このブログを検索

2014年4月29日火曜日

果たして「シェアすることは歓びを増す」だろうか

真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ。シェアすることは歓びを増す。美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う。それが実は「反貧困」ということではないのか。(佐々木中)

佐々木中氏の昨晩(2014.4.28ツイートだが、《シェアすることは歓びを増す》とある。《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》とある。

だが愛する女と巡り合ったとき、なぜシェアしたくならないのだろう、とひねくれ者のわたくしは言う。なぜ良い音楽や藝術、知的遺産が〈女〉と違うのだろう。愛する女に接するように、音楽や美味に向かうとき、ツイッターなどにその画像や音声を貼り付けたりしてシェアしたいと思うのだろうか。いやけっして。シェアしたいと思うのは、快楽の次元にあるもので、悦楽(享楽)の次元にあるものではない。

快楽plasirのテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》(ロラン・バルト『明るい部屋』ーーベルト付きの靴と首飾り


享楽jouissanceの次元、あるいはプンクトゥムの次元にあるものは、トラウマ的であり、冥府からの途切れがちの声として呟くほかあるまい。すぐれた作家としての佐々木中氏(たとえば古井由吉のすぐれた読み手である彼)はそんなことはとっくに知っているはずなのに、知らないふりをした発言であるように思う。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」ーートラウマを飼い馴らす音楽

ひとは本当のところは、《心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)であったり、《まもなく、私の二十年来の友人が須賀敦子さんを”発見”した。私たちは、少年が秘密の宝を共有するように、須賀さんの作品について、声をひそめるような感じで語り合った。ひとにはむしろ触れ回りたくなかった。》(中井久夫『須賀敦子さんの思い出』)ではないか。

われわれは、次のように書くジュネを忘れるわけにはいかない。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)


佐々木氏の冒頭のツイートはたんなるスローガン的言説に過ぎないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。あるいは営業活動の一環でしかないのではないか、とひねくれ者のわたくしは言う。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴーー大いなる個人的快楽ーーになぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』ーー承認欲望と承認欲動

《のがれよ、わたしの友よ、君の孤独のなかへ。わたしは見る、君が世の有力者たちの惹き起こした喧騒によって聴覚を奪われ、世の小人たちのもつ針に刺されて、責めさいなまれていることを。(……)

のがれよ、わたしの友よ。君の孤独のなかへ。わたしは、君が毒ある蠅どもの群れに刺されているのを見る。のがれよ、強壮の風の吹くところへ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。(プルースト『見出されたとき』井上究一郎訳)

再度、佐々木中氏の「愛している」はずのニーチェを引用するなら、次のように引用することもできる。

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳ーー
症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」)

ーーそれとも、やはりこうでも言っておくよりほかないのだろうか、《ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。》(中井久夫「ヴァレリーと私」

少なくとも、《美味や美観や良い音楽や藝術、知的遺産と巡り合ったときに、可能なら一人ではなく誰かと一緒に味わいたいと思うのが自然だ、と私は思う》という発話文のなかの《可能なら》という言葉は、「ほとんど可能ではないが」、と書き換えなくてはならないのではないか。


《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

――フロイトがそう言っている(ここでのフロイトは、正常さの典型とみなされるだろう)。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「嫉妬」の項より)

愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである。(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)

われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

《母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的状況になるのであって、けっして危険の状況ではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。》自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。 (フロイト『制止、症状、不安』人文書院 旧訳からだが山括弧の個所は「翻訳正誤表」にて修正――「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)

――と引用を中心に書いてきたが、佐々木中氏の冒頭のように言いたくなるのは、ある側面からは(たとえば大きな意味での「政治的」な側面からは)、よく分かると言えないでもない。上に書かれたものは批判ではなく批評(吟味)の言葉である。

以前、《「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている》(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)などをめぐってメモ書きをしたことがある(「おっかさんと蛍」)。それらは宙吊りのままである。

たとえば、宙吊りになっている問いへのヒントをわたくしは次の文に読む。

音楽を聞くには隠れなければならないと思うことがある。音楽は手袋の内と外をひっくり返すようにわたしを裏返してしまう。音楽が触れ合いの言葉、共同体の言葉となる。そんな時代がかつてあったし、いまも人によってはそんな場合があるのはもちろん知っているが、わたしの場合は、ほかの人々と一緒に音楽は聞けない。誰かと一緒に音楽を演奏するとなれば話は別だ。室内楽ならば、あらゆる意味で相手に合わせなければならない。二重奏のソナタや三重奏なら一緒に演奏することができる。それだけの謙虚な気持ちと少しばかりの愛があれば十分だ。あるいは深い知識があって、憎しみがなければできる。

だが、なぜ一緒に聞くことができないのだろう。なぜ音楽は孤独で身動きできない状態にあるときのわたしたちをとらえるのか。一緒に聞けば、他人の目の前で、そして他人とともにいながら、自己をあくまでも自分ひとりきりのものでしかない状態に投げ出してしまうことになるからなのか。それぞれの人間によってたがいに異なるはずの遠くの離れたものを共有することになるからなのか。子供時代も死も共有できはしないからなのか。

音楽、それは身体と身体のぶつかりあいであり、孤独と孤独のぶつかりあいであり、交換すべきものがなにもないような場での交換である。ときにそれは愛だと思われもしよう。演奏する者の身体と聴く者の身体がすっかり肉を失い、たがいに遠く離れ、ほとんどふたつの石、ふたつの問い、ふたりの天使を思わせるものとなって、どこまでも悲しい狂おしさを抱いて顔を向き合わせたりしないならば。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

