このブログを検索

2014年8月30日土曜日

絶対的他者への神託の要請にたいする拒否としての「沈黙」

Redmond“Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis”

In Lacanian psychoanalysis psychosis continues to be an important focal point for new theoretical developments driven by clinical experience. Two important new developments have emerged over the past decade that provide contrasting approaches to Lacan's oeuvre and the theorization of psychosis. Paul Verhaeghe, in On being normal and other disorders:a manual for clinical psychodiagnosticsprovides a fascinating approach to psychosis through his synthesis of Lacanian psychoanalysis with Freud's theory of actual neurosis and psychoanalytic attachment theory research. His theory of psychosis is important as it addresses forms of psychosis “without symptoms.” That is, he engages with aspects of psychosis not easily contained by contemporary psychiatric nosology such as, psychosis without delusions and hallucinations, untriggered psychosis and body disturbances such as hypochondriasis. Moreover, he provides a specific treatment rationale for cases of psychotic disturbances that fall roughly into the schizophrenic spectrum. In contrast, Jacques-Alain Miller's engagement with the “later Lacan” informs his theoretical approach to the emerging field referred to as “ordinary psychosis.” The term ordinary psychosis provides an epistemic category—as opposed to a new nosological entity—for clinicians to address a series of theoretical problems linked to decompensation and stabilization often encountered in the treatment of psychosis (Miller, 2009; Grigg, 2011).

※ヴェルハーゲの「Actual-pathology 」理論についてのいくらかは、<フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」>を参照。


…………

以下、<男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」>などにて、コレット・ソレールを引用したときにつけ加えようと思ったのだが、失念。ここに単純なメモとして記載する。


◆向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」(『imago (イマーゴ)』 Vol.7-8,1996,pp.218-237)よりのメモ。


ーーかなり前の論文であり、その後の動きーーたとえば上に書かれるようなミレールの「ふつうの精神病」概念等々の動きーーは考慮されていないにもかかわらず、この時点ですでに「サントームの治療」の要点が、このようにまとめられているのがすばらしい。

精神病を扱うにおいて、大きく考えて、次の四つの要素を手掛かりにして治療を進めることができるのではないだろうか。

――他者のイメージによるイマジネールな支え。ラカンはこの「松葉杖」は主体と大文字の他者との関係がずれていても機能すると言っている。

――狂者の秘書として、精神病者の言うことを中立の立場で聞き取ること。

――治療への努力である妄想の構築。

――サントーム、父の名の代理の症状の構成。

精神病の治療はこれら四つの要素の組み合わせにかかっていると思われる。これらの要素がお互いにどのように関係しているかはこれからの課題として研究していくことが必要であろう。ここでひとつ、実際の症例を見てみよう。これはコレット・ソレールの症例である。

患者は女性で 12 年来ソレールのもとで分析治療を続けている。最初の発症は彼女のただ一人の男友達との離別がきっかけとなっておこった。そのときから彼女はソレールのところにやって来て助けを求めたのだった。治療の開始と共にまず、彼女はソレールにこう言う「質問を出しますけれど、先生のおっしゃる答えはすべて正しいものと見なします。 」 患者は精神病の発症により父の名の排除によるサンボリックの底無しの穴の縁に立たされているのである。彼女の質問は、この穴を塞いでくれるものを分析家に要求することであって、これはそのような返答をもたらすことのできる絶対的な他者への呼び掛けなのである。

これにたいしてソレールは沈黙したまま答えない。それに応えることは危険である。なぜなら、質問に返答することは分析者を絶対的他者の場に置き、それは間違いなく致命的なエロトマニーに結びつくであろう、とソレールは言う。

この患者にたいする治療は三つの軸を中心に進められた。

1-沈黙。この沈黙は、患者から絶対的他者への神託の要請にたいする拒否であるとともに、妄想の構築のための場を残すという機能を果たすものであった。そしてまた、分析家に、患者の言うことを中立な立場で受け入れる証人としての他者の役割をも与えているのである。

2-二番目の処置は二つの要素から構成されるもので、その一つは、患者の父の名の排除による掟、禁止の欠如を補うために分析家の側から拒否を出すことであった。 患者はある男から首を締められようとする、ひとつのジュイッサンスの誘惑に乗ろうとしていた。それにたいして「そうしてはいけない」と言うことで、外部からジュイッサンスを禁止したのである。これはネガティブな介入である。もうひとつは、患者が芸術的な才能の可能性を示したことから、創作の道に進むことを奨励するという、昇華、そして父の名の代理の道に繋がる、ポジティブな介入である。

3-患者の仕事にたいする拒否を認め、年金を受けることをすすめると同時に、彼女にとって仕事をして生活を稼ぐことは(ソレールの言葉によると)一つの“乱用”であるということをはっきりと示してやることであった。実際に、仕事をすることは彼女の生活史のなかで犠牲的行為に結び付いており、それを断ち切るためにこのような介入に踏み切ったのであった。これは微妙で、難しい介入であったが、ソレールは思い切ってこれを行ったのであった。これは決定的な効果を表わし、これ以後患者は分析家を絶対的な他者の場に呼び出そうとすることはなくなり、妄想の構築が始まったのであった。それと同時に患者の状態も良好となった。

この患者は 12 年間ソレールに治療を受けつづけ、いつ治療が終了するかもまだわからないし、安定状態もまだ完全なものではないのであるが、 精神病患者を分析家が治療にあたり、 精神病の一応の安定を得、妄想の構築、もしくは芸術による代理の機能の追及を進めることができるということを証明する貴重なひとつの例である。この症例は、精神分析の方法が、もちろん神経症と同じように適用することはできないであろうが、精神病にも有効であることを教えてくれるのであろう




ラカンの“il y a”とハイデガーの “es gibt”

もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

 それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、──しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました──すべての出来事に「豊かにされて」。(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩文集』より)


…………

◆中井久夫「私の三冊」より

「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。

そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。

これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。

私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。

「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)

中井久夫は、ここでツェランの詩句を《冥府からの途切れがちの声》としているが、外傷的記憶と関連付けられて語られているように、冥府とは、ラカン的には現実界の次元のものである。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 53頁)

ここにある《語りとしての自己史に統合されない「異物」》という表現に注目しよう。

フロイトの『ヒステリー研究』1895には、「異物」と訳される“Fremdkörper”という語が頻出し、トラウマに関連して使用されている。

他方ラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるが、これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976


シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

※参照:ラカンの三つの身体


中井久夫は、ツェランを語りつつ、ラカンの“il y a”やハイデガーの “es gibt”の次元をめぐって語っているのではないだろうか、--とするには、わたくしはハイデガーについてまったく無知である。

…… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収  p85)

…………

以下、ハイデガーについてまったく知らないものがメモする。



〈存在する〉とは...

古くは、〈存在する〉の意味は一つだった
ギリシア以降、〈存在する〉には〈本質存在〉と〈事実存在〉に分かれた
ギリシア人は、制作(創作)を好み、多くの制作を行っていたことが理由か?
〈事実存在〉は(日本語では)「~〈ガアル〉」と表現できる。ものがある、自然現象として観察できるなど。

〈本質存在〉は(日本語では)「~〈デアル〉」と表現できる。ものを作る前の頭の中にある設計図のようなもの。概念的なものも含まれる。

英語では、be動詞は本来〈本質存在〉を表すときに使う。〈本質存在〉は「A is B」と表す。〈事実存在〉は「There is A」と表す。

ドイツ語やフランス語では、〈本質存在〉では〈sein〉や〈etre〉を使い、〈事実存在〉は〈es gibt---〉や〈il y a---〉と〈geben(与える)〉や〈avoir(持つ)〉を使う。

形而上学(あるいは哲学)は、〈本質存在〉と〈事実存在〉を明らかに区別する。

ジジェクは、jouissance féminine(女性の享楽)、あるいは〈他者〉の享楽について、女性の享楽は存在しない。が、”il y a de jouissance féminine”としている。そして、引き続き、ハイデガーのes gibtが言及されている。

もっとも、こう書かれつつ、同じ書の後半には次のように文も見られるのだが、ハイデガーに無知の身として、それには触れ得ない。

what is totally missing in Heidegger is not only the dimension of the Real of jouissance, but, above all, the dimension of the “between‐two‐deaths” (the symbolic and the Real) which designates Antigone's subjective position after she is excommunicated from the polis by Creon


◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』からのメモ。

when Lacan talks about jouissance féminine, he always qualifies it—“if a thing like that were to exist (but it does not)”—thereby confirming its incommensurability with the order of (symbolic) existence.68 Jouissance féminine does not exist, but il y a de jouissance féminine, “there is” feminine enjoyment. This il y a, like the German es gibt which plays such a key role in late Heidegger, is clearly opposed to existence (in English, the distinction gets blurred, since one cannot avoid the verb “to be” in translation). Jouissance is thus not a positive substance caught in the symbolic network, it is something that shines through only in the cracks and openings of the symbolic order—not because we, who dwell within that order, cannot regain it directly, but, more radically, because it is generated by the cracks and inconsistencies of the symbolic order itself.

We should be attentive here to the difference between the inexistence of jouissance féminine and the inexistence of a father who would fit its symbolic function. (“If there is no such father, it still remains true that the father is God, it is simply that this formula is confirmed only by the empty sector of the square.”)69 In the case of the father, we have a discrepancy between the symbolic function (of the Father) and the reality of individuals who never fit this function, while in the case of jouissance féminine, we have the Real of jouissance which eludes symbolization. In other words, in the first case, the gap is between reality and the symbolic, while in the second case, the gap is between the symbolic and the Real: miserable individuals called fathers exist, they just do not fit their symbolic function, which remains an “empty sector of the square”; but jouissance féminine, precisely, does not exist.

One standard definition of the Lacanian Real describes it as that which always returns to the same place, that which remains the same in all possible symbolic universes. This notion of the Real as a “hard core” that resists symbolization must be supplemented by its opposite: the Real is also a “pure appearance,” that which exists only when we look upon reality from a certain perspective—the moment we shift our point of view, the object disappears. What both extremes exclude in the standard notion of reality as something which resists in its In‐itself, but changes with regard to its properties: when we shift perspective, it appears different. However, these two opposed notions of reality can be thought together—if one bears in mind the crucial shift that takes place in Lacan’s teaching with regard to the Real. From the 1960s onwards, the Real is no longer that which remains the same in all symbolic universes; with regard to the common notion of reality, the Real is not the underlying sameness which persists through the multitude of different points of view on an object. The Real is, on the contrary, that which generates these differences, the elusive “hard core” that the multiple points of view try (and fail) to recapture. This is why the Real “at its purest” is the “pure appearance”: a difference which cannot be grounded in any real features of the object; a “pure” difference.


