《解釈を拒絶して動じないものだけが美しい》(小林秀雄『無常といふ事』)
いささかいかがわしい言葉として読めないこともない。あるいは「神」が語っているかのようだ。
……神以外には美を判断することは誰にもできない。それについて人は異なる意見をもちうる。素質に応じて人はそれを各々の物(作品)に持ち込まなければならない。というのも、われわれはあるものをいくつかのもののなかでは美とみるが、他のもののなかでは美とみないであろうから。両方とも美しい(二つの)異なるものについて、そのどちらが美しいかを認識することは容易ではない。(アルブレヒト・デューラー『絵画論』序文、下村耕司訳)
ここで『無常という事』を批評=吟味するつもりはないし、その能力もない。ただ、小林氏が比叡山に行き、「山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めている」と、突然、『一言芳談抄』の短文が絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、その物質性として現われた様が、「見れば見るほど動かし難い形と映って」、その視覚的な形の顕れの印象を叙すことによって、「解釈を拒絶して動じないものが美しい」という文が生み出されていることだけを記しておく。その絵巻物の擦れざらついた絵づらーーその「物質性」が、真に想起としての、いまそこに存在する現在性であるならば、「いかがわしい」などという感想は、失礼な評言にすぎない。
この『無常という事』への批判は、「歴史とよばれる絵画」(岡崎乾二郎『批評空間』(2001Ⅲ-1)によっていくらかなされていおり、そこでは「文章の都合と観念の勝手」(小林秀雄のナイーブさ、ともされる)が指摘されてはいるのだが、それについてもこれ以上触れるつもりはない。
ここでは『無常という事』の文脈から離れて、人口に膾炙されすぎたこの文は、悪くすれば次のような具合になっているだろうとすることに係る。つまりは、「美しいとしかいいようがない」などと言い放って澄ましこんでいる解釈放棄の思考の怠慢の手合いを擁護するかのような文として扱われている場合があるだろう、と。
蓮實重彦はそのデリダ小論において、この手合いを「無邪気な無神論者」と命名する。
「《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそれを書き表すだけだ、と考える単純な先行論」の一般化された形式を、「イデアリズムと呼ばれる伝統批評」にほかならぬと彼(デリダ)は断じている(……)。だが、「神学」的たることをまぬがれぬこの「伝統批評」の観念論――そこには、私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」も含まれようーーは、彼にとって文学の批評の名に値するものとはいいがたい。なぜなら、それは「神学」的な解釈手段を無自覚に文学に適用したものでしかなく、そこには批評など成立しようもないからである。(「「本質」、「宿命」、「起源」」)
ここで、蓮實重彦が「解釈」というとき、「解釈学」と同一のものであると誤解しないようにしなければならない。解釈学は、神学的なイデアリズムの範疇である。
浅田)ドゥルーズはやはり何よりも哲学史家だと思う。音楽の比喩で言うと、作曲家ではなくて演奏家なんです。ドゥルーズとガタリはグールドが好きだったけれど、グールドが弾くとバッハもベートーヴェンもグールドになってしまう、しかしそれはやはりバッハやベートーヴェンなんです。ガタリとの関係で言えば、ドゥルーズはほとんどガタリというピアノを弾いているんですね。
柄谷)カント論もニーチェ論もみなそうで、演奏なんですね。
浅田)演奏ってインタープリテーション(=解釈)ですから。
柄谷)ただし、解釈学とは違う解釈ですね。(共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間1996Ⅱ―9)
ジジェクなら次のように書く。
Here Meaning and Sense should be counterposed: Meaning belongs to the big Other, it is what guarantees the consistency of our entire field of experience, while Sense is a local, contingent occurrence in the sea of non‐sense. In Lacanian terms, Meaning belongs to the level of All, while Sense is non‐All: ultimate Meaning is guaranteed by religion (even if things appear meaningless, like killings, famine, disasters, all this confusion has a higher Meaning from God's standpoint), while Sense is materialist, something which arises “out of nowhere” in a magical explosion of, say, an unexpected metaphor. Meaning is an affair of hermeneutics(解釈学), Sense is an affair of interpretation(解釈), such as interpreting the sense of a symptom which, precisely, belies and undermines the totality of Meaning. Meaning is global, the horizon encompassing details which, in themselves, appear meaningless; Sense is a local occurrence in the field of non‐sense. Meaning is threatened from the outside by non‐Meaning; Sense is internal to non‐Sense, the product of a nonsensical, contingent, or lucky encounter. Things have Meaning, but they make Sense.Lacan's notion of interpretation is thus opposed to hermeneutics: it involves the reduction of meaning to the signifier's nonsense, not the unearthing of a secret meaning.(zizek"LESS THAN NOTHIG")
