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2014年2月11日火曜日

メタ・レイシズム(浅田彰、ジジェク)

選挙が終ったら政治に関心のある「インテリ」としてはなにかを言って見たくなるのがつねであって、なんとかという人物が若者層の支持を集めている、というのは恰好の話題だろうよ。ところで、なにもあのナショナリストのたぐいの猖獗は、日本固有の現象ではないのくらいはまさか知らないわけではないだろうな?
 
「正義の味方」のインテリくんたちは、《彼は憎悪の対象として愛される完璧な人物だった。彼を憎悪していれば広い意味でのリベラルな「民主勢力」の仲間であることが保証された。すなわち寛容と多様性尊重という民主主義的価値と感情的な一体感を持つことができたのだ》という具合じゃないのかい? 

ナショナリズムやレイシズムってのは、同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっている「交通」を排した人間が引き起こすのだろうよ、なあそうだろ? インテリ村だか学者村だかの居心地のよい「村」社会で徒党を組んで正義面するのだけはやめとけよ。

昨日も書いたがアニキが若いオトウト分に呼びかけてつぎのようなことをノタマウのは、とてつもない臭気がするんだよな、共感の共同体の。まさか学問の世界でも「ヤンキー的な気合主義」が蔓延してるんじゃないだろうな。

研究者に限らないかもしれないが、世の中には「…しないと…できない」という発想が多すぎる。僕は「…すれば…できる」という発想を多くの人に持ってもらいたい。どこぞの組織が後ろ盾にならなくても、こんな素晴らしいシンポが開けるし、それを出版もできるんだ。

浅田彰の批判ってのは、さらりと語っているが根深いはずだぜ、いまだわかんねえのかなあ?

さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他 者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。」浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号――コビトの国の王様

仮にも「哲学者」であるなら、「民主主義の中の居心地悪さ」やら「いつのまにかそう成る会社主義」を批判吟味して、あるいは民主主義と資本主義の離婚のさま、資本の論理の席巻批判をして、同じ呼び掛けをするなら微温的な仲間主義のよびかけじゃなくて、たとえば新しいシステムの模索のたぐいの呼び掛けしろよな、ってことじゃないのかい? そのたぐいの呼びかけだったら文句いうつもりはないがね、

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8よりーー王殺しの記憶喪失/ラカンの資本家のディスクール

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イラク戦争:真の危険はどこにあるのか?(ジジェク)

真の危険は、ヨーロッパの民族主義的右翼が実際に果たしている役割にそのいい見本を見ることができる。ある種の話題(外国の脅威、移民制限の必要性など)を持ち出すという役割である。あとはそれを保守的な政党のみならず「社会主義」政権の現実的政治さえもが静かに取り上げるのだ。今日、移民の身分を「制限」する必要性などが大方の合意となっている。
そうしたストーリーに従えば、ルペンは人々を苦しめている本当の問題を語り、それを利用したということになる。フランスにルペンがいなかったら、ルペンを作り上げる必要があった、とさえ言いたくなる。彼は憎悪の対象として愛される完璧な人物だった。彼を憎悪していれば広い意味でのリベラルな「民主勢力」の仲間であることが保証された。すなわち寛容と多様性尊重という民主主義的価値と感情的な一体感を持つことができたのだ。しかし、「恐ろしい。なんという無知、野蛮。まったく受け入れることができない。私たちの基本的な民主主義的価値観に対する脅威」と叫んだあとで、憤慨したリベラルたちは「人間の顔をしたルペン」のようにふるまい始め、「しかし人種差別的な民族主義者は一般の人々の当然の懸念を巧妙に利用している。したがって私たちは何らかの方策をとらなければならない」と言って、より「文明化された」やり方で同じことを始めるのだ。


The true danger can be best exemplified by the actual role of the populist Right in Europe: to introduce certain topics (the foreign threat, the necessity to limit immigration, etc.) which were then silently taken over not only by the conservative parties, but even by the de facto politics of the "Socialist" governments. Today, the need to "regulate" the status of immigrants, etc., is part of the mainstream consensus: as the story goes, le Pen did address and exploit real problems which bother people. One is almost tempted to say that, if there were no le Pen in France, he should have been invented: he is a perfect person whom one loves to hate, the hatred for whom guarantees the wide liberal "democratic pact," the pathetic identification with democratic values of tolerance and respect for diversity - however, after shouting "Horrible! How dark and uncivilized! Wholly unacceptable! A threat to our basic democratic values!", the outraged liberals proceed to act like "le Pen with a human face," to do the same thing in a more "civilized" way, along the lines of "But the racist populists are manipulating legitimate worries of ordinary people, so we do have to take some measures!"...