《現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。》

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳



男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」

Against the standard feminist critiques of Freud’s “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan’s radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis” (Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001)

 このジジェクのLESS THAN NOTHING (2012)からの孫引きだがRichard Boothbyペニス羨望、女性ではなく男性に大いに感じられるものだとしている。

Richard Boothbyは精神分析医でもあり、フロイトの悪評高い「男根至上主義」の華のひとつともいえる「ベニス羨望」(もうひとつは「去勢不安」)を根底から再解釈して、フロイトを救おうとする試みだとも言える。

以下の1995年に書かれたベルギーの精神分析医Paul Verhaegheの論も、同じような「ペニス羨望」の再解釈を提示している。

フロイトのエディプスコンプレックスの最初のヴァージョン(『モーゼと一神教』のヴァージョンに対して:引用者)では、最も重要な人物は父、原父の後継者である。二種類の性はこの原父と関係する仕方が異なる。(……)女児にとって、原父は〈女〉The Womanになるために彼女が必要とするものを、彼女に与えることができる男である。逆に、少年にとっては、原父とは、男a manになるために少年がすでにもっているものを取り上げることができる人物である。

In Freuds' first version of the oedipal complex, the all-important figure is the father, heir to the primal father. The two sexes differ in the way they relate to this primal father, (……). For the female child, the primal father will be the man who could give her what she needs in order to be The Woman. On the contrary, for the boy, the primal father is the one who could take away what he already has in order to be a man.
これらの関係性の二つの方法は、それ以来、古典的な命名を授けられてきた。女にとってのペニス羨望、男にとっての去勢不安。これはフロイト理論のなかで疑いもなく最も物議をかもす箇所である。そして私の見解では、最も理解されていない箇所である。精神分析家集団自身の内部でも1930年に大規模な論争が生れた。それは "gefundenes Fressen"(見つけられた食い物、ここぞとばかりの議論の種)となった。そして1960年代の女性解放運動等へのとびぬけた侮蔑ともなった。誤解の主な理由のひとつは、フロイトが、性心理の相違を、実際の男性の性的器官、ペニスに還元してしまった事実にある。そしてペニスがシニフィアンであること、すなわちファルスであるという考え方への一歩をけっして踏み出さなかったことにある。

These two ways of relating have received their classical denominations ever since: penis envy for the woman, castration anxiety for the man. They form without any doubt the most controversial part of Freudian theory, and, to my opinion, the least understood. It gave birth to an epic discussion in the 1930 within the analytic group itself, and it became "gefundenes Fressen" and the insult par excellence for the women's liberation movement in the 1960's, etc. One of the major reasons for the misunderstanding lies in the fact that Freud reduced the psychosexual difference to the real masculine genital organ, the penis, and that he never made the step to the idea of the penis as a signifier, that is, the phallus.
ラカンはこのギャップに橋渡しをした、ファルスは自然によってあたえられたシニフィアン、 "c'est un signifiant donné par la nature"と言うことによって、である。象徴界の審級にあるシニフィアンとしてのファルスは完全に空のものである。それは、意味――つねに想像的なものである意味――に還元されてはじめて一貫性を得ることができる。そして、あれらの論争のあいだのみではなく、フロイト理論自体においてさえもそれが起こったのである。これはおそらく、フロイトとラカンのあいだの最も重要な相違である。というのは、精神分析的治療の目標と終結について異なった理論を決定づけるからである。

Lacan bridged this gap by stating that the phallus is a signifier given by nature, "c'est un signifiant donné par la nature". As a signifier in the register of the Symbolic, the phallus is perfectly empty. It only gets consistency when it is reduced to a meaning which is always imaginary, and that is precisely what happened, not only during those discussions, but even in Freudian theory itself. This is probably the most important difference between Freud and Lacan, because it determined a different theory about the aims and ends of the psychoanalytic treatment.
実に、フロイト用語における、去勢不安と女性のペニス羨望は、生物学的な岩盤である。その上で、すべての分析は堂々巡りを余儀なくされる。われわれは後にラカンがいかにこれを変化させたかを見るだろう。まず何よりも先に、われわれは、女性のペニス羨望と男性の去勢不安の典型的なジェンダーの特異的分布に注意を払ってみよう。私の見解では、それはまったく逆なのだ。ペニス羨望は、典型的な男性の心配事であり、他方、不安は女性の側に見出される。

Indeed, masculine castration anxiety and feminine penis envy are, in Freudian terms, the biological bedrock on which every analysis must necessarily run aground. We will see later on how Lacan changed this. First of all, we'll pay attention to the typical gender-specific distribution of feminine penis envy and masculine castration anxiety. In my opinion, it is exactly the opposite. Penis envy is a typical male preoccupation, while anxiety is to be found on the side of the woman.
そのうえ、これらのふたつの特性は愛とセックスの組み合わせを決定づける基本の幻想の核心を作りだすので、ジェんダー固有の倒錯を決定するだろう。この転倒を理解するために、われわれはファルスとの関係のそれぞれの性の立場を、ある動詞によって代表させることができる。男性側においては、妥当な動詞は、持つto haveであり、女性側はなるto beという動詞である。

Moreover, as these two characteristics form the core of the basic fantasies that determine the combination of love and sex, they will determine the gender-specific perversions. In order to understand this reversal, we can typify each sexual position in relation to the phallus by one verb. On the masculine side, the appropriate verb is to have, on the feminine side the verb to be.
「持つことと持たないこと」とはヘミングウェイの反響としてもある。他者の欲望に応答として、男は実にファルスを持っている、それについては疑いはない。唯一のトラブルは、彼はけっして十分にそれを持っていないことであり、彼の密かな恐れは、それについての説得力がないことであり、他の男たちは彼よりもよりよく備えているのではないかということである。すなわち彼は彼らと競争しなければならない。

"To have and to have not", with its echo of Hemingway. As an answer to the desire of the other, the man indeed has his phallus, no doubt about that. The only trouble is: he never has it enough, his secret fear is that it won't be convincing, that other men will be better endowed than he is, that he will have to compete with them.
この状況から生れるこ絶え間なく現存する羨望は、典型的な男性の競争を生む。小さな少年の放尿コンテストから始まり、スターウォーズに終る。私は以前の論文で、これを男たちの「ギネスブック記録ヒステリー」と名づけた。女性の側には、シェイクスピアの問い「あるべきかあらざるべきか」にかかわる。ファルスを持つかわりに、彼女は自身をファルスの化身として顕す。実に、他者の欲望への応答として、彼女は自身を顕現させるのだ。オットー・フェニケルが最初にそのファルスとしての少女に関する古典的論文にて、この化身を見出した。

The ever present envy resulting from this situation gives rise to the typical masculine competition, starting with the micturition contest in little boys and ending with star wars. I have termed this in a previous paper the "Guiness Book of Records hysteria" in men. On the feminine side, the appropriate Shakespearean question is about to be or not to be. Instead of having the phallus, she will present herself as an incarnation of the phallus. Indeed, as an answer to the desire of the other, woman presents herself. Otto Fenichel was the first to discover this incarnation with his classical paper on the girl as phallus.
彼女は男が必要とするファルスなのだ。この状況の結果は、女は男の判定にひどく依存するようになる。男の承認を通してのみ、彼女は、効果的に欲望の対象となる。すなわち想像的ファルスになる。こうやって、典型的な女性の仮装性とそそのかしが生じる。この依存性に含まれる意味は、この点における典型的な女性の情動が、この承認の喪失への不安であるということだ。不安、すなわち、もう欲望されないことの不安である。このエディプスの発展から、男と女はじつに異なるようになる。フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「ひとは男と女の合いは心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。

She is the phallus man needs. The consequence of this situation is that a woman becomes extremely dependent on the judgment of man, it is only through his recognition that she can effectively be the object of his desire, that is, the imaginary phallus. Hence, the typical feminine mascerade and seduction.The implication of this dependence is that the typical feminine affect in this respect is the anxiety for the loss of this recognition, the anxiety not to be desired any more. From this oedipal development on, man and woman are indeed different. At the end of his career, Freud will note that "One gets the impression that a man's love and a woman's are a phase apart psychologically".12 Lacan states it more bluntly: il n'y a pas de rapport sexuel.
男にとって、すべての重要性はファルスのパフォーマンスに置かれる。彼はパートナーも同じ先入観を持っていると予期し、彼女を満足させようとして、ファルスの骨へと己れを駆り立てる。この状況は、安っぽく陳腐なハードコアポルノ映画に描かれている。十分に満足していない女たちと、そして繰り返し繰り返しくたくたになるまで続ける男たち。

For the man, all the whole weight is put on phallic performance; as he expects his partner to have the same preoccupation, he works himself to the phallic bone in order to satisfy her. It is this situation that is commonly depicted in the banal hard-core porno movie: women who just don't get enough of it, and men who exhaust themselves time and again.
彼が、日常生活の現実いおいて、彼女の欲望は、それほどには崇められたファルスに向けられているわけではなく、なにがまったく別のものに向けられているのを思いがけず発見するならすばらしいことである。これをもとにして、彼の絶望的な"Was will das Weib"、女はなにを欲しているのか?という問いが生じる。他方で、女は継続する関係にその才覚を注ぎ込む。というのはそれが、彼女にとって唯一の方法だから。彼女がパートナーにとって最も重要な対象――すなわち、彼のファルスであるーーという承認を授けられるための、そして単なる性的な遊び友達、多くの可能なもののひとつではないということを認められるために。

Great is his surprise when he discovers that in everyday reality her desire is not so much directed to his revered phallus, but towards something completely different. Hence, his desperate "Was will das Weib", what does woman want? On the other hand, woman invests in the lasting relationship, because that is the only way for her to receive the recognition that she is the most important object of desire for her partner - that is, his phallus - and not a mere sexual playmate, one of the many possible ones.
こうやって、ファリックな男性のパフォーマーに直面しての彼女の失望、そして典型的な不平が生れる。「彼は私を愛していない、ただ私を使いたいだけなのよ」。性と愛の問いにおけるこの典型的な相違は、すでに引用した表現を確信させる、「セックスするために、女は理由が必要だが、男は場所さえあればよい」。

Hence, her disappointment faced with the phallic masculine performer and hence her typical complaint: "He doesn't love me, he just wants to use me". It is this typical difference in questions of sex and love that gave rise to the conviction expressed in the saying already quoted: "In order to have sex, woman needs a reason, man only a place"..(『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 Paul Verhaeghe)

ーーより親しみ易く、一般向けに書かれた『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 (Paul Verhaeghe)の「男性のペニス羨望」については、「孤独な時代の男女の愛」にいくらかその訳出がある。

…………

さて、「彼は私を愛していない、ただ私を使いたいだけなのよ」とあるが、これはすぐさま伊藤比呂美の有名な詩「きっと便器なんだろう」を想い起こさせる。

あたしは便器か
いつから
知りたくは、なかったんだが
疑ってしまった口に出して
聞いてしまったあきらかにして
しまわなければならなくなった

面と向かって直接でなくても、女性からこのうんざり感を察知したことがない男性はシアワセなタイプであろう、ーーとまでするわけにはいかないのかもしれない。これは旧世代の男女のみの話であるのかもしれない。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

…………

ポール・ヴェルハーゲの《われわれはファルスとの関係のそれぞれの性の立場を、ある動詞によって代表させることができる。男性側においては、妥当な動詞は、持つto haveであり、女性側はなるto beという動詞である》については、女性分析家の第一人者として名高いコレット・ソレールの次のような見解ーー最晩年のラカンを引用してのーーがある。



◆『What Lacan Said about Women』(Colette Soler) 仏原著2003 英訳2006より

On these questions, it is true, Lacan varied his formulations. In the place where he distinguished the sexes by "having or being the phallus," he came to say, "having or being a symptom." The two formulas are not equivalent; instead, they are the opposite of each other. The phallus is a negative function of lack; the symptom is a positive function of jouissance. Thus wanting "to be the phallus," by which Lacan stigmatized the hysteric at one time, means precisely not wanting to be the symptom. This is what he makes explicit in the second lecture on Joyce, in 1979, in which he accentuates again the difference between the hysteric's and the woman's position. A woman, he says, is specified by being a symptom. This is not the case with the hysteric, who is characterized by "being interested in the other's symptom," and who is therefore not the last symptom, but only the "next-to-last."


