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2013年6月14日金曜日

母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)

バッハオーフェンの『母権制』をめぐって、少し前いくらかメモして、もう少し調べてみようと思ったのは、乱交、あるいは雑婚・集団婚への関心からだが、日本にも通い婚とか妻問い婚とかがあって、それを母権制に関連づける研究者もいるようだ(実際、子供ができれば、母方の家で養育される)。では「歌垣」とはなんだっただろう…、などと折口信夫や西郷信綱などにまで手を伸ばしだしたら、インターネット上の文献だけでも調べ始めたらキリがない。一週間でメゲ始めた。

まあ、結婚制度一般への興味もあって、それは、《「結婚」とは、もてない男を孤独から救う制度である。逆に言えば、自分で多くの友人や恋人を獲得する能力がある「もてる男」ならば、「結婚」などする必要がない。》(小谷野敦(『もてない男』)とか、タガメ女論、結婚とは《男性を”搾取”するシステム》などという文を垣間見たせいでもあるけどね。


とりあえず、手元の文献から、穏やか系の文をひとつ。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」)

ここにある母なる「無時間的なもの」は、ジョイスの「父なる時間、母なる空間(あるいは種)」Father's time, mother's species(クリスティヴァ引用によるが原出典不詳)を思い起させる。「無意識的なフェロモン」というのも、ひどく女性的なものを示唆する影響力であろうし、視覚偏重の文化から聴覚や嗅覚、触覚などへの目配りを忘れない中井久夫の真骨頂的な文で、そもそも視覚偏重が「父権社会」のひとつの特徴なのではないか、という問いを発してみることもできよう。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)


フロイトは、《家族が構成されたことと、人間の性欲が、もはや一種の客のようなものーーつまり、突然あらわれるが、いったん姿を消すとふたたび長いあいだまったく音信がないといったものーーとして登場するのではなく、いわば継続的な間借人として定着したことのあいだには関連がある》(「文化への不満」)としている。そしてこの文に注が付され、次のように書かれる。

生理機能としての性交の周期性はそのまま残ったけれども、心理的な意味での性欲がそれから受ける影響は、かえって逆になってしまった。この変化の最大の原因は、月経現象が男性の心理にあたえる影響の原動力だった嗅覚刺激の衰退である。すなわち、嗅覚刺激が果たしていた役割は視覚による興奮にとってかわられたのであって、視覚による興奮は間歇的性質の嗅覚刺激とは違い、一種の恒久的作用を維持することができたのだ。月経がタブーとされるようになったのは、すでに克服されてしまった発展段階の再登場防止の意味を持つこの「器官性抑圧」が原因であって、これ以外の動機はすべて二次的なものにすぎないように思われる。( C・D ・ダリイ『ヒンズー神話と去勢コンプレックス』参照)。古臭くなった文化時期の神々が魔神〔デーモン〕になるのも、これと同じ現象の別の次元での繰返しである。けれども嗅覚刺激の衰退という現象自体、人間が直立歩行する決心をつけて大地と訣別し、かくて、これまで隠蔽されていた生殖器が丸見えで保護を必要とするものになり、したがって羞恥心が生まれたことの結果である。こうしてみると、人類の呪いとなった文化というもののそもそもの発端は、人類の直立歩行という現象だったといえるだろう。その後事態は、嗅覚刺激がもつ意味の低下および月経現象の無視、視覚刺激の優位、性器の露出、性的興奮の持続、家族の成立から人類文化の開幕というふうにつぎつぎと進んでいったのだ。これはもちろん理論上の仮説にすぎないが、人間に近い動物の生活状況を手がかりになお詳細に検討してみる値打ちは充分にある。

いずれにせよ、最も女性的なものの近くにいるはずの文学者たちでさえもその視覚偏重は否定し難く、聴覚や嗅覚、触覚などの身体感覚の近くにいるのは稀少な女性の書き手たちであろうし、その女性たちでさえ、ドゥルーズ&ガタリによれば、エディプス的母親の支配のもとであればこうである、《最初に身体を盗まれるのは少女なのである。そんなにお行儀が悪いのは困ります、あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよ……。最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押しつけられるのは少女なのだ。》(『千のプラトー』)

