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2014年1月15日水曜日

部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

エロスとゆらめく閃光」から引き続く。

Paul Verhaeghe(ポール・ヴェルハーゲ)の『Sexuality in the Formation of the Subject』 より(私意訳であり、精神医学の語彙に疎い専門家でないものが訳していることに注意)。
フロイトにとって、人間の成長の出発点は最初の不快の経験である。その不快とは、「痛みSchmerz」と呼ばれ、すなわち典型としては空腹や渇きにより齎される内的な欲求の結果としての痛みだ。フロイトはこの痛みを緊張の蓄積として理解する。この興奮を、「寄せあつめられた欲動component drives」(ほぼ「部分欲動」に等しいが、いくつかの部分欲動ということだろう:訳者)によるものとして理解するのはそんなに難しくはない。この不快な状態への乳児の反応は典型的なものであり、引き続いておこる間主観的な関係の基礎となるものだ。すなわち無力な赤子は他者に向かって泣き叫ぶ。他者は、乳児の内的な緊張をやわらげる「具体的な行動」に気を配る者と見なされる。そのような介入はつねに言葉と行動の組合せによって成り立っている。すなわち、〈他者〉は要求を理解しそれに応えることを子どもに示す。

For Freud , the starting point of human development is an original experience of unpleasure, called pain ( “ Schmerz ” ) that is the consequence of an internal need , whose prototypes are hunger and thirst. Freud understands this pain as an accumulation of tension. It is not so difficult to understand this arousal as the effect of the component drives. The infant's reaction to this unpleasurable situation is prototypical and provides the foundation for all subsequent intersubjective relationships: the helpless baby turns to the other by crying . The other is supposed to take care of the “ specific actions ” that will relieve the inner tension.Such an intervention will always consist of a combination of words and acts, indicating to the child that the Other has understood the demand and tries to respond to it.
この原初の相互作用の重要性は見過し難い。というのはそれに引き続く関係の基礎を構成するからだ。

まず第一に、寄せ集められた欲動component drivesによってひき起こされた最初の身体的な緊張は、永続的に〈他者〉に繋がることになる。その意味するところは、部分欲動はまさに最初から間主観的な次元をもつということだ。なおさらに、〈他者〉は己れの緊張をやわらげる責任があるものとして捉えられる。

二番目には、初期から、未来の主体subject-to-beは受身的な立場をとる必要がある。彼、あるいは彼女は、〈他者〉に完全に隷属している。

三番目に、われわれはここに、すべての主体における原初の不安に出逢う。すなわち引き離される不安separation anxietyだ。〈他者〉の不在や〈他者〉反応の欠如は耐えがたい。その結果、われわれは原初的な憧憬をも見出すことができるだろう、そのあこがれとは、〈他者〉と一緒にいたい存在ということだ。
The importance of this primary interaction cannot be overestimated, because it forms the foundation for every subsequent relation. First, an original somatic tension caused by the component drives becomes indissolubly linked to the Other, meaning that the partial drive receives an intersubjective dimension right from the very beginning. Even more so: the Other is ascribed the responsibility for the relieve of my tension. Second, in the beginning the subject-to-be has to take the passive stance, he or she is totally dependent on the Other. Third, we meet here with the primary anxiety of every subject, meaning: separation anxiety. The absence of the Other or the lack of his response is unbearable. Accordingly, we find here the primary longing as well, i.e. to be one with the Other.

ポール・ヴェルハーゲは、ここにある憧憬を、別の論文で、根源的なエロス(生の衝動)とする。それはすなわち〈母〉との融合であるとする。だが〈母〉との融合とは、上にあるように受身的な(隷属的な)立場に回帰することであり、個としての主体が死滅する。現実的にはあり得ないが、性交におけるオーガズムは小さな死であり、その「享楽」の刻限、「個」を失う。タナトスはその融合を「破壊」し、「個」の「生」に向うものとする。

そのことを、一般的なエロスとタナトスの解釈とは逆に(すなわち死の衝動は死に向かう衝動)、次のように書く。

生の欲動(エロス)は死に向かい、死の欲動(タナトス)は生に向かう。

life drive aims towards death and the death drive towards life (『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)

実際、ジジェクは、死の衝動は死なない衝動であるとしている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』ーー悦楽(享楽)と永劫回帰(ニーチェ)より)

