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2014年8月25日月曜日

ラカンのオーラ

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収 P209)

かつてラカンの訳文を校正した中井久夫さえ、
このように書いてしまうのだからやむ得ないよ、
精神医学にほとんど関心のない人たちの誤解は。


中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されていると言うでしょう。どうなんですかね。
木村 「言語のように」というか。
中井 「ように」なんですか。
木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すのかの問題ね。
中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。
木村 「言語として」と訳すか......。
中井 うーーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。
木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニアンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。
中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。
柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとか......。
木村 日本もそうですよ。
中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。
市川 日本人はあんなもの信じてないとおもうけど(笑)。
木村 いや、信じている人達が何人かいて......。
中井  ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。(『シンポジウム』柄谷行人 編・著所収 1988)


啓蒙ラカン派とされる斎藤環氏だってこれだからな。

記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」)

ーーそれなりに読まれるだろう斎藤環氏あたりが「無意識は言語のように構造化されていません」のたぐいの挑発的書名で、誤解を解くべきなのに、《シニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた》とか、《言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」です》なんていってちゃな。これじゃシニフィアンの主体だけじゃん。《ラカンの仕事には、二つの主体がある。すなわちシニフィアンの主体と享楽の主体である》(フィンク)

《享楽こそが「真の〈物自体〉」であり、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている》(ジジェク)と断言したのがラカンの真骨頂じゃなかったかね


まあいいんじゃないか、ラカンさん
いまさら無駄だよ、たぶんね
『セミネールⅩⅠ』以前に既に、オーラを発しすぎたんだよ

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30)


『セミネールⅩⅠ』の紹介だって、ラカンの欲望から欲動への転回を指摘しないと、
なにも言ったことにならないんじゃないかね

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより

…………

Seminar XI marks a very important shift in Lacan's position and theory. In my reading, it functions as a hinge between the Lacan of the signifier and desire and the Lacan of the Real and jouissance. With respect to the body, from Seminar XI onwards the focus shifts from the signified and/or imaginarised body to the body as a real organism, characterised by its orifices and functioning by means of the drive. (Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real.)

ラカンのセミネールⅩⅠには、オートマンとチュケーが出てくるけど、オートマン=シニフィアンの連鎖というのは、チュケーの効果であり、原因はチュケーさ。

そもそも「自由連想」というのはシニフィアンの主体=オートマンによるものにすぎない。

トラウマについてのラカンの次の主要な考察は1964年の「精神分析の四基本概念」のセミネールの中でなされています。そこではアリストテレスから借りてきたチュケーtuche とオートマトンautomaton という概念が取り上げられ、オートマトンはシニフィアンのネットワークの自動運動、チュケーは現実界との出会い損ねがトラウマとして反復現象を引き起こすとされます。そして転移現象と反復現象ははっきりと区別されます。(向井雅明「精神分析とトラウマ」




just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (同Verhaeghe)

このスライドパズルについては、立木康介氏の『露出せよと現代文明は言う』の書評にも書かれているけれど、肝心なのは赤い穴さ。

主体はトラウマを抑圧するために、ただちにその欠如を一種の換喩(メトニミー)によって、別の欲望対象に置き換えるのであり、このようにして次々にシニフィアンを言語的象徴として主体に表象することを可能にしてゆく。つまり、主体を言語世界に導く。ちょうどパズルの一種で、多くの四角のピースを縦横にスライドさせていくことによって、すべてのピースを求められた順に並び変えるゲームがある。それらのピースが縦横に動くことができるのは、それらのうち一か所が空所として空いているからである。それと同じように事物の中に一つの欠如(ファルスの欠如)を生みだすことによって、シニフィアン全体の構造化が可能になるのである。


立木康介の書もそれほど読まれているようには思えないしな(異論の余地の多い「倒錯」を前面に出しすぎたのではないか、オレは読んでいないが)。

もちろんシニフィアンの連鎖も大事さ、すなわち「シニフィアンの主体」もね。
でも「享楽の主体」があることを忘れちゃね

オットー・ランクの原トラウマに直接に取り組むべきだという提案にたいして、フロイトは、《おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか》(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)といっているわけでね

ランプ=享楽だけ取り出しても、部屋は火がついたままなのだから、シニフィアンの主体=火事になっている部屋から先に消防していかなくちゃな。



Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 私訳)


ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar Ⅶ)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』)


…………


中井久夫が次のように書くとき、それはほとんどラカンの晩年のララングlalangueと同じことを言っているように思う。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候――再考」同27号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。

実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)