さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけれらた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなものである。この刺激は固着しうるが、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもったいるからなのである。したがってこの領域は興奮したリピドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の精神的変装、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられるのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』フロイト著作集5 人文書院 P335)
「真珠貝」は、英訳では「oyster」となっている。
Let us next attempt to put together the various determinants that we have found for Dora's attacks of coughing and hoarseness. In the lowest stratum we must assume the presence of real and organically determined irritation of the throat - which acted like the grain of sand around which an oyster forms its pearl. This irritation was susceptible to fixation, because it concerned a part of the body which in Dora had to a high degree retained its significance as an erotogenic zone. And the irritation was consequently well fitted to give expression to excited states of the libido.(Freud - Complete Works Ivan Smith 2000, 2007, 2010)
原文はまったく読めない身であるが、“Muscheltier”であるならば、shell fish。
Wir können nun den Versuch machen, die verschiedenen Determinierungen, die wir für die Anfälle von Husten und Heiserkeit gefunden haben, zusammenzustellen. Zuunterst in der Schichtung ist ein realer, organisch bedingter Hustenreiz anzunehmen, das Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet. Dieser Reiz ist fixierbar, weil er eine Körperregion betrifft, welche die Bedeutung einer erogenen Zone bei dem Mädchen in hohem Grade bewahrt hat. Er ist also geeignet dazu, der erregten Libido Ausdruck zu geben.
まあそれはこの際どうでもよいのだが、真珠貝やら牡蠣のほうが、わたくしの好みではある。当地は炎暑のさかりだが、生がきが喰いたくなる。
真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)
まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
《不眠の砂丘のきみの領土を舐める舌》(「マイスーナ」 オクタビオ・パス 真部博章訳)
たしかに、詩人の内部に真珠の見いだされることはある。それだけに、詩人自身はいよいよ殻の硬い貝殻である、そして、魂のかわりに、わたしはしばしばかれらのなかに、塩水にひたった粘液を見いだした。(『ツァラトゥストラ』)
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925 )
「お前は、お前が現に生き、これまで生きてきたこの人生を、もう一回、さらには無数回にわたり、くりかえして生きなければなるまい。そこにはなにひとつ新しいものはないだろう。あらゆる苦痛とよろこび、あらゆる思念とためいき、お前の人生のありとあらゆるものが細大洩らさず、そっくりそのままの順序でもどってくるのだ。 ――この蜘蛛も、こずえを洩れる月光も、そしてこのいまの瞬間も、このデーモンのおれ自身も。――存在の永遠の砂時計は何回となく逆転され、――それとともに微小の砂粒にすぎないお前も!」(『悦ばしき知識』)
マグダ・タリアフェロは好みのピアニストなのだが、師匠のコルトーと比べると(この演奏に限っては)、わたくしにはちょっといけない(いやいや高音部の泣きは、いいぞ…)。
◆Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)より。http://www.psychoanalysis.ugent.be/pages/nl/artikels/artikels%20Paul%20Verhaeghe/English%20symptom.pdf
ドラに関して(……)。フロイトによるドラ分析の五十年後、Felix Deutschが出版した後書きによれば、もともとの症状――カタル、神経性の咳、失声症――は、原初の形態に戻ってしまった。明らかに、フロイトがドラになした限定された分析は、彼女の症候の象徴界的素材を取り除くのに充分だったが、主体と口唇欲動のあいだの関係には触れ得なかった。結果として、口唇欲動は、シニフィアンの鎖のなかに再挿入されたのである。
Concerning Dora(……)。The postscript published by Felix Deutsch fifty years after Dora’s analysis with Freud reveals that the original symptoms – the catarrh, the tussis nervosa and the aphonia – had returned in their original form. Obviously, the limited analysis that Freud undertook with her was enough to remove the Symbolic material of her symptoms, but it did not touch on the relationship between the subject and the oral drive. Consequently, this oral drive reinserted itself into the chain of signifiers.