ヴェルハーゲの解釈でも、エロスとタナトスは一見対立しているようにみえるがそうではない、としている。その対立は愛憎のようなものなのだ。われわれは憎むことを愛し、愛することを憎む。


フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。

Freud's discovery of a Beyond of the Pleasure Principle ended with an opposition between Eras and Thanatos, to be understood in terms of Philia and Neikos.Eros is supposed to pursue coupling, association, and mergers into ever-larger unities - just think of the ego's main function : synthesis. At the other end, Thanatos pursues disconnection, disintegration, and destruction.(『BEYOND GENDER. From subject to drive』)

ここにある、《愛と闘争のターム》とは、エロスとタナトスが語られるとき、必ず言及されるフロイトの『快原則の彼岸』1920や『文化への不満』1930における叙述ではなく、最晩年の論『終りある分析と終りなき分析』1937の叙述に由来する。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)

あるいは中井久夫は、カビの匂いやきのこの菌臭(それはまさに分解のにおいだろう)を語るなかで、《菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。》としている(「遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえ」より)。


…………

さてもう一度、冒頭引用されたヴェルハーゲのSexuality in the Formation of the Subject』 叙述

欲動の緊張に対処しようとするなか、子どもは、最初の〈他者〉に訴えかける。母はこの訴えかけを要求として解釈するが、それは彼女自身の部分欲動に向けた自己の立場を元にする。そしてこのようにして自己の欲望を含んだ答えをつくり出す。結果として、子どもはこの〈他者〉によって現わされたイメージに自己自身を同一化する。すなわち、自己の興奮に応答を受け取るために、〈他者〉の欲望に同一化するということだ。

簡単な例をあげよう。子どもの泣き叫びは食べ物への要求として最初の〈他者〉により解釈される。その結果、子どもは、ただ食べなければならないのではなく、この〈母〉の解釈を元にして、自分自身の興奮を食べ物の欠如として解釈することを余儀なくされる(引用者:場合によってはほかの興奮であることもあるのだ、たとえば、寒い、おっしこをして不快だ、抱っこしてほしいなど。究極的には母と合体(融合)したいということ)。

In its attempts to cope with the tension of the drive, the child appeals to the first Other. The mother interprets this appeal as a demand, based on her own stance towards her own partial drives, and in this way she formulates an answer that contains her own desire. As a result, the child identifies itself with the image presented by this Other , that is to say , it identifies with the Other 's desire , in order to receive an answer to its own arousal . A simple example : the child 's crying is interpreted by the first Other as a demand for food and, as a consequence, the child not only has to eat but, based on this interpretation, it is obliged to interpret its own arousal as caused by a lack of food.
この解釈とともに、最初の〈他者〉は彼女自身の欲望を表現するのだが、その〈母〉の欲望に子供は服従しなければならないのだ、もし子ども自身の欲動の応答を受け取るためには。他者が子どもの欲求に応答する責任をもつという原初的な相互関係と比較して、われわれはここにふたたびおどろくべき逆転に出逢う。自己の欠如の応答をえるためには、子どもは〈他者〉の欲望に従いつつ己れの手本model itselfにしなければならない。〈他者〉の欲望に同一化しなくてはならないのだ。これ以降、主体は〈他者〉の欲望に応答する責任をもつ。そして主体と〈他者〉の欲望の相違はぼんやりしてくる。すなわち、主体の欲望は〈他者〉の欲望である。

With this interpretation, the first Other expresses her own desire to which the child has to submit itself if it is to receive an answer to its own drive. Compared to the primary interaction where the other received the responsibility for answering the need of the child, we meet here again with a striking reversal. In order to get an answer to its own lack, the child has to model itself according to the Other 's desire : it must identify with it . From that moment onwards , the subject receives the responsibility for answering the desire of the Other, and the difference between the subject 's and the Other 's desire becomes blurred : “ the desire of the subject is the desire of the Other ”.
主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、(母)他者〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。

The subject wants the (m)other all to itself, to be sure of getting/giving a complete answer to (a). Such a complete answer is impossible, there is always a remainder and a necessity for an “ Encore ” : the “ Drang ” keeps driving .……(『Sexuality in the Formation of the Subject』 Paul Verhaeghe)

