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2014年4月25日金曜日

四月廿五日 「天閹」

湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁うて責任ある地位を遯れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳にしない。 懐之の養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業豊島屋の子であつた。離縁の理由としては、所謂天閹であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。(森鷗外『伊沢蘭軒』)

「天閹」とある。調べてみると、「閹官」としたら「宦官」のことらしい。「閹」とは、門に面して気息奄々ということか。天から授けられた玄牝の門入ず。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子 「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

この「天閹」という語も、前回の「易簀」に引き続き、青空文庫全文検索で調べてみると、やはり外の蘭軒伝しか使用されていない。ただし「閹」は何人かの作家が使用している。中島敦の『李陵』にはこうある。

宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ともいうのは、その創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏にすぎない。頭脳の明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遇ったからとて別に驚く者はない。 司馬氏は元周の史官であった。

ほかに芥川龍之介の『酒虫』にも使用されている。

宝幢寺にゐる坊主と云ふのは、西域から来た蛮僧である。これが、医療も加へれば、房術も施すと云ふので、この界隈では、評判が高い。たとへば、張三の黒内障が、忽、快方に向つたとか、李四の病閹が、即座に平癒したとか、殆、奇蹟に近い噂が盛に行はれてゐるのである。

もうひとつ桑原隲藏というわたくしには初めて聞く作家の『支那の宦官』にこうある。

この火者とは、もと印度語のコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて、意義不明なるを恐れ、かくは注解的に閹割の二字を添加したものであらう。

…………

という具合で、蘭軒伝を牛歩の如く読み進めているうちに、やや面白い読み方を発見した。不明な「漢字」を探るなかで、別の書の断片に出逢うことができる。そのうち飽きるにきまっているが、飽きなかったらまた同じことをやってみよう。

iPadの画面(青空文庫)で読んでいるのだが、長さを比べてみると『渋江抽斎』は420頁あり、『伊沢蘭軒』は1237頁ある。三倍ほどの長さである。いま漸く半ばほどに達したのだが、前半をやや粗雑に読みすぎたかな、という気がしてくるのはよい傾向、すなわち愛着が湧いてきたしるしだ。

抽斎伝さえ、さる学者が、無用の長文としたのだから、『伊沢蘭軒』をいまどき読むひとは少ないかもしれない。

寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎に曾て山陽を舎したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦れたる蘭軒の裔が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。

これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥ける。わたくしの目中の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである。(『伊沢蘭軒』)

この学者は和辻哲郎である。

私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてゐたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽斎の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。(和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」)


伊藤整は鷗外の史伝をこう評している(「鴎外文学に対する三つの視点 井村紹快」からだがそこには「伊藤整全集十九」からとある)。

それは所謂小説らしい角度から人生を眺めたり描いたりすることを放棄し、ただ記録者として作者なる自己を置こうとしていることである。その態度で押しとおして行くことは、どういう自信から来ているのかという驚きの念でもあった。(……)

私は現在の日本の小説の一般の書き方に根本的な疑念を持っている。そして私は鷗外がこの種の作品を書いた動機の中に、やっぱりそういう、時の小説一般のあり方に対する疑問があったらしいことを感じて一層興味を持った。つまり鷗外は、人生を小説風にやつすことを極度に嫌ったのであろう。その結果、人生の事実を、小説らしいやつし方から全く洗って、修飾や外衣や説明なしの事件そのまま並べようとしたのである。
私はやっぱり一種の驚嘆を感じた。こう戸籍しらべのような書き方で描かれた人生が、とても小説らしい書き方ではとらえられない深さまで人生を抉り出しているからである。鷗外は勿論自分の考証をたのしみはした。しかしそれ以外には彼は作家としての我侭を何一つ読者に押しつけなかった。退いて記録者たる地位に止った。そして彼のそに退き方が正しかったことは、彼が退いただけ人生が作品の中にしっかりと歩み入っていることによって明らかである。

柄谷行人の評は、この伊藤整の評に準ずるとしてよいだろう。

鷗外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合してゐる」(『妄想』)ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鷗外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鷗外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)