小児の性生活が最初の開花に達するのと同じ時期、つまり三歳から五歳までの年頃に、小児にはまた、知識欲または詮索欲にもとづく活動の発端が現われてくる。知識欲は欲動の要素的な成分の一つに数えるわけにもゆかず、またもっぱら性愛だけに従属させることもできない。この行動は一方では昇華された独占の仕方に対応し、他方では盗視癖のエネルギーを用いて行われる。しかし性生活に対する知識欲の関係がとくに重要なのであって、それというのは、小児たちの知識欲は思いもよらないほどに早く、また意外に激しい仕方で、性的な問題に引きつけられる、いやそれどころか、おそらくは性的な問題のよってはじめて目ざめさせられる、ということをわれわれは精神分析によって知ったからなのである。
スフィンクスの謎
小児における詮索活動の働きを進行させるのは、理論的な関心ではなくて、実践的な関心である。次の子供が実際に生れたり、やがては生まれるという予想のために自分の生存条件が脅かされたり、またこの出来事と関連して、親の愛情や庇護を失うかもしれないと恐れるために、小児は物思いがちになったり、敏感になったりするのである。小児が熱中する最初の問題は、このような覚醒の歴史に対応するような性別の問題ではなくて、子供たちはどこからやってくるのか、という謎なのである。これはまた、テーベのスフィンクスがかけた謎の一つの変形なのであって、この変形しない元の形は容易にさぐりうるものである。男女両性の区別があるという事実を、小児は当初はむしろなんの抵抗や考慮もなしにうけ入れる。男の子は当然、自分の知っているすべてのひとに自分と同じような性器があるものときめこんでいるのであって、ほかのひとにはこれがないなどと想像することは不可能なのである。(フロイト『性欲論三篇』人文書院 フロイト著作集5 P56
ここにある「子供たちはどこからやってくるのか」という謎が人間の構造的トラウマを構成する。トラウマといっても、外部から来るトラウマではなく、内的なトラウマであり、それはつねに性的な性質をもっている。また性的といっても、フロイトのいうTrieb、欲動にかかわるという意味合いだが。
私の見解では、セクシャルライフには、不快を解放するための独立した原因があるに違いないと思う。いったんその原因が現われると、嫌悪の感覚が活動的になる(フロイト フィリスへの手紙 1892-99からだが、英訳より私訳)
この見解は晩年になって、すなわち『文化への不満』1930にて復活する。いずれにせよ、人のセクシャリティ、あるいはそれへの問い、すなわちスフィンクスの謎は、外部からくるトラウマと同じような効果を生む場合があるようだ(参照:初期フロイトのトラウマ概念をめぐる備忘)。
たとえば中井久夫は井戸の底には原トラウマがあるとしているが、これはラカン派(すくなくとも一部の)によれば、性的なものだということになる。
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )
中井久夫は《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》としている。これは一見、ラカン派の見解以上に広範なトラウマの捉え方とすることができるように思える。
成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』46頁)
ここで、中井久夫が「思い出すままにほとんどすべてを列挙する」として記述される幼児型記憶を掲げる。
(1)「誰かの背に背負われて、青空を背景に、白い花を見上げている」
これはそういう写真がないし、話題になったこともない。もっとも、「誰か」は祖父であるがこれは後の推定である。白い花は「アカシア」であると知っていて、それは聖心女学院小林分校への道のアカシア(正確にはニセアカシア)の並木道であるが、いずれも映像ではなく後から加わった命題記憶である。私は六〇年後に行ってみた。わずかに一〇メートルほどのあいだ、ニセアカシアの老木が残っていた。
(2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」
イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。
(3)「ハコベの生えているところで太陽に向かって祖父と深呼吸をしている。祖父が「新鮮な空気を吸う」と言い、私が真似をしている」
記憶には、裏庭にはハコベが生えていたという映像がある。他にいろいろのものがつけ加わっているが、それらは命題記憶だけで、映像を欠いている。
(4)「窓から田んぼをへだてて向こうを走る自動車を眺めて数えている」
これは武庫川の堤であるというのは、消去法によって生まれた結論であると思われる。「田んぼ」には視覚的に初めから焦点が合っておらず、したがって季節は不明である。
(5)「応接セットがあってカンバスで覆われたまま、二つ横並びにしてある。そのあいだのひじかけにオモチャの機関銃を据えて撃つマネをしている。「わあ、かなわん。降参」と母方の祖父が言っている」
声ははっきりしない。応接セットであるというのも命題記憶である。並んだ椅子の肘かけだけが視覚映像である。機関銃を祖父からおみやげに貰ったというのも、命題記憶であろうと思われる。
(6)「ベランダのようなところから川の流れをみている。向こうに民家、その向こうに山」
これは宝塚遊園地の建物(大劇場か)にあった武庫川に臨む「納涼台」という屋外で軽食を食べさせるところから武庫川を眺めているのであろう。この時かどうか、ここの(と思おう)「キツネウドン」の味を覚えている。
(7)「人間が細く映る鏡や太って映る鏡に自分を映している」
これも宝塚の建物の中であると推定できる。
(8)「天井に鈴蘭灯が揺れている。天井は白い。鈴蘭灯はくもりガラスで、縁は金色」
これは阪急電車の車内に立っていて、大人の乗客のあいだから見上げた天井であろう。「阪急電車」というのは消去法である。
(9)「雑然とした茶褐色の家並みの間の道でおばさんが「ぼっちゃん、じろーじゃ」と言っている。私は「ちがう、じどうしゃ」と言い返す」
これは、命題記憶によって、母親の郷里の村のメインロードであり、おばさんが「森本さん」という人だと知っているが、映像の中には手掛かりはない、こういって私をからかって笑っている場面であることは確かである。
(10)「どこかの階段。木がまだ新しい。陽が照っている」
これは時も場所も状況も全然見当がつかない(この背後には大きな家族問題が隠れているかもしれない)。そういう記憶映像がいくつかある。朝日新聞が東京-ロンドン間を飛行させた「神風号」のニュース映画を観に行ったはずなのに、覚えているのはパラシュート降下する人の映像で「神風号は落ちたはずはないのに」と思ったとか。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収ーー黒字強調は原文ーーロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶)