ここでの Encoreは、もちろんラカンのセミネールⅩⅩの題名であり、そこでの大きな主題は欲動(享楽)だ。そして Drang は、フロイトの『欲動とその運命』における、欲動の四つの区分のうちの最重要なひとつである。

われわれは欲動の概念と関連して使用される若干の術語を検討することにしたい。それは欲動の衝迫 Drang、目標 Ziel 、対象 Objekt、源泉 Quelleなどの言葉である。(フロイト『欲動とその運命』)

(a)は、敢えて対象aとしたが、それは享楽でもあり、言葉に言い表わされないものである。その享楽とは〈母〉との融合としてよいだろう。もちろん、それはラカンの幻想の式$◇aの”a"--《永遠に到達できない愛》と呼んでもいい(参照:ラカンの幻想の式と四つの言説)。


なお鉤山括弧〈〉(〈他者〉、〈母〉)、すべて大文字の他者やら、大文字の母を意味し、小文字の他者や小文字の母ではないことを示す。

Separationは通常「分離」と訳されるが、ラカン的な疎外と分離における用語法とは若干異なるはずで、ここではあえて「引き離される」(separation anxiety引き離される不安”)とした。

…………

ポール・ヴェルハーゲのこの論文Sexuality in the Formation of the Subject』 のテーマはに抜き出された箇所だけではない。彼のこの論では、フロイトの前期の「欲動」理論と後期の「死の欲動」理論を繋ぎ合わせる試みがなされている。

フロイトの性欲論1905では、欲動の部分欲動性自体愛(オートエロティシズム)性が強調されている。それとエロスとタナトス論(1920年以降の)をどう関連させるかの試みだ。

自体愛性を強調すぎてはいけない、という論旨もある。そもそも人は生れた瞬間から、欲動は〈母〉にかかわる、という箇所だけは上に引用している。もし最初の心的外傷をいうなら出産がそれなのだ。

ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängungを受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この原外傷Urtraumaを分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(『終りある分析と終りなき分析』ーー「欲動と原トラウマ」より)

もっともフロイトは、この最晩年の論文においてさえ、〈ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった〉、としている。
おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が家事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを運び出すことだけで満足する、ということになってしまうのではなかろうか。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

だが、出産外傷が、石油ランプであるには相違ない、としても読めるだろう。

中井久夫が次のように書くとき、胎児の自体愛性をも、そして出産外傷をも、示唆している。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。(……)味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』所収)


フロイトの初期欲動理論と後期死の欲動理論のかかわりには、多くの論者がいまだ頭を悩ませており、日本では最近でも次のような発言がある。

原 和之)
 フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川幸司)
 それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために

…………

表題を「部分欲動と死の欲動」をめぐる、としたが「部分欲動」と「死の欲動」のかかわりについては、ポール・ヴェルハーゲの別の論からの引用に留める(要するにいまだ消化できていない)。その前に原トラウマと欲動の関連を整理しなければならない。[PDF]trauma and hysteria within freud and lacan(Paul Verhaeghe)

※この論への反論:Attachment deficits, personality structure, and PTSD. Mills, Jon

それに対するPaul Verhaegheらの応答:POSTTRAUMATIC STRESS DISORDER(PTSD),ACTUALPATHOLOGY, AND THE QUESTION OF REPRESENTABILITY

A Reply to “Attachment Deficits, Personality Structure, and PTSD” (J. Mills)


これらは記憶の問題にもかかわってくるだろう。

(十川幸司)
 死の欲動は、フロイトとラカンにおいて最も重要な概念だと思いますね。ラカンはある時期、フロイトのこの概念を生かすためにみずからの理論を構築していったようなところがあります。しかし、死の欲動は臨床の中で生き延びてきた理論ではないんです。それは、むしろテクスト解釈の中で洗練されてきた概念です。『快感原則の彼岸』(1920)は、ラカン派ないしラカンの影響を受けた研究者にとって特権的なテクストになっています。そして、現在もラカン派は『快感原則の彼岸』の読解を行っている。しかし、私はそういう形での概念の洗練の仕方に以前から疑問をもっています。現在の臨床現場から死の欲動を考えるなら、それは外傷性障害や解離といったトピックと直接的に結びついています。フロイト自身も、そもそも死の欲動という概念を、外傷神経症者が反復して見る悪夢をどのように考えればいいか、という問題意識から導き出している。とすれば、死の欲動の問題は、最近研究が進んでいる外傷性記憶、あるいは幼児性記憶システムといった観点からも捉えられるのではないか、というのが私の問題提起です。

