六週間たった。ロドルフはいっこう訪ねてこなかったが、ある晩とうとう姿を現わした。
共進会のあくる日(ロドルフがエンマに情熱的な「愛」を告白したあくる日:引用者)、彼はこう考えたのだった。
「そう早くは訪ねて行くまい。まずいから」
こう考えてその週末に狩猟に出かけた。狩猟がおわると、もう手おくれのような気がした。しかしロドルフは理屈をつけた。
「しかし、あの女が初手から俺にほれたのだとすると、早く会いたい一念で、ますます恋心を募らせるだろう。もっと会わずにおいてやれ!」
客間にはいって行って、エンマが顔色を変えるのを見たとき、彼は自分の目算が正しかったことを知った。(フローベール『ボヴァリー夫人』伊吹武彦訳)
六週間とはいかにも長い。クンデラが三週間と書いたのも、三十年前だ。《三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984)
さて今では手おくれにならない限度は何日だろうか。
もちろん、これらは「愛の遊戯」を心得ている人の策略であり、ラカンの愛の定義(のひとつ)、「愛とは自分のもっていないものを与えることである」(「セミネール Ⅷ」)―― つまり、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」のとは程遠い。
ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。(ミレールーー「ラカンの愛の定義」)
ーーもっとも、ラカンにとっては「性関係はないIl n'y a pas de rapport sexuel」のだが、ここではそれをめぐっては触れることはしない。
携帯電話の普及後、ひとは待つことがますます苦痛になった。あるいはまた、《携帯電話の普及が心の襞まで書き込む男女のあやというべきものを奪い取ってしまった》(古井由吉『人生の色気』)エンマがロドルフの思惑を思いやる余地は、携帯電話をかけて、声を聴くことにより、消え去る。こうして人は思い悩むことから、考えることから、遠ざかってゆく。「愚かさの進歩」(フローベール=クンデラ「エルサレム講演」)はこんなところにもある。
待つことを忘れた現代人は、騙されることに憤ることがより烈しい。だが、《騙されないで人を愛そう、愛されようなんて思うのは、 ずいぶん虫のいい話だ。》(川端康成『女学生』)
しかし、どうしても待たなければならない状況は、現在でもある。そこに「転移=愛」が生まれる(ただし、その人物の資質が「神経症」的であったら、としておこう。)
転移現象のあるところには常に待機がある。医師が待たれ、教師が待たれ、分析者が待たれているのだ。さらに言えば、銀行の窓口や空港の出発ゲートで待たされている場合にも、わたしは、銀行員やスチュアーデス相手にたちまち攻撃的な関係を打ちたてる。彼らの冷淡さが、わたしのおかれた隷属的状態を暴露し、わたしをいらだたせるからだ。したがって、待機のあるところには常に転移があると言えよう。わたしは、自分を小出しにしてなかなかすべてを与えてくれようとしない存在――まるで欲望を衰えさせ、欲求を疲労させようとするかのようにーーに隷属しているのだ。待たせるというのは、あらゆる権力につきものの特権であり、「人類の、何千年来のひまつぶし」なのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)
待つことを楽しむことができるのは倒錯者の資質だ。
「倒錯」とは,本来,徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである.欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく,その中間に何ものかを, ――「 物 フエテイツシユ」を,「言葉」を,「演戯」を,「物語」を介在させ,欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが,「倒錯」なのである.これは必ずしも性の営みにかぎった話ではなく,「倒錯」は,たとえば記号の意味作用をめぐる磁場においても生きられうるものだ.「倒錯」的な記号,それはその「意味」がただちに消費されてしまうことを拒む記号 ――透明なものであるべき表象作用を混濁させ,そのなめらかな進行をみずから妨害して,それに向けられたまなざしを攪乱し,読もうとする欲望が成就する瞬間をどこまでも遅らせつづけようとする記号のことだ.(松浦寿輝「電子的レアリスム」『官能の哲学』所収)
携帯電話も、この《「媒介」的な中間項の縮減――究極的にはその無化を志向する》ツールのひとつだろう。
欲望ではなく、この欲動の反復運動を楽しむことができないか。
小説を読む、とはおそらく、マゾヒスト的「宙吊り」に耐える振舞いである。それは、《 相対的で両義的な言語》で出来上がっており、無媒介性の時代の精神には「不確実性の知恵」を体現する小説には耐えられない。
善悪の判断をすぐさま求める精神、理解する前に判断したいという欲望を抑えることのできない精神、<あれかこれか>を早急に判断したい精神には、小説は無縁のものなのだ。
…………
戦略的な倒錯者、マゾヒストたれ!、というのはこれらの文化に対抗するための至上命令である。
期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態において生きるものである。それ自身が二つの分身となり、同時的な二つの推移へと変ずることは、純粋なる期待の属性である。そしてその二つの推移の一方は、待たれている対象を表現し、それは、本質的な引き伸ばしであり、つねに遅刻状態にあって延期される。いま一方のものは、予期している何ものかを表現し、それのみが待たれている対象の到来を性急に繰りあげうるかも知れないものだ。かかる形態、二様の流れからなる時間的リズムが、まさにある種の快楽=苦痛という組み合わせによって充たされているという事実は、一つの必然的な帰結なのである。苦痛は、予期しているものの役割を演じ、それと同時に、快楽は待たれている対象の役割を演じることになるのだ。マゾヒストは、快楽を、根本的に遅延する何ものかとして待ち、最終的に快楽の到来を(肉体的にして精神的に)可能にする条件として、苦痛を予期しているのである。したがって、それじたいとして待つことの対象たる苦痛が、自分を可能ならしめるのにいつも必要としている快楽を、マゾヒストは未来へと押しやっているのだ。マゾヒストの苦悩は、ここでは、不断に快楽を待ちはするが、その方法として苛烈なまでに苦痛を予期してかかるという、二重の限定作用をとることになるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 91~92頁)