ーーここでのthe Symbolic象徴界とは、ポール・ヴェルハーゲ他の論において、象徴界/現実界が対比されて書かれており、そもそも精神分析は、象徴界の治療しかできず、現実界には触れえない、という論旨をもっている。ドラの例だけではなく、狼男の例でも原初的な欲動(狼男の場合、肛門欲動)は取り除きえず、狼男は、晩年(七十七歳)までその欲動に囚われていたとのこと(欲動は、快原則の彼岸にあり、現実界である)。
ここで抜き出したヴェルハーゲの論の冒頭は、次のラカンの言葉をめぐって書かれている。
浄化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。
…purified symptom, that is, one stripped of its symbolic components – of what ex-sists outside the unconscious structured as a language: object a or the drive in its pure form. (Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975)
…………
以下、上と同様に任意の私訳(意訳)。専門家でないものが訳していることに注意。
フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。
Since Freud’s discovery of the unconscious, pathological processes are explained on the basis of defense, in which repression takes the prominent place. After Freud, it was more or less forgotten that repression in itself is already a secondary moment within the dynamics of the pathogenesis. Indeed, repression is an elaboration of the defence process against the drive. Right from the beginning of his theory, Freud recognized a twofold structure within the symptom: on the one hand, the drive, on the other, the psyche. In Lacanian terms: the Real and the Symbolic. This is clearly present in Freud’s first case study, that of Dora.Freud does not add to his theory of defense, which had already been elaborated in his two papers on the psychoneuroses of defense (Freud, 1894, 1896).It can be said that the core of this case study resides precisely in this twofold structure, as he focuses on the Real, drive-related element, what he terms as the “Somatisches Entgegenkommen”. Later, in his Three Essays, this will be called the fixation of the drive. From this point of view, Dora’s conversion symptoms can be studied from two perspectives: a Symbolic one, that is, the signifiers or psychical representations that are repressed, and a Real one, related to the drive, in this case the oral drive.
この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。
In the light of this twofold structure, every symptom has to be studied in a double way. For Lacan, both phobia and conversion symptoms come down to the formal envelope of the symptom, that is, they are what gives Symbolic form to the Real of the drive.3 Thus considered, the symptom is a Symbolic construction built around a Real kernel of jouissance. In Freud’s words, it is “like the grain of sand around which an oyster forms its pearl.”4 The Real of the jouissance is the ground or the root of the symptom, while the Symbolic concerns the upper structure.
精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の裁決は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。
A psychoanalytic cure removes repressions and lays bare drive-fixations. These fixations can no longer be changed as such; the decisions of the body are irreversible.(註14 :下記)This is not the case for the positions of the subject towards the drive processes; these can be revised. There are two possibilities: either the subject now accepts a form of jouissance that he earlier refused, or he confirms this refusal.
抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)
All repressions take place in early childhood; they are primitive defensive measures taken by the immature, feeble ego. In later years, no fresh repressions are carried out; but the old ones persist, and their services continue to be made use of by the ego for mastering the instincts. New conflicts are disposed of by what we call “after repression.” ... Analysis, however, enables the ego, which has attained greater maturity and strength, to undertake a revision of these old repressions; a few are demolished [the drive is accepted by the subject], while others are recognised but constructed afresh out of more solid material [the drive is refused in a more conclusive way]”.
この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)
This process entails a refusal that does not belong any more to the process of repression and symptom-formation. “In a word, analysis replaces repression by condemnation.”
われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の裁決は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような裁決をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて浄化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。
We must stress the fact that this decision of the subject concerns solely the drives in their pure form; in order to be able to take such a decision, the subject has to be connected in a direct way to the object a, which means that the analytic process has to have run its course and fulfilled its task of clarification. This implies that, first, the repressions have to be lifted, that is, the symptom has to be cleared of its Symbolic components. Thus, it is not possible to save oneself the trouble of an analysis and go directly for the underlying cause, the drive root. Freud’s answer to this idea can be found in his repose to Rank’s suggestion that we should directly tackle the primal trauma of birth. It would be of no more use than if the fire brigade contented themselves with removing the overturned lamp that set fire to the whole house – the building keeps burning.
ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)
Lacan’s theory on the relationship between the Real and the Symbolic presents us with a more consistent view. His metaphor of the jar is a better illustration of the reasons one can’t save oneself the trouble of an analysis. According to Lacan, the essence of making pottery does not reside in shaping the sides of the jar, but in the emptiness, the hollow space that these sides precisely create. The jar elaborates and localizes a hole in the Real; eventually, this elaboration and localization amounts to an authentic creation. The similarity of this to the genesis of psychopathological symptoms is due to the fact that it is only through the elaboration of the Symbolic constellation that the Real of the drive appears. In other words, one is obliged to pass through the Symbolic if one wants to approach the Real, because it is the Symbolic that delineates this Real. That is why psychoanalysis creates a new subject: “Is it not precisely the claim of our theory that analysis produces a state which never does arise spontaneously in the ego and that this newly created state constitutes the essential difference between a person who has been analysed and a person who has not?”
