ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本質が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。(……)ぼくたちの自我というものは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、それにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。(クンデラ『不滅』)
《われわれの基礎となる(生の)奮闘は、観察することではなく、舞台の場面の部分になること、まなざしに自身を曝すこと、――現実の人物の明確なまなざしではなく、存在しない純然たる〈大他者〉の〈まなざし〉に曝されること。》(ジジェク)
哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(クンデラ『不滅』ーー「自己模倣と自己破壊(中井久夫)」より)
ーーだよな
だからかっこつけるなよ
哲学者のなかには
俳優であることを肯定するニーチェもいるがね
徳の俳優と罪の俳優。――徳のために有名になった古代の人々の間には、自分自身に対して俳優を演じた人々が数えきれないほど多数いたように思われる。ことにギリシア人は、根っからの俳優であるから、このことをまさしく全く無意識的に行ない、よいことだと思ったであろう。その上各人は自分の徳で、ある他人の徳または他のあらゆる人々の徳と競争していた。自分の徳を見せびらかすために、何よりもまず自分自身に見せるために、練習のためにさえも、あらゆる手段に訴えてどうしていけないのだろう? 示すこともできず、示し方を心得てもいな徳が何の役にたとうか! ――これらの徳の俳優たちを阻止したのは、キリスト教である。その代わりにキリスト教は、罪の不快な顕示と誇示を案出し、捏造された罪深さを世界にもちこんだ(今日にいたるまで、立派なキリスト教徒の間では、これが「上品な作法」と見なされている)。(ニーチェ『曙光』29番 茅野良男訳)
もっともこうも書くのだが。
かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。(同上)
おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、(……)
よこしまな贋金造りよ、おまえにはほかにしようがないのだ。おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。
(……)おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だ(同上)
ーーさあて、どうしたものか
これがニーチェがわれわれを宙吊りにする方法だ
ナイーヴな学者や研究者たちは
ニーチェが矛盾しているというが
あれかこれかの精神
不確実性の知恵には縁がないのだろうよ
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。
この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 P7-9)
無能性の連中はほうっておいたらいい
小説も読まない読めないのだろうから
徳の俳優と孔雀の俳優
贋金造り
根柢からの嘘つき
虚栄心の海というが
われわれは概ね孔雀の俳優さ
徳の俳優と孔雀の俳優は紙一重だな
徳の俳優と孔雀の俳優は紙一重だな
見も知らぬ奴がいきなりヘドを吐きながら
きみに向かって倒れかかってきたらきみはそいつを抱きとめられるかい
つまりシャツについたヘドを拭きとる前にさ
ぼくは抱きとめるだろうけど
抱きとめた瞬間に抱きとめた自分を
ガクブチに入れて眺めちまうだろうな
他人より先に批評するために
……
――谷川俊太郎『夜中に台所でばくはきみに話しかけたかった』(反吐と同情)
やや文脈が異なりはするが
上に引用したジジェクの文の前後を
すこし長めに引用しておこう
だがはたして本当に文脈が違うだろうか?
◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』より(テキトウ訳)
……ラカンの公式:どの絵にも死角(盲点)があり、私が見つめている絵は、この点から、まなざしを返す(私を見詰め返す)。この背景に対して、われわれは、フロイトの欲動の再帰的特性におけるラカンの命題を、“se faire …”(視線の欲動は見る欲動ではない、見る欲望と対照的に己れが見られるなどの欲動である)という立場として読むべきだ。ラカンはここで人間の条件の最も基本的な「気取り、劇場性」theatricalityを指摘しているのではないか?われわれの基礎となる(生の)奮闘は、観察することではなく、舞台の場面の部分になること、まなざしに自身を曝すこと、――現実の人物の明確なまなざしではなく、存在しない純然たる〈大他者〉の〈まなざし〉に曝されること。
Hence Lacan’s axiom: in every picture, there is a blind spot, and the picture at which I look returns the gaze (stares back at me) from this point. It is against this background that one should read Lacan’s thesis on the reflexive character of the Freudian drive, as the stance of “se faire …” (the visual drive is not the drive to see, but, in contrast to the desire to see, the drive to make oneself seen, etc.). Does not Lacan here point towards the most elementary theatricality of the human condition? Our fundamental striving is not to observe, but to be part of a staged scene, to expose oneself to a gaze—not the determinate gaze of a person in reality, but the non‐existing pure Gaze of the big Other.
(……)われわれは元来、現実のドラマの観察者ではなく、存在しないまなざしの空虚にとって上演されたタブローの部分である。そして派生的なときにのみ、われわれはステージを見る者と決めてかかる。耐え難い“不可能な”ポジションとは俳優のポジションではない。公共の観察者のポジションである。
(……)we are not originally observers of the drama of reality, but part of the tableau staged for the void of a non‐existing gaze, and it is only in a secondary moment that we assume the position of those who look at the stage. The unbearable “impossible” position is not that of the actor, but that of the observer, of the public.