コレット・ソレールは、ラカンの性別化の式を変奏させ、次のような図式を提示している。この図式であるならば、ヒステリー女は男なのだ、男性の論理という意味でだが。




ここから読み取れるのは、ヴェルハーゲの見解と同様、ヒステリーの女性は、ファルスになることであるが、La femme、すなわち大文字の女性(しかも斜線を引かれた「女性」“La femme n'existe pas”における〈女〉)は、症状になることということだ。ここでのsymptomは、晩年のラカンの文脈であり、おそらくサントームになるとしてよいだろう。

※参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

コレット・ソレールと同様の見解を向井雅明氏も示している。

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル


もっともこの見解にも異論がある。

たとえばジジェクは『LESS THAN NOTHING』にて、性別化の公式と四つの言説を統合させる案を、(疑問符つきだが)、提示している。

《四つの言説と性別化の式を統合させるために、性別化の式を90度(時計回り)に動かしてみよう。すなわち男性の論理と女性の論理のラインが水平になるように》(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』 私意訳) 



そうすれば、〈ファルス関数に従わないxは存在しない〉=ヒステリーの言説、〈すべてのxがファルス関数に包摂されるわけではない〉=分析家の言説なる。


このジジェクの提示を額面通り受け取って、ヒステリーは男性の論理ではなく、女性の論理であるとすることはできないにしろ、ここでのヒステリーの例外のない(ファルス関数に従わないxは存在しない)という態度が、非-全体の論理(女性の論理)に突き抜けるあり方のひとつだと読めもするこの見解は、かねてからのジジェクの主張の流れのなかで読むことができる。


→ 象徴界(言語の世界)の住人としての女

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?(Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995年のレクチャーから私意訳)
男たちはサイバースペースを自慰装置として使う傾向がずっとあるだろ、孤独な遊戯としてね。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにさ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとあるよな、サイバースペースを誘惑の会話交換として、な。

この例というのは決定的なんだよ、標準的なラカンの誤読を取り扱うのにね。その誤解というのは女の享楽というのは会話を超えた神秘的な至福、象徴秩序から逃れた領野にあるっていうヤツだ。まったく逆のさ、女たちは例外なしに会話の領域に浸かり込んでいるのさ。(ZIZEK『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私意訳)
ファルスにどんな例外がないという欠如そのものが、女性のリビドー経済を非一貫的にしているので、この方法で、ファルス関数の領域を掘り崩すのだよ。これが私の中心的なポイントだな。ラカンがファルスの裏に何かがある、女性の享楽等々があると言うとき、これは次のことを意味するのじゃない、われわれは、ラカンが云うところの、――私はいまこうやって聞いている誰もが感情を害さないでほしいと希望するがねーーすなわちファルス関数に囚われた女とその外部の部分を理解したなんてね。こう言ったらいいかな、そうだな、これが今、私が何とかそのポイントを説こうとしている究極的なパラドックスなんだ。まさに例外がないからこそ、まさに女はファルス関数の内部に完全にいるからこそ、逆説的にファルス関数の規則が掘り崩されるのであり、すなわちそれゆえ非一貫性に囚われるのだよ。この意味がわかるだろうか?(同Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture

※補遺:コレット・ソレール=向井雅明:絶対的他者への神託の要請にたいする拒否としての「沈黙」


2014年8月29日金曜日

「卑しいごますり作家どもに災いあれ」

@cbfn: ・・・或るシンポジウムで、文学の危機を口にするフランス人文学研究者に対して蓮實さんは、「場所を特定し得ぬものに危機の診断を下すことを私は一切する気は御座いません」というような応答をしたそうです。伝聞ですから正確な表現は知りませんが、見事に正当な応答だと思います(丹生谷貴志)

とはいえ、文学だけに限らず、書くだけで喰っていけた作家という職業の危機というものはあるのだろう。もちろんそんな作家はかつてから稀ではあったのだろうが、今は芥川賞を取っても、小説だけ書いて生活できる者は一握りしかいないわけで、大学で教師などとの兼任がどうしても必要となる。

詩人? 詩人ならなおいっそうのこと。

《基本的に生活をかけて仕事をしてきたから、ずっと書きつづけてきたってことはあると思います。 もちろん詩を書く仕事だけじゃありませんですけどね。 僕の同世代の詩人たちは、大学の先生とか定職を持っていた人も多かった。僕は書いて稼ぐしかなかったんです》 (谷川俊太郎

…………


《自分の作品が「新潮」に掲載されたときの原稿料が一枚八百円(当時は日給がちょうど八百円くらい)》との北方謙三の発言に対し、《卵の値段と原稿料は変わらない》(川上弘美)。


そもそも小説家というのは、ヤクザや売春婦にもなれない人間が、最後の寄る辺としてなるものであって、なろうとしてなるものじゃないですね。(矢作俊彦

古井由吉のように大学教師を辞めて原稿料一本で生活するなどということはいまでは滅多にないはずだ。

古井由吉は、手取りの月給が10万円に届いていない時代の大学教師を辞めて書いた第一作は240枚の『杳子』であり、当時の文芸雑誌の原稿料は600円から1000円なので、当分の計算は立った、と語っている(『人生の色気』)。

僕は、大江健三郎にせよ村上春樹にせよ、まともな文学が読まれなくなり、『ハリー・ポッター』が世界を制覇するような状況に、敏感に反応してるとは思う。(……)かつてのような文学はある意味で終わったんだから、どんどん攻めていかないとダメだっていう危機感が作家たちにあるんじゃないか。(……)

古井由吉みたいに衰弱を衰弱として見せるみたいな本当に高級な芸の境地に達しちゃえば、本が一〇〇〇部しか売れなくてもすごいって言ってられるかもしれない。でも、ある程度社会的に発信しようと思った場合、いわゆる純文学なんて言ってられないんじゃないか、と。(浅田彰「憂国呆談」)

やはり作家たちの危機感というものはあるはずで、冒頭の蓮實重彦の発言は、そのことについて「文学の危機」と抽象的に言ってしまってはいけないといういう含みもあるのではないか。

…………

哲学書としては異例の2万部を記録した『動きすぎてはいけない』で思想界を震撼させた千葉雅也さんが『別のしかたで ツイッター哲学』を上梓した。千葉さんの日頃のツイートをまとめたこの本、ページをめくると、哲学、トンカツ、学問論、ダチョウ倶楽部、精神分析など、話題は多様だ。ツイート同士に繋がりがあるものもあれば、ないものもある。時系列もバラバラで、白紙のページもある。(「ツイッターによる哲学書とは」)

――とあり、『動きすぎてはいけない』は《異例の2万部》とのことだが、浅田彰の『構造と力』が《難解な哲学書としては異例の15万部を超すベストセラーとなり、ある種の社会現象にまでなりました》ことに思いを馳せれば、いかにも2万部は少ない。日本からの情報はほとんどツイッターから得ているだけなのだが、あれだけの作家名・作品名の露出があるのだから、5万部ぐらいは売れているのではないか、となんとなくーー要するに旧世代の時代錯誤的感覚でーー憶測していたのだが。

「別のしかたで」とは、これは千葉雅也氏の書の内容とは別にして、ある程度社会的に発信しようと思った場合、思想書なんて言っていられないことによる「啓蒙書」分野への殴りこみでもあるはずで、これは國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』も同様なのだろう。

(この二人の作家の書物を読んだことがない者が書いていることを断わっておく。國分氏のものをウェブ上でその断片を読んだ程度だ)

もっともドゥルーズは、「別の仕方で」を次のように使っており、本来はおそらくこっちの意味なのだろう。

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)

あるいは、「別のしかたで」とは、「非現働的な仕方で」とも読み替えてみたい誘惑にかられる。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)

これは、ニーチェの『反時代的考察』unzeitgemässe Betrachtungからの引用であるが、「非現働的な仕方でinactuel」とは、ニーチェ訳文だとおおむね「反時代的に」となっている(『反時代的考察』の仏旧訳は”Considérations intempestives”、新訳では ”Considérations inactuelles”)。「啓蒙的」であることは、現在の読者に向けてへの教育という面があるのだから、啓蒙的であることと、反時代的(季節外れ、流行遅れ)であることは、いささか両立しがたい態度ではないだろうか。ーーと書けば、ドゥルーズやフーコー、あるいはニーチェだって、啓蒙的な書はあるという反論はあるだろうし、そもそもこういう考え方とは、また「別の仕方」の考えをとらざるをえないのが現代という時代なのかもしれない。


以下の蓮實重彦の語りは、氏がつねにこの態度であったかどうかは別にして、学生や読み手に背中を向けた「反啓蒙的な」姿勢を表現している。もっともこの態度が非現働的であるのかどうかは充分に議論の余地があるだろうが、《むなしい「恋文」のよう》に書く態度が、現在の書き手のなかでどれほど見られるものだろうか。

私は、まだ撮ったことのない映画を撮るようにして、作家と向かい合っていたのではないかと思います。要するに、徹底した観客無視です。見る者を代表するかたちで、一般観客向けに、この作品はこう理解すべきだといったことはいっさい口にしてない。おそらく、そんな批評は、これまであまりなかったのかも知れません。自分ではそうは思わないのですが、初期の私の映画批評がしばしば難解だといわれたのは、おそらくそのことと関係しています。澤井さんもいわれるように、私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません。日本語を読むことのない外国の監督たちに触れている場合もそうした姿勢を貫いてきたので、翻訳で私の書いたものを読んで、それを介して親しくなる監督の数も増えてきました。考えて見ると、私は、外国の映画研究者よりも、外国の映画作家たちとずっと話が合うのです。

そうしたことが、教師としての私の姿勢にも現れていたのでしょう。この作品はこう読めといったことはいっさい無視し、勝手に映画作家たちへの「恋文」めいたことをまくしたてていた私の授業を聞いておられた若い人たちを、映画を語る方向ではなく、多少なりとも映画を撮る方向に向かわせることができたのは、そうしたことと無縁ではないのでしょう。(蓮實重彦インタビュー「作り手たちへの恋文」)


いずれにせよ、一時的には「啓蒙的」であることを選択せざるをえないとき、本来、非現働的な仕方で(inactuelに、であるならば、非現勢的、すなわち潜在的virtuelに)書かれるべき思想書の質の低下をどのように歯止めるかが問われるところだ。

「非現働的」とはプルースト流に言えば、《沖合いはるかな遠い未来のなかに》でもあるだろう。

自分の作品にその独自の道を たどらせようと思えば(……)その作品を十分に深いところ、沖合いはるかな遠い未来のなかに送りださなくてはならない。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)

さらにはまた何年もかけて仕上げた「思想書」よりも、わずかの期間で仕上げた啓蒙書ーーここでの「わずかの期間」とは語弊を惧れるがーーのほうが数倍も売れてしまったとき(いや同じ程度でもよい)、本来の「思想書」に回帰する書き手はそれほど多くないはずだ。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

金にある程度かたがついても(あるいは金銭欲がもともとなくても)、「名声」というよりいっそう厄介なものが待っている。

ロダンは名声を得る前、孤独だった。だがやがておとずれた名声は、彼をおそらくいっそう孤独にした。名声とは結局、一つの新しい名のまわりに集まるすべての誤解の総体にすぎないのだから。(リルケ『ロダン』)