 このような論点が、これまで行われた『快原理の彼岸』に関する豊かな読解の成果を十分に汲んだものではないということはよく分かっています。死の欲動という概念が持つ可能性を狭めている、という批判もあるでしょう。しかし、私はこれまでのテクスト主義からは決して出てこないような、臨床的な一つの読解を提示してみたかったのです。

(立木康介)
 死の欲動の問題に記憶の問題から迫っていくのは正しいやり方なのだろうか、というのが僕の疑問です。(ポール・ヴェルハーゲ(Paul Verhaeghe)とジジェクをめぐる備忘より)


『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』 E D I T E D B Y Suzanne Barnard  Bruce Finkより

◆「Retracing Freud's Beyond」 Paul Verhaeghe

The real of the organism functions as the cause, in the sense that it contains a primordial loss that precedes the loss in the chain of signifiers. Which loss? The loss of eternal life, which paradoxically enough is lost at the moment of birth, that is, birth as a sexed being, because of meiosis (Seminar 11, 205; Seminar XI, 187). In order to explain this ultimate incomprehensibility of the ultimate as such, Lacan constructs the myth of the lamella, which is nothing but object a in its pure form: the life instinct, the primordial form of the libido. As an idea, it goes back to a biological fact: nonsexual reproduction implies, in principle, the possibility of eternal life (as is the case of single-celled organisms, which can be brought about through cloning), and sexual reproduction implies, in principle, the death of the individual. Each organism wants to undo this loss, and each tries to return to the previous state of being. According to Freud, this was the basic characteristic of the drive, to be read as the life and death drive. With Lacan, the dead facet of the death drive is easier to grasp: indeed, the return to eternal life inevitably implies the death of the sexed individual. The reaction to this primordial lossthe attempt to return and its defensive elaborationtakes place at the level of the symbolico-imaginary, which is at the same time the level of sexualization, of gender formation. It has to be noted that this sexualization comes down to a phallicization.This means that the first, real lack is answered, as was the second lack, the one in the symbolic. Thus the primordial loss at the level of the organism is reinterpreted as a phallic lack in the relationship between the subject and Other. Object a becomes associated with the bodily borderlines, the orifices through which other losses take place. Moreover, this phallic interpretation of object a implies that this original lack and loss are introduced by the mother/child relationship into the man/woman relationship; this is the effect of the Oedipal passage (Seminar 11, 64, 1034, 180; Seminar XI, 62, 9596, 164). From this point onward, the drive becomes a partial drive, containing an ever-present mixture of life and death drives.

ラカンのラメラlamellaの叙述のひとつは次の通り。

新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る、とちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレットhommelette)、ラメラ(薄片)の場合も、これを想像することはできます。

ラメラ、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係がある何物かです。それがなぜかは後ですぐお話しましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。

ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。

こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)

…………

附記:以下、『制止、症状、不安』(旧訳フロイト著作集6から)。

この1926年に書かれた論文は、1923年に上梓されたオットー・ランクの『出産の外傷』の衝撃、フロイトの問い返しのように読める叙述がふんだんにある。

《出産外傷の意義をランクが言い出したとき、フロイトはこの考えに全面的に賛成であった。しかしその論旨が、フロイトのフロイトたる由縁である性欲説を否定するにおよび、両者の関係は葛藤を胎むようになる。》ということでもあるようだ。(オット-・ランク、出産外傷論

人間や人間に近い生物では、出産は最初の個人的な不安の体験として、不安感情の表現に特有な様相をあたえるようである。だがこの関係をあまり重くみすぎたり、そのさい、次の正しい評価を見逃してはいけない。つまり危険の状況にたいする情緒表象は、生物学的に必然なものであって、どの場合にも生ずるものであることを見逃してはならない。また精神生活で起こるどのような不安の襲来にも、出産状況の再現が同時に起こるということは、不当なことであると私は考える。ヒステリー発作は根元的にはこういう外傷の再現であるけれでも、そうした性格をもちつづけるかどうかということは、けっして確実ではない。

