ヒステリーの症状を疾病の発生史の証人として明るみに引き出そうとすると、どうしてもJ・ブロイアーの重要な発見と関係を持たざるをえません。すなわち、ヒステリーの症状はある種の外傷的作用をもつ体験によって決定されるのであって、その体験の記憶の象徴として症状が患者の精神生活の中で再生産されてくるのだ、という発見がそれです。(『ヒステリーの病因について』Zur Atiologie der Hystericフロイト、1896)
少し先取りですがこれはラカンのS1-S2というシニフィアン構造に結びつけることができます。このような考えをもとに、1885年頃にはフロイトは次のような要素で構成される、最初のヒステリー理論を完成する。
しかしそれから少し経って、フロイトはこの理論を捨てることになります。1987年9月21日付けのフリースへの手紙の中で、フロイトは、この理論を否定する理由を説明しています。
ーーなどというものもある。これは分かりやすい誤記だ。
まさか老眼がひどくすすみ、眼鏡が適っていないのではないか、向井雅明さん?
いや深謀遠慮があって、わたくしのような手合いが引用するのを試しているのかもしれない。
続けて読み進めると、こんなものもある、《現実的なとの出会い》? 「リアル」との出会いを、向井氏の書記係りが誤記したものか。
ユングにとっては現実的なとの出会いは必要ないのです。それにたいしてフロイトはあくまで原光景の体験の先行性を認めて、現実界との接触を保持しようとしたのだ。ユングはすべて観念の次元でかたづけようとするのに対して、フロイトは唯物論的に考えようとするのです。
――というわけで、深謀遠慮ではなさそうだ。
…………
さて冒頭から誤記の指摘で始めてしまったが、わたくしにとって、向井雅明氏は敬愛するラカン解説者のひとりである。論文「精神分析とトラウマ」は半年ほどまえに公開されており、いまごろ気づいたのは、敬愛者のひとりとして忸怩たる思いである。
2014/02/04 2014年1月25日の京都大学における「公開シンポジウム トラウマと反復 精神分析の臨床から」での向井雅明の発表「精神分析とトラウマ」を掲載します。
すこしまえ、「原初とは最初のことじゃないんだよ」という記事にて、フロイトの遡及性について触れたが、向井雅明氏の論はそれについてわかりやすく叙述されている。原光景と遡及性とのあいだの関係の疑義についてもわたくしの問題意識と同様であるのは、すなおにフロイト、ラカンまわりを読めばそうなるということだろう。
以下、いくらか抜粋しておく。
トラウマは遡及的に作用する。
S1―>S2->S1
エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。
ーーこれは主人のシニフィアンS1と知の(連鎖の)シニフィアンS2を使って、遡及性についてとても簡潔に書かれている。
さらに次の文にある《フロイトはヒステリーの原因は外傷であるという考えを廃棄したという説は正しくありません》という見解は、わたくしのような専門家でないものが言っても仕方がないので、やはり向井雅明氏の言葉を借りるに如くなない。
フロイトはここでファンタスムを持ち出していますが、ファンタスムを単純にフィクションであると決めつける必要はありません。たとえファンタスムであろうと、何もないところからそれが生まれるわけではありません。ファンタスムにはファンタスムを構成する素材が必要なのです。では、そうした素材はどこから来るのでしょうか。それはやはり主体が出会った実際の出来事です。
したがって、よく言われる、フロイトはヒステリーの原因は外傷であるという考えを廃棄したという説は正しくありません。それまでの理論が
- 現実界に繋がるトラウマ→症状
という図式であったのにたいして、ここでは
-現実界との遭遇→ファンタスム(トラウマ)→症状
という図式となるので。また神経症の原因としての性という要素はここでもずっと保持されています。したがって、ここにおける神経症についての理論は、誘惑理論に比してより現実的であり、かつより精緻な理論的把握を許すものとなっているのです。
次に出てくる最初のシニフィアンは、主人のシニフィアンS1である。主人のシニフィアンについては、わたしなりに精一杯記述した、「アタシとボクの「おちんちん」」と題して、その無意味の空虚のシニフィアンについて。
フロイトにおけるトラウマの考えにあるトラウマの事後性ということについては、ラカンはシニフィアンの遡及性、つまり最初のシニフィアンS1 は次に来るシニフィアンS2によって意味的に決定されるという構造、すなわち主語は述語によって遡及的に決定されるということ、によって大変エレガントに説明しています。