ここにあるのは一種のヘーゲル的な「否定の否定」である。最初の否定において民族主義的右翼が「外国の脅威」に対抗する議論を前面に出して過激な少数意見に声を与えることによって無菌状態のリベラルな多数意見に動揺を与える。第二の否定においては、「上品な」民主主義的中道が、この民族主義的右翼の意見を哀れむように却下するジェスチャーを示しながら、同じメッセージを「文明化された」やり方で取り込むのである。
背景となる「不文律」の全体が両者の間ですっかり変わってしまっているために、誰もそれに気が付かず、誰もが反民主主義的な脅威が去ったと思って安堵する。そして真の危険は、同様のことが「対テロ戦争」に関して起きるのではないかということだ。ジョン・アシュクロフトのような過激派は見捨てられるだろうが、彼らの遺産が残り、私たちの社会の目に見えない倫理的織物の中に知覚できない形で編みこまれるのだ。彼らの敗北は究極的には彼らの勝利となる。彼らの存在はもはや必要がなくなる。なぜなら彼らのメッセージは世論の主流に組み込まれるのだから。

We do have here a kind of perverted Hegelian "negation of negation": in a first negation, the populist Right disturbs the aseptic liberal consensus by giving voice to passionate dissent, clearly arguing against the "foreign threat"; in a second negation, the "decent" democratic center, in the very gesture of pathetically rejecting this populist Right, integrates its message in a "civilized" way - in-between, the ENTIRE FIELD of background "unwritten rules" has already changed so much that no one even notices it and everyone is just relieved that the anti-democratic threat is over. And the true danger is that something similar will happen with the "war on terror": "extremists" like John Ashcroft will be discarded, but their legacy will remain, imperceptibly interwoven into the invisible ethical fabric of our societies. Their defeat will be their ultimate triumph: they will no longer be needed, since their message will be incorporated into the mainstream.




◆「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収より


浅田)……伝統的なレイシズムは、自民族を上位に置き、ユダヤ人ならユダヤ人を下位の存在として排除する。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学は、どの民族の文化も固有の意味をもった構造であり、そのかぎりで等価である、という立場から、そのような自民族中心主義、とりわけヨーロッパ中心主義を批判した。

そのレヴィ=ストロースが、最近では、さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、さまざまな文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべきだと、しきりに強調する。つまるところは、フランスはフランス、日本は日本の伝統文化を大切にしよう、というわけです。

もちろん、人類学者がエキゾティックな文化の保存を訴えるのは、博物学者が珍しい種の保存を訴えるのと同じことで、それらがなくなればかれらは失業してしまいますからね(笑)。

しかも、こういう見方からすると、文化的な差異を一元化しようとする試みは「自然」な反発を引き起こし、人種的・民族的な紛争を引き起こしかねないということになる。つまり、すべての人間の同等性を強調する抽象的な反レイシズムは、実はレイシズムを煽り立てるばかりなのであり、レイシズムを避けたかったら、そういう抽象的な反レイシズムを避けなければならない、というわけです。

これが、レイシズムと抽象的な反レイシズムの対立を超えた真の反レイシズムであると称するメタ・レイシズムですね。

ジジェク)そう、このメタ・レイシズムこそ、移民が中心的問題となるポスト植民地時代固有の、いわばポストモダンなレイシズムだと言えるでしょう。

メタ・レイシストはたとえばロストク事件(1992年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ち:引用者)にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。

ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムのレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは、反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。

先に私は旧ユーゴスラヴィアの紛争に対する欧米の一見中立的な態度を批判し、性急にどちらかの側につく前にこの地域に古くから根ざした人種的・民族的・宗教的差異を深く理解しなければならないといった、傍観者のような民俗学的中立性こそが、紛争の永続化と拡大の条件になっていると指摘しましたが、その背後にも同じ論理があります。それが、旧ユーゴスラヴィアに関しては外的に、ドイツの難民問題に関しては内的に現れているのです。


浅田)一見リベラルな多元主義がその反対の結果を生み出してしまうとしたら、皮肉と言うほかありませんね。それは、言い換えれば、「歴史以後」の平衡状態に達したはずの自由主義のシステムが、その内部から新たな変動要因を生み出してしまうということでもあるでしょう。……(『SAPIO1993.3 初出)


…………


◆「批評空間」2001Ⅲ―1斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より。

浅田) マクルーハンの言うグローバル・ヴィレッジ ではなくローカル・ヴィレッジがおびたたしく分立して、その内部で…馴れ合っているかと思うと、とつぜんキレる。(……)

斎藤) 経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化している(……)。

中井) これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提 というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。

斎藤) …心配なのは、四六時中浅いコミュニケーションを続けながら自我を維持している若者が、果たしてそのコミュニティからはずれてしまったとき一体どうなるだろうということです。浅田さんが以前に「アーバン・トライバリズム」とおっしゃっていたけれど、まさにそのとおりで、みな村人なんです。(……)
浅田) まあ、平和な村の暮らしがつづいている間はいいんだろうけれど…
※トライバリズム【tribalism】: 部族中心主義。同族意識。


まあ次のようなことを言う松浦寿輝や浅田彰がなにをしているのか、という問いは保留するとして、ーー《そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない》ーー、学園祭メンタリティーだけはやめとけよな、ということだな。メタ・ナショナリズムというのか、メタ・トライバリズム臭を振りまくなよ、おい、インテリ諸子よ。




猟場の閉鎖より

こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。
かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。(松浦寿輝)