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2014年4月30日水曜日

四月卅日 妻の「挙止に気を附けよ」

同遊者の渋江六柳は抽斎である。小野抱経は富穀である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻に亘るを忌んで此に記さない。(森鷗外『伊沢蘭軒』その二百五十)

《事の褻(せつ)に亘るを忌んで此に記さない》とある。卑しくなるので書かないという節度にこの作品は全篇領されていると言ってよい。だが僅かな例外がないではない。

《此年(天保元年 1830年)十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。》(森外『伊沢蘭軒』 その百九十五)

伊沢蘭軒死後、長子榛軒が江戸に住んでいた阿部正寧に扈随して福山に戻る。福山藩主阿部氏が戻ったのは、おそらく参勤交代によるものだろう。

《此年天保元年十月二十一日は、福山へ立つた榛軒が始て留守に寄する書を作つた日である。宇津の山輿中にあつて筆を把ると云つてある。》とある。

この留守宅の弟柏軒に寄せる手紙の内容が面白い。

榛軒は最も妻勇のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。(その百九十七)

妻勇のことを気遣っている。なにを気遣ったのかと言えば、おそらく独り江戸に過ごす妻の大きな意味での「不義」ではないか。どうも夫の不在中の、叔母にたいして不遜な態度をすることのみを憚っただけではないように憶測する。

次の年もまだ榛軒は福山にある。どうやら早く江戸に戻りたいらしい。

《天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。榛軒は阿部正寧の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。》

 《わたくしは榛軒が初の妻横田氏勇を去つて、後の妻を納れたのが、前年暮春より此年天保三年に至る間に於てせられたかと推する。榛軒は前年二月の末に福山より江戸に帰つた。その福山にあつた時、留守に勇がゐたことは、荏薇問答に由つて証せられる。》

しかし柏軒に与ふる幾通かの書に、動もすれば勇を信ぜずして、弟にこれが監視を託するが如き口吻があつた。榛軒が入府後幾ならずして妻を去つたものと推する所以である。(その二百一)

ーーこれ以上は書かれていない。事が褻(せつ)に亘っているわけではない。だが『伊沢蘭軒』の気品と沈静に貫かれた文章のなかでは、例外的にある種の「想像力」を刺激させてくれる箇所ではある。もっとも、《勇の挙止に気を附けよ》を、勇の「腰」に気を附けよ、などと読んでしまう褻に亘ってはいけない。

ここでは大田南畝(蜀山人)ーー榛軒の父蘭軒と師弟関係、いやほとんど友人関係にあったーーの狂歌を反芻しておくだけにしよう。

世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし  
世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい


「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。

なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』)

かたい奥  さてはりかたは  よく売れる
小間物屋  よっきよっきと  出して見せ
いぼ付きは    切らしましたと    小間物屋
ずいきは皆な    かえと    女房たずね  (諧風末摘花」より)


ところで、当時「間男」は建て前上は死刑であったらしい。「女敵討」などいう言葉もあったようだ。《人妻が他の男と関係を持った場合…夫が武士 である場合、妻と相手の男を斬り殺す「女敵討」(めがたきうち)が認 められていた。参勤交代で夫が江戸に行っている間、出入りの男と関係を 持ってしまった妻がいた。夫は帰郷して事実を知り激怒。妻と相手の男を 斬り捨ててしまった。こういう事件もけっこうあったようだ。》

江戸では密通はありふれたことだった。密通は不倫より意味が広い。正式な婚姻以外の男女の性交渉はすべて密通である。ただし玄人の女との性行為は密通ではない。密通と刑罰を定めたのが、吉宗の時代の「密通御仕置之事」である。処罰は厳酷で密通した男女のほとんどは死刑になった。

江戸の男と女は厳罰におびえていたのか?けっしてそんなことはない。あっけらかんとセックスを享楽していた。刑罰はあくまで建前である。というよりあまりに過酷なため、人々は訴えるのをためらった。もちろん密通で処刑された男女もいるが、これは殺傷事件にまで発展し、町奉行所の役人が乗り出さざるを得なかったからである。ひとたび町奉行所に持ち込まれると杓子定規に厳格な刑罰が適用された。

ここで大岡越前が登場する。「世事見聞録」(文化十三年)によると、世間にあまりに密通が多いため、密通御仕置之事に定められた処罰を厳格に適用すると死刑者が続出するし、奉行所も仕事に支障をきたす。そこで大岡越前が間男代を七両二分と定め、内済による穏便な解決をうながしたのだ。(永井義男『お盛んすぎる江戸の男と女』)




ーー江戸期の浮世絵作家は「黒」の扱いがすばらしい、マネ以前に「黒」を発見したのは彼らである、と加藤周一は書いている(春信の女と歌麿の女の胸)。


とここまで書いて、上に《榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた》のは参勤交代だろうとしたが、よく読むと、天保元年十月出発、天保二年二月十五六日頃入府の予定とあるので、わずか四ヶ月ほどの江戸不在であり、これは参勤交代とは異なるのかもしれない。