※《These fixations can no longer be changed as such; the decisions of the body are irreversible.》14の註(この註はひとつのポイントだが訳しづらく英文のままにする)。
14 This irreversibility can be understood from a Freudian point of view concerning the primal repression, which is first of all a primal fixation. In his descriptions of this primal repression, Freud makes it clear that this primal fixation concerns the drive (see S. Freud, Psycho-analytic Notes on an Autobiographical Account of a case of Paranoia (Dementia Paranoides), 1911, SE XII, pp.66-67 and Inhibitions, Symptoms and Anxiety, 1926, SE XX, p.94.) Freud’s idea of fixation is the precursor and the precondition of repression. Lacan made it clear that Freud’s fixation implies the idea of a choice-making instance. For Lacan, this instance is the Real of the body , that is, the Real of the drive. This Real of the bodily drive is independent of the subject; it is an instance that judges and chooses independently: “Ce qui pense, calcule et juge, c’est la jouissance” (“What thinks, computes and judges, is the Enjoyment”, J.Lacan, “…Ou pire”, Scilicet, nr.5, Paris: Du Seuil, 1979, p.9). Subsequently, the subject has to take a position vis-à-vis these choices of the body. If the subject does not accept a certain choice of the drive, this entails repression. From the etiological point of view, repression is simply a mechanism, which will be stressed by Lacan when he states that “l’inconscient travaille sans y penser, ni calculer, juger non plus.” (“the unconscious operates without thinking, computing or judging”, J.Lacan, Introduction à l’édition allemande d’un premier volume des Ecrits, Scilicet, 5, op.cit., p.14.). It is in this context that one has to understand another Lacanian statement: that the subject is not condamned to his consciousness, but to his body (“Ce n’est pas à sa conscience que le sujet est condamné, mais à son corps”, J.Lacan, Réponses à des étudiants en philosophie sur l’objet de la psychanalyse, Cahiers pour l’analyse, 3, 1966, p.8).
ーーというわけで、拙ない訳だから英文のほうを読んだほうがいいが、この論文は『Le Sinthome or the feminine way』とあるように、ここまでは前段であり、後段に症状との同一化、あるいはサントームの議論がある。もちろんラカン派とはいろんな種類があるので、そのまま真に受けるのではなく、こういう観点もあるという参照として、とてもすぐれた論文である、とわたくしは思う。
ヴェルハーゲは日本ではあまり名前は知られていないが、この十年のあいだに、「精神病」をめぐる議論でもっとも重要なふたつの理論的な提案をなされた人物として紹介されている論もある。
◆ Redmond“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis”
In Lacanian psychoanalysis psychosis continues to be an important focal point for new theoretical developments driven by clinical experience. Two important new developments have emerged over the past decade that provide contrasting approaches to Lacan's oeuvre and the theorization of psychosis. Paul Verhaeghe, in On being normal and other disorders:a manual for clinical psychodiagnosticsprovides a fascinating approach to psychosis through his synthesis of Lacanian psychoanalysis with Freud's theory of actual neurosis and psychoanalytic attachment theory research. His theory of psychosis is important as it addresses forms of psychosis “without symptoms.” That is, he engages with aspects of psychosis not easily contained by contemporary psychiatric nosology such as, psychosis without delusions and hallucinations, untriggered psychosis and body disturbances such as hypochondriasis. Moreover, he provides a specific treatment rationale for cases of psychotic disturbances that fall roughly into the schizophrenic spectrum. In contrast, Jacques-Alain Miller's engagement with the “later Lacan” informs his theoretical approach to the emerging field referred to as “ordinary psychosis.” The term ordinary psychosis provides an epistemic category—as opposed to a new nosological entity—for clinicians to address a series of theoretical problems linked to decompensation and stabilization often encountered in the treatment of psychosis (Miller, 2009; Grigg, 2011).
いずれにせよ先ず肝要なのは、《フロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかない》ということを再確認することだ。それは、ふたつの無意識があることと言ってもよい、「後期抑圧による無意識」と「原抑圧による無意識」が。それは「象徴界による無意識/現実界による無意識」としてもよいのは上に見たとおり。
ヴェルハーゲの別の論文から英文のまま抜き出せば次の通り。
◆『Reading Seminar XX : Lacan's major work on love, knowledge, and feminine sexuality』( Suzanne Barnard & Bruce Fink, editors)所収の「 Retracing Freud's Beyond 」(Paul Verhaeghe)より。
It is important to acknowledge the fact that with this theory Freud introduces two different forms of unconscious, hence, two different forms of knowledge. Repression proper, literally “after repression” (Nachdrängung), targets verbal material, word presentations that have become unpleasurable.