男女平等、わたしたち女性は云々、などと言いはなってフェミニスト風の言説を弄する女たちの大半は(すくなくとも少し前の「古い」フェミニストたちは)、男性社会の土俵で「男性化」した、つまり「父」と共犯関係を結ぶエディプス的女性に過ぎないのではないか、とはしばしば語られてきた(ラカンの愛の定義)。

女性独自のエクリチュールについて意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性として」書くと考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義者のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ。ここで問われるべきなのは、大がかりな二元的機械の内側で男性と女性を対立させる有機体や歴史や言表行為の主体ではない。というか、それだけが問題になっているのではない。ここではまず身体が、つまり二元的に対立する有機体を製造するためにわれわれから盗まれる身体が問題なのだ。(同『千のプラトー』)

「とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子」とは、マゾッホ的女性の理想像から導き出されるのではないか(参照:ドゥルーズのマゾッホ論『冷淡なものと残酷なもの le froid et le cruel』)。

マゾッホの理想的な「口唇的母親」は、《子宮的母親からその古代の娼妓的機能(売春行為)を奪う必要があり、それと同様に、エディプス的母親からそのサディスム的機能(懲罰行為)を奪う必要がある》のであり、それはオルギア(距離のない饗宴)の女性とも、「父」と密約したエディプス的女性の粗暴さとも異質な存在だ。
女性は、反省的思考の前では感情的となり、粗野なものに対しては苛酷になったのである。冷淡さ、氷のような冷たさが、すべてのつとめを遂行してしまった。つまり感情性を男性の反省的思考の対象とし、残酷さを男性の粗暴さへの懲罰をとしてしまったのだ。冷たさを介して朋約を結ぶことによって、女性の感情性と残酷さとが男性に思考を強い、マゾッホ的理想像を構築するのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

まあ、これも古いフェミニストに言わせれば、勝手な理想像だね、ということになるのかもしれない。



ポール・ヴァレリー『カイエ』の「他者」をめぐる文を引用しつつ、中井久夫は次のように書いている、《荒れている少年とか、些細な違反を咎めてとめどなくなる教師の内部をかりに覗き込むことができるとすれば、自分との折り合いが非常に難しく、自分と通じ合えなくなっているはずだと私は思う。》、《自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである》(「感銘を受けた言葉」『アリアドネからの糸』所収)

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)
※この「他者」は、標準的な解釈では「言語」である。


上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化」を読むと、「性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい」やらカネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ」などと書かれている。

結婚は合法的売春である》とするのは上野千鶴子の専売特許ではなく、私有財産制を廃止するのなら、結婚制度も廃止しなければならないとする共産主義者たちの主張である。

売春は単に、労働者の普遍的な身売りの特殊形態にすぎない(マルクス『経済哲学草稿』)
“Prostitution is only a specific expression of the general prostitution of the labourer” K. Marx. Economic and philosophic manuscripts, 1844.


ニーチェ曰くも、《結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にある》(ニーチェ)。

※以上、ふたつに関連する文献を最後にもうすこし長く、あるいは別の文献をも含めて引用している。

ーーなぜ自慰ではすまないか、というのは、なんでだろうね。支配欲だけじゃないよな。

なによりも、触覚や嗅覚、聴覚などの身体感覚を求めるせいじゃないか。《触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。》(中井久夫「母子の時間」)--これは母胎内の話だけれどね。場合によっては、性行為によって、「無時間的なもの」を求めるといってもよいのかもしれない。--《無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう》、あるいはホルクハイマー&アドルノの《自分を失い他人と同化しようとする衝動》をもう一度想起しよう。