以下は、アリストテレスの チュケーtuche とオートマトンautomaton をめぐって書かれている箇所で、わたくしにとって、いまだ不明瞭な箇所で、まずは以前の記事から次の文を貼付しておこう。
…………
◆Lacan SEMINAR XI Translated by ALAN SHERIDANより
快原則の此岸内、すなわち象徴界におけるシニフィアンの繰り返しが、反復強迫Wiederholuagszwangであり、automatonとされる。とすればフロイトの「自由連想」もautomatonであるだろう。
快原則の彼岸、すなわち快原則内の非-全体に外-存在ex-sistするものがtuchèと呼ばれ、リアルとの真の遭遇であり、どうやら真の「反復」とはこのことを言うらしい。とすれば、このテュケー tuchèはトラウマや欲動にもかかわってくる(もっとも上のヴェルハーゲの記述にあるように、トラウマに対処する象徴界における反復はautomatonなのだ。このあたりの見極めが難しい)。さらに欲動にかかわるのであれば、もちろん「享楽jouissance」にも関係する。
First, the tuché, which we have borrowed, as I told you last time, fromAristotle, who uses it in his search for cause. We have translated it as encounter the the real. The real is beyond the automaton, the return, the coming-back, the insistence of the signs, by which we see ourselves governed by the pleasure principle. The real is that which always lies behind theautomaton, and it is quite obvious, throughout Freud's research, that it is this that is the object of his concern.
Through the elucidation of what we call strategies, this is the figure that Aristotle's automaton assumes for us. Furthermore, it is by automatisme that we sometimes translate into French the Zwang of the Wiederholuagszwang, the compulsion to repeat.
…………
ーーなどと書いているのだが、見解の一致をみるだろうか。すなわちわたくしの誤解はないだろうか。
ラカンが言語世界の彼岸に現実界を見、明確にトラウマをこの現実界との出会いと関連させるようになったのは1959年の「精神分析の倫理」のセミネールからです。ここでは母親の世界における未知な部分をフロイトに倣ってdas Ding と呼び、das Ding との出会いが最初の主体的立場を決定させるトラウマ的体験となるとされています。
《Das Ding とは起源的に私が「シニフィエ-外」と呼ぼうとするものです。主体が自らの距離を保ち、ある関係様式、あらゆる抑圧以前の原始的情動、のうちに自らを構成するのは、このシニフィエ-外に関連して、そしてそれにたいするパトス的な関係に関連してです。・・・・われわれが時に「神経症選択」と呼ぶ、主体的オリエンテーションの最初の土台、最初の選択がこのdas Ding に関連してなされるのです》(『精神分析の倫理』、セミネール第7巻 ラカン)
簡単に説明しますと、das Ding との出会いは原始的な情動を生みだす。それはあらゆる抑圧以前の出来事である。そしてそのときに主体は自らの精神的構造を決定するというのです。具体的に言えば、その出会いを嫌悪として感ずるのがヒステリーであり、過剰な快感として受け取るのが強迫神経症、そしてそれを信じないのが精神病となるのです。ヒステリーの場合は性的誘惑に相当し、強迫神経症の場合には原光景、両親の性交シーンの目撃、に相当するのでしょう。
ラカンはここではフロイトのフリースへの手紙Kに参照しています。ですからあくまでフロイトに忠実であろうとしているわけです。