金と名声とは、すなわち市場と名声であり、そこでは市場の蠅が待っている。

民衆は、真に偉大であるもの、すなわち創造する力に対しては、ほとんど理解力が無い。市場と名声とを離れたところで、全ての偉大なものは生い立つ。市場と名声を離れたところに、昔から、新しい価値の創造者たちは住んでいた。
 
逃れよ、私の友よ、君の孤独の中へ。
 
私は、君が毒ある蝿どもの群れに刺されているのを見る。逃れよ、強壮な風の吹くところへ。
 
逃れよ、君の孤独の中へ。君は、ちっぽけな者たち、みじめな者たちの、あまりに近くに生きていた。目に見えぬ彼らの復讐から逃れよ。君に対して彼らは復讐心以外の何物でもないのだ。
 
彼らに向かって、最早腕をあげるな。彼らの数は限りが無い。蝿たたきになることは、君の運命ではない。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「市場の蝿」(手塚富雄訳)


もちろんこれだけではない。評判となった作家の第一作とその後の第一作とは、かねてから、このようであろう。

芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光を当たられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収)

サドは、《卑しいごますり作家どもに災いあれ》とかつて書いたが、作家たちは、その多寡、意識的/無意識的な相違はあるにしろ、ごますりを免れるのは難い、とくに社会的に発信しようと思えば、それはどうしても避けがたくなる。だが現在はなおいっそうのことそうなのだろう。


…………

※附記:いまではほとんど通用しなくなってしまった言葉たちを並べておこう。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう)。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)
公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)
文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。(……)

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。(柄谷行人「近代文学の終り」
20世紀の歴史的事実をなかったことにしたり、既に相対化されてしまったと割り切ったりするわけにはいかない。例えば文化的には、モダニズムということで文学でも、ジョイスやベケットがいて現代文学があった。日本でも大江健三郎や中上健次がいて今がある。しかし、特にここ10年くらい、そうした現代文学がなかったかのようにして、大正時代のような小説が平気で書かれる。確かに、ジョイスとかベケットの後では書けないとか、大江健三郎、中上健次の流れだけが現代日本文学だとかいうのは一方的過ぎるけれども、それは一回知っておくべきだし、それを知ってしまうとナイーブに物語は書けないはず。ところが、書き手自身がジョイスやベケットも読まないし、大江健三郎も中上健次も読まない、そして、なんか大正時代の文学が好きだからなんか書いてみたらこうなりましたとなる。それが芥川賞を取ったりする。これは驚くべきこと。(浅田彰氏講演録「知とは何か・学ぶとは何か」2001)

…………

◆蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』

(凡庸さ)はたんなる才能の欠如といったものではない。才能の有無にかかわらず凡庸さを定義しうるものは、言葉以前に存在を操作しうる距離の意識で あり方向の感覚である。凡庸な芸術家とは、その距離の意識と方向の感覚とによって、自分が何かを代弁しつつ予言しうる例外的な非凡さだと確信する存在なの だ。
語るべき根拠を持たぬままに語ること。知の欠如という消極的な無知を何とか埋めながら、ほどよい物語を語ってみせるというのではなく、無知に徹することで物語を宙に迷わせること。この凡庸な時代に文学たりうる言葉は、何らかの意味でその種の愚鈍さを体現している。

あるいは書くことへの不断の信仰を仰々しく述べるマクシム・デュ・カンの言説にたいして、

……安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。そこに語られる言葉が紋切型というやつだ。(……)どこかしら正当な根拠のようなものと戯れ続けることで日々の執筆を習慣化したマクシムには、ギュスターブ(フローベール)のように書くことの無根拠と戯れる愚鈍さが欠けていたというべきだろう。
マクシムは、ただひたすら筆を走らせていたわけではなく、きまって何かを書くために、情熱的にペンを握り続けていたのだ、書くにふさわしい根拠を発見したときのみ、筆を走らせていたというマクシムの「情熱」は、もっぱら、その書くべき何かに向けられていたにすぎない。そのとき言葉は、素直に筆に従属するのみで、書き手を脅かす薄気味悪い環境へと変貌したりはしないようだ。ただ、書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮だけが、その筆を支えていたのである。

マクシムにとって、書くという「職人」的な「勤勉」さは、必然性を欠いた愚鈍な振る舞いであったためしがない。(……)マクシムにとっての書くことは、書かないでいることとは異質の特権的ないとなみにほかならず、「職人」的な「勤勉」さによってよく書くことへの善意がきまって報われるだろうと信じている。そして、不幸にして、その事実を信じて疑おうとはしない。みずからの犯した説話論的な錯誤のかずかずが、ことによったら、よく書くことへと誘う不実な言葉の裏切りによるものだとはまるで考えてもみないようだ。それが、無根拠に言葉と戯れうる愚鈍さを欠いたものの不幸にほかならない。

文学は、マクシムとともに、その不幸の別名となる。書くことが、書かずにいることとは異質の意味あるいは振舞いだと教えられてしまった相対的に聡明な者たちが支えあう文学の中で、マクシムは典型的な文学者の表情を獲得する。徹底した根拠の不在と進んで戯れうる無暴な愚鈍さに恵まれない作家たちは、はからずも知ってしまったことを正当な理由に仕立てあげ、多くの物語を不断に語り続ける。晩年のマクシムの信仰告白がふと洩らしているのは、そうした文学の不幸にほかならない。多くのことを知りながら、その不幸の凡庸さだけは知るまいとして、文学は百年に及ぶ歴史を刻んでしまったのだ。


2014年8月28日木曜日

象徴的ファルスと横棒

ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて。ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう。

Regarding the term phallus, note that Lacan equates the phallus with the bar between the signifier and the signified (S/s) in Seminar XX (40/39). (Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)

――とあり、フィンク英訳のセミネールⅩⅩを探ってみると、次のようになっている。

For the time being, I will say that what I put forward last time as the function of the bar is not unrelated to the phallus. Seminar XX (40/39)

the function of the bar is not unrelated to the phallus》――すなわち、「横棒の機能はファルスと関係がないとことはない」、とでも訳せるか。フィンクのいうように、ファルスと横棒が同一視されているかは微妙なところだが、そうはいっても、ファルスが横棒と似たものだなどというのは、ラカンさん、またややこしいことを言ってくださる。

しかし、ジジェクも同様の説明をしている。

……with regard to the division between signifier and signified, the objet a is on the side of the signifier, it fills in the lack in/of the signifier, while the Master‐Signifier is the “quilting point” between the signifier and the signified, the point at which the signifier falls into the signified.

For Lacan, the phallic signifier is such a suturing element: Lacan's concept of the phallus is exemplary of the dialectic of the priority of lack over the element that fills it in—and, as Lacan points out, for a very precise reason (known to all Lacanians), the phallus is the very signifier of this lack:……

Insofar as the phallic Master‐Signifier is the point of the subject's symbolic identification, identification is ultimately always identification with a lack.(ZIZEK“LESS THAN NOTHING”)



2014年8月26日火曜日

「無限の翻訳の連鎖」と「原 =翻訳」(蓮實重彦)


…………

これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

だから、「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2

ここにある無限の翻訳の連鎖」と「原 =翻訳」とは、「シニフィアンの主体」と「享楽の主体」と――蓮實重彦はラカン派につねに批判的ではあるのだけれどーーほとんど同じことを言っているのではないか。






要するに、無限の翻訳の連鎖も経ずに、享楽(上の図の赤い穴)について安易に語るな、ということなんだろう。

《「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった》とあるが、トラウマについても同じ。

脱構築はすぐれてモダニズム的手法である。それはおそらく「暴露(仮面を剝ぐ)」という論理の最も根源的な形である。この論理においては、意味の経験の統一性そのものが、意味作用のメカニズムの効果としてとらえられる。そしてその効果は、それを生んだテクストの運動を無視しているかぎりにおいて可能である。ラカンにおいてはじめて「ポストモダニズム的」断絶が生じる。というのも彼は、きわめて曖昧な地位を維持しているある種の現実界的で外傷的な核を論理化したからである。〈現実界〉は象徴化に抵抗するが、同時にそれ自身の遡及的産物でもある。この意味で、われわれは次のようにすら言うことができるーー脱構築主義者たちは根本的には依然として「構造主義者」であり、享楽こそが「真の〈物自体〉」であり、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている、と断言したラカンこそ唯一の「ポスト構造主義者」である、と。(ジジェク『斜めから見る』P267)

《この論理においては、意味の経験の統一性そのものが、意味作用のメカニズムの効果としてとらえられる。そしてその効果は、それを生んだテクストの運動を無視しているかぎりにおいて可能である》とあるが、これは「行間にはなにも書かれていません」という蓮實重彦への批判としても読めないことはない。

だが、蓮實重彦の「行間に何も書かれてしません」は、次のように読むべきなのだろう、ーー行間に何かが書かれているのは当たり前だ、だがそれに囚われてしまうと、《そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい頽廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい》(「健康という名の幻想」『表層批評宣言』所収)

蓮實重彦にはジジェク批判もある。

ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが……(蓮實重彦

だが、《〈現実界〉は象徴化に抵抗するが、同時にそれ自身の遡及的産物でもある》とジジェクが書くとき、「遡及的産物」が肝要なのであり、これは象徴界における無限の翻訳の連鎖」を通してのみ、現実界における「原 =翻訳」に遭遇するということでもある(両者をともに顕揚するにはいささか無理があるかね?)。

※参照:〈私〉という主人のシニフィアンの遡及性


もっとも、ジジェクの書き物には、安易に「現実界( réel)」と安易に言ってしまう感を抱かざるを得ないときもあるのだが、とくにその映画、文学、音楽、絵画をめぐる叙述には。

フローベールは「黄色の印象を与えたい」がために『サランボー』を、「わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じを出したい」がために『ボヴァリー夫人』を書いたらしく、これを聞いただけでもフローベールに好感を抱かざるを得なくなるとブルトンは言っているが、成る程いい感じ。御意。(鈴木創士ツイート)

蓮實重彦は《わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じ》などとは、けっして(少なくとも安易には)、口に出さないのではないか。

「原=翻訳」とは、「表象の奈落」とも言い換えられる。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)


「技巧的な蓮實」と「熱い蓮實」との古谷利裕批評があるが、これも「シニフィアンの主体」と「享楽の主体」と似ているな、《「技巧的な蓮實」が、その原形質として「熱い蓮實」によって支えられている》とあるからな。

蓮實重彦の『映画狂人のあの人に会いたい』は、81年に行われたジョゼフ・ロージーとアレクサンドル・トローネへのインタビューで始まっている。2人のインタビューの末尾に添付された簡単な紹介文を読んで、この雰囲気こそが、当時、蓮實氏の批評を多くの人に伝染させたものなのだと感じた。この、人の感情を煽り立てるような独自の調子は、『物語批判序説』などというタイトルの本を出している人にしては、あまりに不用意に通俗的、扇情的、あるいはメロドラマ的なのだが、おそらく著者本人の、感激しやすいというか、興奮しやすい性質と分かち難く結びついているのだと思われる、人の情動を揺り動かす調子に触れたならば、いわゆる「技巧的な蓮實」が、その原形質として「熱い蓮實」によって支えられているのが読みとれると思う。「戦略としての迂回」などと称されもした初期の蓮實氏独特の妙に持って回ったような文体が多くの人に支持されたのは、勿論その論述の内容が圧倒的に鋭かったからであるのだが、それ以上に、あのうねうねとどこまでも続く文章の調子が、なによりも「熱さ」の表出として人々を共振させたからだと思う。

