「航思社さんの刊行予定によれば、ジジェクの大著『レス・ザン・ナッシング』が上下巻で来春発売」とのこと。(ウラゲツ ブログ)
May 22, 2012 に原著は出版されたのだから、二年越しの和訳ということになるけれど、誰が訳すのだろうね。昨年の六月ごろ、英語電子書籍版を手に入れたのだけれど、一向読み終わる気配がないね、オレの場合。いままでの書と重なる部分も多く、まあせいぜい辞書のように使っている具合だな。もちろん新しい指摘もたくさんある(オレにとってだが、――つまりすでにどこかに書かれていたのかもしれない)。
たとえば、CHAPTER 11 「The Non‐All,
or, the Ontology of Sexual Difference」には、ラカンの「性関係はない」が二種類あることの指摘がある。“il n'y
a pas de rapport sexuel” to “il y a
du non‐rapport (sexuel),”――これは、カントの「否定判断」と「無限判断」の違いとされる。
in late Lacan from “il n'y a pas de rapport sexuel” to “il y a du non‐rapport (sexuel),” a shift which precisely fits Kant's distinction between negative judgment (the negation of a predicate) and infinite judgment (the affirmation of a non‐predicate). (……)
It is easy to see how this passage from “there is no relationship” to “there is a non‐relationship” evokes the Kantian passage from negative to infinite judgment: “he is not dead” is not the same as “he is undead,” just as “there is no relationship” is not the same as “there is a non‐relationship.” The importance of this passage, with regard to sexual difference, is that, if we stop at “there is no sexual relationship” as our ultimate horizon, we remain in the traditional space of the eternal struggle between the two sexes. Even Jacques‐Alain Miller sometimes sounds like this—when, for example, he reads “there is no sexual relationship” along the lines of “male with regard to female is not like a key which fits its lock,” as a simple assertion of disharmony in contrast to harmony.
あるいは「男性」の否定は「女性」だがall (all elements of the human species)
that is not‐man is woman,”、「女性」の否定は「男性」ではないall that is not
woman is not man(つまり女性は非-全体だから、否定判断ではなく無限判断となる)とされるのは、男性の論理、女性の論理のロジックからいえば、当然なのだろうが、こうやって整理してもらうと改めてあり難く思う。
In a purely differential relationship, each entity consists in its difference from its opposite: woman is not‐man and man is not‐woman. Lacan's complication with regard to sexual difference is that, while one may claim that “all (all elements of the human species) that is not‐man is woman,” the non‐All of woman precludes us from saying that “all that is not‐woman is man”: there is something of not‐woman which is not man; or, as Lacan put it succinctly: “since woman is ‘non‐all,' why should all that is not woman be man?”44 The two sexes do not divide the human gender among themselves so that what is not one is the other: while this holds for the masculine side (what is not man is woman), it does not hold for the feminine side (all that is not woman is not man)…
Once we pass to “there is a non‐relationship,” even this kind of Heraclitean “unity/harmony in conflict” is left behind, since masculine and feminine are no longer symmetrical opposite poles: one of them (feminine) contains its own negation and thus breaks out of the confines of the opposition—not‐woman is not man, but the abyss of not‐woman within the feminine, as the undead remain within the domain of the dead (as the living dead).
この閉集合における「否定判断」ではなく、開集合の「無限判断」については、柄谷行人が、ブローウェルの「無限集合」における「排中律の濫用」の指摘を引用して書いている箇所を抜き出しておこう。
二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。
『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
カントはその『純粋理性批判』において、否定判断と無限判断という重要な区別を導入した。
「魂は必滅である」という肯定文は二通りに否定できる、述語を否定する(「魂は必滅でない」)こともできるし、否定的述語を肯定する(「魂は不滅である」)こともできる。
この両者の違いは、スティーヴン・キングの読者なら誰でも知っている、「彼は死んでいない」と「彼は不死だ」の違いとまったく同じものだ。無限判断は、「死んでいる」と「死んでいない」(生きている)との境界線を突き崩す第三の領域を開く。「不死」は死んでいるのでも生きているのでもない。まさに怪物的な「生ける死者」である。
同じことが「人でなし」にもあてはまる。「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり人間でも、人間でないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、あの恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。
カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。
カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
ほかにも、Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈)とされつつ、前者が男性の論理、後者が女性の論理とされる、Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All……Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning.
あるいは前期ウィトゲンシュタインと後期ウィトゲンシュタイン(家族的類似性)もしかり。in Wittgenstein: the passage from early to late Wittgenstein is the passage from All (the order of the universal All grounded in its constitutive exception) to non‐All (the order without exception and for that reason non‐universal, non‐All).…… The notion of language as a system defined by a set of universal features is replaced by the notion of language as a multitude of dispersed practices loosely interconnected by “family resemblances.”
※「男性的アンチノミーの〈例外〉を伴う〈不完全性〉/女性的アンチノミーの境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉」の基本的な理解のためには、ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純が優れている。
………
今、手許にある電子版の無差別に数頁見てみただけだが、手許に和訳と電子書籍版があるジジェクのほかの書と比べてみると、その一頁平均文字数は次の如し。
『斜めから見る』は、一項約2900letters前後(総頁数201 和訳 346頁)
『ラカンはこう読め』は、一項約2700letters前後(総頁数95 和訳 231頁)
『Less than nothing』 一項4000letters前後で(総頁数 804)
概算すると総文字数は次のようになる。
①『斜めから見る』は、約580,000文字
②『ラカンはこう読め』は、約260,000文字
③『LESS THAN NOTHING』は、約3,220,000文字
――つまり、『レス・ザン・ナッシング』は、①の六冊分弱、②の十二冊分強となるわけだ。
………
※附記(『斜めから見る』における「非-全体」の論理の叙述)
ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62~)
《…Winston Churchill's wellknown paradox. Responding to those detractors of democracy who saw it as a system that paved the way for corruption, demagogy, and a weakening of authority, Churchill said: "It is true that democracy is the worst of all possible systems; the problem is that no other system would be better." That sentence is based on the logic of "everything possible and then some." Its first premise gives us the overall grouping of "all possible systems" within which the questioned element (democracy) appears to be the worst. The second premise states that the grouping "all possible systems" is not allinclusive, and that compared to additional elements, the element in question turns out to be quite bearable. The procedure plays on the fact that additional elements are the same as those included in the overall "all possible systems," the only difference being that they no longer function as elements of a closed totality In relation to the totality of systems of government, democracy is the worst; but, within the nontotalized series of political systems, none would be better. Thus, from the fact that "no system would be better," we cannot therefore conclude that democracy is "the best"—its advantage is strictly limited to the comparative. As soon as we attempt to formulate the proposition in the superlative, the qualification of democracy is inverted into "the worst."》
フロイトは『非医師による精神分析の問題』の「あとがき」において、女性に関して、ウィーンの風刺新聞「ジンプリチシムス」に載ったちょっとした対話を思い出し、( ……)「すべてではない」というパラドックスを持ち出している。「一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』」。だからこそ女は男の症候なのである。女には我慢がならないが、女以上に素敵なものはない。とても女とはいっしょに暮せないが、女なしで生きるのはもっと困難なのだ。(同上)