「愚劣さ」は誤りとは関係ありません。つねに勝者(打ち負かすことが不可能)ですが、その勝利は謎の力に属します。それは、まさに、むき出しの、輝くばかりの現に存在することそれ自体です。そこから恐怖と魅惑、死体の魅惑が生じます(何の死体でしょうか。おそらく真実の死体です。死んだものとしての真実です)。「愚劣さ」は悩みません(プーヴァールとペキッシュです。もっと賢かったら、もっと悩むでしょう)。だから、「愚劣さ」は「死」のごとく鈍重に、現に存在するのです。呪文も形式的な操作でしかありません。それは「愚劣さ」を一括して外側から捉えます。《愚劣さは私の苦手だ》(テスト氏)。この言葉は最初のサイクルではこれで十分です。しかし、話は間隔を置いて無限にくり返されます。それはまた愚劣になるのです。(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)
――など、「「人はどこかよそに行きたくなる」、あるいは蜩の声」にて引用したのだが、ここでの「愚劣さ」の原語はなんだろうか、気になるが調べていない、と書いたところーーすなわち学生時代以来ご無沙汰の仏語はできるだけ遠慮したいーー、さっそくさる方から次のような情報を頂いた。多謝。
・沢崎訳とバルトの原文との対応ですが、括弧附きの「愚劣さ」は定冠詞附き大文字の"la Bêtise"(La Bêtise n'est pas liée à l'erreur.)で、括弧なしのそれは冠詞なし小文字の"bêtise"(...il y a bêtise.)であるようです。
・なお、沢崎訳で二度出現する「愚劣になる」の用法は、日本語訳では形容詞述語として「愚劣」という体言にならざるを得ませんが、バルトの原文では形容詞の"bête"(...ça redevient bête. / ...ces systèmes deviennent bêtes.)です。
・例外として、沢崎訳で《反「愚劣さ」》とあるものは定冠詞なし大文字の"contre-Bêtise"、ヴァレリーによる原文は参照していませんが、『テスト氏』の引用部分は定冠詞附き小文字の"La bêtise"(« La bêtise n'est pas mon fort »)でした。
――というわけで、「愚劣さ」は“Bêtise”ということらしい。別にウェブを検索してみると、ヴァレリーの『テスト氏』の冒頭の原文と訳文を並べられている方がいる(「現代化と文学」 SeibunSatuw Oct, 5. 2009)。誰の訳かはわからないが、Satuw氏自身のものかもしれない。ここではそこにある訳ではなく、手元の恒川邦夫訳(ポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』――新訳の試みと訳注――)、を抜き出して原文と並べる。
愚か事はわたしのよくするところではない。沢山の人たちを見てきた。いくつかの国も訪れた。熱心ではなかったが色々な事業にも首をつっこんだ。ほとんど毎日食事もしたし、女にも手を出した。今ふり返ってみれば、数百の顔、二つ三つのすばらしい光景、そして恐らくは二十冊ばかりの本の中身が脳裡にうかぶ。ただわたしとしては格別上等なもの、あるいは下等なものを記憶にとどめたつもりはない。残ることができたものが残っただけだ。
La bêtise n’est pas mon fort. J’ai vu beaucoup d’individus, j’ai visité quelques nations, j’ai pris ma part d’entreprises diverses sans les aimer, j’ai mangé presque tous les jours, j’ai touché à des femmes. Je revois maintenant quelques centaines de visages, deux ou trois grands spectacles, et peut-être la substance de vingt livres. Je n’ai pas retenu le meilleur ni le pire de ces choses : est resté ce qui l’a pu.