まあ、こう書けば、あの手の連中は、「小児性を克服できずに育った男たち」(「幼少の砌の髑髏」)と脊髄反射的に返すだけだろうけど。

上野千鶴子氏は、…《自分のセクシュアリティと「通じ合う」、すなわち折り合いをつけられるのは、他者のセクシュアリティを認め、それとのやさしいコミュニケーションができる限度においてである》…、ーーほどよく「折り合い」がつけられてるのかね…自分のセクシュアリティと…あるいは他者のものと。


※もっとも、多くの男たちの振舞い(とくに若い男の)は。女たちにこういった感想を生みやすいことは否定しようもないけれど、《あたしは便器か/いつから/知りたくは、なかったんだが/疑ってしまった口に出して/聞いてしまったあきらかにして/しまわなければならなくなった?(「伊藤比呂美の<呪言>的リズム」)

…………

さて、前置きが長くなったが(つまりここでいったん切って別の投稿にすべきかもしれないが、そうせずに続ければ)、手許にある書籍で、母権にかかわるものは、フロイトや中井久夫の示唆するものぐらいで、フロイトはバッハオーフェンを読んでいたには違いないが、その名を言及する箇所はいまのところ見つからない。(6/17:『トーテムとタブー』の第四論文にバッハオーフェンの名あり p267 フロイト著作集3)


『トーテムとタブー』には、《トーテムは母系あるいは父系によって伝えられる。どこでも前者が本源的なもののようで、のちになってはじめて後者がとってかわったのだろう》(p151 人文書院)とはある。一般に父権制をベースとしてのみ考えられていると批判されるフロイトだが、どうもそれだけではないはずでありつつ、しかしながら「エディプス・コンプレックス」が理論の主柱であるには違いなく、バッハオーフェンに強い影響を受けたことが明らかなユングの「グレート・マザー」信仰に対抗する立場を固守するためなのか、『母権制』についての直接の言及はない。そもそも『トーテムとタブー』の冒頭にはこうある、《(この論文は)……民族心理学的素材をとり入れることによって個人心理学の諸問題を解決しようとするチューリッヒ精神分析学派の業績と対立する》。

ポール・ロビンソンによれば、フロイトはジェームズ・フレイザー (James Frazer)のトーテミズム研究を土台にして、人類の起源にまつわる神話を解明した。これにたいしてライヒはヨハン・バッハオーフェン (Johan Bachofen) 、ルイス・モーガン(Lewis Morgan) 、フリードリッヒ・エンゲルス (Friedrich Engels)、ブロニスラフ・マリノフスキー(Bronislaw Malinowski) らの著作から母権制の検討をはじめた。彼らの著作にあらわれた研究成果によれば、「母権制はいかなる支配体制をも欠如した状態」であり、それは、「マルクスのいう原始共産制の時期に該当する」のであり、「母権制社会では青少年が性欲にかんして完全に自由」であったという 。そのような立場から、ライヒは原始の母権制を民主主義的であり、性的に自由であったと賛美した。ところが父権制の発達とともに、禁欲主義のイデオロギーが発達したというのである。( フロイト左派utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-papers-j-reud-03.pdf)

フロイトはいったん脇に置き、再度中井久夫を引用するなら、母権制社会には、「つつしみがない……距離のない狂宴を伴う」、と書かれている。もちろん。これは「父なき世代」、つまり「超自我」なき世代である現代の「つつしみのなさ」批判(=吟味)としても読める文だ。

(……)父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる(……)。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、“母”である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。

宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』より)

このレリギオの欠如の時代をジジェクならこう書く。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)


「原初の父」の復活、とはこれだけ読めばいささか奇妙である、「父なき時代」であるはずなのに。だが「原初の父」とは「享楽の父」(すべての女を独占する原父)なのであり、そこには「つつしみ」などありようはずもない。

「エディプス」とか、「父の名」、「自我理想」などが語られるとき、それは「父性的な象徴権威」なのであり、「象徴界」の審級に属する。ところが「原初の父」「享楽の父」、あるいは享楽の父の変奏として「母なる超自我」が語られるとき、それは「現実界」に属する。

リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。[PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org
 “The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして「父なき世代」とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代の人たちということだ。

楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ』)

