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2013年9月30日月曜日

「大量の馬鹿が書くようになった時代」

物心ついたときから携帯電話とインターネットが当り前の世代

1995年がインターネット元年だとしたら
同じ頃、携帯電話の所持者の増大があった
ここで仮に2000年に15歳前後だった若者以降の世代としよう

《携帯電話の普及が心の襞まで書き込む男女のあや
というべきものを奪い取ってしまった》(古井由吉『人生の色気』)
誰もがインターネットへ書き込む世代
ひとは大きく変わりつつある
それは間違いない
一九世紀の中葉以来の文化的事件のさなかともいうべきか

……一八六三年の二月一日に一部五サンチームで売り出された小紙面の『ル・プチ・シュルナル』紙は、その安易な文体と情報の単純さによって、日刊紙としては初めて数十万単位の読者を獲得することに成功する。一八五〇年当時、パリの全日刊紙をあわせても三十万程度であったことを考えれば、一紙で三十五万の読者を持つ『ル・プチ・シュルナル』紙の創刊は、言葉の真に意味でマス・メディアと呼ばれるにふさわしいものの出現を意味することになる。(……)ここでの成功が、みずからの凡庸さを装いうるジャーナリストの勇気に負うものだという点を見落としてはなるまい。人類は、おそらく、一八六三年に、初めて大量の馬鹿を相手にする企業としての新聞を発明したのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p380)

百年後の歴史家は
このインターネットの時代をなんというだろう
大量の馬鹿が書くようになった時代か


蓮實重彦はさいきんでも繰り返す、
「現在地球に暮らす人々がこんなにまで活字に接している時代は
人類史上なかった」
インターネットだって大半は活字なんだから、
問題はむしろ活字があまりに多くの人によって読まれていることであって、
「読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が
何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ」(蓮實重彦『随筆』)


人びとは驚くほど馬鹿になっています」(ゴダール)やら
《フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも言語道断なことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです》(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの先入見のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの先入見はコンピューターに入力され、マス・メディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(「エルサレム講演」)


馬鹿、馬鹿といっていてもいたしかたない
すこしでも馬鹿でないようにするには
どうしたらいいのか
それが肝要ではある
と言ってみたりするのは馬鹿の紋切型だ

フローベールの『紋切型辞典』をめぐって