私が他の箇所でのべたように、われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力の影響をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別を創りだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行なわれる以前に起こる。原抑圧の手近な誘因として、もっともと思われることは、興奮が強すぎて刺激保護が破綻するというような量的な契機である。p325
いまや不安は、去勢の危険にかかわることが多いので、喪失や別離にたいする反応とみなされると思う。この結論にはんすることもすぐ思いうかぶが、よく一致する事実が目立つことも否定できない。人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。その後の別離でも、不安が別離の象徴として繰り返されているとしたら、はなはだ結構なのだが、残念ながら主観的には、母からの別離としては体験されないために、上記の一致は充分に活用できない。ほかにも気がかりなことがある。別離にたいする情緒反応はわれわれのよく知るとおり、苦痛や悲哀として感じられ、不安とは感じられない。P350 
そこで不安とは、まず第一に感ぜられたなにものかである。われわれはこれをある情緒の状態と名づけるのだが、いったい情緒とはなにかが分からないのである。不安は感覚として明らかに不快な性質をもっているが、それだけでは性質のすべてをつくしたとはいえない。つまり不快がすべて不安だとはいえないのである。不快の性質をもつほかの感じ(緊張、苦痛、悲哀)もあり、不安はこの不快のほかに別の特性をもつに違いない。いったいわれわれはこの種々の不快な情緒のあいだの区別が分かるようになるだろうか。これも問題である。

不安の感覚からいつも何かをひきだすことができる。その不快の性質は特別の調子をもっており、実証はむずかしいが推定されるものであって、また人目をひくものでもないだろう。だが、この取りだしにくい特徴のほかに、わりにはっきりした身体感覚がみとめられ、それは特定の器官に関係している。今は不安の生理学には興味がないので、この感覚の二、三の代表的なもの、つまり呼吸器と心臓にしばしば明瞭にみられるものをあげるにとどめよう。それらは運動神経支配すなわち緊張解除の過程が、不安全体の一部をになうものであることを証明する。不安状態の分析は次の点を明らかにする。(1)特別な不快の性質、(2)緊張の解除の作用、(3)この作用の知覚。

この(2)と(3)の点から、悲哀や苦痛のような類似の不安の区別が分かる。悲哀や苦痛には運動による表出がともなわない。運動性表出がある場合でも、全体の成分としてはっきり別になって出るのではなく、結果や反応として現われる。したがって不安は、特定の経路による緊張解除の作用をともなう特殊な不快状態である。一般的にみれば、不安の根柢には興奮のたかまりがあり、これが一方では不快の性質をつくりだし、他方では上記の緊張解除によって軽減される。このまったく生理学的な総括だけでは、われわれはほとんど満足できない。われわれは、不安の感覚と神経支配を相互に固くむすびつけている生活史的な契機があると、仮定しようとした。いいかえれば、不安状態はある体験の再生であって、この体験は、刺激高進と特定の経路による緊張解除という条件をそなえ、この条件によって、不安のうちにある不快が特別の性質をもつのである。人間にとって出産がその典型的な体験とみられる。したがって不安状態は、出産時の外傷の再生であるように思える。p350-351
不安を出産という出来事に帰してしまうと、すぐにも反駁をうけるだろうから、その弁護をせねばならない。不安はおそらくすべての生体、すべての高等な生物に生ずる反応であるが、出産は哺乳動物だけが体験するものであるし、この出産が哺乳動物のすべてにとって外傷の意味をもつかどうかは疑わしい。出産を典型としない不安もある。だがこの反駁は、生物学と心理学とのあいだの柵をとびこえている。(……)