※Meaning belongs to the level of All(全体), while Sense is non‐All(非全体 pas-tout)をめぐっては、前者が男性の論理、後者が女性の論理であり、学者たちの作文はおおむね前者に属し、作家のエクリチュールは後者に属する(いや、ロラン・バルトによれば、とだけしておこう)。
パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)
《知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。》(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)
the “dynamic” antinomy of All and its exception, and the “mathematic” antinomy of non‐All without exception.(男性的=力学的アンチノミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉、女性的=数学的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉)
このラカンの非全体の理論に於る「否定判断」と「無限判断」の議論に関しては、「排中律が無限集合(非全体)に関しては適用できない」ということに収斂する。
二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。このなかで、直観主義(ブローウェル)は、無限を実体としてあつかう数学に対して、有限的立場を唱えた。《古典論理学の法則は有限の集合を前提にしたものである。人々はこの起源を忘れ、なんの正統性も検証せず、それを無限の集合にまで適用してしまっているのではないか》(ブローウェル『論理学の原理への不信』)。彼は、排中律は無限集合に関しては適用できないという。排中律とは、「Aであるか、Aでないか、そのいずれかが成り立つ」というものである。それは、「Aでない」と仮定して、それが背理に陥るならば、「Aである」ことが帰結するというような証明として用いられている。ところが、有限である場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。ブローウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える。
『純粋理性批判』におけるカントの弁証法は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。彼は、たとえば「彼は死なない」という否定判断と「彼は不死である」という無限判断を区別する。無限判断は肯定判断でありながら、否定であるかのように錯覚される。たとえば、「世界は限りがない」という命題は「世界は無限である」という命題と等置される。「世界は限りがあるか、または限りがない」というならば、排中律が成立する。しかし、「世界は限りがあるか、または無限である」という場合、排中律は成立しない。どちらの命題も虚偽でありうる。つまり、カントは「無限」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章 綜合的判断の問題 P95-96)
しかしながら、《「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。》( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)
あるいは、父性原理の権化ともいうべき「論理的な」論文形式の信奉者たちは、排中律が境界を欠いた〈非-全体〉に関しては適用できないことに(女性の論理の〈非一貫性〉に)、耐えがたい。
もちろん、ここでの「女性」やら「男性」は、畢竟、生物学的な男女の性とはほとんど無関係ともいえ、男/女の二項対立は仮初めのものに過ぎない。
たとえば、金井美恵子は、《中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。》(『小説論』)とするし、クンデラなら、「相対的で両義的な小説の言語」や「小説の知恵(不確実性の知恵)」(『小説の精神』)としたり、あるいは「神の笑いのこだま」とか「非論理的・非合理的なものの介入」などの表現を駆使しつつ何人かの(男性)小説家について語るとき、それは非-全体の論理(女性の論理)に近しいことを語っているに相違ない。
アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのか、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、…どちらが正しくてどちらが間違っているか。エンマ・ボヴァリーは我慢のならない女なのか、あるいは勇敢で人の心をうつ女なのか。ウェルテルはどうか。彼は多感で気高いのか。あるいは、のぼせ上がった攻撃的な感情家なのか。小説を注意ぶかく読めば読むほど答えることはできなくなる。(……)小説の<真実>は隠されており、表ざたにされず、また表ざたにされ得ないものなのである。(クンデラ『小説の精神』)
あるいは、プルーストを読むロラン・バルトならこう書く、《コタールは《偉大》でも《卑小》でもない。仮に真実があるとすれば、その真実は「他者」の言葉が彼に与える動揺全体にいきわたる言述の真実である。》(「研究の構想」『テクストの出口』所収)
もちろん、傑出した小説読みかつ批評家である蓮實重彦は、1977年、すでに、このように書いている、《もしかりに、過去一世紀を「小説」の時代と呼ぶのであれば、それは、この身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れから、賎しさといかがわしさを分離し、それを見ずにすごすことの歴史であったといえる。》ーー「身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れ」とは、「女性の論理」の、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の遠い谺として捉えてもよいのではないか。
もしかりに、ヨーロッパが真の反省的思考に目覚める瞬間があるとするならば、そのときヨーロッパが描きあげるだろうその自画像は「小説」を中心にした構図におさまることになるだろう。あるいは逆に「小説」を構図の中心に据えたヨーロッパ像が想定されぬ限り、ヨーロッパはその自意識を獲得することはなかろうというべきかもしれない。(……)
過剰でもあり同時に欠落でもある「小説」とは、したがって荒唐無稽な記号として自分を提示するほかないことになる。だから近代以後のヨーロッパ小説を読むことに求めうる唯一の意義は、近代という思考の磁場に不意にかたちづくられる不可解な隆起点=陥没点の汚染作用を如実に感知することにつきるだろう。(「小説の構造」『表象の奈落』所収)
このような小説の顕揚も空しく、小説は死んだ、あるいは死につつある、カクテ小説ハ身籠リヌ…なんてことはいわないぜ、オレは。村上春樹は売れてるじゃないか、相変らず、ーー蓮實重彦が、「よくできた物語作家」という彼の小説は。
