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2014年4月9日水曜日

しいんと切ない心地

以下は、古井由吉の『東京物語考』からの抜粋が主であり、もともとは《昭和五十七(一九八二)年七月から翌年八月にかけて十四回にわたり、岩波書店の小冊子「図書」に連載された随筆》とある。十回目までは、德田秋聲、正宗白鳥、葛西善藏、宇野浩二、嘉村礒多の作品をめぐって書かれ、十一回目に古井由吉自らの東京住いの略歴ーーここには近作『蜩の声』や初期長篇『女たちの家』と重なる叙述がふんだんにあるーー、そして最後の三つの章が荷風と谷崎をめぐる。「あとがき」には、《どうやらこの仕事のスタートの時から、私はこの両大家をアンカーとして頼みにしていたようだった。戦災中および戦後を映す鏡として、荷風の「罹災日録」と谷崎の「瘋癲老人日記」と、そしてまた荷風の短篇小説「買出し」が、早くから私の念頭にあった》、と。

おそらく、老婆の遺体を後に捨てて、死物狂いに松林の丘陵を越えた、境を越して気分の一変した買出しの女の姿が、私の随筆を発端から引っ張っていたと思われる。今の世にある者にとって、こちらへ向かって来る姿であるはずなのに、なぜか後姿ばかりが目に染みてならない。(『東京物語考』岩波同時代ライブラリー「あとかぎ」) 
彼処まで行つてしまひさへすれば、松林一ツ越してさへしまへば、何の訳もなく境がちがつて、死人の物を横取りして来た場所からは関係なく遠ざかつたやうな気がするだらうと思つたのだ。行き合ふ人や後から来る人に顔を見られても、彼処まで行つてしまへば何処から来たのだか分るまいと云ふやうな気がするのである。(永井荷風『買出し』

死者の物を掠めて五貫目半(二十一キロ)の荷の重みを背負って岡ひとつ越える。そしてその境の向こうで換金して身軽になって去る。おそらく、荷風によるこの買出しの女の闇雲な逞しさの叙述が、むしろ共感をもって、『東京物語考』という随筆の通奏低音となっているということなのだろう。たとえば三十七歳で往った嘉村礒多の章「幼少の砌の」の最後には《死期を知るがごとくに、寿命をくっきりと生きる、奔放に見える自己表白が結局は予言に近いものとなって成就する、これが昔の人間の、われわれには敵わぬところだ。くらべれば現代の人間は総じて、涯のよほどぼけた人生を送っている、つまり、その点ではるかに幼いということだ》とあり、古井由吉はこれが書かれた80年代の初頭、すなわち「軽さ」の時代風潮のなかで書かれた随筆で、ひとの、あるいはとくに時代変遷のなかでの「日本人」のあり様を問い直していると言ってよい。さらにはまた、同じ「幼少の砌の」にはこうもある、《現代の都市生活者はやはり芯がいつまでも幼い。それは人の、葬式などの機会にしばしば露呈する。傷つきやすい、傷ついたらそれきりになりやすい。世馴れているようでも、難事に対処する能力はよほど衰弱した。親となっても小児に留まり、保護者責任者の立場に置かれても、一身の苦にかまけ、振りまわされる。人を殺してもまず自身のことを訴える》、と。

もっともそれはこの随筆だけでなく、氏の小説作品において常に問われているのだろうし、たとえば最近のインタビューでも《行き詰まりが前方にみえれば、ただ生きて暮らすことに緊張がよみがえり、かえって衰弱から守られ活力がでると思う。腹を据えて生きるということでしょうか》と。あるいは別のインタビューでは、


「安泰が続くとみんなが同じ現実を共有していると思い込んで意思疎通も短い言葉ですませてしまう。自然、言葉は切れ切れになっていく。これでは危機が迫ったときに言葉が追いつかない」。一方で「震災で味わわされた言葉の無力感をじっくりかみしめ、緊張感を意識の底に持ち続ければ事態は変わる」と。

