養のまったくないわたくしのような者には当然ではあるが、鴎外の説明的な地の文にさえ見慣れない漢字に遭遇し、すべてではないがたまには調べてみることをする。

たとえば《此日菅茶山は神辺にあつて易簀したのであつた。》などとある。この「易簀」は調べずにやりすごしたのだが、数行後に《茶山は死に先つて「読旧詩巻」の五古を賦した。》とある。はて、どこに菅茶山が死んだことが書かれてあったか、どこかで読み落したかと、前に戻って眺めてみると、どうやら「易簀」が死んだという意味らしい。

大辞泉をみると、「易簀」:《「礼記」檀弓上の、曽子が死に臨んで、季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を、身分不相応のものとして粗末なものに易()えたという故事から》学徳の高い人の死、または、死に際をいう語。》とある。


以前にもどこかで使われていたかと『渋江抽斎』を見てみても、そんな文字はない。では他の鴎外の著作は? あるいは他の作家はこの「易簀」という語彙を使用しているのか、(もちろんグーグル検索で中国語使用には行き当たるのだが)――というなかで、青空文庫全文検索というツールに遭遇する。

これによれば、青空文庫の全文のなかで鴎外の『伊沢蘭軒』一箇所のみの使用ということになる。


…………

上の話とは関係ないのだが、すこし訳ありで最近多用されるらしい「当事者」という語も検索してみたのだが、これはどうやら由緒正しい言葉で、漱石をはじめ多数の文章に使われている。

(すこし訳ありで、と書いたが、直接的には貴戸理恵さんというまだ若い社会学者の方の「当事者」論やらインタヴュー記事をいくつか読んだせいだ。)

この「当事者」という語はこの青空文庫全文検索を知る前に、Evenoteに保存してある文書のなかを探してみたのだが、精神医学系(土居健郎や木村敏、中井久夫)の文にはしばしば出て来る。ジジェク訳文にも多用されている。岩井克人は「利害関係の当事者」という使い方をする、等々。そのなかで高橋源一郎のインタヴュー記事に行き当たった。これもここでの話と関係ないのだが、すこし面白いので引用しておく。


「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11

――「書けなかった理由」というのは?

高橋 ひとことで言うと、9.11は他人事だったからです。だから、逆にすごく真面目な小説になってしまった。でも3.11は僕もある意味で当事者と言える。だからこそ、「原発なんて関係ないよ」とか「被災地なんて知らん」とも堂々と言えるんです。「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。そういう発言をすれば、当然、問題になるでしょう。何を言っても問題が発生するというのは、非常にいいことです。言論とはそういうことなんです。

――ご自身の"事件との距離感"というものが左右した、と。

高橋 3.11から最初の数日間のこと、覚えてます? 結構、明るかった。ニューヨーク・タイムズに東浩紀や村上龍とともに寄稿したんですが、論調はほぼ同じでした。「すさまじい被害にあったけど、国民はパニックに陥っていない。日本には閉塞感があったけど、これを機会に変われるかもしれない」。でも、そんな空気もいつの間にかもとに戻ってしまい、前よりひどくなってしまう。

――どういった部分で、前よりもひどくなったと感じますか?

高橋 暗くなってると思います。僕はTwitterをやっています。3.11の前のTwitterはまったりしていて、つまんないことを言える空間だったんです。でも、3.11以降、Twitterが「戦場」になってしまった。他人を攻撃するような言論が多くなり、みんながそういう相手を求めるようになった。

――「まったりする」余裕がなくなったことによって、他者を攻撃するようになってしまった。

高橋 もともとそんなに余裕はなかったんだけど、なんとなくあるような気がしてたんですね。「お金ないし景気悪いし、嫌だよね」と言いながらも、カタストロフィーは起こっていなかった。

《「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が"外"ではなく"中"にいる時なんです。》という言葉が、ふむなるほど、と考えさせられる。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書