《La bêtise n’est pas mon fort.》――《愚か事はわたしのよくするところではない》には、恒川氏の註がながながと付いている。
有名な書き出しの一文La bêtise n’est pas mon fort.の訳。文型はごく簡単であるが、全体のトーンを決定するような一文であり、bêtiseという言葉の使い方が極めて特殊であるため、原文の簡潔さをあまり損なわないように翻訳するのは至難の技である。まずはっきりしているところからおさえておくなら、mon fortは「わたしの強いところ、得意とするところ、よくするところ」の意である。とすれば要はbêtiseの意味するところである。まずbêtiseという言葉が現代フランス語として持っている(響かせている)普通の意味は「愚かさ(愚鈍、軽率)、愚かな(軽率な)言動、とるにたらないこと(つまらないこと)といったものであることを頭に置いておくとして、テキスト読解の基本である作品にもどって考えてみれば、ここでbêtiseと言われていることの具体的な内容はこの最初の一文に続く「沢山の人々をみてきた……」以下「残ることができたものが残っただけだ」までに至るパラグラフに示されているのではないか。すなわち「わたし」にとってbêtiseとは「人と会ったり、旅行をしたり、事業に手を出したり、食事をしたり、女を抱いたりする」ことなのであり、もう少し広げれば「本を読む」ことも入りそうである。そうしてみれば、bêtiseとはbête(動物、〔人間の〕獣性)がなせる業のこととも考えられる。すなわち、動物としての人間のするすべてがbêtiseなのである。それならbêtiseに対する概念はなにかといえばintelligenceであって(……)、このあたりの事情を思いきって簡単に言い切ってしまえば「わたしは精神/知性の人間であって、こと動物的な人間の営みについては平々凡々としていて、また自分からことさらの関心も抱かない」といったところだろう。(……)
さて以上のように考えて旧訳を吟味してみると言わば小林秀雄の定訳と考えられているAでは「僕には、自分の愚かさは、うまく扱えない」となっていて、「自分の愚かさ」といったところが少し的が外れているように思われる。もっと古い訳ではbêtiseが「馬鹿な真似をする」となっていてこれもおかしい。馬鹿な真似は馬鹿な真似でも、個人の愚かさとしてではなく、「人間が生きるためにするさまざまな馬鹿々々しい真似」でなくてはならない。さらに翻訳Bでは「愚かしさは私には、自分ながら扱いかねる部分なのだ」となっている。「自分の愚かしさ」が「愚かしさ」となっているが、文章全体の印象からすると、「愚かしさ」というからにはやはりかく言う自分だけに関わっているようで、Aと同工異曲ではないか。
結局、拙訳ではbêtiseを「愚か事」と訳し、文章の流れで、愚か事とは以下に述べることだとわかるように配慮したつもりだが、果たして成功したかどうか。
――ここで比較参照されている翻訳Aとは小林秀雄訳(1977年筑摩書房刊行の増補版ヴァレリー全集2『テスト氏』所収)であり、翻訳Bとは村松剛・菅野昭正・清水徹訳(1960年筑摩書房刊行の世界文学大系56『クローデル ヴァレリー』所収)である。
とメモして今はなにがいいたいわけでもない。ただ恒川邦夫氏の註釈には畏れ入る。以前にも上の冒頭ではなく別の箇所での他訳との比較で、その感想を書いたことがあるが(陶酔と脆弱な精神(ヴァレリー「テスト氏との一夜」))、テクストとはこのように読むものなのだ、あるいは訳文にはこのように接するものなのだ、ということを気づかせ、ほとんどいつも散漫な読者でしかないわたくしにさえも襟を正させる迫力がある。
…………
上に書かれたこととはあまり関係がないかもしれないが、”bêtise”の訳について、以前次のような文を拾ったことがあるので附記(ジャック・レヴィ「譲歩しえぬ「もの」」)。http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/4570/1/20012-355-006.pdf
……そして、まさに、現実界と呼ばれる域を直視するという姿勢を前提に置くことが、この『精神分析の倫理』の冒頭にある「我々のプログラム」の主張です。法や道徳の問題は象徴界の領域に属するものだと思われるでしょうけれども、そこでの射程、狙いは現実です、とラカンはあらかじめ述べるのです。フロイトにとっての現実とは何かと問い続けながら、快感原則対現実原則における「現実」という概念に批判の焦点をあて、多様に問題化して行くのですが、また同時に、こうした倫理を真っ向から扱おうとするラカンの姿勢は、1960 年のフランスにおける知的環境を考えた場合、極めて政治的でもあります。つまり、現実 réel を射程に置くことの政治性です。具体的には、セミネールの後半の「隣人愛」と題された章で、進歩主義知識人の bêtise(英語の fool に該当するフランス語として、「愚かさ」 )と右派知識人の canaillerie(英語の knave を訳したフランス語として、日本語訳は「悪党」となっています)といった表現で、政治的言説における「現実」との関係を示唆するまでに至っています。
以下のジジェクの文の悪党/道化は、もともとは「悪党 canaillerie」と「道化bêtise」ということらしい。
『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』より)