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2014年1月3日金曜日

非-全部はメタランゲージである

すべての言語はメタランゲージ(メタ言語)だ
といったのはセミネールⅢ(1956)のラカンだ
メタランゲージなど話すことはできない
といったのは1960年に書かれたエクリのラカンだ
その後、どこで最初にいったのか
メタランゲージはないil ny a pas de métalangage
がラカンの言葉としてことあるごとに語られる

さてメタランゲージはあるのかないのか
などと問いを発してもはじまらない
メタランゲージはないというのは
言語に意味を与えるとき
言語を使用せざるをえない
言語の外に出ることはできない
己れの肩の上に乗って
自らの眺めることなどできない
ということでまあ当たり前のこととしてよい
いやさて当たり前か

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書より)

とはごく普通のカント的命題だ
だとすればラカンがメタランゲージはないといったとき
メタレベルに立っている
だよな?

ラカンは55歳のときすべての言語はメタランゲージといったのか
ヤコブソンの共鳴するようにして言ったらしい
だがここではヤコブソンの コミュニケーションの六機能図式やら
を想いだすのはやめにしておく

《意味とは、ある記号の、ほかの記号体系への翻訳である》(バース=ヤコブソン)
ぐらいは想いだしておこう

次の文もなかなかいい言葉だ
《言語は孤立し密閉した全体と解釈することができず、全体としても部分としても同時に見なければならない》

ラカンの非-全体の論理(女性の論理)だな
ここでジジェクが『LESS THAN NOTHIG』で書く
次の文をこねまわすつもりはないが

Politics which occurs in this in‐between space is non‐All: its formula is not “everything is political,” but “there is nothing which is not political,” which means that “not‐all is political.” The field of the political cannot be totalized, “there is no class relationship,” there is no meta‐language in which we can “objectively” describe the whole political field, every such description is already partial

でなんの話だったか
メタランゲージはあったりなかったりする
いつもil ny a pas de métalangageであるわけではない

<わたし>というのは、<ある>という動詞と同様に空虚な、一つの便利な記号でしかないのかも知れない。――二つながら、それが空虚であればあるほど便利な。(ヴァレリー「雑纂」はしがき)

<私>と発話するのはメタランゲージ的である(か?)

そもそもラカンが「同一化」セミネールにおいて
エピメニデスの有名なアポリア
「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のクレタ人が言った」から
《「我思う」というのは、
論理的には幾人かの論理学者を困らした
「私は嘘をつく」以上に確固としたものではない》

ラカンが「私は思う」とは
《私は「彼女は私を愛している」と思う》以外の何ものでもないとするとき
これは主体が客体としてのエゴがそう考えていると思うという論理であり
「私が思う」でさえ、メタレベルに立っていると言っている
としてよいだろう

ちがうかな?
まあもうすこし考えてみる
のは二日酔いでない<あなた>にまかせる

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

一人称単数代名詞を平気で使って
事たれりとするのは欺瞞的である

わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。(蓮實重彦+川上未映子対談

では<私>を連発するたとえば柄谷行人をどう扱うべきか

《私は小説作品として(「探究」シリーズを)読んでいる。彼(柄谷行人)は『探究Ⅱ』を、デカルトとスピノザと3人で書いている。しかも、ワープロを使って。》(蓮實重彦)

上の蓮實重彦の発話の起源のひとつはロラン・バルトの「自伝」の叙述からだ
ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

《自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。》(古井由吉『「私」という白道』)

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス(作家の方法)』)

まあこんなややこしいことをいわなくても
発話における無意識とはメタランゲージ的だ

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)

中井久夫の「メタ私」とは
中井独自の「無意識」だ

……もし、私の記憶の総体が同時に現前すれば、私は破滅するであろう。私の記憶の総体は私の中にあるが、同時にこの全体が意識のスクリーンに同時に現前しないように何かによって護られている。

精神病理学は、それを「無意識」というかもしれず、神経学は「側頭葉」だというかもしれない。しかし、これはフロイトの個人的記憶がたたまれている無意識でもユングの超個人的な無意識でもなく、またベルグソンは言ったような生理的無意識すなわちわれわれの意識的活動を可能にするために無意識化・自動化している心臓運動などの生理的無意識でもなく、テニスや外科手術など、社会学者チクセントミハイが「フロー(乗り)」という状態で実現する一種の超意識的無意識(この研究を行った京都大学生理学教授の名をとって「佐々木の無意識」といっておこう)でもない。それらの全部を含んでいるかもしれないが、そのどれかに含めさせることはできない。このように「意識的私」の内容になりうるものであって現在はその内容になっていないものの総体を私は「メタ私」と呼んできた。これは「無意識」よりも悪くない概念であるとひそかに私は思っている。まず、上に示したように「無意識」は「意識」でないものとして多種多様なものを含んでいて、それらを総称する言葉はないからである。

同じように、世界についても「メタ世界」というものがあるかもしれない。私に見えていない世界が見えている世界と同じ権利で存在していることを私は知っている。その存在の仕方は「メタ私」と違う。さらに歴史的事象の「存在」の仕方もまた別個である。しかし、これ以上立ち入ることは私の能力を超えている。 (中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』所収)


《メタ言語を破壊すること、あるいは、少なくともメタ言語を疑うこと(というのも、一時的にメタ言語に頼る必要がありうるからである)が、理論そのものの一部をなすのだ。「テクスト」についてのディスクールは、それ自体が、ほかならぬテクストとなり、テクストの探求となり、テクストの労働とならねばならないだろう。》(ロラン・バルト『作品からテクストへ』)