諸大名一年替りに御城下に詰居れば,一年はさみの旅宿也。其妻は常江戸なる故,常住の旅宿也。御旗本の武士も,常江戸にて常住の旅宿也。諸大名の家中も,大方其城下に聚り居て面々の知行所に居ざれば,皆々旅宿成上に,近年は江戸勝手の家来次第に多くなる。是凡武士といはるる程の者の旅宿ならぬは一人もなし。(荻生徂徠 「政談」)

これは徂徠の「旅宿の境界」という概念をめぐる叙述のひとつなのだが、当時の武士階級はすべて旅宿の人なのであり、妻子の江戸常住も将軍家の「人質」なのであって、すなわち《常住の旅宿》ということになる。孤閨悶々とした武士の妻はあまたいたことだろう。

徂徠が書くように、参勤交代とは一年おきに、領地住まいと江戸住まい(参勤)を交代する制度なのだから、繰り返せば、四ヶ月ほどの領地滞在ということからして、阿部氏が領地福山に戻ったのは参勤交代とはまた別の旅だったのかもしれないが判然としない。

江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)

ここまでの引用にしようと思ったが、やはり以下を続けよう、というのは《一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである》とあり、江戸期の時代の史伝を読んでいると、ときにそう思わざるをえない感慨を抱くから。二百年近くまえの話だが、人びとの人情の機微がとても近しい気がするのはそのせいかもしれない。

そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。

二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。

いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的なあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。

日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(同上)


たとえば柄谷行人《日本的な生活様式とは実際には江戸文化のこと》と語っている(いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」)。

中井久夫は、別の論で、江戸的生活様式を生み出した制度として、「大家族同居の禁」、「刀狩」、「布教の禁」の三つを挙げている。

このシンポジウムで私の前に米山俊直先生が話された中で私の印象に強く残ったのは、信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。それ以降、秀吉と家康がした大きな改革が三点くらいある。一つは「大家族同居の禁」である。江戸時代のほうが明治以降よりも小家族であった。森鴎外の『阿倍一族』のような反乱を起こされたら困るからである。もう一つは刀狩という「武装解除」である。最後の一つは「布教の禁」で宗教は布教してはいけないということである。おそらく幕末のいろいろな宗教運動がものすごい抵抗に遭ったのは、布教の禁に真っ向から対立するからだろうと思う。布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。以上の三つに付随して「宗教者医療の禁」がある。「医は仁術なり」という言葉は「お医者さんは非常に親切であれ」ということではなくて、「仁」という儒教の道徳にもとづいた非宗教人だけに医術を許すということである。ただし日蓮宗は狐憑きを治療してよいなどいくつかの例外はある。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収 P. 98)

…………

さて、もう一度上に書かれた「参勤交代」に戻る。

鷗外の『伊沢蘭軒』から、《此年(天保元年 1830年)十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた》、あるいは《天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。榛軒は阿部正寧の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。》の二文を引いて、これでは領地滞在が四ヶ月ほどにしかならず、一年おきに、領地住まいと江戸住まい(参勤)を交代して行われる「参勤交代」による滞在とは異なるのではないかと記した。

ところで鷗外の史伝物蘭軒伝前作の『渋江抽斎』にもいささか奇妙な記述がある。抽斎は,藩主越中守信順に扈従して弘前に滞在するのだが、「詰越」により二冬を過ごすことになるとあるのだ。これも足掛け二年の滞在であり、通常の参勤交代の滞在期間一年ではないということになる。

初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉を噉うようになったのはこの時が始である。(『渋江抽斎』 その二十七)

この「参勤交代」制度の実態をインターネット上で調べてみようとしたら、まさに『渋江抽斎』のこの箇所を引用して、鷗外の記述の誤謬を指摘する梅谷文夫氏の論文に行き当たった(「渋江抽斎・吉田篁墩・岡本況斎に関する雑記」1993)。

梅谷氏は棭斎研究家であり、Wikipediaの『狩谷棭斎』の頁には、《森鴎外が晩年、史伝『澁江抽斎』、『伊澤蘭軒』、『北条霞亭』の続編として著述しようと資料を集めたが、公務と病で果たせなかった。事績は、梅谷文夫 『狩谷棭斎』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1994年)に詳しい》とある。

《信憑すべき証拠が得られない場合は、判断を留保し、私見をもって真偽を論じない》と言うのが棭斎の信条だそうだ。その優れた考証家であることが明らかな梅谷文夫氏の津軽 信順弘前滞在の詰越をめぐる記述を抜き出す(この箇所も含めて、抽斎伝の四箇所の記述に疑義を発しているが、いまは弘前滞在の箇所のみを引く)。

鷗外は,『渋江抽斎』その二十七・二十八に,抽斎は,藩主越中守信順に扈従して,天保八年七月十二日,江戸を立って弘前に行き,二冬を弘前で過して,同十年,越中守信順に随行して江戸に帰ったと記述している。

