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2014年4月28日月曜日

四月廿八日 「蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたり」

早朝蝉の声。今年になってはじめて聴く。形状や鳴声はニイニイゼミなのだが、今こうやって書こうとして調べてみると、《北海道から九州・対馬・沖縄本島以北の南西諸島、台湾・中国・朝鮮半島まで分布する。ただし喜界島・沖永良部島・与論島には分布しない》とWikipediaにあり、この記述からすれば南方には生息しないということになる。たぶん異なった種類なのかもしれない。もともと蝉は、当国の北部に多く南部には少ないなどと言われるが、たしかにこの南部の土地にはニイニイゼミ状のセミしか見たことがない。妻や息子になんというセミだ、と訊ねてみても、セミはセミよ、というだけだ。




ところで大正七戊午年の荷風の日記に奇妙な記述がある。

七月十五日。去十二日より引つゞきて天気猶定まらず風冷なること秋の如し。四十雀羣をなして庭樹に鳴く。唖ゝ子の談に本郷辺にては蝉未鳴かざるに早く蜩をきゝたりといふ。昨日赤蜻虫の庭に飛ぶを見たり。是亦奇といふべし。

蜩は蝉ではないと読める。だがすくなくとも現在、蜩はセミ種に分類されており、かつてはこういう区別をしたということなのだろうか。ではツクツクボウシは蝉の分類内だったのか、それとも分類外だったのか。ーーいずれにせよ、蜩とツクツクボウシは、わたくしの知っている限りでのほかの蝉の鳴声とは区別してもいい声音をもっている、という印象はもたないでもない。

ひぐらしの鳴き声3時間版などというものがYoutubeにあるが、この鳴声の「ゆらぎ」を愛惜しむひとがいるのはよく分かる。





……この夜、昼の工事の音と夜更けの蒸し返しのために鈍磨の極みに至ったこの耳に、ひょっとしたら、往古の声がようやく聞えてきたのか、と耳を遠くへやると、窓のすぐ外からけたたましく、蜩の声が立った。

夜半に街灯の明るさに欺れてか、いきなり嗚咽を洩らすように鳴き出し、すぐに間違いに気がついたらしく、ふた声と立てなかった。狂って笑い出したようにも聞こえた。声に異臭を思った。

異臭は幼年の記憶のようだった。蜩というものを初めて手にした時のことだ。空襲がまだ本格には本土に及ばなかった、おそらく最後の夏のことになるか。蜩は用心深くて滅多に捕まらぬものなので、命が尽きて地に落ちたのを拾ったのだろう。ツクツク法師と似たり寄ったりの大きさで、おなじく透明な翅にくっきり翅脈が浮き出て、胴体の緑と黒の斑紋の涼しさもおなじだったが、地肌が茶から赤味を帯びて、その赤味が子供の眼に妖しいように染みた。箱に仕舞って一夜置いた。そして翌朝取り出して眺めると、赤味はひときわ彩やかさをましたように見えたが、厭な臭いがしてきた。残暑の頃のことで虫もさずがに腐敗を来たしていたのか、子供には美しい色彩そのものの発する異臭と感じられた。すぐに土に埋めて手を洗ったが、異臭は指先にしばらく遺った。

箪笥に仕舞われた着物から、樟脳のにおいにまじってえ立ち昇ってくる、知らぬ人のにおいにも似ていた。(古井由吉『蜩の声』)

…………

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。(H・ド・バルザック「骨董屋」)

これは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフであるが、冒頭の「第一章 具体の科学」は、こう書き始められる。

動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。(『野生の思考』)

これはなにも「未開人」の言語の話ではない。たとえば日本には“waterという語がない。水であり、お湯であり、熱湯である、ということはしばしば指摘されてきた。反対に、わたくしの住んでいる国の言葉では、waterにあたるnướcは、より高い抽象性があり、水であり、液体であり、ジュースである。カフェやお茶という言葉はもちろんあるが、たとえば仕事を終えた働き手に労働賃以外にチップを渡すとき、これでnướcを飲んで!、という言い方をする。これは、渇きを癒して! ということで、すなわち日本語の「お疲れ様!」にほぼ相当する。この”nước“は、カフェでもお茶でも水でもジュース、ビールでもよいということで、いかにも暑い国の言い方である。ヌックマム(”nước mm“)でさえ水という語を使う。 ”mm“は蝦・魚などを塩漬けにした食物のことで、直訳すれば「魚を塩漬けした水」となる。あるいは外人は、"nước ngoài"、ーー"ngoài"は漢語の「外」なのだが、これも直訳すれば「外の水」ということになる。

用語の抽象度の差異は知的能力によって左右されるものではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によってきまるのである。(……)「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種や変種を指す語が何十何百となるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなく後者の方である。(『野生の思考』)

この意味で、つまり”waterに関して、日本人はwaterという大きな分類ではなく、より細かい「水」「お湯」の区別があるという意味で、その概念が豊富であるということができる。お風呂と茶道の国である。他方、当国では近親者の呼び方の種類が驚くほど豊富である。国の文化によって、それぞれ概念の豊富さの多寡があるのはあらためて言うまでもないことかもしれないが、それでも住み始めた当初は驚いた。

業語の場合がそうであるように、概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。このような客観的知識に対する意欲は、われわれが「未開人」と呼んでいる人びとの思考についてもっとも軽視されてきた面の一つである。それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察方法は同種のものである。どちらにおいても世界は、欲求充足の手段であるとともに、少なくともそれと同じ程度に、思考の対象なのである。

どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。(同上)