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2014年8月13日水曜日

美術館という場の力、あるいはラカンの「四つの言説」



Courbet の絵の前でのパフォーマンスアーティストDeborah de Robertis :「わたしは性器によってまなざす」ーーJ'ai exposé mon sexe devant "l'Origine du Monde" : mon geste n'a rien de transgressif


◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』より私意訳だが、かなりあやしい訳であることに注意(ツイートに反応がしきりにあってそれに答えつつ訳するという具合で、まあひどくいい加減さ)。

……ジャック=アラン・ミレールは最近、構造と変化の題目としてこのギャップを折りよく詳述した。彼はラカンの四つの言説のマトリックスを取り上げる。そこでは、時計回りとは逆の動で、四つの用語のそれぞれ(主体―$、主人のシニフィアン―S1、知識の連鎖―S2、対象―a)が。構造における(能動者(話者)、他者、真実、産物)の四つの場所すべてを占めていく。いかになにかが不変であり、同時に何かが変わるかの事例である。何が不変なのだろうか? 場所、関係性と場所のあいだの関係性である。何が変化するのかは、それらの場所を占める用語である。……これは、われわれにまさにこう言い得ることを許してくれる、すなわち、構造において、変形は置換である、と。また置換による発話は、構造を力動的にさせる方法、試みであると。さらに言い得ることは、一と多を分節化するためのある構造的な解決だと。場所は固定されており、そして用語の置換により、われわれは変種を得る。この(固定された)構造的場所と、これらの場所を占める(変化する)用語のあいだの相違は、その場所の用語のフェティシュな凝固作用を崩すために決定的である。それはわれわれに気づかせてくれる、ある範囲までは、対象から発するアウラは対象の直接的な特性ではなく、それが占める場所であるということを。

Although the objet a is the non-signifying glitch within a symbolic edifice, it can thus only be conceived against the background of the gap that separates a formal structure from the elements that fill in its places. Jacques-Alain Miller recently elaborated this gap apropos the topic of structure and change. He took Lacan’s matrix of the four discourses―in which, in an anti-clockwise movement, each of the four terms (the subject―$; the Master-Signifier―S1; the chain of knowledge―S2; the object―a) gradually occupies all four places in the structure (agent, other, truth, production)―as the exemplary case of how something remains constant and, at the same time, something changes. What remains constant? The places, the relationships and the relationships between the places. What changes are the terms that occupy these places … This is what allows us to say that precisely in the structure the transformation is a permutation, that speaking of permutation is the attempt, the way of making the structure dynamic and, I would say, it is a certain structural solution for the articulation of one and of multiple. The places are fixed and, with the permutation of terms, we obtain the variants.This difference between (fixed) structural places and the (variable) terms that occupy these places is crucial in order to break the fetishistic coagulation of a term with its place, to make us aware of the extent to which the aura emanating from an object hinges not on the object’s direct properties, but on the place it occupies.
この場所への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器である。それは、そのもの自体が展示されることによってアートの対象となった。デュシャンの成果は、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。彼がしたことは、そのような普遍化の形式的条件なのだ。それは対象とそれが占める(構造的な)場所のあいだの区別を導入している。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場所(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「ひとびとはある人を王として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ」と。日常生活では、われわれはこのたぐいの具現化の犠牲者なのである。われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定を対象の直接の特性として誤認する。これがデュシャンの展示会におけるまったく正当的なある挑発を想像できる理由である。すなわち観客が小便器に向けて放尿しはじめるという場面。驚いた傍らの見物人が、ここはアートギャラリーですよ、トイレではありません、と彼に注意を促す。彼は応じる、「おお、あなたは分かっていない。私がアート作品の展示空間に入り込めば、私の行動もパフォーマンスになるのだよーー私がしたことは下品な非崇高化じゃないんだ。私は単にアートの崇高な空間に新しい内容物を満たしただけさ」

The classic example of this dependency on place is, of course, Marcel Duchamp’s well-known urinal, which became an art object by being exhibited as such. Duchamp’s achievement was not just to extend the scope of what counts as a work of art (even a urinal), but―as a formal condition of such universalization―to introduce the distinction between an object and the (structural) place it occupies: what makes a urinal a work of art is not its immanent properties, but the place it occupies (in an art gallery)―or, as Marx put it long ago apropos commodity fetishism, people do not treat a person as a king because he is a king, he is a king because people treat him as such.39 In everyday life, we are victims of a kind of reification: we misperceive a purely formal or structural determination as a direct property of an object. This is why one can imagine a quite justified provocation at a Duchamp exhibition: a spectator starts to urinate into the urinal; when the shocked bystanders remind him that this is an art gallery, not a toilet, he replies: “No, you don’t get it: when I entered the space of the art object, my activity also became an art performance―what I did was not vulgar desublimation, I merely filled the sublime space of art with new content …”

◆柄谷行人『トランスクリティーク』より。
超越論的態度は暗黙のうちに「括弧に入れよ」という命令を含んでいる。例えば、私は先にデュシャンが便器を美術展に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術としてみること、つまり、日常的関心を括弧に入れる事を命じてはいない。

しかし、それが美術展におかれているということが、人にそれを美術としてみる事を命令しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的視点そのものが一つの命令に促されていることが。

そのことは、超越論的視点そのものはどこから来るかと問うときに、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』(岩波書店版)p180)

…………

ラカンの四つのディスクールの肝要な点のひとつは、ひとはその場におかれれば、言説構造としてそうなってしまうということだ。

このところ何度も挙げているが、ここでもまず四つの言説のベースになる形式的構造の図を挙げる。



そしてこのそれぞれの「空箱」=場に、四つの用語が入る。

S1:マスター、主人のシニフィアンなど
S2:教育者、知の体現者、知識(の連鎖)など
$ :斜線を引かれた主体、欲望など
a :分析家、対象a、剰余享楽、愛など


たとえばヒステリーの言説の標的になれば、人は主人の場に置かれてしまう。




※:参照:ヒステリーの言説(ヒステリー者の疎外と主人の去勢)

そしてこのヒステリーのディスクールのS1におかれた話の受け手は、次のような主人のディスクールに退行する(時計と逆廻り)。




ヒステリーのディスクールに置かれたS1が分析家のディスクールに「進行」する(時計回り)には、話者の話に耳を傾け続ける必要がある、そのとき稀に、受け手は、S1のままではなく、$、すなわち分裂した主体として他者のポジションに様変わりすることがある。





その稀有な場合、言説構造は分析家のディスクールとなる。



…………



四つの言説は別のヴァリエーションをも想定できる。たとえば藤田博史氏は、四つのターム以外に、-φ(想像的ファルスの欠如)、φ(想像的ファルス)、As(〈他者〉のサンブラン)を導入し、ーー〈他者〉のサンブランとは、象徴的権威の失墜の時代には、Φ(象徴的ファルス)=S1が成り立たないのではないかという想定のもとの見せかけの〈他者〉のことで、正確にいえば、下の図にあるように、S1=Φのかわりにφ、そしてS2=AのかわりにAsーー、次の日本的な幻想の図(四つの言説ではなくラカンの幻想の式の変形だが)を提示している。この図は、「エディプスの斜陽」が日本だけではなく、世界的な(すくなくとも先進諸国の)現象だとするなら、日本だけの幻想の図ではないだろう。






ここに現われたマテーム(φ、Asなど)を使用し、四つの言説のヴァリエーションを作成することも可能であるだろう。

※参照:「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)