村上春樹の長篇のほとんどは、作者の感性と読者の感性とが、ときには彼らのそれに酷似した作中人物の感性によって共鳴しあい、それぞれが、ともに、同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっているという意味で、「交通」を排した読まれ方に安住する言葉からなっているといってよい。その限りにおいてそれはよくできた物語だといえようし、その連帯に亀裂を走らせることなく、共同体のあり方そのものについて何がしかを告げもするだろう…(蓮實重彦『小説から遠く離れて』 p296)
さて少し前にもどって、論文形式批判とはいっても、「アニミズム的な習俗/世界把握が復活」(岡崎乾二郎)、--つまり、「土人(プレモダニスト)の復活」の時代なのであれば、論文形式はあながち否定されるべきものではない。
安易はポストモダニスト的発話の悪影響は、「土人の時代」であれば、いっそう憂慮すべきだろう。
浅田)たとえば「スキゾ」という概念が八〇年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけれど……。
蓮實)ありますよ、それは(笑)。(『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷)
自分はそもそも、近代はすばらしいと言っていた人に対して、近代にも様々な問題はあるし、近代が忘れてきた様々な問題をもう一回考える必要があるという立場だった。しかし気づいてみると近代こそが最低限の常識だ、という頑固親父がいなくなって、近代は絶対ではないとか、公教育というけれども情報量を詰め込むより生きる力をつけなければなどと言っている。今は、学校が妙に生徒に媚びて、やるべき情報の伝達もせず、もちろん生きる力もつかないといった袋小路に入りつつある。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」)
…………
「美」は、明晰な判断力のみでは、とらえきれないものがあるのは改めて言うまでもない。《美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。》(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
だが、浅田彰は岡崎乾二郎の「ルネサンス 経験の条件」を評して、何十年後の未来の読者がやっと感嘆することにだろうと最大級の賛辞を捧げつつ、こう書く、《あくまでも形式的な次元で、作品がどのような論理によって構成されているかを分析していく》。ーーという文を以前、どこかでメモしたのだが、(たぶん「批評空間」のサイト)いま探してみると見当たらない。変わりに、「岡崎乾二郎に関するテキスト古谷利裕」のなかに言及があるので、その箇所を抜き出す。--《『批評空間』を購入する。共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」に目を通す。この本が刺激的で、読むことによってある「解放感」が感じられ、多少なりとも自由に動けるためのヒントのようなものが得られるのは、なによりも岡崎氏の記述の運動神経のようなものによるところが大きいのだし、そしてそれは、浅田氏が何度も強調しているように「形式主義」で押せるところまで押す、という手法が可能にしたものなのだと思う。》
浅田彰が、この岡崎乾二郎の態度をとっているのは、次の文で明らかだ。
批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。
(平成2年5月1日朝日新聞夕刊 対談 大江健三郎&浅田彰)
ここで指摘される柄谷行人の「形式的に追いつめることができる確信」については、後に語られる柄谷自身による印象的な説明を附記しておこう。
柄谷)ぼくが考えたのは、形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうことです。そこに出てくるものは、まさにドゥルーズがいうリゾーム的多様体です。
そのような形でしか独我論を破壊することはできないと思っていたんだけれども、そのこと自体も独我論だということで(笑)、そのへんからぼくは衰弱してしまった。それから二年ぐらい経って、根本的に態度を変えてしまったというのが、『探求Ⅰ』なんです。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷)より)
もちろん、転回前の柄谷行人を懐かしむ人も多い、ーー《知のシステムを形式化した果てに内破させる極限的な思考実験──『探究』への転回を私たちは「悲劇」として読んだ.》(田中純)
ところで、『探求 Ⅰ』に於ては、いくつかの章が、ウィトゲンシュタインの「家族的親和性」をめぐって書かれている。柄谷行人は、この段階で<非-全体>の論理に目を向けたといってよいのかもしれない。「家族的親和性」は、女性の論理をめぐるものだ。それは前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの転回でもある。
Lacan elaborated the inconsistencies which structure sexual difference in his “formulae of sexuation,” where the masculine side is defined by the universal function and its constitutive exception, and the feminine side by the paradox of “non‐All” (pas‐tout) (there is no exception, and for that very reason, the set is non‐All, non‐totalized). Recall the shifting status of the Ineffable in Wittgenstein: the passage from early to late Wittgenstein is the passage from All (the order of the universal All grounded in its constitutive exception) to non‐All (the order without exception and for that reason non‐universal, non‐All).
That is to say, in the early Wittgenstein of the Tractatus, the world is comprehended as a self‐enclosed, limited, bounded Whole of “facts” which precisely as such presupposes an Exception: the mystical Ineffable which functions as its Limit.