不安の構造と由来が、以上のとおりだとしたら、不安のはたらきは何かという疑問がおきてくる。どういう機会に不安が再生されるのだろうか。その答えは明らかで不動のものと思われる。つまり不安は危険な状態への反応として起こり、そういう状態に、ふたたびおかれると、きまって再生されるのである。p351
新生児や、それよりやや大きい子供が、どんな機会に不安を発展させるにいたるかをしらべる以外に残された方便はないだろう。ランクは彼の著作『出産の外傷』で、子供のもっとも早期の恐怖症と出産の出来事の印象との関係を証明しようと、精力的な試みをしているが、私にはそれが成功しているとは思えない。これについて二種の非難が起こる。一つは、彼がある前提に立っていることである。子供は出産にさいして、特定の感覚的印象、ことに視覚的な印象をうけていて、この印象を新たにするとき出産外傷の追想、ひいては不安反応をひき起こしうるという前提である。この仮定は証明できないあやしいものである。子供が出産過程について、触覚や一般感覚以上のものをもっているとは考えられない。(……)第二に、ランクはこの後期の不安状況を評価するにあたって、必要におうじ子宮内にいた幸福な時の記憶や、その外傷になった障害の記憶を使いわけているが、それは解釈にあたって勝手気ままに振舞うことだという非難である。子供の不安のどの例でもランクの原則をそのまま適用することはむずかしい。子供が暗闇におかれたり、ひとりぼっちになったりした場合、これを子宮内の状況の再現として、よろこんでうけとるだろうと期待しなければならぬことになる。(……)

そこで私は次の結論、つまりもっとも早期の子供の恐怖症は、それを直接に出産行為の印象に帰することはできず、現在までその説明は、なされていないという結論を下さねばならない。乳児にある種の不安の準備状態にあることは明白である。だがその準備状態は、出産直後にもっとも強くてその後しだいに弱くなるのではなく、精神の発育がすすむにつれて、後期にはじめて現われ、児童期のある期間つづくのである。p353
子供の不安の表現については、ごくわずかの場合しか分かっていないので、そのわずかな例にたよらなければならない。子供がひとりでいたり、暗闇にいるとき、または信頼する者(母親)のかわりに知らない人といるとき、この三つの場合は、愛する人(あこがれる人)を見失うという唯一の条件に還元できる。そしてこの点から、不安を理解する道と、不安にむすびついていると思われる矛盾を統合する道がひらかれる。

あこがれる人の追想像はきわめて強く充当され、おそらく初めは幻覚のようになる、だがそれは無効なので、この憧れは不安に変わるかのような様相を示す。そして困惑の表現であるかのような印象をあたえ、まだ未熟な者なのに、この憧れにとらわれていては、いっこうに事情がよくならないことを知っているかのように見える。不安は対象を見失った反応として現われるようである。それは去勢の不安が、価値ある対象との離別をその内容としてもっていることや、もっとも根元的な不安(出産時の「原不安」Urangest)が母との離別によって起こることと類似している。

次の考察は、対象喪失を強要することを越えてさきに行くことになろう。乳児が母の姿をもとめるのは、母が彼の要求をすぐみたしてくれることを前から知っているからにすぎない。また乳児が「危険」であるとみて、それからまもってもらおうとする状況は不満の状況である。つまり要求緊張の増大した状況であるが、これにたいして彼は無力である。私はこの見方からすべてのことが整理されると思う。刺激の大きさがきわめて不快な強さに達し、心の中で転換や解除の作用で克服できないような不満足の状況は、乳児にとって出産の体験と類似し、危険な状況の繰り返しであるに相違ない。両者の共通点は、解決をもとめる刺激の増大による経済的な障害であり、この契機が「危険」の中核になっていることである。どちらの場合にも、不安反応が生じ、この不安反応は乳児では目的にあっていることがわかる。以前に内的刺激の除去のために肺の活動が起こったのと同様に、緊張解除の方向が呼吸筋と発声筋にむくので、母をよびよせることになるのである。危険の標識として、児童が出産いらいもちつづけるものは、これ以外ない。

知覚によってとらえられる外界の対象が、出産を思いださせるような危険な状況をなくさすことができるという体験にともなって、危険の内容は経済的状況から、その条件である対象の喪失に移行する。そこで母のいないのに気づくことが危険になり、その危険が現われると、恐ろしい経済的状況が出現する以前に、乳児は、不安という信号をあたえる。この変化は、自己保存をはかるための、最初の大きな進歩であり、それは同時に、自らのぞまない自動的な不安発生の段階から、危険として不安を、もくろんで再生する段階に移行することを意味している。