「例えば、(津波がきたとき)最後まで避難を呼びかけて命を失った人がいたが、それらはこの国の人のどんな美徳から来ているのか。失われたものを考えるだけでなく、逆に何が失われていなかったのかを考えるのも一つの方法でしょう」

わたくしはこの言葉に触れてかどうかはさだかではないが、震災後、ツイッターに書き込むのをやめたり、アカンウントを削除したりした。だがやはり唯一と言っていい日本に住む方々の生の発話への名残り惜しさに思い余って再開しはしたが、それ以降はいわゆるメンションという形式で《同じ現実を共有していると思い込んでいる》他人と「仲良く」湿った瞳を交わし合い頷きあうのはやめた。それは今この古井由吉の文を読み返せば、《言葉の無力感をじっくりかみしめ、緊張感を意識の底に持ち続け》ることの反映であると、いささか気取ってみてもよいのかもしれない。

いずれにせよ、いわゆる「私小説」系譜の作家たちも含んで俎上に載せられるこの随筆は、その通念としての「女々しい」私小説作家のイメージとは異なり、《それにしてもこれらの小説は、あらためて読めば、じつに強い文章の骨格を供えている》のがよく知れる。《その骨格に拠り、心身を賭けて、豪気なように苦悩している。これもまた古い精神のなごりなのかもしれない》。

『買出し』とほぼ同じ頃書かれたと思われる荷風の日記には、《今の世に生きんとするには寒気をおそれず重き物を背負ふ体力あらば足るなり。つくづく学問道徳の無用なるを知る》(『断腸亭日乗』 昭和二十二年一月廿二日)とある。


さて古井由吉の『東京物語考』本文から、荷風をめぐる箇所をいくらか抜き出すが、最後の三章が、「命なりけり」、「肉体の専制」、「境を越えて」という章題をもっており、それぞれ荷風、谷崎、荷風をめぐって書かれている。しかしながら、谷崎の章「肉体の専制」も、冒頭は次の荷風をめぐる叙述で始まっている。

昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。

「昭和四十年頃、同人誌に加わっていた」とあるが、古井由吉は1964年~1969年、高橋たか子らと同人雑誌『白描』に加わっていたとはウェブ上から拾うことができる(『乱読すれど乱心せず: ヤスケンがえらぶ名作50選』安原顯)。この《色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢》は、高橋たか子かと初めは思ったが、彼女の生年を確めてみると1932年でありーーああ、わたくしの母と同年生まれなのだーー、終戦直後はまだ十代前半であり、年齢があわない。




            (ありし日の偏奇館)

さて荷風の二つの章の叙述を順不同に抜きだす。まずは最終章の「境を越えて」から。

《寧ろ一思に藏書を賣拂ひ身輕になりアパートの一室に死を待つにしかじと思ふ事もあるやうになり居たりしなり》と、これは(……)昭和二十年三月十日の麻布市兵衛町偏奇館炎上の記の内、罹災前の心境を語った言葉である。それに続いて、《昨夜火に遭ひて無一物となりては却て老後安心の基なるや亦知るべからず》とある。

さしあたっては老後の安心どころか、五月末には東中野のアパートをまた焼け出され、六月末には逃げた先の岡山で、すでに火炎の照る中を寝床から跳ね起きて振分け荷物で宿屋の梯子を駆け降り、橋を押し渡って田の間にうずくまり(なぜだが「斷腸亭日乘」のほうではこの辺の詳細が省かれ、しかも《伏して九死に一生を得た》という場所がやや違うようなのだが)、戦争の終った時には恐怖に取り残されたかたちで土地に身の置きどころもなくなりかけ、八月の末日に復員軍人と一緒に列車に押しこまれて東京にもどればここにも住処はなく、熱海の知人の別荘に身を寄せて翌二十一年六十八歳の元旦の「斷腸亭日乘」に、

……六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき、老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり。

株の配当もなくなったので今年からは筆一本でしのがなくてはならない。それに食糧事情が逼迫して、元旦から朝飯を抜くために寝床の中で本を読んで空腹を紛らし、正午近くに起き出て葱と人参を煮て麦飯の粥を炊き、食後には炭火がないのでまた寝床に入って鉛筆で売文の草稿をつくる。