ところで、ラカン派からみれば、ドゥルーズの「欲望機械」とは「欲動」の謂である。《The starting point for a Lacanian reading
of Deleuze should be a brutal and direct substitution: whenever Deleuze and
Guattari talk about “desiring machines”(machines désirantes), we should replace
this term with drive.》(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)
そして、欲望が、「飛んで火に入る夏の虫」であるなら、欲動は、灯火にむれる蛾の,灯りを目ざしてはそれてゆく,その反復運動である。《One
should bear in mind here Lacan's well-known distinction between the aim and the
goal of drive: while the goal is the object around which drive circulates, its
(true) aim is the endless continuation of this circulation as such.》(The Liberal Utopia ........ section
I: Against the Politics of Jouissance.........Slavoj Zizek)
《人間において偉大なものとは、彼が一つの橋であって、最終的目的地ではないということだ。人間において愛しうる点とは、彼が過渡であり、破滅であるということだ》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)
――《おまえは待てるか。いつでもとはいわないが、私はいつの間にか待つのが好きになった。「実現してしまえばそれだけのことである」とさえ思うようになった。》(中井久夫)
そして、いまだ、いつでもどこでも耳にする「日本の待てない母」のヒステリックな(神経症的な)金切り声。
ロンドンを発つ朝、ヒースロー空港は霧であった。
(……)「空港閉鎖、無期限」という標示が出た。しかし信じれらないほどに空港の群集は静かであった。怒号はもちろん、どよめきする起こらない。係員に詰問する人すらいない。
ぱたぱたぱたという音がして食堂が開いた。「無料で何をとってもよい。どこへ持っていって食べてもよい」とスピーカーが鳴る。人々はゆっくりとカウンターに歩み寄っては盆に思い思いの皿を載せて外に散ってゆく。皆慣れたものである。
「そうか!」と私は思い当たった。腹がすいた群集は荒れがちだ。食堂にぎっしり詰めるといっそう良くないだろう。食事代など知れたものだ。食器もほぼ回収できよう。
連中は待つのもうまいが、待たせるのもうまいな、と私は独りで感心していた。(……)
突然遠くで「ひぃーっ」という子どもの悲鳴。わが同胞でないようにと祈る。だが、おっかぶせるように「何とかちゃん、さっさと歩かないと置いてゆきますよ」と金切り声。まちがいなく、いつでもどこでも耳にする「日本の待てない母」の声である。(……)
待つ能力、逆境への耐性、機会を捉える能力、これらなくしてもそもそも船、特に帆船は操縦できない。英国が海洋国でありうるための不可欠な美質である。提督・東郷平八郎が日露戦争において示し、太平洋戦争で多くの提督たちが示しえなかったものである。(……)
医師も人を待たせる。待たせるからには、待たせる作法があろう。せめて待合室に時折顔を出すなどの工夫が必要だろう。待合室には特に緊急を要する患者がきっといるはずだ。(……)
英国人はのんびりしているという人がいれば大まちがいである。ペイシェンスを発明する国、釣りの好きな国民がどうして悠長でありえよう。これらはほとんどマゾヒスト的に焦りをいじめ殺すものである。(……)
おまえは待てるか。いつでもとはいわないが、私はいつの間にか待つのが好きになった。「実現してしまえばそれだけのことである」とさえ思うようになった。駅や港や空港は私の好きな場所であり、そこの人たちはたっぷり私を楽しませてくれる。このエッセイも、その産物でなくもなかろう。(中井久夫「待つ文化、待たせる文化」『記憶の肖像』所収)
…………
かつて神は高い地位から宇宙とその価値の秩序を統べ、善と悪とを区別し、ものにはそれぞれひとつの意味を与えていましたが、この地位からいまや神は徐々に立ち去ってゆこうとしていました。ドン・キホーテが自分の家を後にしたのはこのときでしたが、彼にはもう世界を識別することはできませんでした。至高の「審判者」の不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿をあらわしました。神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになりました。こうして近代世界が誕生し、と同時に、近代世界の像〔イマージュ〕でもあればモデルでもある小説が誕生したのでした。
デカルト“ 考えるわれ ”を一切のものの根拠と理解し、かくて宇宙にただひとりで対決することは、ヘーゲルが英雄的と正しく判断した態度です。
しかし、セルバンテスとともに世界を両義性と理解し、絶対的なひとつの真理のかわりに、たがいに相矛盾する多くの相対的な真理(人物と呼ばれている “想像上のわれ” に具現化された真理)に対決しなければならず、したがって、唯一の確実性として “不確実性の知恵”を所有すること、この態度も前の態度におとらず偉大な精神力を必要とするものです。
セルバンテスの偉大な小説の意味は何でしょうか。この問題についてはたくさんの文献があります。たとえばこの小説には、ドン・キホーテの曖昧な理想主義に対する合理主義的な批判があると主張するものもあれば、一方にはまた同じ理想主義の賛美があるとするものもあります。しかし、これらの解釈はいずれも間違っています。といいますのも、これらの解釈が小説の根底に見届けようとしているものは、ひとつの問いかけではなく、ひとつの倫理的な先入観であるからです。