一方、この本に収められたものでもっとも新しいインタビューは、今年の春に行われた万田邦敏の『UNLOVED』に関するものだ。ここで、主演女優の選択について質問した蓮實氏に答えて、万田氏は、当初は、紺野美沙子、沢口靖子、細川ふみえ、などをイメージしていたと言う。「細川ふみえですか!?」と驚く蓮實氏に「薄幸な感じがいいなあ、とね」と万田氏。これに続けて蓮實氏は、「でも、北野武監督の『菊次郎の夏』のフーミンはとてもよかった」と。蓮實氏の口から思わず「フーミン」という音が漏れてしまうというのは、何とも感動的な瞬間であって、しかも今時(『スキスキスー』の時期ではないのだし)誰も細川ふみえのことを「フーミン」なんて呼ばない訳で、そこに微妙なズレが生じていることが、この感動にさらに何とも言えぬ趣を付け加えている。現在の蓮實氏は、どうしたってこのようなズレとともにあるしかない。しかし、このようなズレは、完璧に隙のない「技巧的な蓮實」よりはずっと良いのではないだろうかと思う。

《人間はひとつの構造、つまり言語の構造、-構造とは言語を意味するのですが-この構造が身体を分断することによって思考する》(ラカン『テレヴィジョン』)

あたりまえのことなんだけどさ、身体の「熱さ」が原形質となるのは。

研究者・学者であるならば、「熱い蓮實」やら、蓮實重彦の「享楽の主体」を見出して批判するのもわかるけどな。《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって》(浅田彰)、批判していたらよろしい。連中には「表象の奈落」とは縁がなさそうだからな。いや、そんな才能はめったにあるもんじゃないが、それを恥じる心持さえ微塵もないようなのだから。

蓮實)みんな、文学は教えられないというけど、文学の教育は可能なんです。日本では、文学教育のプロフェッショナルがいなかったというだけのことです。文学部系のアカデミズムがあまありにも弱体だったので、教育が機能しなかったのであり、そのうち、みんががあきらめちゃった。これは、不幸なことですよね。これが有効に機能していたら、いまの批評家の半分は批評家にならずにすんだと思う。自分の趣味とは関係なく、文学の名において、おまえは才能がないと言う人がいなかったんです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』ーー「依怙贔屓」、あるいは「お前は才能がない」

いまではますます《おまえには才能がない》という人は少なくなっているのだろうから、「ほどよい聡明さ」に死ぬまで浸かって、いつまでも厚顔無恥を曝しておればよろしい(ここでオレのようにな! と書いておかないと、聡明なる「シニフィアンの主体」の輩がなんたら言ってくるかもしれないから、書いておくよ)。

ただし、ほどよい「聡明さ」に犯された「学者」たちの饒舌は、「思考」の環境汚染に役立つこと、その汚染された環境が「制度」のありかをさりげなく隠蔽すること。そして、そんな環境汚染を糾弾する「公害」学者が僅かしかいないこと。--などと書けば、誰のパクリなのは瞭然としているだろうが、いまは長くなるから、バクリ先を引用することはしないでおく。

代りに、ツイッターなどで「得意満面」たる夜郎自大のシニフィアンの批評家たちの饒舌、そのフニャチンぶりってのは、やっぱりこういうことなんだろう、という文を掲げておく。

言葉が尽きずに、改行もなしにとめどなく流れつづけてゆくことの恐怖というのが、いまの時代の姿なのかも知れません。しかしそれを崩れと観るという感受性それ自体が、こんなに萎えてしまっているのではねえ。(古井由吉+松浦寿輝対談


2014年8月25日月曜日

三種類の同一化(コレット・ソレール)

以下、資料。

同一化の場合は、対象は失われているか、放棄されてしまっている。そのとき対象は自我の中で再建され、自我は失われた対象の手本にしたがって、部分的に変化する。ほれこみの場合には、対象は保たれており、そのまま自我によって、自我を犠牲にして過大評価(過剰備給)される。しかしこれについても疑念がある。同一視が対象備給の放棄を前提とするのは、いったい確実なことなのだろうか、保持された対象にたいする同一化はありえないのだろうか、この微妙な問題の論議に入る前に、われわれには、すでに次のような洞察がほのぼのと開けてくる。つまり、他の二者択一、すなわち、対象は自我のかわりになるのか、それとも自我理想のかわりになるのか、という問題がこの事態の本質をふくんでいるという洞察である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集 6 P229)

ーーこの文は、理想自我との同一化、自我理想との同一化として、しばしばジジェクなどによって語られてきた参照テキストのひとつだ。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』ーー参照:優しい人たちによる魔女狩り

ところで、コレット・ソレール(女流分析家の第一人者ともいわれる)は、この二つの同一化以外にファルスとの同一化を、フロイトの有名な「美しき肉屋の妻」の話とラカンの『エクリ』での叙述を元にして、以下のように語っている。すなわち三種類の同一化を説いている。

ジジェクにも主人のシニフィアンMaster-Signifierとの同一化を語るときがないではない。わたくしは、その同一化は象徴的同一化と似たようなものだろうと思い為していたのだが、、コレット・ソレールによれば、象徴的同一化(自我理想との同一化)とは異なることが、はっきりと書かれている。

The three identifications in play in the dream are thus quite distinct: the first is an identification with the object that sustains desire; the second is with the subject of desire; the third is with the signifier of desire.

ーーと書いたところで、コレット・ソレールの同じ書の後半を眺めてみれば、次のように書かれている。

Freud's schema is very simple: he makes love the basis of the group, since love calls upon an ego ideal—a master signifier—which, by being what the different egos that make up the group hold in common, allows them to identify with each other and constitutes them as a set.
Whatever their compensations and their level of diversity may be, identifications—including the "final identification" with the signifier of the lack of the Other, the phallus—dress up the void of the subject, ensuring a determination of its being.

ということは、すなわち「the signifier of the lack of the Other」が、「最後の同一化」ならば、次のジジェクの文をどう読めばいいのだろう。

Lacan makes this clear when he emphasizes how every One, every Master‐Signifier, is simultaneously S(Ⱥ), a signifier of the lack of/in the Other, of its inconsistency. (ZIZEK“LESS THAN NOTHING”2012ーーラカンの S(Ⱥ)をめぐって)

おそらくコレット・ソレールの論は、サントームとの同一化を外しているように思うが(すなわち少なくとも四つの同一化があるのだ)、いまは慌ててコメントを書き加えるのはやめにしておく。

ここではフィンクの著より、次の文をつけ加えておくだけにする。



◆『THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE』 Bruce Fink

The symbol Lacan provides us for it (see, in particular, Seminars VI and XX) is S(Ⱥ), which is usually read "the signifier of the lack in the Other" but, as lack and desire are coextensive, can also be read "the signifier of the Other's desire."
Symbols' meanings often evolve very significantly over time in Lacan's texts, and I would suggest thatS(Ⱥ) shifts between Seminars VI and XX from designating the signifier of the Other's lack or desire to designating the signifier of the "first" loss. (That shift corresponds to a change in register, as is so often the case in Lacan's work: from symbolic to real. Note that all of the elements found under "Men" are related to the symbolic, whereas all those under "Women" are related to the real.)



以下、英文のまま貼り付ける。この論文は、いくらかの疑念は覚えつつもーーすなわち叙述上、わたくしの理解の及ばない箇所はあるがーー、三種類の同一化以外に、隠喩(とその意味作用)、あるいは換喩の説明など、とても明晰に書かれている。


◆『What Lacan Said about Women A Psychoanalytic Study』 Colette Solerより


※This work originally appeared in French as Ce que lacan disait des femmes: Etude de psychanalyse. Copyright © 2003 Editions du Champ Lacanien.

Translation © 2006 John Holland

…………


We know that Lacan extracts from Ferdinand de Saussure's texts a matheme that is not found there, but that condenses his analyses. He writes the capital S of the signifier over the small s of the signified, in order to indicate that the signified is produced by the signifier, that it is its effect.





This already says that the signified is radically distinguished from the referent, the things themselves, the real that we aim at when we speak. Next, Lacan, rereading Freud with Jakobson, recognizes in metaphor and metonymy the two operations by which something of the signified is engendered. Metaphor substitutes one signifier for another,S' for S; it represses the first signifier, making it pass to the rank of the signified. The result is what Lacan calls a positive meaningeffect (effet de sens), which he writes with a plus at the level of the signified,




Metonymy combines two signifiers—and combination is not substitution— without engendering a supplement of meaning, which Lacan writes with a minus at the level of the signified:



…………

THE DREAM IS A METAPHOR

Lacan reads the dream of the beautiful butcher's wife by means of this linguistic structure, which it illustrates marvelously. For his demonstration, he uses, of course, Freud's commentary, which analyzes not only the dream text, but also the associations called up by the dream.

The slice of smoked salmon that appears in the dream is, Freud says, an allusion to the dreamer's friend, who claims to desire salmon, but forbids herself from eating it. It happens that the beautiful butcher's wife does the same with caviar; she claims to want caviar and persuades her husband of this, but insists that he not buy it for her. That a woman dreams of caviar, a food that is not sold at the butcher's shop, already opens onto something that is elsewhereat least in terms of food. From this, Freud boldly deduces that the behavior of these two coupled hysterics has the signification of a desire for an unsatisfied desire. All of this precedes the dream and is not yet a part of the unconscious.

Lacan does not discuss this thesis of Freud's. He makes it into a matheme and writes it in terms of the structure of signifier and signified: "the desire for caviar" is the signifier, the signified of which is "the desire for an unsatisfied desire":





We see that Lacan does not reduce the signifier to the elements of language (la langue), since he makes the "desire for caviar" into a signifier. Any discrete element, which can be isolated and combined with other discrete elements, which can also be isolated, and can take on meaning, can be called a signifier. Here, it is "the desire for caviar," but it can also be an image and even a gesture. Lacan mentions, for example, that a slap can be a signifier as soon as it enters into a combinatory structure of representations; this can also be the case of a somatic element, a kind of physical pain, as can be seen in the hysterical conversions that Freud brought to light.

The caviar that Freud speaks about does not, however, appear in the dream. What appears is the salmon, which is substituted for caviar by a metaphoric effect; the latter makes one signifier (caviar) disappear in favor of another: salmon. The dream's metaphorical structure can already be written:





As Lacan says, "But what is metaphor if not a positive meaning effect, that is, a certain access gained by the subject to the meaning of her desire?"5 We can see that the positive meaning effect, which is the plus of positive meaning produced by metaphor, is nothing other than what Freud names the desire of the dream, which is very much unconscious.