進駐軍の缶詰を開けては彼我の生活を較べて、《人間も動物なれば其高下善悪は食料によりて決せらるべし、近年余の筆にする著作の如きも恐らくは見るに足るべきものには非ざるべし》と歎く。また一方で、二十年の九月の中頃には、荷風の無事を知った知人たちから、戦争からの解放を喜ぶ手紙の来るのを、《一點眞率の氣味なし》と、国の荒廃を思い併わせて憂えている。また、文芸出版復興の兆しもすでにあり雑誌や新聞の記者たちが熱海まで荷風を訪れてくるのを、《さしたる用事でもなきに、東京より乗りがたき汽車に乗りて人を訪問する此の人達の生活も、亦奇ならずや》と訝る。(古井由吉「境を越えて」『東京物語考』)

次は、「命なりけり」からだが、ふたりの大文豪の対面場面がことさら見事に描写されており、《しいんと切ない心地に引きこまれる》永井荷風、明治十二年生の昭和三十四年没、谷崎潤一、明治十九年生の昭和四十年没。

その岡山でもわずか二週間あまりして市内壊滅の空襲に遭っている。そのあいだ荷風は人の周旋により銀行預金の一部をようやく引出して旅館に住まい、日ごとに岡山の街を散策して一種明視の感をもって市中の風景を「日錄」に綴っている。たとえば船着場の黄昏の風景を、

橋下に小舟を泛べ篝火を焚き大なる四手網をおろして魚を漁るものあり。橋をわたりて色里を歩む。娼家皆二級飲食店の木札掲ぐ。燈火ほのぐらき納簾のかげに女の仲居二三人づつ立ちて人を呼留む。されど登樓の客殆ど無きが如く街路寂然たり。店口に寫眞を掲ぐるものと然らざるものとの別あり。掲ぐるものは小店なるが如し。たまたま門口に立出る娼妓を見るに紅染の浴衣にしごきを巾びろに締め髪をちぢらしたるさま玉の井の女に異らず。青樓櫛比の間に寺また淫祠あり。……

春水の人情本の絵のごとくに眺める。ひき比べる玉の井あたりはすでに猛火に焼き払われた。命を落とした女たちもいるだろう。麻布偏奇館も焼け落ちた。東京はほぼ全滅し大阪神戸も同じ運命をたどったらしい。しかし岡山の市民はそれまでに戸障子を震わせるほどの爆音も耳にしたことがなかったという。この閑静な中で、絵のごとくに眺めるのはおそらく、終末の近さを感じる目である。一地方都市の壊滅といえども、そこからさしあたり逃れるすべのない人間には、世の終末に等しい。近々敵はかならずここをも襲う、その時にはのどかな城下町はよけいに凄惨なことになるだろう、と空襲を重ねて体験してきた者ならそう思う。思うよりも先に、不思議なような街の静けさを眺める。

六月二十八日の未明二時にこの街もまた警報なしに襲われた。焼失家屋二万五千戸、死者一六七八人という。《夢裏急雨の濺来るがと如き怪音に驚き覺むるに、中庭の明るさ既に晝の如く》荷風は洋服を着込み枕元の行李と風呂敷包みを振分けにして宿屋の梯子を駆け降り表へ飛び出す。《逃走の男女を見るに、多くは寢間着一枚にて手にする荷物もなし》とある。まず市の東を流れる旭川の橋のたもとまで走って対岸の後楽園の林の間から焔のあがるのを見たが構わず橋を押し渡って田園地帯へ逃げこむ。初体験の市民たちよりも老人ながらはるかに迅速沈着な退避だったのだろう。心得のない避難者たちはどうかして、燃える市内をただ炎に怖じてぐるぐると逃げ惑ったりするものらしい。その中をひとりまっしぐらに町の外へ落ちていく大柄の老人の姿は、人目に際立たなかっただろうか。

