以下は単なるメモ。
ーーLevi R. Bryantは、ラカンやドゥルーズなどを英語で検索するとよく遭遇するブログ『Larval Subjects』の著者でもある。
Larval Subjects is the blog of Levi R. Bryant, author of Difference and Givenness: Deleuze’s Transcendental Empiricism and the Ontology of Immanence, co-editor of the forthcoming The Speculative Turn with Nick Srnicek and Graham Harman, and author of a number of articles on Deleuze, Badiou, Zizek, Lacan, and political theory. (自己紹介より)
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ラカンは四つのディスクールと、それにプラスアルファ資本家のディスクール、Bryantの図式では二番目の[The Universe of Capitalism」の四つのディスクールの最初のディスクールであるDiscourse of the Capitalist)資本家のディスクール)を提示した。
It would have perhaps involved . . . but besides, it will not involve it . . . because it is now too late . . . . . . the crisis, not of the master discourse, but of capitalist discourse, which is its substitute, is overt (ouverte).(On Psychoanalytic Discourse Discourse of Jacques Lacan at the University of Milan on May 12, 1972 Translated by Jack W. Stone.)
通例、資本家のディスクールは、主人のディスクールの左側S1/$が上下逆転してものとして示される($/S1)。
Bryantはそうであるなら、仮説としては、二十四のディスクールがあるはずだとしたもの。
Throughout this paper I distinguish between discourses and universes of discourse. A discourse is an individual structure such as the discourse of the master, the analyst, the hysteric, or the university. As Lacan attempts to demonstrate, the discourse of the hysteric, analyst, and university are permutations of the discourse master found by rotating the terms of this discourse clockwise one position forward. A universe of discourse, by contrast, is a set of structural permutations composed of four discourses taken together. Based on the four terms Lacan uses to represent the variables of any discourse, there are 24 possible discourses. However, these discourses form sets of permutations, such that there are only six possible universes of discourse. For a brief account of Lacan's discourse theory and the six universes of discourses consult the appendix to this paper on page 53.
ーー上にあるように、Bryantの着眼は、discourses と universes of discourse.を区別したことにある。六つの universes of discourseがあり、それぞれ四つのディスクールがあるわけで、二十四のディスクールということになる。
資本主義のユニヴァースには、「資本家」、「生権力〔者)」(フーコーの概念から)、「批評理論(家)」、「非物質的な生産(者)」(すなわちサービス産業など)の四つのディスクールがあるという考え方である。
Bryantによれば、ジジェクのディスクールは、この二番目の資本主義のユニヴァースの批評理論家のディスクールだとしている。左側にa/S2とあるように、ここでは分析家のディスクールと同様だが、右側がS1/$となっており、aのエージェント(能動者)の受け手(他者)は、分析家のディスクールとは逆転してS1となっている。
ただし資本家のディスクールでさえも、ラカン派内では、いやそれは主人のユニヴァースのなかの「大学人のディスクール」ではないか、という議論もあるぐらいで、このBryantの仮説はたいして注目されているようには思えない。
下の図表は参考までに。Bryant自身もこれらにはコメントしていない。ただ論理的にはこれだけのディスクールがあるはずだということではある。
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すべてのユニヴァースは、基本的にはディスコース3までは最初のディスコース1を時計回りに進み、ディスコース4はディスコース1を時計と逆廻りさせたもの。
※参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」
四つのディスクールのなかに自分のディスクールが見当たらない場合は、この二十四のディスクールのなかから己れの言説構造を検索してみることもできる。精神病者でなければ、おそらくどれかに当てはまるはず。いやラカン理論を信用するならばだが。
いやかりにそうであっても《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである》(ラカン)であるならば、ここでの狂人=妄想的とは「精神病的」であるのだから、どれにも当てはまらない場合があるのかもしれない。
そしてさらに四つのディスクールの形式的構造はまだしも(四つの空箱で十分だとしても)、その空箱に置き入れるタームが四つしかないことに、疑義を呈することさえできるだろう。
※形式的構造とは、下の図で動因、対象、真理、産物とされたもの。前ふたつは、動因=話し手、対象=他者(受け手)とされることもある。
(藤田博史氏作成)
S1:主人、マスター、主人のシニフィアンなど
S2:教育者、知の体現者、知識など
$ :斜線を引かれた主体、欲望など
a :分析家、対象a、剰余享楽、愛など
なぜこの四つしかないのか。もっとも上の図にあるように、S1=Φ(象徴的ファルス)、S2=A(〈他者〉)とされることもある。では想像的ファルスφは? 象徴的権威の失墜の時代であるなら、なぜS1=Φが生き残っているのか? ジジェク=ミレールなどの主張では、象徴界の自我理想の時代から現実界の猥褻な超自我(享楽の父、あるいは母なる超自我)の時代へ移行しているのならば、S1=Φの代りにほかのマテーム(学素)が必要なのではないか。S1のかわりに、たとえばサントーム(Σ)を導入できないのか。
前回示したように、藤田博史氏は、幻想の式を変奏させて、-φ(想像的ファルスの欠如)、φ(想像的ファルス)、As(〈他者〉のサンブラン)を導入しているのだが、では四つの言説にはこれらを使えないのだろうか? --などとすれば、二十四のディスクールどころではなくなる。いずれにせよ、ラカンの四つの言説は、比較的ラカンの後期に提出された考え方だが、彼がもっと長生きしていたなら、別のマテームを使用して、新しい「四つの言説」を提示したことは十分に考えられる。