《母・髙橋英子(1914.1.31~
2013.5.21)》とある。九十九歳で逝去。
この母の追悼詩が書かれた(公表された)のは、ほぼ十ヶ月後ということになる
サイレンが遠く聞こえる
懐中電灯の青い光 にぎりしめ充電する微かな音
暗い家
ねむい子どもを歩かせ 赤ん坊を背負って急ぐ
川向うの洞窟へ
いつももんぺ 髪は手ぬぐいで包む
昔のことは言わなかった
聞いておきたかったことも
もう忘れたよ としか言わなかった
音楽は もういらない
家を離れて 病院の四人部屋
出てきたな
びっくりした
見舞いに来たの
いっしょにあそんで たのしかったね
もっとあそびたいけど
いまは つらいことばかり
日が暮れてゆく
血圧、脈、呼吸の波がゆれている
呼吸が波立ち 乱れ
他の波に波紋が伝わる
波頭が折り重なり 狭まり尖って
せわしく喘ぎ
たちまち砕け散る
「サイレンが遠く聞こえる」と始まる。だが遠くから唐突にやって来るのが掛けがえのない記憶だなどと他人の言葉を勝手に解釈はしまい。ただわたくしの記憶はそうであるというだけだ。《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》とは、シュネデールのグールド論のなかの言葉だった。シューマン論ではこうある。
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。
この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。
音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)
「私」もそうだ、私の内部には無限があり、内部の核、その奈落の底には外部がある。《自我であるとともに、自我以上のもの》といえばラカン派の言葉のようだが、プルーストの言葉でもある。
私の全人間の転倒。夜がくるのを待ちかねて、疲労のために心臓の動悸がはげしく打って苦しいのをやっとおさえながら、私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。いま私をたすけにやってきて魂の枯渇を救ってくれたものは、数年前、おなじような悲しみと孤独のひとときに、自我を何ももっていなかったひとときに、私のなかにはいってきて、私を私自身に返してくれたのとおなじものであった、自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だったのだ。L’être qui venait à mon secours, qui me sauvait de la sécheresse de l’âme, c’était celui qui, plusieurs années auparavant, dans un moment de détresse et de solitude identiques, dans un moment où je n’avais plus rien de moi, était entré, et qui m’avait rendu à moi-même, car il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait).
私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。(……)こうして私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。(プルースト「ソドムとゴモラ 二」 井上究一郎訳)
こうやってプルーストの「心情の間歇」の章の文を抜き出せば、さらには《喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない》と引用することもできる。
プルーストの小説の「語り手」が祖母の死について言ったように、私もまたこう言うことができた。《私はただ単に苦しむということだけでなく、その苦しみの独自性をあくまで大事にしたかった》と。なぜなら、その独自性は、母のうちにある絶対に還元不可能なものの反映だったからである。そしてそれが、まさに還元不可能であるゆえに、一挙に、永遠に失われてしまったのだ。喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、「時」は死別の悲しみを取り除いてくれる、ただそれだけにすぎないからである(私は単に死別したことを悲しんでいるのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま代わらない。というのも、私が失ったものは、一個の「形象」(「母」なるもの)ではなく、一個の人間だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのないものだからである。私は「母」なしでも生きてゆくことができた(われわれはみな、遅かれ早かれそのようにしている)。しかし私に残された人生は、確実に、最後まで、形容しがたい(特質のない)ものとなることであろう。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