自動的現象としても、また救済の信号としても、両方の点で、不安は乳児の精神的無力の産物である。この精神的無力はどうぜん乳児の生物学的無力にふさわしいものである。出産の不安も乳児の不安も、ともに母からの離別を条件とするという、目立った一致点については、なんら心理学的な解釈を要しない。これは母体が、胎児のすべての要求を身体の調整によって満たしてのち、出産後も他の方法でこの営みを一部継続するという事実だけで、生物学的に簡単に説明される。出産行為をはっきりした中間休止caesuraと考えるよりも、子宮内の生活と最初の児童期とは連続していると考えるべきである。真理的な意味で母という対象は、子供にとって生物的な胎内の状況の代理になっている。子宮内の生活では、母はけっして対象にならなかったし、その頃は、いったい対象なるものもなかったことを、忘れてはいけない。p354
私はかつてのべて別の命題を新しい考えにてらして検査してみる必要がある。それは自我が真の不安の場所であるという主張である。この主張は正当だと私は思う。超自我に、なんらかの不安の表現を帰する理由はまったくない。だが「エスの不安」という場合は、反対すべきこともないが、そのまずい表現を訂正する必要がある。不安はもちろん自我だけに感ぜられるある情緒の状態である。エスは自我のように不安をもたず、一つの組織体ではないから、危険状況を判断することもできない。だがエスのうちには、自我に不安の発展する機会をあたえるような過程が、準備されたり、あるいは実現されることは、一般にしばしばあることである。事実、もっとも早期のものと思われる抑圧は(原抑圧?)、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっているのである。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産の傷手と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。p356
われわれは不安の発展を危険状況によるものとしたが、これからさらにすすんで、症状は自我が危険状況からなむかれるためにつくられるといいたい。症状形成がさまたげられると、じっさいに危険がおそってくる。つまり、出産と似た状況になり、その状況で自我は、たえず起こる衝動の要求にたいして無力であり、量初の根元的な不安条件がそなわることになる。p358
……第二の試みは、オットー・ランクが一九二三年に彼の著作『出産の外傷』でこころみたものである。(……)あらゆる危険状況と不安条件が、なんらかの形で母からの離別を意味する点で、共通点をもっていることに気づいた。つまり、まず最初に対象喪失という意味での母からの離別になり、のちには間接的な方法で行われる離別になる。この重大な関係を見出したことは、ランクの構想の明白な功績である。p362
私自身が前に主張していたように、不安の感情を出産過程の結果であるとみなし、その当時体験した状況の反復であるとするランクの警告は、不安の問題をあらためて検討するのを余儀なくした。出産を外傷とみなし、不安の感情をこれにたいする放出反応とし、新しい不安の感情は、それぞれ外傷をより完全に「陰反応」しようとする試みであるとするランク独特の考えに、私はついてゆくわけにはいかなかった。不安反応からその背後いある危険状況にたちいる必要が生じた。この契機を導入することによって、新しい観点が生じた。出産はその後のすべての危険状況の原像になった。(……)生れたのちの生活では、不安には、次の二つの起こり方があるとされた。一つは出産に似た危険状況が生じたときに、それと欲せずに自動的に、そしてつねに経済的に当然なこととして不安が発生することである。第二に危険状況が、ただ回避をうながす程度に、近よっているときに、自我が不安をひき起こす場合である。p369
われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

母の見えないという状況は、乳児の誤解なのであるから、けっして危険の状況ではなくて、外傷的状況である。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母を満足させなければならないという欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この欲求が現実でなくなると危険状況に移行するのである。自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。

母を見失うという外傷的状況は、出産という外傷的状況とは、決定的な点でくいちがっている。出産の場合は見失うべき対象がない。不安だけが、この場合に現われる唯一の反応である。その後は、満足の状況が繰り返されて、母という対象がつくられる。この対象は、欲求のあるときは、「思慕」とよばれる強い充当をうける。こうした更新は、苦痛の反応に関係する。苦痛は対象の喪失にたいする元来の反応であり、不安は、この喪失にとうぜんともなう危険にたいする反応であって、さらに対象喪失にとうぜんともなう危険にたいする反応へ移行するものである。p375

 ーーここでフロイトの最後の叙述、「母を見失うという外傷的状況」を出産後すぐにある原トラウマとして読むのが出産外傷概念をというときの、いまでも受け入れ易い考え方だろう。