享楽(ジュイサンス)とは、快感ではなく、快感よりもむしろ痛みをもたらす暴力的な闖入なのであり、また、楽しむ(ジュイサンス)とは、自分の自発的傾向に従うことではなく、むしろ、気味の悪い、歪んだ倫理的義務としておこなうことである。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être  1999)――ZizekLESS THAN NOTHIG』(2012)より孫引き)

このFrançois Balmèsの文は、おそらく、ラカンの「現実は、現実界の顰め面」(『テレヴィジョン』)の変奏とも読めるはずだが、この文を援用して、上に書かれたことを意訳すれば、つぎのようになるのではないか。

――われわれの「超自我」は、かつては、「父の名」によって不器用に飼い馴らされた「享楽の父」のしかめ面であった。だが「父の名」の没落により、仮面が剥がれ、素顔の「享楽の父」(母なる超自我)の気味の悪い、歪んだ倫理的命令を発するリアルな「超自我」が回帰してしまった。


以下、「享楽の父」と「母なる超自我」をめぐるジジェクの説明を附記しよう。

オイディプス神話と、『トーテムとタブー』に描かれた原父殺しの神話とは、ふつう同じ神話の二つの版と見なされている。すなわち原父殺しの神話は、主体の個体発生の基本的表現としてのオイディプス神話が、神話的・先史的過去へと系統発生的に投影されたものと解釈されている。

ところが詳しく見てみると、この二つの神話はまったく非対称的であり、対立的ですらある。オイディプス神話は、われわれに享楽(近親相姦、すなわち母親との性的関係)を禁じるのは禁止の審級としての父親であるという前提の上に立っている。裏を返せば、父親を殺せば障害が取り除かれ、禁じられた対象を思う存分楽しむことができる、ということである。

原父殺しの神話が物語っているのはほとんどそれとは正反対のことであるーーー父殺しによって障害が除去されるわけではなく、享楽は結局われわれの手に入らない。それどころか、死んだ父は生きている父よりも強い。父殺しの後、死んだ父は父-の-名として、すなわち象徴的な法の審級として君臨し、われわれが享楽という禁断の果実に近づくのを断じて許さないのである。

なぜこのような強化が必要なのか。オイディプス神話では、結局のところ享楽の禁止がまだ外的障害として機能しており、その障害を取り除けばじゅうぶんな享楽が得られるという可能性を残している。だが享楽はすでにその本質からして不可能である。

ラカン理論のよく知られているテーゼの一つに、享楽への接近は語る主体には禁じられている、というのがある。父親像は、内在的不可能性に象徴的禁止という形式をあたえることによって、われわれをその袋小路から救い出してくれる。『トーテムとタブー』における原父殺しの神話は、この不可能な享楽を、享楽-の-父Father –of-Enjoymentという猥雑な姿に具現化することによって、すなわち禁止の審級の役割を担う当の人物に具現化することによって、オイディプス神話を補完している、いやより正確にいえば補足している。

そこにある幻想は、じゅうぶんに享楽を味わうことのできた主体が少なくとも一人いた(すべての女を独占する原父)という幻想である。したがって、享楽-の-父なるものは、父親は始めから死んでいた、つまり自分がすでに死んでいることを知らなかったという点を除けば一度も生きていなかった、という事実を見落とした神経症的幻想に他ならないのである。(ジジェク『斜めから見る』)


たいてい見過ごされているのは、 自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗」 を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物になら ないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。(ジジェク『斜めから見る』――現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」より)



で、なんの話だったのか。実は、私有財産制を否定する共産主義者たちが、バッハオーフェンの『母権制』に注目すること(たとえば、マルクス、エンゲルス、レーニン)をめぐって、あるいは文化人類学者たちの言葉をメモしようと思ったのだが、すでに長くなり過ぎた…といっても次にいつメモするかもわからないので、そのいくつかだけでも附記しよう。


◆文化人類学者

《妻》や《夫》の語は、性的接近の権利を意味することなしに用いられることがあり得ず、そして実際にも用いられはしないのだ。性的接近の権利こそが、それらの語の意味の精髄をなすものである」(ブリフォールト『母性論』)