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。
この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)
ラカンのcourtly love(宮廷風恋愛、騎士道的愛)の定義、《性的関係への道に障害を置いているのは我々なのだという装いをすることによって、その性的関係がないことを埋め合わせる非常に洗練された様式》(ラカン セミネール『アンコール』)
This is why Deleuze insists that desire has no object (whose lack would trigger and sustain its movement): desire itself is “a purely virtual ‘movement’ that has always reached its destination, whose moving is its owndestination.” This is also the thrust of Deleuze’s reading of masochism and courtly love—in both cases what is at stake is not the logic of sacrifice, but rather how to sustain desire.
According to the standard reading of masochism, the masochist, like everyone else, is also looking for pleasure; his problem is that, because of his internalized superego, he has to access pleasure with pain, to pacify the oppressive agency which finds pleasure intolerable.
For Deleuze, on the contrary, the masochist chooses pain in order to dissolve the pseudo‐link of desire with pleasure as its extrinsic measure. Pleasure is in no way something that can only be reached via the detour of pain, but that which has to be delayed to the maximum since it is something which interrupts the continuous process of the positive desire. There is an immanent joy of desire, as if desire fills itself with itself and its contemplations, and which does not imply any lack, any impossibility.
And the same goes for courtly love: its eternal postponement of fulfillment does not obey a law of lack or an ideal of transcendence: here also, it signals a desire which lacks nothing, since it finds its fulfillment in itself, in its own immanence; every pleasure is, on the contrary, already a re territorialization of the free flux of desire.(Zizek“LESS THAN NOTHING”)
《宮廷恋愛の〈貴婦人〉の逆説は、「公の欲望」は〈貴婦人〉と寝ることであるのに、実のところ〈貴婦人〉がこの望みを寛大に受け入れることをわれわれは最も怖れている。〈貴婦人〉に対して本当に期待し望んでいることは、また新たな試練を、さらなる延期を与えてくれることなのだ。》(ジジェク『快楽の転移』)
宮廷恋愛を考えるにあたってまず避けるべき落とし穴は、<貴婦人>を崇高な対象とする誤った見方である。そんなことを言えば通例、生々しい性的な欲情が浄化されて精神的な思慕へと高められるというプロセスのことが考えられる。かくて<貴婦人>は、ダンテのベアトリーチェのようにより高い次元の宗教的エクスタシーへと人を導く神聖なものだととらえられるのだ。
こうした考え方とは反対に、ラカンは、このような浄化作用に反するような特徴をいくつも指摘している。たしかに、宮廷恋愛における<貴婦人>は、具体的な特徴は一切持たず、ただ抽象的な<理想>として崇められる。そのため、「詩人たちはみな同一人物を称えているようだという点に作家らは着目した。……これらの詩の世界における対象の女性からは、現実的な実体は一切うかがわれない」となるのだ。しかし、<貴婦人>のこうした抽象的な性質は、精神的な純化とは何ら関係はない。むしろこの性質は、冷淡で隔たりのある非人称的な相手にありがちな性質に近い。
つまり、<貴婦人>は、暖かく思いやりがあり人の気持を察するような、われわれ人間の同類などでは絶対にありえない。(……)
したがって、騎士と<貴婦人>の関係は、臣下-隷属者である家臣と、無意味でとてつもない、とうていできそうにないような、勝手で気まぐれな試練を課してくる<封建的主人-支配者>の関係である。
ラカンはまさに、こうした試練が崇高とはおおよそかけ離れていることをはっきりさせようと、<貴婦人>が家臣に文字通り尻の穴をなめるよう命令する詩を引用している。詩人は、その場所で待ち受けていた悪臭に対してぐちをこぼし(中世の人々が恐ろしい衛生状態にあったことはよくご存じだろう)、こうやって務めを果たしている最中に尿を顔にひっかけられるかもしれないという危険をひしひしと感じる……。
これほどさように、<貴婦人>は浄化された神聖なものとはほど遠い。(ジジェク『快楽の転移』)