ところが田圃のあるあたりまで来て、前方の農家数軒がおそらく零れ弾を受けて炎上し牛馬が走り出て水に陥るのを見るや、《予は死を覺悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を觀望す》とある。死を云々とは偏奇館炎上の際にも、身の危険のかなり迫ったはずの東中野罹災の際にも見えない。わずかに二月二十五日の空襲の直前、取って置きのコーヒーに砂糖をたっぷり入れてパイプをふかし、この世に思い残すこと云々の言葉が見えるが、あれとこれとの隔りを思うべきだ。習うほどに剥出しになる、意気地のなくなるのが恐怖である。前方の農家はやがて焼け落ちて火は麦畑を焼きつつおのずから煙となったとある。

爆音が引いて川の堤の上にもどり対岸の市街のいまや酣の炎上を眺めた時には、空がようやく明けて、また雨が俄に降りはじめる。近くの家の軒下に罹災者と一緒にしばらく雨を避けて、火の衰えた市中にもどり、さらに知人を頼って岡山市の西端の田園地帯まで、振分けの荷を肩に雨中一、二里の道を歩む。知人の世話によって野宿を免れたことを、《其恩義終忘るべきにあらず》と書いている。終生ずいぶん身勝手な人だったとも聞いたが。

七月三日に同じ岡山の西はずれの三門町に人の邸の二階を借り、乏しい自炊暮しをして終戦まで至っている。この頃にも周辺をよく歩いたようで、裏山あたりから近辺の風光を望んで心鬱々として楽しまぬことを歎いたり、西へ田舎道を二里半も隔った人の家を訪ねたり、これはおそらく所在なさを紛らわすためであったのだろうが、どこかしらに食糧か住居か、安堵のたよりを求める心が忍んでいたかと思われる。戦後の散歩にもその習い性の、影が残ったのではないか。生きながらえるために歩いている、と言っても大袈裟ではないのかもしれない。

七月二十五日には東京から杵屋五叟(従弟:引用者)の手紙が来て、荷風の惨状を見かねてすぐに帰京するように切符も宿所も手配するとの旨に、《周章狼狽殆ど為すところを知らず。纔に亂筆數行。卽座には歸りがたき旨書き送にぬ》とある。二十六日には同じ岡山県の奥の勝山に難を避けている谷崎潤一郎から小包みが岡山駅留めで届き、《鋏、小刀、朱肉、半紙千餘枚、浴衣一枚、角帶一本、其他なり。感淚禁じがたし》とある。

八月二日には数日続いた下痢の後、暮れに井戸水で冷水摩擦をしている。感冒予防の為であるが、この際病気への恐怖が心についたのに違いない。夜にはすぐに寝つくようになった、とやや自嘲的に記されている。

八月九日に《赤軍滿州に寇すと云》と見え、翌十日には《數日前廣島市燒滅以後、岡山の人々再び戰々兢々。流言蜚語百出す》とあり、その早朝に勝山行の切符を買いに行っている。



ーーー谷崎が当時勝山の借りたと云われるもと酒楼の離れ「小野はるさん」の住居。


二日置いて十三日の未明にまた岡山駅に並び、徹夜の人に混って四時半の出札を待ち、途中諦めかけたが切符は手に入り、いったん朝食を摂りに家へ帰って十時前の汽車で発つ。伯備線で新見、姫新線に乗換えて勝山までの、隧道また隧道の深い谷を縫う旅である。車中坐り合わせた老婆からジャガイモとメリケン粉とカボチャを煮てつきまぜたようなものを貰って案外美味と思ったり、窓外の狭い渓谷を眺めて一歩一歩嚢中に追い込まれて行くが如き心地がしたりして、一時半に勝山に着く。谷崎はもと酒楼の離れの二階二間を書斎として、階下には疎開してきた親戚たちが大勢住まっている。その谷崎宅で佃煮とむすびと、風呂を貰って、谷崎に案内されて三軒ほど先の旅館に落着く。米は谷崎宅から届けられる。宿の夕飯は豆腐汁に渓流の小魚三尾に胡瓜もみで、《目下容易には口にしがたき珍味なり》。


