学生時代、女友達からこんな話を聞いたことがある。
国立女子大学の寮でのこと。タイからの留学生二人が部屋で食事を作る、そのニュックマッムの臭いが廊下まで漂い、他の部屋の日本人寮生たちがその臭いに堪えられないと言い出し、寮会で不服を申し立てる。そして結局、寮生たちがアパートを探し、引越しの費用なども負担し、出て行ってもらった、と。部屋の賃貸料の差額も、たとえば寮費が一万円でアパート代が五万円であったら、その差額も寮生たちが負担することになったらしい。といっても二、三百人を越えるだろう寮生であるから、一人の負担は月に一杯の珈琲代程度であろうが。しかしながら、やはりあれはレイシズムや差別の一種というべきものなのだろう。とすれば、われわれのほとんど誰にでもそれはある。
――ということを今想いだして書いているのは、この女友達が所属するゼミ担当教師が、今話題の理化学研究所のどこかの支所の所長だったか副所長だったからだ。これはその当時だったかその後だったかはあまり記憶にない。ただこの教師が余技で書いた岩波書店出版の「オリガミ」の本を貰ったことがある。この女友達が理研に勤めたわけではない。彼女は院生時代に軽い分裂症状に襲われ、精神分析医にかかったが、そのままその医師と親しくなり、京王線の八幡だったか上北沢にある精神医学の研究所でアルバイトをすることになり、そのフロイト派の先生の「秘書」として、執筆された論に図表作成などの手伝いをしていた。その論が掲載されている、これも岩波書店の講座『精神の科学』の一巻を貰ったが、論文の「あとがき」には彼女の名も記載されている。わたくしの母はかつて「精神分裂病」と診断されたことがあるのだが、学生時代は『夢判断』と『ドラ』ぐらいは読んでいた程度で、「精神医学」なるものに関心をやや深めたのはそれ以降にすぎない。
この女友達はいわゆる「リケジョ」の典型で、というかわたくしのイメージとしてはそれであって、高校の化学教師の娘であり、整理整頓の巧みさが際立ち、記憶力と数学に秀でる。そして割り切りがはやく、あっけらかんとしている。常識のあまりないわたくしでも「常識はずれ」の印象を覚えた。実は中学生時代の同級生で、たいして勉強しているようにみえないのに、当時は県内一斉テストでも指折りの位置を占め、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)を抱いたものだ。中学生時代、彼女にまわりのものがことごとく乞うたのは、試験前の出題予測で、それが驚くほどよく当たる。それだけでなくいっそう驚いたのは、彼女が教科書を絵のようにして暗記していることだ。「ええと、その次のページの、そこよ」という具合で、あれは、今思えば「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)だったのではないか。
彼女も上であげたタイの留学生の住んでいた女子寮とは別の寮住いだったのだが、池袋から東武線で何駅目かにあったその寮は、村上春樹が短篇「蛍」で書くような寮だった。
寮は見晴しの良い文京区の高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は百五十年、あるいはもっと経っているかもしれない。(……)
コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリートの三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。大きな建物だ。開け放しになった窓からはラジオのディスク・ジョッキーが聞えている。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色――日焼けがいちばん目立たない色だ。
ただ「蛍」で描かれる部屋は《原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということになっている》のだが、その女子寮は四人部屋だった。ドアを開けると、二段ベッドが左右にふたつ並んでいる。廊下側の壁際と窓際の左右に机と椅子とロッカー。殺風景な部屋だ。
――ということを知っているのは、夏休みのお盆の最中、寮がガラガラになったとき二泊ほど泊ったことがあるから、と書けば自慢話めいてくる。デートの帰り彼女を寮まで送り届け、それでも名残り惜しく、彼女は「今はだれもいないわよ」と言う。