In late Wittgenstein, on the contrary, the problematic of the Ineffable disappears, yet for that very reason the universe is no longer comprehended as a Whole regulated by the universal conditions of language: all that remains are lateral connections between partial domains. The notion of language as a system defined by a set of universal features is replaced by the notion of language as a multitude of dispersed practices loosely interconnected by “family resemblances.”(zizek”LESS THAN NOTHING”)
ここで、浅田彰の名言、《貧乏人は蓮實の真似をするな》を想起しておこう。
そしてこの名言の柄谷行人解釈。
柄谷)蓮實さんが共同体のなかでやるというとき、それをいわば保証している外部性があると思うんですね。これは浅田彰がうまい言い方をしたと思うんですが、「貧乏人は蓮實の真似をするな」と(笑)。「貧乏人」というのは、いわば外部性をもたない共同体の人間のことですね。そういう者が真似をすると、まさに蓮實さんがさっき言われたような否定面しか出てこない。
大切なのは、蓮實さんにおいては、いわば審美的な態度と倫理的な態度が区別できないようにしてあるということです。ここでひとはつまずくのではないか。むしろつねに「倫理性」を見おとすということに終わるのです。この倫理は、むろん道徳ではなく、外部性というか、他者性というものに関係していると思う。(『闘争のエチカ』)
この時期には、友愛の仮装によって、さらっと語っているが、のちの二人の訣別の理由の一端が語られているといってよいだろう。
………
「どのようにして精神は駱駝となるか、またいかにして駱駝はライオンとなるか、そしてライオンはついに小児となるか」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』--デリダのリシャール殺しと蓮實重彦のルサンチマン)
駱駝やライオンを経て、はじめて小児となる、すなわち<戯れ>と新たな始まり、新しい価値および新しい価値評価の原理の創始者となるのであり、モダンな「明晰な理解可能性の貧しい領土」(駱駝やライオン)を経てはじめて、所謂「ポストモダン」的な小児として振舞うことができる(といっても、80年代の「小児」的振舞いの評判の悪さから、この類の意味での「ポストモダン」は今では死語になりつつあるのを知らぬわけではないが、ここでは文脈の都合上、そのままにしておく)。
もちろん、これはいささか簡略化して記述しているので、ドゥルーズによれば、《三つの変身のあいだにある断絶は、おそらくまったく相対的なものに過ぎないだろう。ライオンは駱駝のうちにも現存しており、ライオンのなかには小児がいる。そして小児のなかには悲劇的な結末が存在しているのである。》
ただ厄介なのは、慣れないひとには、プレモダンの「無神論者」とポストモダンの「小児」とが外観上、似て見えることだろう。それをつかむには、いささか特殊な知覚が必要かもしれない…審美的葉脈…自由の目…(などと書けば、すでにプレモダニストに見紛うぜ…)
そもそも80年代に踊りを踊った「知識人」たちの多くがプレモダニストであって、彼らがこの区別のつかなさを利用したことが今ではその評判の悪さの原因のひとつでもあろう。
次の発言をそのまま受け取る必要はないが、蓮實重彦曰く、このようである。
蓮實) 括弧に括る部分というのは、 いずれにしても見えてこないから、 それなしでやっている人とそれを方法的に括弧に括ってやっている人との違いが見えてこない。 編集者は本当はそこを感じとらねばいけないのに、 その能力がない。 そうすると、 蓮實はあれでやっているんだから、 その筋のものでも大丈夫だろうという気になってしまう。 柄谷行人もあれで批評家なんだから、 これで大丈夫だということになる。 本当は括弧に括る部分の違いが文章に出ているはずですが、それは読まない。(『闘争のエチカ』)
駱駝とライオンの領域をへず、小児として振舞っているものを、まさしく、その間の領域が抜けているので、「マヌケ」と呼ぶ。
さて、ここでなんの脈絡もなく?!ーー疑問符と感嘆符を捏造してーー、《あやしげな浴槽(内側に一本の毛が疑問符を描いてへばりついていた)の上に濡れた下着類がだらりとぶらさがっているのを見たときには、非常な潔癖家であるこの下宿人兼愛人候補者は、身ぶるいをかくしきれなかった》(ナボコフ『ロリータ』)--、次の文を挿入しておこう、《「美しいとしかいいようがない」、というのは決して褒め言葉ではない。(たとえばゴミ箱一歩手前のものを救うときにこそ、使われる言葉でもある)。(言った本人はしばしば自覚していない)》(岡崎乾二郎ーー「観念の万能」と「腰の奥の力の圧力抜き」)
…………
なにを「美しい」とするかは、各人の育った環境、文化、時代によって異なる。
なにを「美しい」とするかは、各人の育った環境、文化、時代によって異なる。
たとえば、アルプスが障害物でなく、「美しい」自然となったのは、ルソーの「文学」による。
『告白録』のなかで、ルソーは、1728年アルプスにおける自然との合一の体験を書いている。それまでアルプスはたんに邪魔な障害物でしかなかったのに、人々はルソーがみたものをみるためにスイスに殺到しはじめた。(柄谷行人「風景の発見」『日本近代文学の起源』)
いやそれほど遡る必要はない。たとえば音楽の世界では、19世紀ロマン派の スタイルのひとつ「ルバート」奏法が、二十世紀なかばまで生き残り、ひとはそれを「美しい」と感じた。テンポ・ルバート、伊語の「盗まれた時間」、すなわち「リズムが精神的な衝動で一時的に揺れ動くこと」(フルトヴェングラー)。ある時期から、細部を過剰に強調するその「不謹慎な」奏法は、全体の自然な意味作用・音楽テクストを破壊するとされて、いまでは「醜く」きこえる。だがそれも、面白味のない技術的な完璧さのイン・テンポの演奏ばかりが席巻してしまえば、また懐かしくなったり新鮮になって「美しく」きこえるようになるなどということも近未来にあり得ないわけではないだろう。