         (+) s = desire


Meaning is thus desire itself. The sentence can be clarified if we develop the two levels of the matheme of the signifier and the signified. Just as the combinatory of signifiers is developed in a chain, which can be symbolized by the binary of Si and S2, so also the signified itself is present in two guises. First, there is the signification, which is grammatical. This is what is used in textual explications, when a sentence is examined according to its grammar, its words, and their semantic definition. Yet this does not exhaust the signified, since for every signification that is produced, we can ask, and we generally do not fail to do so, what it "means" (veut dire). This question concerns what the enunciation aims at. There is thus always some meaning that is in excess of the signification:





"What does this mean (veut dire)?" leads us back, in the last analysis, to "What does it want?" The problem is not so much to know what the subject wants to say to you as what this subject wants in speaking. These are the ABCs of deciphering, which lead to the interpretation of desire, and from such concerns, Lacan disengages the structure of language, without which interpretation would have no rules. The dream is a metaphor that makes the dimension of desire present. Yet this does not yet say what this unconscious desire is.


To reach unconscious desire, we cannot simply stay with the unsatisfied desire of the two friends: one with her salmon and the other with her caviar. The latter, indeed, is not an unconscious but a preconscious desire, since it has been deduced simply from the patient's explicit speech. Unconscious desire is not deduced from explicit speech but is approached, through metaphor, as the signified. It is therefore necessary to "go further in order to know what such a desire means in the unconscious."


METONYMY IN THE DREAM

Before coming to the interpretation of unconscious desire, I will first examine metonymy. We must first distinguish unsatisfied desire from the desire for unsatisfied desire. There are two difficult paragraphs concerning this subject. Unsatisfied desire is signified by the signifier caviar, inasmuch as it "symbolizes this desire as inaccessible. . . ." Here we are at the level of the elementary matheme:




Yet, Lacan continues, as soon as desire "slips . . . into the caviar, the desire for caviar becomes this desire's metonymyrendered neeessary by the want-to-be in which this desire sustains itself."6 Let us write this operation with the matheme of signifier over signified:




Why is the desire for caviar a metonymy of unsatisfied desire and not a metaphor for it? Lacan comments on the same page on what he calls the scant meaning of metonymy, the "minus" written at the level of the signified in the general formula. "Metonymy," he says, "is, as I have been teaching you, an effect which is rendered possible by the fact that there is no signification that does not refer to another signification; the most common denominator of those significations is produced in itnamely the scant meaning (commonly confused with what is meaningless), I repeat, the scant meaning that turns out to be at the root of this desire, conferring upon it the hint of perversion one is tempted to point to in the present case of hysteria."7

I will leave to the side for the moment his accent on perversion. I want to emphasize first that there has been no substitution of signifiers: unlike the metaphor of the dream, in which the salmon has repressed the caviar, which reappears only through association, none of the termscaviar and desire for caviarhas disappeared from the chain. On the level of the signified, when we pass from unsatisfied desire to the desire for unsatisfied desire, is there a plus? There would seem to be: it is not the same to mention the lack of caviar (the unsatisfied desire) and to make it understood that this lack is desired (the desire for unsatisfied desire). Why does Lacan say then that there is no positive meaning effect?


This can be understood only through the distinction between meaning (sens) and signification. The significations of "unsatisfied desire" and "desire for unsatisfied desire" are different. Yet on the level of meaning, which is to be placed in the denominator of these significations, what has been transferred? (It is worth noting that Freud uses the term "transference," for the first time, in relation to the work of signifiers in the dream.) What is transferred is nothing other than the indication of a lack, which is inherent in all desire, and which insists. "Unsatisfied desire" and the "desire for unsatisfied desire" do not have the same signification, but they have the same meaning of a lack in the subject:



The single meaning that insists in both unsatisfied desire and the desire for unsatisfied desire is only a "scant meaning," that of the same lack, which cannot tell us what the specific unconscious desire of the dream is. This is what resolves the question of the possible perverse accent. To whoever would be tempted to ascribe our two friends' strategy of privation to a penchant for masochism, Lacan responds that this is only an appearance, and "The truth of this appearance is that the desire is the metonymy of the want-to-be."8 What then can be said of the subject of the unconscious, inasmuch as it wants something determinate?


THE SUBJECT OF THE UNCONSCIOUS

The subject of the unconscious is not the nice hysteric who recounts her dream to Freud, in the dimension of the transferential call: "Well, my dear professor, what do you have to say about that?" You'd better get to work! The subject of the unconscious, if we could incarnate itbut, of course, we cannot, and so I am using the modal "could"would be the agent of the metaphorical substitution.

This subject is not the person, who goes through all her pantomimes, but what is determined by this metaphor. It is thus equivalent to the desire that it signifies. We find this subject "In a signifying flow whose mystery lies in the fact that the subject doesn't even know where to pretend to be its organizer."9

We must thus distinguish, on the one hand, the unconscious as a linguistic structure that is decipheredthe signifying formations of metaphor and metonymyand on the other, the unconscious meaning that is transferred in this combinatory of the chain, and that can only be interpreted. This is the unconscious as desire, as unconscious subject.

THREE IDENTIFICATIONS

The rather simple interpretation of the beautiful butcher's wife's dream proceeds by means of the distinction among three identifications. It has been known for a long timefrom before the invention of psychoanalysisthat the hysterical subject tends to make identifications, but hysterical identification is complex and stratified.


The First Identification

This is with the friend, and we can mark its coordinates on Lacan's schema L, in which the imaginary axis is crossed by the axis of the symbolic relation of subject to subject:






More than being an identification with a single signifier, it is an identification with a kind of conduct (refusing what one says one wants) that already indicates desire. It is to be situated on the imaginary axis, as an identification, via an index of the signifier, with the desire of the otherwithout a capital "o"the counterpart.

The index of this identification with the friend is the patient's desire for caviar, which reproduces the friend's desire for salmon. As inaccessible or refused objects, caviar and salmon are the signifiers of their unsatisfied desire.

This identification with the friend's desire can only be apprehended, however, in relation to a third term, which can be written as A, a place that happens to be filled here by the husband, the one who is to be made to desire. He must be located at the place of the Other, with a capital letter, since, in order to seduce him, she must orient her self in relation to his desire; this desire is itself located only by means of his demand, as the meaning of his demand.

This structure can be read easily, for the husband's demand is very explicit. He is a man who claims to know what he wants: he likes curvaceous women. It happens that the patient, who is curvaceous, has everything to satisfy his demand. The friend, on the other hand, is very thin, and does not have the prerequisites for the husband's sexual satisfaction; for this reason, the husband's discreet interest in her raises a question. A desire has been indicated, but in a negative mode: he has another interest, for something that cannot satisfy him, although his drives are already being satisfied. The line of dehiscence between desire and a demand for satisfaction is obvious here.

We can find this again in the two friends in the conjuncture of the dream. The friend has made a request: she wants to come for dinner. She conveys this signification through her compliment to the butcher's wife: "You eat so well at your home." Its meaning is completely different, and our witty butcher's wife understands this: it pleases her friend to awaken a desire in the husband, the man who likes "the piece of ass," although nothing suggests that she would like to offer herself as a delicacy for the butcher. The opposite is the case.

The patient's dream is presented as a wish that is conveyed by a demand, and even by a call, which responds to the friend's request and is symbolized by the telephone. The signification is clear; she would like to please her friend, but the supposed intention of the dream fails, thus revealing another: "If you think that I'm going to help you captivate my husband's lack. . . ."

The friend intervenes here as what sustains the desirea desire that is to be understood simply as a lackwhereas the butcher's wife is the object of satisfaction. In this case, we have a minimal, very precise illustration, of a paradigmatic division in the hysteric: the split between the object of satisfaction and that of desire, between the jouissance-object and the lacking object. The notion of object-cause, which Lacan uses at certain periods of his teaching, condenses these two aspects of the object: it is, on the one hand, the object that is lacking and sustains desire, and on the other, the object as surplus
jouissance. It thus has a double function: to cause the lack and to fill it up. The hysteric dissociates these two aspects:






The Second Identification

The imaginary identification with the friend was thus not just any identification. Its motive force is on the symbolic axis of the subject's relation with the Other, who, in this case, is the husband. More precisely, what underlies this identification is a question about the desire of the Other: "Couldn't it be that he too has a desire that remains awry when all in him is satisfied?"10 Does the butcher's wife look at her friend from the butcher's point of view? She interrogates the agalma, the friend's charm, the mystery of her seductive thinness from the man's point of view. The subject, signified by the metaphor of the dream, is therefore the question of the Otherhere, the manwith whom, as subject, she has identified.

"The subject becomes this question here. In this respect, the woman identifies with the man, and the slice (tranche) of smoked salmon comes to occupy the place of the Other's desire."11




Where does this slice of smoked salmon come from? This is the first time that Lacan introduces this signifier, whereas the translation of the dream-text mentioned "a little salmon." It is, in fact, a condensation: the salmon comes from the friend and the slice comes from the husband. Playing the bon vivant, he had spoken of a "nice piece of ass."12

Thus the slice, like the "scant" meaning, is not the whole; it becomes the signifier of the desire of the Other. When Lacan says, "the woman identifies herself with the man," this is neither a rabbit that he pulls out of his hat nor a study of behavior and imaginary posturing; it is the result of the deciphering of signifiers. This has nothing to do with any psychological intuition.

There are thus two identifications. The first, with the friend, is on the imaginary axis, and the second is on the symbolic: it is the identification with the man's desire. We can immediately see that the hysterical woman's identification with the man does not at all exclude a pantomime of femininity; the patient's game with the caviar is a part of the feminine masquerade. Her playing the man's part [faire l'homme]"13 is at the unconscious level of desire and has nothing to do with any boyish appearance.


The Third Identification

If we remained only with this second identification, we would be led to think of the hysterical subject as an eternal question. She would be someone whose being could be defined with a formula: that of the question of the Other. Yet the question of the Other is not ineffable. It has a signifier: the phallus, which is defined here as the signifier of the lack, and in relation to which there is a third identification. "To be the phallus, even a somewhat skinny oneisn't that the ultimate identification with the signifier of desire?"14



 Φ
ーー
$=?


This expression of a final identification looks forward to Lacan's developments, in "Position of the Unconscious," concerning what he calls the axis of separation, in which the subject separates him/herself from the signifiers of the Other by identifying with the signifier or the objects of his/her desire. The three identifications in play in the dream are thus quite distinct: the first is an identification with the object that sustains desire; the second is with the subject of desire; the third is with the signifier of desire. The subject, if she said "I," could say, "I am certainly a lack in being (manque à être), but at least I can be what is lacking in the Other. "Being the phallus" is the formula of desire in the witty butcher's wife's dream, and it is a wish to make herself be through the Other's lack.