もっともこれらの記憶のいくつかは、女性性、父性、性関係にかかわるだろうから(母、祖父)、いくぶんかは「性的」なものなのかもしれない。だが前エディプス期の幼児型記憶がすべてトラウマ的であるとする中井久夫の見解は、フロイトやラカン派の見解以上に豊かさをもっている。
わたくしに言わせれば、中井久夫の「徴候」概念や、《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》、あるいは《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前する如く恐怖し憧憬する》とする分裂症状を言い表わそうとする美しい言葉は、幼児型記憶=心的外傷の感覚やフロイトのFremdkörperーーフロイトの初期論文にトラウマとかかわって頻出する語であり「異物としての身体」の意味ーーに近似・近接したものを言い表わそうとする言葉でもある。
※「Fremdkörper」については「ラカンの三つの身体」を参照のこと。
…………
◆Paul Verhaeghe 『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 』より(私意訳)。
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさと公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。
Summarised, this Lacanian theory runs as follows: the drive is traumatic-Real at those points where the subject does not dispose of the adequate signifiers to treat the impulses. From a structural point of view, this is the case for every subject, because the Symbolic Order, being a system based on the phallic signifier, lacks the signifiers for three aspects of the Real. These three aspects concern femininity, fatherhood, and the sexual rapport.Das ewig Weibliche, the eternal feminine; Pater semper incertuus est, fatherhood is never certain, and Post coftum omne animal tristum est after mating every animal is depressed. In these matters, the symbolic order does not provide us with adequate answers, which means that every subject has to tinker with them in the Imaginary Order. These imaginary answers will determine the way in which the subject copes with the ever problematic questions concerning sexual identity and the sexual rapport. To put it differently: the fantasies of the subject, being those imaginary answers - will determine the way in which someone enters, even constructs his intersubjective world. This structural Lacanian theory has conquered the analytic world with a number of slogans. The three aspects of the Real to which the Symbolic Order does not provide an adequate answer, were promoted by catchwords or catchphrases, like: La Femme n'existe pas, The woman does not exist, L'Autre de l'Autre n'existe pas, The Other of the Other does not exist, Il n'y a pas de rapport sexuel, The sexual rapport does not exist. The ensuing hype or hysteria - there was, for example, an Italian newspaper announcing that women did not exist for Lacan - obliterated both the structural context and the fact that the same reasoning can be studied in Freud's theory. For example, Freud writes that every child, driven by its own sexual development, becomes confronted with three inescapable questions: the gender of its mother and thus of women in general, the role of the father and the sexual rapport between his parents.( Paul Verhaeghe 『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 』)
→補遺:知識欲の源泉としての女性器リサーチ