ーーーー谷崎に案内されて荷風が宿泊した三軒ほど先の元赤岩旅館。

翌日の昼飯は谷崎宅で小豆餅米の東京風赤飯を振舞われる。その席で谷崎から勝山滞在を、断わられるかたちになる。山陽諸都市の罹災につれてこの土地も日に日に食料が逼迫して避難者たちはろくに喰えぬありさまだという。初めに手紙で誘ったのは谷崎のほうであったらしいのだが、事情すでにかくの如くなれば長く氏の厄介にもなり難し、と翌朝すぐに岡山へ帰る決心をする。駅に行って切符のことを訊くと朝五時に来なくては駄目だろうと言われて、それに備えて宿にもどって午睡にかかる。ところが暮れ方に谷崎から使いがあり、牛肉が手に入ったのですぐに来るようにと言われて駆けつけると、酒も暖められている。谷崎夫人も一緒で、上機嫌に呑んだようで、九時過ぎに宿へ帰っている。

翌八月十五日、宿の朝飯は卵に玉葱の味噌汁にハヤの付焼に茄子の糠漬、《これも今の世にては八百膳の料理を食する心地なり》とある。食後谷崎宅に寄ると、切符はすでに手に入れられてある。十一時二十分の汽車で、いくらも時間がない。前日の昼からここまでの荷風、潤一郎の心のやりとりの機微は、読者の想像にまかせるべきだろう。身の寄せどころを失いかけた荷風にはやはりこの土地への未練が最後まであったはずだ。谷崎も谷崎なりにこれが精一杯のもてなしだったのだろう。一夜二夜の客ならば肉でも馳走できようが長逗留の罹災者には団子ひとつも分けにくい。切符一枚にも誰かが早朝から駅前に立たなくてはならない。やむを得ず追い帰したり追い帰されたり、その侘びしさを体験した人なら、向かい合う両文豪の姿を浮べて、しいんと切ない心地に引きこまれることだろう。

新見での乗換えを済ましたところで夫人から贈られた弁当をひらき、《白米の握飯、昆布佃煮に牛肉を添へたり。欣喜名狀すべからず》。ほんとうに、着のみ着のままの年寄りが、端の乗客が覘いたら吃驚するような弁当だ。満腹して睡るうちに西総社倉敷も過ぎて二時に岡山到着、上伊福町というところの焼跡を通りかかり道端の水道で顔を洗って汗を拭い、休み休み三門町の寓居へ帰ったという。そちらもすでに罹災者たちが多くて居づらくなっていたらしい。

夏の焼跡の水道でよれよれの荷風散人が顔を洗っている。戦争の終ったこともまだ知らない。

谷崎潤一郎の実質的な文壇デビューは、明治四十一年、三十歳の荷風が二十四歳の谷崎を「谷崎潤一郎氏の作品」(「三田文学」11月号)で強力に推賞したことによる(「永井荷風と谷崎潤一郎の交友関係」より)。

痩躯長身に黒っぽい背広を着、長い頭髪を後ろの方へなでつけた、二十八、九の瀟洒たる紳士」が会場戸口に入ってくる。「『永井さんだ』と、誰かが私の耳の端で言った。私も一と目ですぐそう悟った。そして一瞬間、息の詰まるような気がした。(……)

最後に私は思い切って荷風先生の前へ行き、『先生! 僕は実に先生が好きなんです。僕は先生を崇拝しております! 先生のお書きになるものはみな読んでおります!』と言いながら、ピョコンと一つお辞儀をした。(谷崎潤一郎『青春物語』)

 荷風の日記から、両大文豪の「歴史的」邂逅の前と直後の二つの記述を抜きだしておこう。

大正八年八月四日。谷崎潤一郎氏来訪。其著近代情癡集の序詞を需めらる。
昭和二十一年四月初四。雨。新生社主人青山氏谷崎氏が上京を機會に、同氏と余とを招飮したき趣、昨日社員酒井氏を遣はされしかど、病後のつかれ猶痊えざれば、江戸川の堤に近き郵便局に至り電報にて辭意を報ず。

晩年の荷風をめぐっては、「春本『濡ズロ草紙』を草す(荷風『断腸亭日乗』)」などにいくらかのメモがある。