※ブリフォールトRobert Briffaultはマリノフスキーと結婚制度をめぐる論争もあった外科医、文化人類学者、小説家。

「すべての社会はメッセージの交換、財貨交換、女性の交換という最低三つの伝達形式を前提にしている。これらの水準の各々の研究は同じ方法によっている」(レヴィ=ストロース『構造人類学』)

◆マルクス『古代社会ノート』

一夫一妻婚家族が独立的に孤立した存在になることができるためには、どこででも家内的僕婢を前提としており、もともと僕婢はいたるところで直接的には奴隷たちであった
「一夫一妻婚へ持ち込んだ原動力は―富の増大と、子どもたち―合法的相続人たち―婚姻した一対の本当の子ども―への富の伝達の欲望であった」
 「一夫一妻婚家族について。まさに過去においてもそうであったように、それは社会が発展するにつれて発展し、社会の変化するにつれて変化しなければならない。それは社会制度の産物であり……両性の平等がえられるまでは、なおもより一層の改善がされうると想像されねばならない。文明のたえまない進歩を仮定して、一夫一妻婚家族が、遠い将来において、社会の要求にこたえることができないとしても、一夫一妻婚家族のあとにくるものの性質を、予言をすることはできない」

◆マルクス・エンゲルス『共産党宣言』

「ブルジョワの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えるとすれば、せいぜい、共産主義者は偽善的に内密んした婦人の共有の代わりに、公認の、公然たる婦人の共有を取り入れようとする、非難ぐらいであろう。いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅する」(『共産党宣言』)
家族の廃止! 最も急進的な人々さえ、共産主義のこの恥ずべき意図に対しては、激怒する。現在のブルジョア的家族は、何に基礎を置いているのか? 資本に、私的営利にである。完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういう家族を補うものとして、プロレタリアに強いられるところの家族喪失と公娼制度とがあるのである。ブルジョアの家族は、この補足がなくなるとともに当然なくなる、そして両者は資本の消滅とともに消滅する」(同上)

 ◆レーニンをめぐる

1929年、つまり24年にレーニンが没し、26年にトロッキーを追放して台頭したスターリンが支配の座を固める年に公式出版された『革命ロシアにおける恋愛・結婚・家族の問題』においてさえゼシカ・スミスがこう書いていることでもよくわかる。


「サヴエート政府の建設者たちの間では、所謂結婚なるものは国家と共に将来消滅するであらふと一般的に認められている」


これをレーニンの言葉に置き換えればこうである。革命直後の1917年12月19日、「 結婚の解体について」という布告を出したレーニンが1919年、婦人労働者会議の席上でいった言葉だ。


「立法化にあたっては、男女の地位を平等化するために必要な一切を考慮した。われわれの誇りうる点は……もっとも進歩的と称される国々と比較しても、理想的と呼ぶにふさわしいものといえよう。それにもかかわらず、それはほんの序の口にすぎないといえよう」


「諸君は皆完全なる平等の権利を以ってしても尚、婦人は抑圧されているということを知っている筈だ。何となれば彼女たちの双肩には、家庭の全負担が落ちかかっているからである。家庭労働は……婦人の進歩に助力し得る如何なる要素をも含んではいないのである」



