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2014年4月23日水曜日

「いまヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか」

たとえばツイッター上には、《左派系の反差別の多くは、名詞形の民族概念による《線引き》を前提にしたうえで、「日本人」とレッテルを貼られる存在を攻撃する。――差別そのものに抵抗しているわけではなく、むしろ大っぴらに差別がやりたい、露骨に差別的な人たち。》などというたぐいのことをしきりに言い募る「ほどよく聡明な」人物がいる(このツイートとともに「しばき隊」の日本人殺害画像が貼ってある。つまりこれが左派系の反差別の象徴ということを言いたいのだろう)。

たしかに反差別運動者のなかには、どうしようもない「差別者」もいるだろうことは認めざるをえないのだろう、それが《左派系の反差別者の多く》であるのかどうかはわたくしには瞭然としないが。だが、ここでは、で、それでどうした? と反問したい。ヘイトスピーチ反対運動をする連中のある割合が「差別者」であったら、では、いまの反対運動をやめるべきなのか、と。

いや、そうではない、でもほかの回路があるとか、分析しなくてはいけないとか、技法の問題とか、を冒頭のような人物は、「回路」、「分析」、「技法」などの<名詞>を駆使して、なんらかの反論をするのだろう。これらの語彙は、その当人にとっては、「名詞」的なレッテル貼りを動詞化して「社会を改善」しようとする語彙らしいが。《擁護対象を名詞形の概念操作(「当事者」)に落とし込むスタンスは、いつの間にか差別的なマッチョ主義に陥ります》などとオッシャテもおられる。

それは「理論的」には正しいのだろう。わたくしも「分析的」であることを気取ってみたい折には、その種のことを書いてしまう。だが、ここで一歩譲って問い直すなら、マッチョ主義となにもしないこととどっちをとりたいのだろう、われわれがすぐさま行動しなければならないときに、分析している暇がないときに。

@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」(佐々木中ツイート)

こう書いたからといって発話者が運動に参加することを強いるものではない。わたくしもこうやって参加せずに海外から指先を動かしているのみだ。だが、なにもしないことの言い訳になる言説をもっともらしく言い募るのだけはやめておくがいい(参照:「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」、あるいは「剥き出しの市場原理と猖獗するネオナチ」)。

何もしないなら黙ってろ、黙ってるのが嫌なら何かしろ、という性質の話の筈。偉そうにTwitterでどっちもどっち論を繰り返し、動いているのは指先のみ。いま大学人がいかに信用失墜しているか新聞でも眺めればわかる筈なのに、そのざまか。民衆は学び、君を見ているぞ、「ケンキューシャ」諸君。(佐々木中)

《まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

真に差別に反対したい心持をもっているなら、すぐさまやらなければならないはずの反「ヘイトスピーチ」運動の新しい「技法」なるものを提示すべきなのであり、それがないなら黙っておれ、とわたくしは彼曰くの「差別者」として、冒頭のような戯言に反吐を吐きかけたい。あのような発言は、日本のサイレントマジョリティの見て見ぬふりをする習慣を助長するだけのものだ、とわたくしは思う。すくなくとも反ヘイトスピーチ運動に関しては、冒頭のような発言は許しがたい、と「独断的に」振舞うことにする。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的に」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)
私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴 力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなけ ればなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。お そらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているので はないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳)

《わたしは仔細ぶった疑いぶかい猫どもの静かさよりは、むしろ喧騒と雷鳴と荒天の呪いを好む。そして人間たちのあいだでも、わたしは最も憎むのは、忍び足で歩く者たち、中途半端な者たち、そして疑いぶかい、ためらいがちな浮動する雲に似た者たちすべてである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

加藤周一はかつて《戦争に反対しないで、あなたは他に何をするのか》と語った。

だが私〔加藤〕は、戦争をなくすことができなくても、とめることができなくてもやっぱり反対する。なぜかというと、それをしないで、私は他に何をすることがあろうか、と考えてしまうのが私だからだ。他に私に何ができるのか、ということ。戦争に反対しないで、あなたは他に何をするのか?(戦争への向かい方:加藤周一から学ぶ

いま、「嫌韓・嫌中本は売れるので、国際空港であろうと目立つところに置く」などという現象さえ起こっている。

いま、ヘイトスピーチに反対しないで、あなたは他に何をするのか、と言おう。

《闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。》(浅田彰)ーーこのサイレントマジョリティに加担するようにさえ見える発言を繰り返して、あなたは一体なにをしているのか、とも言おう。

…………

以下は、参考文献であるが、われわれは無意識的な差別者であり勝ちなのは、ほとんど免れがたい。それは「理論的」にはそうなのであり、それを指摘する言説を理論的に批判するものではない。いまは「実践的」に批判している(「私は何を知りうるか」、「私は何をなすべきか」、「私には何を欲しうるか」という問いが、カントの三批判のそれぞれ、真か偽かという認識的な関心(理性批判)、善か悪かという道徳的な関心(実践批判)、快か不快かという趣味判断(判断力批判)に相当する)。

ジジェク)……もちろん、一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ちのような事件そのものは、昔から何度も繰り返されてきた野蛮な暴力行為にすぎない。しかし、問題はそれが一般大衆にどう受けとめられるかです。カントは、フランス革命の世界史的意味は、パリの路上での血なまぐさい暴力行為にではなく、それが全ヨーロッパの啓蒙された公衆の内に引き起こした自由の熱狂にあるのだと言っている。それと同じように、今回も、それ自体としてはおぞましいネオ・ナチの暴力行為が、ドイツのサイレント・マジョリティの承認とは言わぬまでも暗黙の「理解」を得たことが問題なのです。実際、社会民主党の幹部の中でさえ、こうした事件を口実にドイツのリベラルな難民受け入れ政策の再検討を提唱する人たちが出てきている。こういう時代の空気の変化の中にこそ、「外国人」を国民的アイデンティティへの脅威とみなすイデオロギーがヘゲモニーをとる危険を見て取るべきだと思うのです。

厄介なのは、こうして広がりはじめた新しいレイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取り得るということです。この点で有効なのがエチエンヌ・バリバールの「メタ・レイシズム」(メタ人種差別)という概念だと思うのですが、どうでしょうか。(「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収)

この後引き続くメタ・レイシズム概念の解説は、「メタ・レイシズム(浅田彰、ジジェク)」という表題のもとに引用されているので、ここではそれを端折って、ロストク事件でメタ・レイシストとはどのように反応するのかを述べたところだけを抜き出せば次の通り。

メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。

…………

われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っているだろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする局面を、一定の時がくれば常態に復するはすの一時的な錯誤、やがては快癒して秩序へと帰従する束の間の混乱とみなして視界の外へ追いやってしまうという欠点である。こうした姿勢は、先天的であれ一時的であれ病気に冒されたものを、人間の範疇から除外して健康者のみを人間とみなそうとする差別者の視点にほかなるまいが、この無意識の差別を弄ぶ人たちの思考は、当然のことながら抽象的たらざるをえまい。(蓮實重彦 「パスカルにさからって」『反=日本語論』)