経験的条件のもとでは、形態の美に関して黒人と白人とはそれぞれ異なる標準的理念をもつに違いないし、またシナ人はヨーロッパ人と異なる標準的理念をもつに違いない。そして美しい馬や美しい犬(それぞれ異なる種属の)の模範についても、事情はまったくこれと同様であろう。美のかかる標準的理念は、経験から得られて一定の規則と見なされるような比例に基づくものではない、むしろこの理念に従って初めて判定の規則が可能になるのである。(カント『判断力批判』篠田英雄訳)
時代の、文化の「美しさ」という標準的理念から与えられる規則(カノン)があって、対象は「美しい」のであり、「美」は対象の性質ではない(参照:準備と注解/岡崎乾二郎)
蓮實重彦の口吻を真似るなら、ひとは「ウツクシイ」ということによって、共同体、その規則への所属を無邪気に確認しているだけだ。
ーー《早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したいわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)
ひとは、《はじめはどこがいいか、わかんなかったけど、お母さんも好きだったし、お父さんも好きだったし》、先生や友達が「美しい」といったから、これは「美しい」として育っていく。つまり包囲された環境に馴致されて、なにを「美しい」かとする趣味が形成されてゆく。
世間の、――おそらくは画商・美術館・美術批評家などが作る美術的世間の、定評というものがある。少なくとも絵の値段は、その定評によって決るだろう。絵の芸術的質は、定評とは関係がない、――おそらく大部分の画家はそう考えているにちがいない。商業的成功は、芸術的成功ではない。大家といわれる画家の、もちろん技術的には上手で、何らの造形的冒険も、独創性もない仕事を、十年一日の如くり返している奴がいる。(加藤周一『絵のなかの女たち』)
もちろん「美術」だけではない、たとえば「音楽」や「文学」も同様だろう。コンサートの客の多寡もCDの売れ行きも、世間の定評によって決る。「定評」を覆す新奇の作品や解釈(=演奏〔インタープリテーション〕)は「美しくない」。
いや、そこまで言わないでおこう、独創的な作品は、《容貌が新しいというまさにそのために、その容貌はわれわれが才能とよぶものにぴったりしているとは思えない》(プルースト)のであり、すくなくとも最初は快く感じない。そこに生まれるかもしれないのは、まずは、齟齬であり驚愕であり、ときには眩暈であり失語である。
独創的な画家にしても、独創的な芸術家にしても、いずれも眼科医のような方法をとる。そんな画家とか芸術家とかが、絵や散文の形でおこなう処置は、かならずしも快いものではない。処置がおわり、眼帯をとった医師はわれわれにいう、ーーさあ、見てごらん。するとたちまち世界は(世界は一度にかぎり創造されたわけではない、独創的な芸術家が出現した回数とおなじだけ創造されたのだ)、われわれの目に、古い世界とはまるでちがって見える、しかも完全にはっきり見える。女たちが街のなかを通る、以前の女たちとはちがう、つまりそれはルノワールの女たちというわけだ。われわれがかつて女だと見るのを拒んだあのルノワールの女たちというわけなのだ。馬車もまたルノワールである、そして水も、そして空も。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅱ」井上究一郎訳)
そしていま、はたと考えられるのは、ラ・ベルマをきいた最初のときに私が快感をおぼえなかったのも、かつてシャン=ゼリゼでジルベルトを見つけだすときのように、あまりにも大きな欲望をもってラ・ベルマをききに行ったからであるということであった。この二つの失望のあいだには、おそらくそうした類似があるだけではなく、同様にもう一つの、もっと深い類似があったであろう。ある人物、ある作品(またはある演出)がきわめて個性の特徴の強いものであれば、そういうものがわれわれにきざみつける印象は特別のものになる。われわれはすでに自分で、「美」とか、「ゆったりとしたスタイル」とか、「パトス」とかの観念をつくってその場にやってくるのであって、実物であることにまちがいはないが平凡に見える才能と顔のなかに、既成の諸観念を、厳密にいえば、錯覚するのだといえるだろう、しかし、われわれの注意深い精神は、実物の形から抵抗を受けるのであって、精神はその形にたいする知的な等価物をつくりえず、その形から勝手のちがった未知のものをひきださなくてはならないのである。精神はある鋭い音、ある奇異な問いかけの抑揚をきく。精神は首をかしげ、「これが美しいのだろうか? ぼくが抱いているのは感嘆の念であろうか? これが色彩のゆたかさであろうか、気高さ、力強さであろうか?」と問いかける。そしてそんな精神に、またしても答えるのは、ある鋭い声であり、ある奇妙な質問調であり、ある未知の人間から受けるまったく物質的な、強圧的な印象であり、そこには、「ゆったりした解釈」を入れるためのどんな空間も残されてはいないのである。そして、そういう経験にぶつかるからこそ、それは真に美しい作品なのであって、われわれがきまじめにそれに耳を傾けるならば、当然それはわれわれをこの上もなく失望させることになる、なぜなら、われわれの既成の観念のコレクションのなかには、そういう個性的な印象にこたえるだけのどんな観念も存在しないからなのだ。(プルースト 「ゲルマントのほう Ⅰ」)
いや、こうして書いていると、プルーストの声以外にも、もうひとつ、どこかから奇怪な声がしてくる、――きみは「美しい」という語を誤用していただけだ、と。絶句を促すものこそ、「美しい」という語を使うのだ、と。
《短篇集『愛国者たち』は、人を不条理な絶句ぶりへ導くしかないただならぬ言葉を宙に漂わせ、『美しい』という一言を口にせよと強要してかかる》
《文学という制度的な場にあって、『山川草木』『風景小説』といった作品群の口にする言葉が(中略)まるで声として大気をふるわせることを恥じているかのように、言葉が生まれ落ちようとする瞬間に口をつぐんでしまうがゆえに、これは途方もなく『美しい』のだ》