…………


◆最後にニーチェの近代的結婚観。

…… 今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこを「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・その証拠は近代的結婚。近代的結婚のうちからは明白にあらゆる理性が失われてしまっている。しかしこれは結婚に対して異論をとなえるものではなく、近代性に対してである。結婚の理性 ――それは男性だけが法律的責任を負うことにあった。このことで結婚は重力をもっていたのに、今日では結婚は両脚でびっこをひいている。結婚の理性 ――それは原理的に離縁できないことにあった。このことで結婚は、感情、激情、瞬間の偶然に対して、心に聞くことを心得ている一つのアクセントをえていた。同じくそれは配偶者の選択に対して家族が責任を負うことにあった。人はますます寛大となって、恋愛結婚に有利なように、まさしく結婚の基礎を、結婚をしてはじめて一つの制度たらしめるものを除去してしまった。人は制度というものを或る特異体質のうえに建てることは絶対にない。すでに言ったごとく、結婚の基礎は「恋愛」にあるのではなく、 ――その基礎は、性欲に、所有欲に(所有者としての妻や子供)、支配欲にあるのであって、この支配欲が、家族という最小の支配形態をたえず組織化し、権力、感化、富の達成された量を生理学的にも固持するために、長い課題を、何百年かのあいだの本能の連帯性を準備するために、子供と後継者とを必要とするのである。制度としての結婚は、最大の、最も持続性のある組織形式の肯定をすでにそれ自身のうちにふくんでいる。だから、社会自身が全体として最も遠い世代の先までおのれを保証することができないなら、結婚は総じて意味をもたない。―― 近代的結婚はその意味を喪失した、 ――したがってそれは廃止されるのである。 ――(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」三十九  P130-131

…………


マゾッホの理想像は、大地の女神デメテールDemeter的な女性である。上にも挙げたように、《子宮的母親からその古代の娼妓的機能(売春行為)を奪う必要があり、それと同様に、エディプス的母親からそのサディスム的機能(懲罰行為)を奪う必要がある》のであり、それはオルギア(距離のない狂宴)の女性とも、「父」と密約したエディプス的女性の粗暴さとも異質な存在。

もし、倒錯が大文字の他者を回復する試みなら、マゾッホ的な「母なる超自我」が望ましいということになるんじゃないか。

《鍵を握るのは倒錯の概念、精神病と神経症の中間、精神病者による<法>の排除と、神経症者の<法>への組み込みの中間……、倒錯とは<法>の支配の解体に対する答え、象徴による<禁止>を回復しようとする試みではないか。》(ジジェク“WHAT CAN PSYCHOANALYSIS TELL. US ABOUT CYBERSPACE?”)www.psybc.com/pdfs/library/Psa_Cyberspace.pdf‎

ーーこれはジジェクはすこし違う意味合いでいっているのだけれど(<法>との同一化という意味)。

このジジェクの文の、精神病者による<法>の排除は、古代の娼妓的な距離のない狂宴をもたらし、、神経症者の<法>への組み込みは、「父」と密約したエディプス的女性の粗暴を生むことに注意しよう。

そして、《マゾヒスムは、二重の否認、つまり積極的で、理想的で、家長的な母親の否認(法と一体化した)と、父親(象徴的秩序から放逐されて)の無効的否認を遂行するのである。》(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)なのであり、象徴的秩序から放逐された父とは、「享楽の父」のことであり、精神病的な法の排除によって齎されることは上でみた。法と一体化した家長的な母親とは、いうまでもなく、「父」と密約したエディプス的な女性像である。

※「否認」については、「フロイトの四つの「否Ver‐」( 排除、抑圧、否定、否認)」を参照。


最後にミレールが、ポストフェミニストの時代を語り、ふたりの女性をその象徴としている文を付記しよう。

In politics, the feminine enunciation is hence called to dominate. But be careful! It’s no longer about women who play elbows, modeling themselves on the men. We are entering an era of postfeminist women, women who, without bargaining, are ready to kill the political men. The transition was perfectly visible during Hillary’s campaign: she began playing the commander in chief and, since that didn’t work, what did she do? She sent a subliminal message, one that said something like: “Obama? He’s got nothing in the pants.” And she immediately took it back, but it was too late. Sarah Palin is not only picking up where she left off but, being younger by fifteen years, she is otherwise ferocious, slinging feminine sarcasm like a natural; she overtly castrates her male adversaries (and with such frank jubilation!) and their only recourse is to remain silent: they have no idea how to attack a woman who uses her femininity to ridicule them and reduce them to impotence. For the moment, a woman who plays the “castration” card is invincible.(Sarah Palin: Operation “Castration”Jacques-Alain Miller)