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2014年4月11日金曜日

四月十一日夕 大雨沛然たり

今夕六時すぎ、《薄暮大雨沛然たり》。だが須臾にして歇む》、ーーとは言葉の綾であり、半時ほどでやむ。この雨をもって今年の雨季の始まりとしよう。

私は一度も日記をつけたことがない。――というよりも、むしろ、日記をつけるのがいいのかどうか、わからなかったのだ。時折、始めてみる。そして、すぐやめるーーしかし、少し経つと、またつけ始める。それは間歇的にちょっと書いてみたくなるだけで、重大な意味もなければ、主義主張といった定見があるわけでもない。私はこの日記《病》に診断を下すことができるように思う。つまり、それは日記を書く事柄の価値についての解きがたい疑念なのだ。(ロラン・バルト「省察」ーー痛みやすい果実

……私は私の「日記」のいくページかが《私が視線を向けている者》の視線のもとに、あるいは《私が話しかけている者》の沈黙のもとに置かれていると想像するのである。――これはすべてのテクストの状況ではなかろうかーー。いや、そうではない。テクストは匿名である。あるいは、少なくとも、一種の「ペンネーム」、作家のペンネームによって生み出される。日記は全然違う(たとえ日記の《私》が偽名であったとしても)。「日記」は《ディスクール》(特殊なコードに従って《writeされた》一種のパロール)であって、テクストではない。《日記をつけるべきか》という、私が自分に課す問いに対して、ただちに、頭の中で、無愛想な答えが返ってくる。《知ったことか》、あるいは、もう少し精神分析的に、《それはあなたの問題ですよ》。

後はもう私の懐疑の理由を分析するしかない。なぜ私は「イメージ」の観点から「日記」のエクリチュールを疑うのか。それはこのエクリチュールが、私の眼には、油断のならない病気のように、否定的なーーはぐらかすようなーー性格に冒されているようにみえるからだと思う。これらの性格について、以下に述べてみよう。

日記はいかなる使命にも応えない。この語を軽んじてはいけない。ダンテからマラルメ、プルースト、サルトルに至る文学は、つねに、それらを書いた者にとって、いわば、社会的、神学的、神話的、美学的、倫理的等々の目的を持っていた。(……)「日記」は「書物」には(「作品」には)到達し得ない。マラルメの区別を借りれば、それは「アルバム」でしかない(……)。「アルバム」はとじてあるページを取り替えられるだけでなく(そんなことはまだたいしたことではない)、とりわけ、無限に除去できるのである。私は自分の「日記」を読み返して、《私の気に入らない》という口実で、次から次へと書いたことを消し、「アルバム」を完全に消去させることもできる。(……)――しかし、「日記」は、まさに、世界の非本質的なものを、非本質的なものとしての世界を本質的に表現する形式として考えられ、実践されることができないだろうか。――そのためには、「日記」の主題は世界であって、私ではないことが必要である。そうでなければ、言表されるのは、世界とエクリチュールとの間の隔壁となる一種のエゴティスムである。私はどう努力しても、凝着していない世界を前にして凝着してしまう。エゴティスムなしに、どうして「日記」がつけられようか。これが、まさに、私に「日記」をつけることを思いとどまらせる問いなのである(……)。

非本質的なものである「日記」はまた必要不可欠なものでもない。私は気違いじみた欲望が私に書かせる唯一の記念碑的作品に打ち込むように「日記」に打ち込むことはできない。「日記」を書くという、生理的機能のように毎日の規則正しい行為は、おそらく、快楽や快適さを伴うが、情熱は伴わない。それはほんの書き癖のようなものであり、その必要性は生産から再読へと至る道程で失われる。《私は、これまで自分の書いたことが特に貴重だとも、きっぱりと屑籠に棄ててしまった方がいいとも思わなかった》(カフカ)。……(ロラン・バルト「省察」『テクストの出口』所収)

《日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。》(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)


…………

◆「半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風 」より

終戦となって、荷風は大島五叟一家が疎開していた熱海へ身を寄せます。そこも仮りの宿で、千葉の市川へ大島一家と共に引越して行きます。独り暮らしで気儘に生きてきた荷風は他人との同居生活にしばしばトラブルを起こします。

そこで、近くの小西茂也(フランス文学の翻訳家)の一室を借りますが、ここでも荷風は奇行ががすぎて同居できません。

新藤は「奇行がすぎて同居でき」ないと書いているが具体的なことは何も書かれない。何があったかは半藤一利が教えてくれる。

「復讐がこはいから僕は何も云ひません。その代り荷風が死ねば洗ひざらひぶちまけますよ」と言っていたのに、小西氏は荷風よりも早く逝ってしまった。ゆえに小西氏に代わってと、佐藤春夫氏がバラしている巷説--それもありそうでなさそうな噂話であるが、フム、フム、なるほど、と納得させられるところもある。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」

荷風の小西宅での同居生活は昭和二十二年から二十三年にかけて。

《昭和廿二年、一月初四。(……)一日も腹痛の治するを待って、小西氏邸内に移居したし》とあり、 四日後の日記一月初八には、《小西氏の家水道なく炊爨盥嗽共に吹きさらしの井戸端にてこれをなす困苦言ふべからず》とあるので、この間に移居しているようだ(わたくしの手元にあるのは岩波文庫版の『断腸亭日乗』摘録であり、この四日から八日の間の日記は省かれている)。

そして昭和二十三年の年末、次の記述があり、これが荷風の覗き見があったのならば、そのわずかな痕跡であるだろう。

昭和二十三年戊子 荷風散人年七十

十二月廿八日。密雲散ぜず。天候を気遣ひつつ荷造りをなす。門前の小林氏つづいて中央公論社の高梨氏同社の給仕を伴ひて来る。あらかじめ頼み置きたる荷車も来る。小西氏主人主婦に暇を告げて去らむと思ひしが二人ともその姿見えざればそのまま荷車と共に二年ほど起伏したる家を去りぬ。転宅の始末思の外にはかどり高梨氏等午後二時近くに辞して去れり。独弁当箱の飯くひ終わりて一睡す。目覚むれば天晴れ夕陽窓に映ず。あたり取片付くる中夜になりしが電燈の光暗きこと燭火の如く物見ることを得ず。隣家の人にきくにこの近辺は電力薄弱のため毎夜かくの如くラヂオもかけられませぬと言へり。憂愁禁じがたし。夜具引伸べ溜息つきつつ眠に就きぬ。