《藤枝にとって、書くとは、無限の『分枝』を演ずる言葉を前にした不断の『迷い』そのものであったはずだ。そのおぼつかない仕草を模倣しつつ、だからわれわれも『迷う』姿勢をうけ入れ、『作家』藤枝静男の言葉をただ『美しい』とだけ書いておこう》。
こんなふうに「美しい」という形容詞を、恥らう気配は微塵もなく連発して、「はしたなさ」の感慨を抱かせることのない文章を書き綴ることが可能なのは、わたくしの知るかぎり、蓮實重彦しかいない(「現代日本語では」、としておこう、そして、もちろん、これは<わたくし>の印象であり、他人はまた違った風にとることを否定するものではない、ともしておく。そもそも藤枝作品への熱烈な讃美であり、そのいささか挑発的な「熱さ」に共振するのではなく辟易する人がいることは十分予想される)。
批評やエッセイの不幸、それはいかにその文が虚構化されていようとも、読み手に書き手の思想やら、メタ言語的意図に思いを馳せる振舞いを簡単に許してしまうことだ。
たとえばバルトが『彼自身によるロラン・バルト』の表紙裏に、《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》、あるいは本文にも重ねて、《ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう》としたって、読者の恣意に禁止を促すのは難しい。
もちろんフィクションの作品でさえ、そのようにして読もうとするひともいるだろう。つまりは、《作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられている》(ヴァレリー)のだ。
だがフィクションの言葉というものは本来、次のようなものだ。
もしフーコーの文に難解さを感じるのならば、たとえば次のようなわかりやすい説明でもよい。
ところで、蓮實重彦は、次のように語っている(蓮實重彦+川上未映子対談)。
最近のエッセイ集『随想』では一人称単数を使う試みをして<わたくし>を頻出させてみた、と。そして次のような感慨をつぶやく。
批評やエッセイの不幸、それはいかにその文が虚構化されていようとも、読み手に書き手の思想やら、メタ言語的意図に思いを馳せる振舞いを簡単に許してしまうことだ。
たとえばバルトが『彼自身によるロラン・バルト』の表紙裏に、《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》、あるいは本文にも重ねて、《ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう》としたって、読者の恣意に禁止を促すのは難しい。
もちろんフィクションの作品でさえ、そのようにして読もうとするひともいるだろう。つまりは、《作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられている》(ヴァレリー)のだ。
だがフィクションの言葉というものは本来、次のようなものだ。
周知のように、ある語り手による物語というかたちをとった小説では、一人称代名詞、直接法現在、時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも、彼が現に書いている時点にも、彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは、もうひとつの自己へ-そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか、その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ、と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで、-この分割と距離のなかで作用するのです。(フーコー『作者とは何か?』清水徹・豊崎光一訳)
もしフーコーの文に難解さを感じるのならば、たとえば次のようなわかりやすい説明でもよい。
《質問 十五》
ふつうの言葉と、詩の言葉の
違いは何ですか?
(みく 三十四歳)
《谷川さんの答え》
ふつうの言葉だと、
たとえば「あなたを愛しています」と言うと、
あるいは書くと、
それは嘘か本当か、
それとも嘘と本当が混じっているのかが
問題になります。
詩の言葉だと、そういうことは問題になりません。
「あなたを愛しています」という言葉が、
その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を
動かす力をもっているかが問題になります。
言い換えると
ふつうの言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、
詩の言葉の主体である詩人は
真偽については責任がなく、
言葉の美醜、または巧拙について
責任があるのです。》
ーーー『谷川俊太郎質問箱』p.40-41より
ところで、蓮實重彦は、次のように語っている(蓮實重彦+川上未映子対談)。
わたくしは、もともと一人称単数を主語とした文章を書くのが苦手で、『ゴダール マネ フーコ― 思考と感性とをめぐる断片的な考察』で一箇所だけ「わたくし」と書いたほかは、一人称単数を主語とした文章だけは書くまいとして、日本語の慣行と真正面から向かいあうのを避けてきました。古井由吉さんの小説を読むと、一人称単数を主語とした文章を避けようとする姿勢がけしからんと思うほど見事で、思わずため息がでてしまう。
最近のエッセイ集『随想』では一人称単数を使う試みをして<わたくし>を頻出させてみた、と。そして次のような感慨をつぶやく。
書いていて、どこかフィクションめいてきます。「自分ではない」というその距離感がむしろ快適でした。
さて蓮實重彦の「美しい」の連発、これらは冒頭に掲げて「いかがわしい」として貶そうとした《解釈を拒絶して動じないものだけが美しい》の「美しい」とどう違うのだろう? (またしても捏造された疑問符!)。
蓮實)柄谷さんは、ものを考えたり、ものを書いたりするとき、形容詞というのをどう扱いますか。柄谷さんのなかにはあまりないんですね。形容詞というのを、僕は共同体的なものだと思うわけです。早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう。僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。