ところで,天保十年五月十六日,越中守信順の隠居と左近将監順徳の襲封を公儀が允許したことが諸書に記録されている。鴎外が言うように,越中守信順が,詰越をして,この年に江戸に戻ったのであれぱ,参府の時期は,五月十六日以前であったということになる。武鑑には三月参府と記載されているので,そのこと自体は異例とするには当たらないが,参府の直後に,病気を理由に,公儀に隠居を願い出たということになる点が,以前から,少々,気になっていた。詰越をした理由は何であったのか,病気が理由であったとすると,詰越を決めたのは,鷗外によれば,天保八年であったというから,かなりの長患いをしていたことになる。参府の直後に隠居を願い出たとすると,本復しなかったのであろう。そういう状態の越中守信順が,まだ雪が残っていたはずのこの時期に,江戸まで百八十二里の旅に出ることを,他の家臣はともかく,医者である抽斎が,それをよしとしたということになる点が,特に気になったのである。

『江戸日記』を検したところ,越中守信順は,鷗外が言う通り,天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して弘前に向かっている。着城の日を鷗外は明らかにしていないが,八月七日であった。八月五日着城の予定が二日遅延したのである。『御国日記』を検したところ,越中守信順が,この年,詰越を決意したとか,詰越せざるを得ないような病患に見舞われたというような記事は,何も見出だせなかった。それどころか,越中守信順は,翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府していることが確認されたのである。鴎外が,「此年(天保八年)藩主が所謂詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに,二冬を弘前で過すことになったのである。」と記述しているのは,全く事実に反することであったことが明らかになったのである。また,越中守信順の代に,詰越を例としたことがないことも,あわせて確認し得たのである。証拠の引用は,すべて省略する。抽斎もまた,天保十年にではなく,天保九年十一月九日に江戸に戻っているのである。

これより先,抽斎は,天保四年四月六日,越中守信順に扈従して江戸を立ち,四月二十七日,弘前に着き,一冬を弘前で過して,翌五年十月十七日,弘前を立ち,十一月十五日に江戸に戻っている。

二冬を弘前で過したというのは,この両度の弘前行を合わせれば,そういうことになるということと混同したのであろう。誤記の責めは,鷗外ではなく,鷗外に材料を提供した渋江保が負うべきもののようである。

抽斎が初めて弘前で冬を越すことになった天保四年は大凶作の年であった。弘前藩の収納は皆無であったという。その前年三年も違作の年で,公儀に対し,損毛五分六厘七毛と届出ている。また,抽斎が再び弘前で冬を越すことになった天保八年も違作の年で,損毛四分九厘と公儀に届出ている。その前年七年も凶作で,損毛九分一厘であったという。天保三年から続いていた冷害のため,遂に四万五千人余の餓死者を出した天保八年の冬を,抽斎は,弘前で過したのである。

鷗外は,抽斎が二度目の越冬に備えて,「種々の防寒法を工夫して,家の子を取り寄せて飼養しなどした。」と記述し,また,「江戸で父の病むのを聞いても,帰省することが出来ぬので,抽斎は酒を飲んで悶を遣った。」とも記述している。しかし,二度目の弘前行は,事前に国元の惨状を知り得ていて,旅立ったのである。抽斎が,この時,獣肉を食らい,酒を飲むことを覚えたのは,鷗外が記述するような個人的事情が因であったとばかりは言えぬこと,くだくだしく論ずるまでもあるまい。

これがすぐれた考証家の仕事というものなのだろう、目を瞠らざるをえない記述である。もっとも鷗外の抽斎伝がこの指摘によって価値が減ずるということはない。鷗外はこの抽斎をめぐる論を書きつづけるなかで、抽斎の嗣子渋江保に出会ったのであり、保氏や彼が提供する資料に批判的ではありにくかっただろうとも思う。蘭軒伝においてさえ渋江保氏からの情報提供を受けている。さらにこうも言えるだろう、これらの史伝の真骨頂は、むしろ書き続けるなかで、鷗外自身の出会いがあり驚きがあり、読み手にとっても史伝というよりもエクリチュールの実践の驚きを与えてくれる、それが晩年の鷗外のいわゆる「史伝」の魅惑である、と。

一般的に学者たちの論文は、考察してしてしまったことを書く、あるいは《自分のパロールを活字にし、公表する者である》(ロラン・バルト(「作家、知識人、教師」)。他方、鷗外の晩年の作品は、ドゥルーズのいう如く書かれている、《自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。》(『差異と反復』)

さらには、こう言ってもよい、学者たちの論文は言説化のための分析しか行われていないが、鷗外の作品は分析の言説化がなされている、と。あるいはまた《挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せる》のだ。


波瀾万丈の物語とは一つの語義矛盾である。あらゆる物語は構造化されうるもので、思ってもみないことが起るのは、その構造に弛みが生じ、物語がふと前面から撤退したときに限られる。挿話の連鎖に有効にかかわらない細部がときならぬ肥大化を見せるような場合に、かろうじて事態は波瀾万丈と呼びうる様相を呈するにいたる。物語を見捨てた言葉の独走といったことが起るとき、構造の支配が遠ざかって小説が装置として作動し始めるといったらいいだろうか。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)