「レッテル貼り」の問題はけっして「名詞」の問題ではない。「イメージ」の、「形容詞」の問題であるだろう。すなわち「名詞」をCMのコンセプトのように流通させるのが、形容詞化ということだ。
彼にとって、自分自身の《イメージ》はどれもこれも耐えがたく、名づけられることは苦痛である。人間的なかかわりあいを完全なものにするためには、イメージを欠落させることが肝要だと彼は思っている。すなわち、人間同士のあいだで、互いに《形容詞》を廃棄することが大切なのだ。形容詞化されてしまうようなかかわりあいは、イメージの領域に属し、支配と死の領域に属する。(『彼自身によるロラン・バルト』)
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)
ここにある「先入見の無思想」による「名詞」の流通が「凡庸化」ということなのであり、それはイメージ、あるいは「形容詞」にかかわる。
次のドゥルーズの言葉もこの変奏であるだろう、《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)
蓮實)柄谷さんは、ものを考えたり、ものを書いたりするとき、形容詞というのをどう扱いますか。柄谷さんのなかにはあまりないんですね。形容詞というのを、僕は共同体的なものだと思うわけです。早い話が、べつに大人が見て、それを可愛いと思わなくても、若い子たちが“カワイイ”とかいっているのは、つまり“カワイイ”と表現したわけではなくて、“カワイイ”ということで共同体への所属を無邪気に確認しているわけでしょう。僕は、共同体というのは形容詞と非常に近い関係にあると思うんです。事実、ある種の申し合わせがなければ、形容詞というのは出ませんよね。それから形容詞が指示すべき対象とも違って、共同体の中で物語化されたあるイメージを使わない限り、形容詞というのは出てこないと思うんです。(『闘争のエチカ』)
共同体はいたるところにある。「土人の国日本」(浅田彰)の村社会、「同調圧力」やら「絆」や「寄り添う」、湿った瞳を交わし合い頷き合う、ーーすなわち「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先しているーー「共感の共同体」ではことさら。浅田彰はかつて「アーバン・トライバリズム(部族中心主義、同族意識)」とも呼んでいる。
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)
プロフェッショナルは、《ある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている》。ーー学者村、原子力村、あるいは「クラスタ」などと称されるものをみよ。最近では「理研村」なるものも明らかになった。
もちろん、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)
言語活動の体系の闘争。吸盤の隠喩。今度は、「イメージ」の闘争に話を戻しましょう。(《イメージ》とは、他者が私について抱いていると私が思う事柄です。)私についてのイメージは、どうして私が傷つくほどに《凝固する》のでしょう。また別の隠喩をお目にかけましょう。《フライパンに油がしかれます。平らに、滑らかに、音もなく(わずかに蒸気が上がる)。そこにじゃがいもを一切れ入れてごらんなさい。それは寝たぶりをして機を窺っていた動物たちに餌を投げ与えたようなものです。いっせいに飛びかかり、取り囲み、音を立てて攻撃します。貪欲な饗宴です。じゃがいもの断片は包囲されますーー破壊されるのではなく。硬くなり、こんがり焼き色がつき、飴色になります。それは一つの対象、すなわち、フライド・ポテトになります。》このように、あらゆる対象にしたたかな言語体系は機能します。忙しく立ち回り、包囲し、音を立て、硬くし、金色に色づけます。あらゆる言語活動は沸騰の小=体系(ミクロシステム)、揚げ物料理です。これが言語活動の「マケー」の要点です。(他者の)言語活動は私をイメージに変えます。生のじゃがいもがフライド・ポテトに変えられるように。
どのようにして私がまったくマイナーな言語体系の攻撃を受けてイメージ(フライド・ポテト)になり果てるか、お目にかけましょう。『恋愛のディスクール・断章』のおかげで、ダンディーで《無作法》なパリ・スタイルになってしまうのです。《しゃれたエッセイスト、知的ヤングの人気者、アヴァンギャルドの収集家、ロラン・バルトは思い出を次々に並べてみせる。才気煥発なサロン的会話の語調というわけではないが、しかし、<法悦状態>について視野の狭いペダンティスムを少しばかり披露してくれる。またまた、ニーチェ、フロイト、フローベール等々の名前にお目にかかれるというわけだ。》どうしようもありません。私は「イメージ」を通過しなければなりません。イメージは社会的な兵役のようなものです。私はそれを免れることはできません、不合格にしてもらったり、脱走したりすることもできません。私は、「イメージ」に病んでいる、自分の「イメージ」に病んでいる人間を見ます。(……)
「イメージ」をはぐらかす一つの手段は、おそらく、言葉を、語彙を歪曲することでしょう。(……)私はゆがめることを承知で、他人の言葉を引用します。単語の意味をずらします。このようにして、私がその成立に手を貸した「記号学」についても、私は自分自身の歪曲者です。私は「歪曲者」の陣営に移りました。この「歪曲者」の陣営は美学である、文学である、といってもいいでしょう。……(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収)
「レッテル貼り」、すなわちフライド・ポテトにされるのは、インターネットの情報空間ではことさら避けがたいことだ。たとえばレッテル貼りに反抗すれば、たちまち反「レッテル貼り」の「イメージ」者として流通する。大切なことはロラン・バルトのいうようにあなたの「フライド・ポテト」をはぐらかすことだ。歪曲者になることだ。