高橋悠治の母への追悼詩は十ヶ月後に書かれているとしたが、昨年の六月の「掠れ書き29(時を刻む論理)」には僅かな痕跡がある。
ところで、死に近づいていく人の場合は、耳もとで呼びかけても、意識がないのか、あっても、応えるための筋肉が麻痺しているのか、死んでいく こと、生きているからだが持っているエネルギーや可能性をすべて使い尽くす作業にかかりきりでいるので応えたくないのか、ついにわからないま まに終わる。瞑想がついにおよばない生と死の、それにもかかわらずと言うか、それゆえの、だれのからだにも起こっている現実が、外からの視線 を拒否する、と言えないだろうか。意識はなくても、生きようとするからだの意志、と言うと意識のレベルで捉えられるかもしれないが、からだの 動きは、意志で動かす随意筋の範囲を越えて、動きつづけていなければ死んでしまう、心拍や呼吸だけでなく、意識を通さない、意識に上らないが 動き続けている、不随意筋といわれるものの運動があって、ここにいまある世界のなかに、ほんのしばらくのあいだでも存在していることはできる のだろうから、と言ってみたくもなる。
生命を維持している「しるし」とされている、心拍や呼吸の時間は、「刻む」とか「数える」とか言ってしまうけれど、じつは波打っているのだか ら、たとえば心臓の筋肉が血液を押し出す瞬間だけを感知して、波の頂点の間隔を計ったときの「刻む」という言い方から、時計のような機械の時 間とつい比較することになるが、人工の時間ではない特徴の一つには「ゆらぎ」があることを思いだすと、時間のありかたがまったくちがう、しか し、その質のちがいを語るのも、「ゆらぎ」という現象があることでさえ、機械の時間のことばでしか言うことができない、それが人間のことばの 限界のように見えるが、ことばはそういうものだったのか、いつからかそれが変わったのか、そんなことを思ってしまう。
高橋悠治はかつて、《ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ》 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』)とした。
悠治の追悼文はどれもこれも美しい
「だれ、どこ」を見よ
あるいは
雨の朝きみは武満徹を思い出している。
かれが亡くなって一月たった。
きみはかれのピアニストだった。
作曲の助手だったこともある。そこできみは
細かく書き込まれたスケッチから
映画のためのオーケストラ・スコアを作り、
楽器について、映画と音楽の関係についてまなんだ。
ながいあいだのように思っていたが、それは
ただ3年ほどの、しかし密度のある時間だった。
それからかれの友人となり、つぎに批判者となった。
そのことでかれはきずついた。
だが、きみとちがって、かれは
きみのことを悪くいうことはなかった。
きみは別な道を行った。
しばらく会うこともなかった。
何年もたって、ある町でかれの楽譜が売られていた。
崇拝者の列が、かれのサインを待っていた。
きみは、昔きみのために書かれた曲の楽譜を買って
列に加わった。
冗談のつもりだったが、あれは冗談だったのか。
そしてまた友人となり、十年がすぎた。
しばらくかれの姿を見なかった。
病気といううわさだった。
ひとに会わないようにしているのだと思って
たずねることもしなかったが、
きみは何にこだわっていたのか。
そのあいだに季節はめぐり、きみは
友人を二度うしなうことになった。
記憶はもろいものだ。
かれとはじめて話したのは嵐の夜だった。
台風で電車が止まり、古い旅館に泊まった。
やかましい雨の音のなかで、何を話したのか。
かれの娘が生まれた夜も、きみはかれの家に泊まっていた。
知らせを待ちながら、何を話したのか。
ことばは浮かんでこない。
ありありと感じられるのは、かれの声の響だけだ。
かれを思い出すとき、かれの音楽は響いてこない。
あるいは
どこから来たかではない
そこには二度と還れないから
どこへ行くかでもない
なにかをめざすことはもうないから
いまいる場所が問題だ
それがやっとわかってきた
二○○一年二月
ヤニス・クセナキスが死んだ
かすかにのこっていた
ヨーロッパとの縁も これで切れてしまった
一九六○年には勅使河原宏のはじめた草月アートセンターがあった
そこには武満徹や秋山邦晴がいた
クセナキスと
またケージともそこではじめて会った
いまは だれも生きていない
柴田南雄も死んだ
音楽をつくるときに意識していた人たち
ちかづくにせよ とおざかるにせよ
航路の支えだった友人たちはもういない
ーーとはグールド追悼の「かっこいい」捨てぜりふだった。
人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(「音楽の反方法論的序説」)
フィリピンの作曲家にして音楽学者ホセ・マセダが
何年も前に言っていたことがある。
(……)
「バッハもモーツァルトも、支配者のために書いた。
音楽で支配関係を表現した。
みんながわずかなものをわけあって生きることを
あらわす音楽はなかった」(同上)