…………


◆以下、フロイト『夢判断』より、いわゆる「美しき肉屋の女将(妻)」をめぐって書かれている箇所を附記する。


「先生はいつも、夢は満たされた願望だとおっしゃるけれど」と、ある頭のいい女性患者がいいはじめる。「そんなら、全然反対の中身の夢を先生にお話してみましょうか。つまりその夢の中では、わたしの願いが遂げられなかったのです。この夢は先生のお言葉とどう調和するかしら。こういう夢なのです」

《ひとを夕御飯にお招きしようと思った。しかし燻製の鮭が少々あるほかには、何の貯えもなかった。買物に出かけようと思ったら、今日は日曜の、しかも午後なので、お店はどこももうしまっているということを思い出した。そこで出前で届けてくれるところを二、三軒電話で当ってみようとしたけれども、電話は故障している。それでその日ひとをご招待しようというわたしの願いは諦めてしまわなければならなかった》

私はこれに対してこう答えた、なるほどその夢は伺ったところ立派に筋が通っていて、願望充足の正反対であるように見えるけれども、分析してみなければその夢の本当の意味はどうとも申し上げかねる、と。「しかし、この夢はどういう材料から出てきたのでしょうか。夢のきっかけはいつも前の日のいろいろの出来事の中にあるということはあなたもご存じでしょうね」

分析 この婦人患者の夫は、実直で働き者の、ある大きな肉屋だが、前の日に彼女に向って、どうも近ごろやけに肥ってきたから、なんとか痩せるような治療法をやってみようと思う。早起き、運動、美食を避ける、ことによそから夕御飯に招ばれても絶対に出かけてはゆくまいなどと話した。――彼女は笑いながら自分の夫について話しつづけた。夫は行きつけの飲屋でひとりの画家と知合いになった。この画家がぜひ夫をモデルにして絵を描きたいといった。こんなに表情に富んだ頭部は今までに見たことがないという。夫は持ち前のあけすけな態度で、「ご芳志はまことにかたじけないが、若いきれいな娘っ子のお尻のほうがわたしの顔なんかよりよっぽどあなたには向いているでしょう※」ち答えた。自分は今夫にすっかり惚れている、そしてなんだかんだといって夫にいちゃつく。「あたしにキャヴィアをくださらないでね」と頼んだこともある。――キャヴィアをくれるなというのはどういうことなのか、と私はたずねた。

※「美人のお尻」は「モデルになる」の意。ゲーテに「お尻がなければ貴人もモデルに坐れまい」とある。

つまり彼女は前々から、毎日午前中にキャヴィアを塗ったパンを食べたいと思っていたのだが、贅沢だと思ってそれをしかねていた。夫にそういうえば、むろんすぐにそうしてもらえただろう。しかし彼女はそのことでなるべく永いあいだ夫をからかうことができるように、その逆のことを夫に願ったのである。

(この説明はどうも根拠薄弱のようである。こういう不十分な説明の背後には、ひとが白状したがらない動機が隠れているのがつねである。ぺルネームの催眠術実験では、催眠状態にある患者に何か命令すると、患者は醒めたのちにその命令を実行するが、君はなぜそのことをするのかとたずねられても、患者は「なぜこのことをするのか、自分にはわかりません」とは答えないで、それに必ず何かの理由をつける。しかも嘘だということが見えすいているような理由をつける。このキャヴィアの一件もこれと似たりよったりである。彼女は、生活中にひとつの充たされない願望を作り出すべく余儀なくされているように思われる。それに彼女の夢も、願望拒否を実現したものとして彼女に示している。しかし彼女は何のために充たされない願望を必要としているのか)

これまでの思いつきは、この夢の分析にたいして役だたなかった。私はさらに先へ進む。抵抗を克服しようとするかのように暫時沈黙したのちに、彼女は語を継いだ。彼女は昨日ある女友だちを訪問した。この友だちに対しては、少々やきもちを焼くいわれがあった。ありがたいことにこの婦人はひどく痩せっぽちだった。ところが彼女の夫は豊満な女を好んでいた。この女友だちは何を話題にしたか。むろん、もっと肥りたいということをいった。それからまた、こういった、「わたしたちをいつまた夕御飯によんでくださるの? なにしろお宅の御馳走はとてもすばらしいんだから」

これで夢の意味がはっきりした。私は患者に向ってこういうことができる、「まるで何ですね、あなたはそんなふうに夕御飯によんでくれと催促されたときにこう考えたとでもいうような具合ですね。つまり『自分があなたを招待して御馳走したら、あなたはわたしのとことでその御馳走を食べて、肥って、わたしの夫に今までよりももっと気に入るようになるだろう。それじゃもうひとをよんで夕御飯なんか御馳走をするのはやめてしまおう』そうだとすると、夢はあなたにこういっているのです、『わたしはもうひとに夕御飯を御馳走するわけにはゆかない』、したがって、『お友だちのからだつきがふっくらすることに役だつようなことは何ひとつしたくない』というあなたの願いを満たしているわけです。およばれの御馳走を食べて肥るということは、あなたの御主人が食事療法のためにひとから晩餐によばれても断わるという、その計画を見てあなたもそんなふうに考えはじめたのです」あと欠けているものがあるとすれば締め括りである。この締め括りがつけば夢の分析は完了する。そこで問題は、燻製の鮭だ。「あの燻製の鮭はどうして夢の中に出てきたんでしょうね」「ああ、それはその女のお友だちの大好物なんです」ところが偶然私はその女友だちなる人をも見知っていた。そして、この女友だちなる人が、ちょうど私の患者がキャヴィアを贅沢だと思って食べないように、鮭にお金を出したがらないということをたしかめることができた。

この夢は、もっと別の、もっと微妙な解釈をも許している。その解釈はある付随的な事情を考慮に入れるとき、必然的なものになる。そしてこれら二つの解釈は相矛盾することなく、互いに重なりあい、夢並びにいっさいの精神病的症状形成の一般的な二重意味性の見事な一実例を提供する。上にも見たように、私の患者は、願望拒否の夢を見るのと同時に、その充足を拒否された願望を現実に作り出そうと努力していた(キャヴィアのパン)。その女友だちも、もっと肥りたいという願望を口にしている。それでもしわれわれの婦人がその女友だちの願望が実現されないという夢を見たとしても、すこしも怪しむに足りないであろう。すなわちこの女友だちの願い(もっと肥りたいという願い)が充たされないでいてもらいたいというのは、この患者の願望なのである。しかし彼女はそのかわりに、自分自身の願いが充たされない夢を見てしまったのである。そしてもし夢の中の彼女が自分自身ではなくその女友だちその人であったならば、つまり彼女がその女友だちの身代わりに自分を夢の中に出したのであったならば、別言すれば自分自身をその女友だちと同一化したのであるならば、この夢はひとつの新しい解釈を与えられることになる。

事実私の患者はこれをやってのけたと私は考える。そしてこの同一化の証拠として、彼女は現実に自分自身に対して、充たされない一つの願望を作り出した。だがこのヒステリー性の同一化はいかなる意味があるのか。これを説明するにはすこし詳しく述べてみなければならない。同一化は、ヒステリー的諸症状の機制にとってきわめて重大な一契機である。この手段に訴えてこそ患者たちは、(自己自身の諸体験のみならず)たくさんの人間の諸体験を彼らのヒステリー的諸症状のうちに再現し、いわば一群の人間たちの身代りとなって悩み、ある芝居のすべての役柄を、自分ひとりで自分の個人的な諸手段だけを駆使して演じてみせることができるのである。するとひとは私に向ってこう抗議するだろう、「それは周知のヒステリー的模倣ではないか。他人、そのヒステリー患者に強い印象を与えるところの、他人のいっさいの症状を模倣するヒステリー患者固有の能力、いわば再演にまで高められたところの共感ではないか」しかしこの説明では、ヒステリー的模倣における心的過程がその上を通ってゆく道が示されたにすぎない。しかしその道と、それからその道の上で行なわれる心的行為とは別々のものなのである。後者は、ひとが好んで想定するヒステリー患者の模倣よりもやや複雑なのである。後者は実例によってはっきりわかると思うが、無意識的な推論過程に相応じている。一種独特な痙攣をする一婦人患者を、ほかの患者たちといっしょに病院内の一室に入れておいたところが、この独特のヒステリー的発作をほかの患者たちが真似た。ほかの患者たちがこの発作を目賭してそれを模倣したのであって、これがほかならぬ心理的伝染である、医師はあっさりこう判断する。そのとおりにはちがいないが、しかし心理的伝染はざっとつぎのようにして行なわれるのである。患者たちは、医者が患者のひとりひとりについて知っているよりも、通例お互いをもっとよく知りあっている。彼らは、医者の回診が終ると、互いに容態について心配しあう。そのうち、ひとりに発作が起るとする。そうしてその原因はあるいは家からきた手紙、あるいは事新たに掻きたてられた恋の悩みにあるなどというふうに、たちまちのうちにみんなにわかってしまう。みんなのうちには共感が呼び覚まされる。そして無意識裡につぎのような推論が行われる。「もしこれこれの原因のために、こういう発作に襲われるのだとすれば、自分もこういう発作に襲われるだろう、なぜなら自分にも同じような訣合があるのだから」もしこれが意識化しうる推論であったとしたならば、この推論は、おそらく「自分にも同じような発作が起こるかも知れない」という不安になっていったことであろう。しかしこの推論は無意識の層の中で行われるから、患者たちが怖れていた症状が本当に実現してしまうのである。だから同一化は「あたかも……のごとき」を表現し、無意識界内部にとどまって動こうとしない一つの共通のものに関係しているのである。

同一化は、ヒステリー症においては、ある性的共通性を表現するためにもっとも頻繁に利用される。婦人ヒステリー患者は(いつもそうであるとはかぎらないが)彼女らの症状において、自分と性的に交渉のあった人物、もしくは自分が性交した同一の人物と現在性交を続けている人物と自分とを同一化する。言葉というものはうまいもので、愛するふたりは「一心同体」だというようにこの考えをちゃんと表現している。ヒステリー症の空想並びに夢において、同一化が行われるための十分なる条件は何かというと、患者ないし夢みる人が性的関係を念頭に置いていること(だからといって何もその性的関係が現実のものでなければならないということはないが)である。上記の婦人患者が、夢の中でその女友だちの位置に自分自身を置き、ひとつの症状(実現のかなわない願望)を作り出すことによって自分をその女友だちと同一化し、これによってその女友だちに対する嫉妬心(しかし患者自身はこの嫉妬をいわれないものだと認めている)を表現しているのは、そういう次第でただ単にヒステリー的思考過程の諸法則に従ったまでのことなのである。この過程はつぎのようにいい直して説明することもできよう。患者が夢の中で自分を女友だちの位置に据えおいたのは、その女友だちが彼女の夫においては自分の位置を占めているからであり、また、彼女が自分の夫の価値評価内部においてその女友だちの占めている位置を占めたいと望んでいるからである。(フロイト『夢判断』上 p191-197 新潮文庫 高橋義孝訳)

 ここにある同一化の叙述は、後年、『集団心理学と自我の分析』において書かれることになるEin einziger Zug(UNARY TRAIT)の端緒となるものかどうか、さてどうだろう?