だがそれにあきたらないのであれば、「概念の創造」をすることだ。 あるいは、「分割」--《混同されてはならないものを混同せずにおく》ことだ。
これは「概念の創造」や「分割」とはやや異なるが、たとえばこの三十年の日本での、ある種の人たちを疎外し有徴化する流通語をみても、「ネクラ」→「オタク」→「ニート」、「アスベ」などの変遷を経てはじめて、それぞれの「名詞」が陳腐化され、流通圏から逸れていく。いったん流行語となりそして「問題語」となってしまったものは、「はぐらかし」の手法や、新しい語彙の出現によってはじめて消滅する。
柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。
ぼくはそんなものは簡単に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えることなんですよ。(共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間 1996Ⅱ―9)
実際、ドゥルーズの目には、二人の著作(ベルクソン、ニーチェ)にちりばまれているギリシャ的な思考の断片が、「分割」という身振りのうちに、ブラトン的な姿勢を共有していることをほのめかしているのである。ギリシャ的なものにあって、とりわけ二人の哲学者を惹きつけてやまないのは、混同されてはならないものを混同せずにおくという、優れてプラトン的な「分割」の方法なのだ。(蓮實重彦(「ジル・ドゥルーズと「恩寵」」『表象の奈落』所収)
だがそうやってなされた「概念」もすぐさま「イメージ」、CMコンセプトのようなものとして流通してしまうのがインターネットの「情報空間」というものではあるだろう。
さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それは、また文学対言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層のことです。だから、ここでの階級闘争は、言語対文学だというべきかもしれない。言語は、作品を自分の中に閉じ込めようとする。作品はその外に出ようとする。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるとき、コミュニケーションが起こる。つまり、そこで初めてインターテクストの問題が語りうるわけです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)
ここで蓮實重彦は文学対言語と語っているが、なにも「文学」でなくてもよい。肝心なのは「イメージを欠いた差異」なのであり、「イマージュなき思考」なのだ。
『プルーストとシーニュ』における、伝統的なロゴス的哲学とシーニュから出発する感受性という対立は、『差異と反復』においても継承されている。しかし、ここで使用されている「思考のイマージュ」という言葉は、もはや『プルーストとシーニュ』におけるような使い方ではない。逆に、かつて「哲学のイマージュ」と呼ばれていたものに相当している。『差異と反復』において「思考のイマージュ」と呼ばれているものはドグマティックなものであり、「差異と反復という、すなわち哲学的な開始という、二つの力を疎外する」ものなのである。ドゥルーズは、ここでは求めるべきシーニュの思考を、新たに「イマージュなき思考」と呼び直している。(上利博規『記号と論理、一九六十年代のドゥルーズ』ネット上 pdf)
ここでの上杉氏の論は、《プルーストは、哲学のイマージュに対立する、思考のイマージュを作り上げる》、とドゥルーズは『プルーストとシーニュ』の「結論 思考のイマージュ」の章で書いている文脈での解説文である。
『プルーストとシーニュ』では、「哲学のイマージュ」は積極的意志、「思考のイマージュ」は無意志的な強制に関わって語られるものでありーーー「見出された時」のライトモチーフは、forcer(強制する)ということばであるーー、プルーストは《あらかじめ考えられた決意》による思考の動きである前者を攻撃し、《思考させる》、つまり無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何か=シーニュによる「思考のイマージュ」を称揚する。
だが『差異と反復』では、「思考のイマージュ」=「哲学のイマージュ」とされ、望まれるべきシーニュの思考が「イマージュなき思考」と命名されるということだ。このあたりは『差異と反復』をまともに読んでいない身なので詳しくは分からないが、『差異と反復』の「イマージュなき思考」とは、『プルーストとシーニュ』における「思考のイマージュ」と近似したものらしい。
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)
『プルーストとシーニュ』と『意味の論理学』とを比較する時、次のような疑問が浮かぶ。前者においてドゥルーズは「アンチロゴス」という言葉に端的に表れているように記号を論理と対立するものと考え、プルーストの『失われた時を求めて』を記号を生産する文学機械とみなし、「アンチロゴス」と呼ばれる文学機械をロゴス的、論理的思考に対立するものとして捉えていた。ところが『意味の論理学』では記号と論理は必ずしも対立的には捉えられていない。それはなぜか。
『プルーストとシーニュ』ではロゴス・論理が有機的な全体性・統一性を進めるものであるのに対し、『意味の論理学』ではもはや論理は全体性・統一性を与えるものとしては見なされておらず、「トポス的」と呼ばれている点である。