(……)beyond “after repression” lurks “primal repression,” which belongs to another form of the unconscious and brings with it another form of knowledge. As a process, primal repression is first and foremost a primal fixation: certain material is left behind in its original inscription. It was never translated into word presentations.This material concerns the “excessive degree of excitation,” that is, the drive, the “Trieb” or “Triebhaft,” to which Lacan refers when he interprets the drive as “the drift of jouissance” (Seminar XX, 102).
※上の論文には、快原則の彼岸をめぐって、「他者の享楽」にかんする非ー全体の論理、あるいは”Primary does not mean “first””というラカンの言葉が引用されており、このあたりは「遡及的なトラウマ(現実界)」にも本来は触れるべきところだが、今は割愛する。
This other jouissance, in its relation to the beyond, might very well be understood as an original one, a primary one within a linear perspective, followed by a later, second one. Lacan corrects this in a very explicit way. Primary does not mean “first”. The is an aftereffect, nachträglich, only to be delineated by the impact of the Other of the signifier, which tries to establish a totalizing effect through the One of the phallic signifier.
The other jouissance, which ex-sists as that part in the Other where the Other is not-whole, implies a knowledge that is acquired by the body through experiencing it.
さて、「後期抑圧による無意識/原抑圧による無意識」に戻れば、たとえば斎藤環の次の文は、ふたつの無意識を語っていると読むことができるのではないか。
現代におけるさまざまな抑圧の解除、タブーの解禁という流れについては、われわれが本質的に、みずからの無意識に対して耐え難い恐怖を抱いている可能性のもとで考えておく必要があるだろう。「抑圧しないこと」で隠蔽されるものこそが「無意識」に他ならない。(斎藤環『解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗』「批評空間」 2001 Ⅲ―1所収)
《現代におけるさまざまな抑圧の解除、タブーの解禁という流れ》は、《<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代》として、わたくしは読む。すなわち父の名の隠喩が機能しがたくなった(後期抑圧そのものは解除されつつある)現代として。もっとも、斎藤氏は別の文脈で書いており、《「抑圧しないこと」で隠蔽されるものこそが「無意識」》の「無意識」を欲動の無意識と読むのは深読みに過ぎるのかもしれないが。
今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』ーー「ラカンの資本家のディスクールと資本主義の世界のディスクール」より)
もちろんフロイトの中期の論文から次の文を抜き出すこともできる。
すべて抑圧されたものは、無意識のままであるにちがいない。だが、意識されないものが、すべて抑圧されたものであるとはかぎらないことを、まずわれわれは確認したい。無意識のほうが範囲がひろく、抑圧されたものは、無意識の一部分なのである。(フロイト『無意識について』)
あるいは、ジャック=アラン・ミレールの「もう一人のラカン」から。
「無意識は言語のように構造化されている」ということは一般的真理となっているのですから、そろそろ句読点を打ち直して、少しばかり違う角度から読み直す時ではないでしょうか。
では、このもう一人のラカンとは何者でしょう。たとえばそれは、無意識は言語のように構造化されていない、とでも言う者でしょうか。(……)そうではありません。このもう一人のラカンは皆さんが長年付き合ってきたラカンと同じラカンです。ただ、この「無意識は言語のように構造化されている」という有名な仮説から、まだあまり気がつかれていないいくつかの帰結を引き出したラカンなのです。(ミレール『もう一人のラカン』1984)
《言語のように構造化されている》無意識とは、象徴界=後期抑圧による無意識なのであり、それ以外の無意識もある、というふうにわたくしはこの文を読みたい。
ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))
この文を変奏すれば、ふたつの無意識(後期抑圧/原抑圧)は、「欲望の無意識/欲動の無意識」とすることもできるだろう。ドゥルーズ&ガタリの「欲望機械」は、フロイト=ラカンの「欲動」のことであるというジジェクの捉え方もある(参照:欲動と原トラウマ)。
ーーと、まあこのあたりはシロウトだから勝手なことを書いているというふうに読んでくれたらいいのであって、あくまでポール・ヴェルハーゲのいくつかの論文に依拠した臆断なのであり、彼は、欲望の無意識/欲動の無意識などという混乱を招き易い表現はしていない。
…………
上の例では、現実界の欲動として、口唇欲動(ドラ)と肛門欲動(狼男)しか挙げられていないが、ラカンの四つの「部分対象」(対象aにかかわる)は、An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis(Dylan Evans)の「drive」の項目によれば次の通り。
前二者の欲動については、次のような具体的で巧みな指摘が中井久夫にある。
口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)
これは象徴界における二次的なエラボレーションの例といってよいだろう。すなわち、現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界であり、そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点としてときに回帰するのだが、それにはもちろん触れられていない。
Balmès also notes this asymmetrical circularity in the relationship between the Real, reality, and symbolization: reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility .(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999. )