ーーとすれば、これらの言葉は実は佐々木中氏の《真の豊かさとは「この世界の豊穣さを多くの人と『分け合う』」ということだ》に限りなく近づくとも言える。

だが、たとえば、現在のツイッターという場での「人びとのあつまりかた」は、あまりにも醜悪だと感じることがある。それは、クラスタ内、小さな共感の共同体内での、湿った瞳の交わし合い、うなずき合いであり、クラスタ外の者の排除なのだ。その場を変えなければならない。肯定的に佐々木中氏のツイートを拾うことが多いわたくしではあるが、彼のツイートは場を変える力として機能していないときもある、と感じることがある。むしろその発言は、受け取り手によっては、「アーバン・トライバリズム(部族中心主義、同族意識)」を助長してしまう機能をもつと思うことがある。

…………


冒頭の佐々木中氏のツイートは次のような文脈で書かれていることを附記しておこう。

@AtaruSasaki RT@gonoi 雨宮処凛さんが「反富裕」という「贅沢は敵だ」的なスローガンを出しているが、私は「贅沢は素敵だ」派なのでまったく賛成できない。RT @karin_amamiya 今年の「自由と生存のメーデー」、熱くなりそう!「反貧困」ではなく「反富裕」!pic.twitter.com/7T9HJThq48

@AtaruSasaki @gonoi 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか。

‏@gonoi 肯定を禁止し続ける言説たる「反〜」以前の、スローガンを与えられた群れによる「反〜」への先祖返りが窮極的に行き着く先は、民主カンプチアでしょう。RT @AtaruSasaki 反富裕とは……一歩間違うと「反・知的富裕」等々に雪崩れていって、行き着くところポル・ポトになりかねませんか

‏@AtaruSasaki @gonoi 全くその通りだと思います。ある局面でいかに強固な「アンチ」が必要になろうとも、究極的にはこの世界とその歓びの肯定に至らなくてはなりません。

@gonoi @AtaruSasaki 今日の本務校ゼミで、歓びの肯定がなされる社会としてバタイユ『呪われた部分』のLa société de consumationについて、見田宗介を補助線に解説したばかりです。可視的に数値化された効用に回収されることのない、生命の充溢と消尽を解き放つ社会。

@AtaruSasaki @gonoi 僕、卒論バタイユだって話はしましたっけ……笑

このような頷き合いが仲間内の「知識人」の間で、平気でなされているのをみると、あきれ果てるよりほかない。反富裕が一歩間違うとどこにいくのかを語るならば、「贅沢は素敵だ」が一歩間違えばどこに行くのかを語らずにどうしよう。だがツイッターというのはおおむねこの程度の頷き合いの場である。

われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。(柄谷行人『歴史と反復』)


◆追記:ジジェクと浅田彰と対談『「歴史の終わり」と世紀末の世界』より

浅田)……あなたの言われるように、ここで「北」と「南」というのは、地理的な意味とは限らないので、「北」の世界の中にも「南」の世界が入り込んでいる例は多々ありますーーたとえばアメリカの都市のスラムのように。


ジジェク)そう、そういう傾向は東西の冷戦の終結とともにいっそう強まっていると思いますね。

浅田)(……)自由民主主義と資本主義の勝利によってモダンな世界が普遍化するかに見えた瞬間、ポストモダンな「ネット」とプレモダンな「島々」への新たな分極化が生ずる。

ジジェク)そこであらためて強調しておくべきことは、そういう一見プレモダンな要素が、フクヤマの言うような過去の残滓などではなく、むしろモダンな資本主義システムの生み出したものーーいってみればポストモダンな産物だということです。それは自由主義的資本主義に内在するネガティヴな緒契機なのであり、ヘーゲル主義者として言うなら、自由主義的資本主義の勝利を語ることは同時にそういうネガティブな諸契機の露呈について語ることでもなければならないのです。そこには、内外の「第三世界」の貧困と退行、そして、そこから出てくる復古主義や原理主義といったものが、すべて含まれます。

ヘーゲル的に言って、それらが自由主義的資本主義に内在する「否定判断」、つまり自由主義的資本主義の普遍性の主張に対する内的否定にあたるとすれば、さらにラディカルな「無限判断」にあたるのは、カンボジアのクメール・ルージュやペルーのセンデロ・ルミノソでしょう。資本主義と伝統との矛盾に直面したとき、かれらは二重否定を行い、資本主義を拒否すると同時に、伝統をも解体してゼロからやりなおそうとするからです。この二重否定の逆説の中に反転した形で表現されている真実は、資本主義が前資本主義的な社会的紐帯の支えなしには存続しえないということです。言い換えれば、それは現代の資本主義に内在する矛盾を表現する激烈な症候なのであり、原始的なユートピア志向のラディカリズムの残滓などではありません。そもそも、クメール・ルージュの指導者のポル・ポトはマラルメやランボーを読み解く仏文学の教授だったし、センデロ・ルミノソの指導者のアビマエル・グスマンはカントの空間論について博士論文を書いた哲学の教授だったんですから(笑)。

そういうわけで、フクヤマに対するヘーゲル的警告は、自由民主主義と資本主義について語るとき、人権や経済成長といったポジティヴな面――「肯定判断」だけでなく、ネガティヴな面――「否定判断」や「無限判断」についても語らなければならないということです。たしかに自由民主主義は勝利したかもしれない。しかし、その勝利の瞬間は、そのラディカルな分裂の瞬間でもあるのです。

※否定判断と無限判断については、「「否定判断」と「無限判断」--カントとラカン(ジジェク『LESS THAN NOTHING』より)」を参照のこと。