おそらくこの「トポス的」がひとつのキーワードなのだろうが、このあたりはドゥルーズの熱心な読者に今はまかせよう。「イメージ」についてもドゥルーズのこの語の扱いは多様であり、「シミュラークルの哲学」、すなわち真に内在的な哲学としての「イメージの哲学」という使い方もされるようだし、あるいは後年に『シネマⅡ』では、《イメージの文明? それは、実際には、あらゆる権力にとって、我々にイメージを隠すことが有益であるような、クリシェの文明に他ならない。イメージを隠すと言っても、イメージ自体を隠すというのでは必ずしもなく、イメージの中の何かを我々に隠すのだが》としつつも、すぐさま次のように言い添えられる、《イメージはたえずクリシェを突き抜け、クリシェから逃れ出ようとしている》と。いずれにせよ、この語も安易に使えば、たちまち「フライド・ポテト化」を恐れなければならない。
さて。蓮實重彦の『闘争のエチカ』での発言、《情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています》に戻れば、イメージを介しての語り、「説話論的磁場」とは次のようなことである。
だが、知っているとはどういうことなのか。ほとんどの場合、知っているとは、みずから説話論的な磁場に身を置き、そこで一つの物語を語ってみせる能力の同義語だと思われている。フローベールとは、十九世紀フランスの小説家で、『感情教育』などの客観的な長篇小説を書いた、というのがそうした物語である。青年時代に神経症の発作に見舞われていらい、世間との交渉を絶ち、ノルマンディーの田舎に閉じこもって、文章の彫琢に没頭した、というのも物語である。また、その他いろいろあるだろう。そんな物語の一つをつぶやくことができるとき、人は、そこで主題になっているものを知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また物語は知によって保証されもするわけだ。なにひとつ物語を語りええないものを前にして、人はそれを知らないという。だから、フローベールが未刊のままの草稿として残した倒錯的な辞典の題名をかかげてみても、知と物語との相互保証を導きだすことにしかならないだろう。ところで、フローベルが十九世紀の半ばに構想を得た辞典は、まさに、こうした知と物語との補完的な関係を断ち切ることにあったのだ。
実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。その物語の中で、最も多くの人に知られているものこそ、フローベールが執筆を企てた辞典の項目たる資格を持つものである。誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。
結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなるだろう。たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』p18-19)
もちろん、これらのフライド・ポテト化は、表象化、あるいは「表象作用」といってもよい。
長篇小説という装置によって、言葉は不断に加速度を帯び、同時に減速し、境界をまたぎ越え、あるときは理由もなく逃亡しながら、予期せぬ連帯を演じたてる。予期せぬ連帯とは、計らずも同じ物語を語ってしまうことから思い切り遠い体験なのである。
そうした言葉の独走を抑圧するものとして人が提起したのが「表象」の概念にほかならない。想像力という名で通称されている思考のイメージに言語的な形式を与えることで言葉の無方向な拡散を鎮静化するというのが「表象」の役割だとするなら、運動の軌跡として生み落とされる作品は、きまって「表象」されたものとして読者に送りとどけられることになるだろう。だが、こうした作品の送付はコミュニケーションにさからう一方的な運動でしかない。「表象作用」とは、それが小説的なものであれ他の表現形式によるものであれ、記号の発信者と受信者との間に既知のイメージが共有され、それにふさわしく言葉が組み合わされるという事実を両者が確認しあうことを前提としており、したがって、記号が文脈の維持に貢献すべく閉ざされた領域の内部に流通したにとどまり、そこに「交通」が実現されたとはいいがたいのである。そのとき人が獲得しうるのは、小説の作者と読者とが同じ共同体に属しているという同属意識の保証にすぎない。 (蓮實重彦『小説から遠く離れて』p296)
「小説の作者と読者が同じ共同体に属しているという同属意識の保証」とは、ドゥルーズのいう「ひとびとは慣習的なものしか伝達しない」積極的意志の領域(『プルーストとシーニュ』)に属するものであり、つまりそれらは《われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している》のであり、そこでは「交通」=コミュニケーションが実現されているとはいいがたいということになる。
さて、ロラン・バルト、蓮實重彦、あるいはドゥルーズのイメージ批判は上に書かれたようなことであるが、そこからどうやって免れるのかは生やさしい話ではない。とくにファストフード的読者が席巻する現在の「情報空間」では。ーー《真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。》(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)
ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本質が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。(……)ぼくたちの自我というものは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、それにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。(クンデラ『不滅』)