これがわれわれに齎してくれるのは、ラカンの幻想の可能なる定義である。その幻想とは、想像的なシナリオとしてのものであり、不可能な場面を上演する。その何かは、不可能な点からのみ見られうるものである。幻想の場面とは、“アウラ的現前”のタームに完全に値する。もちろん、それが不可能性の点を含んでいる限りではであり、またそれは、対象aを上演するとも言いうる。実際、ラカンのシニフィアンと対象aのカップルは、表象と現前の差異に相応するのではないか? 一方では、どちらも、主体の、代役stand‐ins、仮の場place‐holders、主体を再-現するシニフィアンであり、他方では、対象は現前にて輝く。この意味で、われわれは次のことについて語っている――ジャック=アラン・ミレールを引用するがーー「対象aを通した主体の表象、‘表象’という言葉がここではふさわしくないということを除くが。ひとは、表現(搾出化)expression、現前化presentation、同一化 identificationとすべきではないか」。
This brings us to a possible Lacanian definition of fantasy as an imaginary scenario which stages an impossible scene, something that could only be seen from the point of impossibility.58 A fantasy scene is what fully deserves the term “auratic presence.” Insofar as it involves the point of impossibility, it can also be said to stage the objet petit a. And, indeed, does not the Lacanian couple of signifier and objet a correspond to the difference between representation and presence? While both are stand‐ins, place‐holders, of the subject, the signifier re‐presents it, while object shines in its presence. In this sense, we can talk about—I quote Jacques‐Alain Miller here—“the representation of the subject through the objet a, except that the word ‘representation’ does not suit. Must one posit an expression, a presentation, an identification?”59
まさに対象aは主体を再現しないのだから、われわれは主体と対象aを接続すべきではない(幻想の式:$‐aが接続しないのと同じように)。われわれ自身を制限すること、ただ aに置き、そして、光線に置くことのみに。光線とは密かな現前なのだから。それは、現前化、搾出化、同一化というよりもむしろ主体の抹消effacementとしての現前である。ここでの問題は抹消である……。主体はここでは、本質的にその抹消として現われる、抹消されるという仕方を以って。ラカンは名づけたではないか、言葉の偉大なる経済性にて、新造語:effaconと。
Precisely because the objet a does not represent the subject, we should not conjoin them (as in the formula of fantasy: $‐a), limiting ourselves to putting only a and putting rays about it, rays because of the implicit presence, of presence as effacement of the subject, since, rather than of representation, of expression, of identification, it is a question here of effacement … The subject is present here essentially in its effacement, in its fashion of being effaced, what [Lacan] calls, with a great economy of words, using this neologism: the effacon.
※参照:Introduction à la lecture du Livre XVI D’un Autre à l’autre Catherine Bonningue
――この論はその多くをミレールから参照しているようだ(仏語はほとんど読めない身であり、ただ貼付するのみ)。
《Nous reprenons ici de très près « Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre », de Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne n° 65 à 67, Paris, Navarin/Seuil, 2006, 2007.》
『LESS THAN NOTHING』に戻る。
《Nous reprenons ici de très près « Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre », de Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne n° 65 à 67, Paris, Navarin/Seuil, 2006, 2007.》
Lacan nous fait apparaître le destin de tout sujet, qui est, du fait qu’il parle, d’avoir un inconscient. Un être écorné. Le sujet est ici effaçon, toujours effacé, laissant le Je, ébauche du parlêtre, prendre sa place. C’est un sujet surgi du rapport indicible à la jouissance, être du sujet, la jouissance faisant la substance même de la psychanalyse. La jouissance, un absolu pour le sujet.
…………
ラカンのここでのひねりは、対象aの現前は、表象化のギャップ、失敗を満たすということ。彼の公式は、バーの上の対象aのそれであり、その下には、S(A)、斜線を引かれたシニフィアン、非一貫性の他者がある(引用者:ここでジジェクはS(A)としているが、正確にはS(Ⱥ)だろう、記述上の問題か? 通常、a/ S(Ⱥ) と記述される文脈での話の筈)。現前する対象は、フィルターであり、穴埋めstop‐gapである。われわれが象徴界と現実界とのあいだ、意味と現前のあいだの緊張に直面したとき、――ここでの現前とは、象徴界がスムーズに運行するのを妨害する現前の出来事であり、象徴界のギャップと非一貫性において生じるものであるーーわれわれは現実界がまさに象徴界の一貫性の内部から腐蝕する成り行きに焦点をあわせるべきだ。そして、たぶん、われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。
Lacan’s twist here is that this presence of the objet a fills in the gap, the failure, of representation—his formula is that of the objet a above the bar, beneath which there is S(A), the signifier of the barred, inconsistent other. The present object is a filler, a stop‐gap; so when we confront the tension between the symbolic and the Real, between meaning and presence—the event of presence which interrupts the smooth running of the symbolic, which transpires in its gaps and inconsistencies—we should focus on the way the Real corrodes from within the very consistency of the symbolic. And, perhaps, we should pass from the claim that “the intrusion of the Real corrodes the consistency of the symbolic” to the much stronger claim that “the Real is nothing but the inconsistency of the symbolic.”