◆Ein einziger Zug(藤田博史「セミネール断章 2012年6月9日講義より」
 人格形成において、わたしが特に注目しているのが授乳期間の問題です。実際に育児書を書こうとしたこともあります。フランスの育児書と日本の育児書をつぶさに比較検討したことがあって、そこで一番特徴的なのは、フランスでは、子育てというのは子が本来もっている自律性 autonomie が確立してゆく過程を妨げず、サポートしてゆく行為であると考えられていることです。授乳は出来る限り早期に終了させる。大体生後6ヶ月位で離乳させてしまうのです。日本には松田道雄先生の伝統的な育児書がありますが、おっぱいを欲しがれば一年以上あげてもよい、などということが書いてある。実はこの長期にわたる授乳が、この自律性を阻害し、母親拘束をより強力なものにしてしまっている。そして思春期に、阻害された自律性は、母に反逆するという形で帰ってくる。昔に比べて女の子の思春期は低年齢化しているようですが、その時に「ママのここがいや」という形で母親拘束からの離脱の試みが生じてくる。「ここ」というのは何でもいいのです。いわば母親に対するいいがかりです。たとえば「ママの着ているその赤い服がいや、なんでそんな赤い服を着るの」でもいいし、「ママのその怒り方が嫌。その声の調子が嫌」といった形で具体化されます。
 興味深いのは「ここが嫌」といういい方は、あれこれではなく、母のたった一つの特徴をターゲットにした表現だということです。一般的に、人が特定の人物と同一化を起こす場合、対象となる人物の様々な性格を取り入れるのではなく、たった一つの特徴を取り入れるという形で生じるという興味深い事実があるのです。これはフロイトが指摘したことです。同一化というとその人の特質を出来る限り取り入れることだと思いがちですが、実はたった一つの特徴を取り入れればそれで足りるのです。フロイトはこのたったひとつの特徴のことを Ein einziger Zug と呼んでいます。

 同一化 identification においては、様々な特徴ではなく、たった一つの特徴を取り込むのです。Ein einziger は「唯一の」「たった一つの」、Zug は「特徴」です。フロイトの天賦の才は、こういう洞察のなかにパッと現われるんですね。

 女の子は思春期に差し掛かって、乳児期に仕組まれていた母親拘束から逃れようとする。つまり脱獄をはかる。ここでうまく脱獄できる女の子と脱獄できない女の子がでてくる。上手に母親拘束から逃れることができれば、一人前の一人の女性として生きていく道が開ける。ここで母親から離脱するのに失敗した場合に何が起こるか。先程から申し上げている女性特有の病態、摂食障害とか境界例とかが起こってくる。つまり母親拘束からの離脱に失敗する。

 離脱に失敗する理由は幾つかあります。たとえば離脱時にそれを助けてくれる人がいると離脱しやすい。助ける人というのは取りもなおさず父のことです。母親拘束から離脱する際にキャスティング・ヴォート Casting vote を握っているのが父親です。思春期に、女の子が離脱を図ろうとするその時に、父親がどのようなポジションに立っているかということが重要なのです。父が不在だったり、病弱だったり、母に馬鹿にされていたりすると、父の助けを得ることができずに、母親拘束から離脱できなくなる。


◆フロイト『集団心理学と自我の分析』(人文書院旧訳)からだが、ところどころフロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から英語句をつけ加えている。


同一化とは、他人にたいする感情結合のもっとも初期の現れとして、精神分析に知られている。そしてこれはエディプス・コンプレクス以前の生活史の中で、一つの役割を演じている。つまり幼い男の子が、父親にたいして特別の関心を現わすことがあるが、それは自分も父親とおなじようにありたいし、またそうなりたい、すべての点で父親のかわりになりたい、という関心である。客観的にいうと、彼は父親を理想にするのである。この態度は父親(そしてまた男性一般)にたいする受身的な、あるいは女性的な態度とはなんの関係もなく、むしろすぐれて男性的なものである。それは、よくエディプス・コンプレクスと調和していて、その準備をすすめるものである。

この父親との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母親にたいする依存型attachment typeの本格的な対象備給を向けはじめる。ここで、彼は二つの心理的に異なった結合を示す。すなわち、それは母親にたいする自然の性的な対象備給と、父親にたいする(手本とするmodel:vorbildlic:引用者)典型的な同一化である。この二つは、しばらくのあいだ互いに影響も妨害もなく並存するが、精神生活はたえず統一の度をつよめてゆく結果、これらはついに触れ合い、その合流によって、はじめて正常なエディプス・コンプレクスが成立する。子供は、父親が母親の傍にいて自分の邪魔をしているのに気づく。彼の父親との同一化は、いまは敵意のある調子をおびてきて、母親にたいして父親のかわりになりたいという願望とひとしいものになってゆく。同一化には、まさしく最初からアンビヴァレント面があって、それは情愛の表現にも、排除removalの願望にもなりうるのである。同一化は、リビドー体制の最初の口愛期(oral phase口唇期)の流れを汲んでいるのであって、渇望し尊重する対象にこれを食べてしまうことによって同化しassimilated(体内化)、また、そのようにして対象を滅ぼしてしまう。そして食人種がこの立場にとどまっていることは知られているが、彼は自分の敵を食いつくしてしまいたいほど愛しているのであって、どうしても愛することのできないような敵は食いつくそうともしない。

この父親との同一化の運命は、のちになると見失われやすい。エディプス・コンプレクスが逆になり、父親が女性的態度の対象になって、そこに直接的な性的衝動の充足が期待されるかもしれないがこの場合には、父親との同一化は父親との対象結合の先駆になってしまう。同様のことが、幼い女児についても母親とのあいだに行なわれる。

このような、父親との同一化と、父親を相手にえらぶ対象選択との区別を、公式でいいあらわすことは容易である。最初の場合、父親は、そうありたいとおもうところのものであり、第二の場合、父親は持ちたいとおもうところのものである。それは、結合が自我の主体にかかわるか、あるいは、自我の客体にかかわるのかの区別である。それゆえ前者はあらゆる性的な対象選択以前に可能である。この区別を、メタサイコロジイ的に具象化して叙述することは、きわめて困難である。ただ、同一化が、「手本」Vorbildとみなされた他我に似せて自我を形成しようと努力していることはたしかである。

さらにこの錯綜した関係の中から、神経症症状の形成されるさいの同一化をとり出してみよう。いまここでは、幼い少女を例にとってみようとおもうが、彼女は母親とおなじ苦痛な症状、たとえばおなじような苦しげな咳になやむとしよう。この症状は、さまざまな起こり方をする。つまり、この同一化が、敵意に駆られて母親のかわりをしようとする欲求desire on the girl's part to take her mother's placeを意味するエディプス・コンプレクスから生れた同一化であって、その症状は父親への対象愛を表現していることもある。それは、罪意識、つまり「お前は母親になろうと思った以上、今はせめて苦しむのだ」という罪意識の影響のもとで母親の身がわりをするのであるunder the influence of a sense of guilt, of her desire to take her mother's place。これはヒステリー症状形成の完全な機制である。また一方で、その症状は愛している人の症状と同じ場合もある(たとえば、『あるヒステリー患者の分析の断片』の中のドラが父親の咳をまねるように)。そこでわれわれは、この間の事情を次のように述べることができよう。同一化は対象選択のかわりに現われ、対象選択は同一化に退行した、と。同一化は前記のように、感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。そして症状形成や、したがって抑圧や無意識の機制が支配する条件のもとでは、対象選択がふたたび同一化になり、このようにして自我が、この同一化のさいに、ときには好まない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物の一つの特色a single traitだけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。

症状形成の第三の、とくにひんぱんで重要な実例は、同一化が模写した人物との対象関係をまったく度外視する場合である。たとえば寄宿舎の一人の少女が秘密の恋人から手紙を受けとり、その手紙が彼女の嫉妬を刺激した結果、ヒステリーの発作で反応するとき、それを知った彼女の二、三の女友達は、いわば心理的伝染によっておなじ発作を起こすだろう。この機制は、おなじ状態に身を置く能力、または置こうとする欲求にもとづく同一化の機制である。その女友達も秘密の恋愛関係をもちたいとおもい、罪意識の中で、その恋愛につきまとう苦悩をも引き受けるのである。彼女たちは同情Mitgefuehからその症状を自分たちのものにしているのだ、と主張することは正しくないだろう。その反対に、同情は、同一化によって生まれる。その証拠に、このような伝染ないし模倣は、寄宿生の場合よりも、相互のあいだに、ずっとわずかしか一時の共感があるにすぎない事情の中でも行なわれるからである。一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例で言えば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される。そして、病的な事情の影響下では、この同一化は、一人の自我が創り出した症状にまでおよぶのである。このようにして、症状を通しての同一化は、二つの自我の重複地帯にたいする目じるしとなるが、この地帯は抑圧されていなければならないものである。

(……)

男性の同性愛の発生は、大まかに述べてみると、次のようになる。若い男はエディプス・コンプレクスの意味で、彼の母親に長いあいだつよく固着している。けれでも思春期が完了したのち、ついに母親を他の性的対象と取りかえる時期がくる。そのさい、突然の方向転換が起こる。若者は母親を捨てないで自分を母親と同一化して、彼女の中に自分を転化しいまや彼の自我の代理となるような対象を求め、その対象を彼が母親から経験したように愛し世話するのである。これは、しばしば、起こる過程であって、時に応じて、たしかめることができるし、それは、この突然の方向転換をひきおこす生物的な衝動力や、その動機に関するどんな仮説とも関係なく起こるのである。この同一化で目立つことは、その豊かさである。つまりそれは、自我を、きわめて重要な特徴をもったもの、つまり性的性質をもったものに、これまでの対象を手本にしてつくりかえる。そのさい対象そのものは放棄されるが、徹底的に放棄されるのか、それとも無意識には保たれているという意味で棄てられるのか、それはここでは論外である。棄てられたり、失われたりした対象のかわりに、その対象を自我に取り入れることは、けっして珍しいことではない。このような過程はしばしば小児について直接に観察される。最近、『国際精神分析学雑誌』の中に、このような観察が公にされたが、それによると子猫をなくして悲しんでいた子供が、自分はもう子猫になった、といいきって、四つ足であるき、テーブルにむかって食事をしようとしなくなった、とのことである。

対象の、このような取り入れに関するもう一つの例は、メランコリーの分析から得られたが、この病気は愛する対象が実際に失われることや、情緒的な意味で失われることが、そのもっとも顕著な機縁にかぞえられている。このような場合の、おもな特徴は、仮借なき自己批判や苛酷な自己非難につらなる、自我の残酷な自己蔑視である。分析によって明らかになったことは、このような評価と、このような非難は、根本的には対象に向けられていて、対象への自我の復讐を現わしているのである。つまり対象の影が、自我のうえに落ちるのだ、と私は他の箇所で述べておいた。対象の取り入れは、ここでは、まごうかたなく明白である。

しかし、このメランコリーは、なおもっと別のことを示している。それは後述の考察にとって重要になることであるが、自我が二つの部分に割かれて、その中の一方が他方に暴威をふるうことである。この他の部分とは、取り入れて変化したものであって失われた対象をふくんでいる。しかし、また苛酷におのれを扱うもう一つの部分も知られている。それは、両親、つまり平常でも自我にたいして批判的であるが、ふつうはそれほど苛酷で、不当ではない自我の中の批判的な機能に相当するものである。われわれは、すでに以前の機会に、自我にはこのような機能がつくられていて、それは他の自我から分離しつつ、他の自我と葛藤におちいることがありうるのをみとめなければならなかった(自己愛、悲哀とメランコリー)。われわれはそれを、「自我理想」Ichidealと名づけて、自己観察、道徳的良心、夢の検閲、抑圧のさいの主要な影響力をその機能に帰した。それは、小児の自我が自己満足を得えている根源的な自己愛の継承者であることもすでに述べた。それはしだいに周囲からの影響によって、自我がかならずしもしたがうことのできない要求を引き受けては、それを自我に課するのであって、その結果、人間は自分の自我に満足することのできない場合でも、自我から分化された自我理想に満足を見出すことがゆるされる。この機能の破綻は、妄想の場合に明確にみとめられたが、そのさい、この崩壊の由来は、権威の影響ことに両親の影響にあることが見出された(『ナルシシズム入門』)。しかし、この自我理想と実際の自我との離反の程度は、個人によって非常に異なっていて、多くの人々にとっては、この自我の内部の分化は小児の場合の程度を越えてはいない、このことも、以前忘れずに付言しておいたとおりである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』「Ⅶ 同一化」より 人文書院 フロイト著作集6 p222-226)