彼女が先に寮に戻り部屋の窓から合図する。誰もいないといっても、別の棟や上の階にはだれかいるはずだから、寮の鉄門を開けるのは目立ちすぎる。木立に隠れた箇所のコンクリート塀をよじ登って、そこから中庭を走り抜ける。そして一階にある日焼けたカーテンのかかった彼女の部屋の窓枠に足をかけて入り込む。あれは夜間だったはずだが、記憶ではなぜかまわりが明るい。トイレに行くのに困った。洗面器を差し出されるが、ちょっとそれはやりづらい。彼女のガウンをかりて女装をしたつもりになり、廊下の先にあるトイレまで早足で行った。これも馴れてしまえばへいっちゃらだ。
きみの肩が
骨をむきだしにしてうたいだし
さかりのついた猫が
ここかしこに
きみと声をあわせて啼いて
あたいを狂気じみておどかすんだ
ーー富岡多恵子「草でつくられた狗」より
彼女が先に寮に戻り部屋の窓から合図する。誰もいないといっても、別の棟や上の階にはだれかいるはずだから、寮の鉄門を開けるのは目立ちすぎる。木立に隠れた箇所のコンクリート塀をよじ登って、そこから中庭を走り抜ける。そして一階にある日焼けたカーテンのかかった彼女の部屋の窓枠に足をかけて入り込む。あれは夜間だったはずだが、記憶ではなぜかまわりが明るい。トイレに行くのに困った。洗面器を差し出されるが、ちょっとそれはやりづらい。彼女のガウンをかりて女装をしたつもりになり、廊下の先にあるトイレまで早足で行った。これも馴れてしまえばへいっちゃらだ。
まだもうひとつ「冒険譚」があるのだが、それは後年、彼女が茗荷谷のアパートに移り住んでから。医学生の妹と一緒に住んでいた。その妹が出払ったときに部屋に潜り込む。だがある日、予定より早く帰ってきた。部屋には内から鍵はかかっているのだが、そうはいっても着るものも着る暇がなく、散乱している服を抱えてベランダに出る。そこでどうしたかと言うと隣のベランダに飛び移った。その隣りの部屋は「幸いにも」少女が在宅中で、「ちょっと事情があって、……ごめんなさい」と言ってその部屋に入り込んだ。女友達と同じ大学学部の一年下の女の子だ。互いによく知っているらしい。にやにやして、「まあ珈琲でも飲んできなさいよ」と言う。いやに馴れ馴れしい。一年年下の少女のはずだが、女というのは男の弱味を握れば、そうなりやすいのだろうか、と後から思い返したものだ。「ダイジョウブよ、安心して。……あたしのクラスメートなんか彼氏の部屋を訪ねていなかったものだから、隣の彼の友人の部屋で待たせてもらったのだけれど、待ってるあいだにデキチャッタのよ、そのあと大変だったわ」、……。この子はいまは芥川賞作家である自宅通いの女性と友人関係で、当時から小説を書いていた彼女を「あの子トロイのよ、実験なんてぜんぜんだめ」などとおっしゃっるのをかしこまって聞いていた。わたくしは女友達とともに一度喫茶店でこの未来の芥川賞作家と「お話」させてもらったことがあるが、妖艶なところのあるなかなかの美少女だった。
…………
ははあ、下手な小説の図式のようだねえ、じつはこの隣室の少女との話はもうすこしあるのだが、このへんでやめておこう、いっそう三文小説のようになりそうだから。
わたくしは春水に倣って、ここに剰語を加える。読者は初めて路傍で逢った此女が、わたくしを遇する態度の馴々し過るのを怪しむかも知れない。然しこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまま記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。驟雨雷鳴から事件の起ったのを見て、これまた作者常套の筆法だと笑う人もあるだろうが、わたくしは之を慮るがために、わざわざ事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をした此夜の出来事が、全く伝統的に、お誂通りであったのを、わたくしは却て面白く思い、実はそれが書いて見たいために、この一篇に筆を執り初めたわけである。(濹東綺譚 永井 荷風)
《たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。》(柄谷行人『闘争のエチカ』)