その意味で、柄谷さんの文章はそれを全部廃している。つまり、共同体に対してはぶっきらぼうなんです。ところが僕の文章は非常に形容詞が多い。これはほとんど同じことをやっているんだけれども、方向ば別で、フィクションとしての形容詞を使っているわけですね。“美しい”という言葉を僕はよく使うことがあるんだけれども、その「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎないのです。(『闘争のエチカ』)
別のところでは、さらに追い討ちをかけるように、あるいは未熟な読者をいっそう混乱させかねないようにして、こんなふうにも言う、《「美しい」ということばを使わずに美しさを描けというのは、「美しさ」の物語を期待しているんだから下品な発想でしょう? 》
ーーこの短い発話文を読んで、ひとは一瞬のあいだでも失語体験に襲われるかどうかは、その人の資質、教養による(世間には、そんなことは、当たり前だよ、とすぐさま反応する「教養豊かな」ひともいるだろう)。
ーーこの短い発話文を読んで、ひとは一瞬のあいだでも失語体験に襲われるかどうかは、その人の資質、教養による(世間には、そんなことは、当たり前だよ、とすぐさま反応する「教養豊かな」ひともいるだろう)。
何ものかを知るとき、人はその物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。(「ただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退く」)
まあ、しかしながら、《「美しさ」の物語》とは、《「美しさ」の共同体規則》と翻訳することができる。「文化的ドグマ」としてもよい、――それらに冒されないようにしようではないか、ということだ、と半年ほどの失語をへた後、この未熟な書き手は呟いてみる……
――あたらしい書き手とことばに震えるために 蓮實重彦+川上未映子
蓮實)小説は書くもので、物語は語るものです。そして、書くことと語ることとはほとんどの場合かさなりあっている。しかし、そのかさなりまいを自然な事態として受けいれるなということだと思います。その自然さを疑うことが「自己批評性」ということでしょうか。たとえば、「美しい」ことを語ることと、「美しさ」という単語を書くこととはいっさい関係がない。川上さんの『ヘヴン』には、「美しかった」「美しさ」といったことばが、最後の最後に書かれています。よくここで川上未映子は「美しい」と書いたな、と感動しました。だってそう書くことには覚悟がいるでしょう?
川上)あの場面について、美しさを「美しい」ということばを使わずに書いてこそでしょう? ということは言われました。でも、あそこは少年が初めて「美しさ」と出会う場面で、しかもそれはことばとしてやってくるんだということを書きたかった。だから「美しい」ということばしかありえなかったんです。
蓮實)まさにそれが「ことば」なんです。「美しい」という「意味」ではなく。だからあそこにあの文字が書かれていなければだめだし、小説ってまさに、そこでしょう。そのことばがあえて書かれたことで、作品が終わるーーそのことにあなたは震えないのか、と。
「美しい」ということばを使わずに美しさを描けというのは、「美しさ」の物語を期待しているんだから下品な発想でしょう? 肝心なのは、あそこであの文字が書かれてことであり、その一語をあえて避けながらその「美しさ」を読むひとに想像させたのんだったら、物語との妥協になっちゃう。
川上)「美しい」ということばを使うことで、「美しい」という字が、蓮實さんがおっしゃったみたいにそこにもちろん意味として立ち上がってくるんですが、そのことは同時に、それは美しくない、ということも孕まざるをえない。ことばですから。だからこそ、あそこはああ書くしかなかったし、迷いはしなかったんです。でも「物語で読ませてほしい」というひともやはり多いです。
蓮實)そういうひとには、「下品ですね」って言えばいいんですよ(笑)。
…………
ああ、しかしながら、「下品ですね」などという言葉にすぐさま飛びつかず、凡庸な<わたくし>は、岡崎乾二郎の口真似をして、「そこの区別が難しい…ここがむずかしい」と呟いておくだけにしよう。
《たとえば共通感覚といわれるものは、個々の主体の感覚に、権利として、可能性として与えられているだけで、いまだその共有が確定しえないものとしてしか本当はありえないわけですね。たとえば美術作品を作る時、自分が作っているものを単に主観的な自分だけの特殊な判断によるとは思わずに、普遍的な判断でありうると勝手に確信するところがあるゆえに作るわけです。いまだそれが認められていないにせよ、それが普遍だと、同意を権利としてもとめることができるゆえに作る。それが普遍として可能だと。
しかし対して、一般的に趣味というのは、事後的に形成してしまうものなのですね。すでに外的な対象として存在している事物の集合があって、それによって趣味が規定されてしまうということです。はじめはどこがいいか、わかんなかったけど、お母さんも好きだったし、お父さんも好きだったし、これはいいにちがいないと。こうして包囲された環境に訓化されるように趣味が形成されてゆく。》
《そこの区別が難しい。カントなんかを読む時に、その「未だ」という可能性を強調すれば批判の原理になるけれども、前もってその共同性というのが個々の主観に刷り込まれているとしてしまうと裏返ってしまう。しかしまったく白紙から出発しても何も起こらない。とりあえずこれを見るべき対象であるという命令が生まれない限り、新たな意味の生成も批判も起こらなくなってしまう。何らかのかたちで命令がなければならない。ここがむずかしい。》
ここでの岡崎乾二郎のアンチノミーめいた発話は、蓮實重彦のいう二律背反とどう違うのだろう……、ここでもしばらく、教養と知恵足らずの<わたくし>は「失語」の蛹のなかに籠もることにする、ーー《柄谷さんの言った意味での倫理を見失わずに書くと、必ずある種の二律背反に追いこまれる。それは論理的な明晰さを体験したいという意志と、その意志を貫徹した場合に絶対に明晰さには到達しえないという感じとが解消しがたく筆を捉え続けているからです。》(「声」と「沈黙」)
………
さて最後に、蓮實重彦の「美しい」という語彙は、ほんとうに「いかがわしい」ことはないのか、をもう一度問うてみよう。
次の文では、「失語」を「原=翻訳」に直面したとき、としている。
これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原=翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。flowerwild.net - 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2
藤枝静男オマージュでは、《人を不条理な絶句ぶりへ導くしかないただならぬ言葉を宙に漂わせ、『美しい』という一言を口にせよと強要してかかる》、と。
『表象の奈落』の「あとがき」では、失語にかかわる「高次の力」ーーおそらくニーチェの「力」、ドゥルーズの「強度=アンタンシテintensité」にかかわるーーの場を、まさに「表象の奈落」としている。《あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。》ーーこのとき口にされる言葉のひとつが、蓮實重彦にとっての「美しい」という形容詞だというのか? ここで、上に引用されたプルーストの小説の話者の、「これが美しいのだろうか? ぼくが抱いているのは感嘆の念であろうか?……」という呟きを思い出そう。
「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、“できごと”として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。
決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)
体系化されることのない積極的な差異…魂の唯物論的擁護…強度…エクリチュール…体系化される否定的な差異の世界に保護されたまま甘美なまどろみをむさぼっている連中…奴らは「魂」に触れぬまま、もっぱら記号の「イマージュ」のみと戯れているとしかみえぬ…などなど、いっせいにたち騒ぐ言葉に襲われるのみで、もちろん<わたくし>には、問いに対する答えなどない。
ここでは、ただひたすら、《「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎないのです。》を反芻するとともに、《「あなたを愛しています」という言葉が、/その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を/動かす力をもっているかが問題になります。》(谷川俊太郎)を変奏して、「美しい」という言葉が、どれだけ人を動かす力をもっているかが問題である、としておくだけにする。
あるいは、《詩において言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。》(「私」 谷川俊太郎)における「詩」を「フィクション」に置き換えてみるだけにする。
………
《美しいものは裸の女神よりも/裸の樹の曲がり方だ。》(西脇順三郎「一月」)
《夏きたりならば/母親はブリーツのスカートを/ひらひら波うたせつつ/水玉を産む/ごつごつして岩棚の下に/次に美しい息子を産む/緑の海草の中に/これこそ人間が行う遊戯の一つ/雨に打たれ/太陽は沈みゆき/砂山から/父親は水虫の足を垂らす/…》(吉岡実「晩夏」)
《国領のブルトーザが石鏃(やじり)を砕く/本郷の手術室で瞳孔が開き始める/小金井の校庭の鉄棒が西陽に輝いている/等々力の建売で蛇口が洩れつづける/東京は隠すのが下手なポーカーフェイスだ//美しいものはみな嘘に近づいていく/誰もふりむかぬものこそ動かしがたい》(谷川俊太郎「東京抒情」)
……「作者は死んだ」という断言、あるいは「作者は死ぬだろう」という予言は、実は「《神=作者》」だけが口にしうる禁止の変奏にほかならない。だからバルトは、そのように翻訳される内容を持った文章を書き綴るはずがないのである。そうは書くまいとしてあえていくぶんか「作者」たる役割を引きうけているのだが、その姿勢を美しいと断ずることも、もちろんとりあえずのことにすぎない。いくらでも呼び換え可能な形容詞としてそれが選ばれているまでで、だから美しさとしての本当らしさを欠いているのは当然のことなのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
陳腐で、空疎な、「ありきたりな」表現を避けたいと願うなら、まずは蓮實重彦の指摘するように「形容詞」の使用への目配りから始めるべきなのかもしれない。
《僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。》ーーもちろん、これはひとつの見解に過ぎないことは断るまでもない。
そして、「文学風な」、あるいは「下品な」紋切型でいいというなら、共同体に媚びた「形容詞」の多用を恥じる必要はない。それが文章としてはいちばん通俗的でありつつ、しかしながら、かつ世間では、このありきたりな通俗的文章が喜ばれよく読まれる。いわば、「わかりやすさのファシズムに迎合する」文、「リーダビリティ」などという語彙を文章実践の要として誇示しつつ、大衆をいっそう間抜けにすることに専心するかのごとく文だって、「土人の時代」には、ときには役に立たないでもない。
ーーと書いているオレは、「ありきたりな」とか、「通俗的な」、「陳腐な」「空疎な」などと、すこし上を見返せば、「ありきたりな」形容詞ばかりだぜ、マイッタネ…ここでは、金井美恵子とともに、《あらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまう》と呟いて、誤魔化しておこう。
金井美恵子の表現を変奏すれば、「あらゆる言葉の表現には我慢ならないが、言葉以上に素敵なものはない」。もちろんここにも、「女性の論理」がある。
――フロイトの『非医師による精神分析の問題』の「あとがき」における「すべてではない」(非全体)のパラドックスと同じように。――《一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』》。
俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである。─ナボコフ『ロシア文学講義』