ただここでも、トラウマに関してフロイトが考える快感原則の彼岸で出会ったような疑問がわいてきます。トラウマが性的な意味を持っているというのはここでははっきりとしています。しかしトラウマの遡及的な性格が問題になってきます。Das Ding との出会いがあらゆる抑圧以前の原始的な情動を引き起こすというなら、それは外傷的体験から直接引き起こされたものと考えるべきなのでしょうか。ラカンはdas Ding との二度目の遭遇とは言っていないのです。これはトラウマの遡及的性格と矛盾します。この矛盾を解消するためには再びdas Ding との出会い以前の原体験というのを想定しなければならないのかもしれません。
トラウマについてのラカンの次の主要な考察は1964年の「精神分析の四基本概念」のセミネールの中でなされています。そこではアリストテレスから借りてきたチュケーtuche とオートマトンautomaton という概念が取り上げられ、オートマトンはシニフィアンのネットワークの自動運動、チュケーは現実界との出会い損ねがトラウマとして反復現象を引き起こすとされます。そして転移現象と反復現象ははっきりと区別されます。
したがってラカンにとって現実的なものle reel をどのように取り扱うかがトラウマを考える上で重要になってくるのです。
倫理のセミネールではdas Ding ということばで現実界を考えようとしましたが、そこから対象a という記号が生みだされ、対象aと現実界が結びつけられます。そしてその後、ラカンは現実的なものを不可能という言葉で表すようになりました。不可能とは象徴界、すなわち言語世界における不可能ということです。たとえばAという命題とnon-A という命題を同時に認めることは不可能です。この点においてゲーデルの不完全性定理は言語世界の不可能性を数学的に表したものだと言えましょう。ラカンは精神分析における不可能を「性的関係は存在しない」という命題で表しました。動物においては雄と雌の性的な行動様式は本能に書き込まれており、動物は本能的に性的関係を持つことができるます。ところが人間の男と女は類としての性的行動様式を与えられておらず、人間の性的活動は多様であり、様々な倒錯的傾向が認められます。男と女は性的行動様式を他者から学ばなければならないのです。そして性的行為の多くは生殖とは関係ない領域で繰り広げられています。ですから人間の言語世界には性的関係が書き込まれておらず、それが象徴界の穴として不可能を構成するのです。
この象徴界の穴としての不可能という現実的なとの出会いが、トラウマを引き起こす根元的な出来事だとラカンは考えます。
フロイトはトラウマは常に性的な性格を持っていると考えていましたが、その真の理由はここに認められるます。人間が性的なものに出会うとき、この性的関係の不可能という象徴界の穴にぶつかり、主体はそれが何であるかを言うことができず、文字通り言葉を失ってしまうのです。幼年期のこの経験は思春期の性の目覚めによって新しい意味が与えられます。フロイトは、人間の性の二つに分離されたこの性的現実は、主体の人生において決定的な意味を持っていると考えていました。ラカン的に言えば、性的関係の不可能との最初の出会いの潜在的トラウマが、思春期になって意味を与えられて事後的にトラウマとして構成されと言えるでしょう。
《オートマトンはシニフィアンのネットワークの自動運動、チュケーは現実界との出会い損ねがトラウマとして反復現象を引き起こす》と書いてあることから、とりあえずは安堵できる。だが、ヴェルハーゲのいう《トラウマに対処する象徴界における反復はautomatonなのだ》はいまだ闇の中ではある。
ーーなどと解説的な部分を抜粋したが、この論文における向井雅明氏の主張のポイントは次の文である。
今日ではトラウマの問題はPTSDposttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害として扱われています。PTSDという観点では患者を主体としては見ず、単に被害者として扱い、その症状を臨床的に分類して有効な治療法を当てはめるという試みがなされます。そこでは各主体の固有性というものが無視されて、マニュアル化された対応が取られる傾向にあります。またそのときにトラウマを特別な体験だと見なすと、患者をトラウマ的現在に釘付けしてしまう危険があります。患者は過去のトラウマ的体験を現在のように生き続けています。トラウマが個人史上の過去の出来事とははならず、現在が永遠に続くのです。トラウマの魔力から抜け出すには、出来事に特権的な地位を与えず、単に過去のひとつの体験として葬る必要があります。ちょうど死者を葬りその上に墓を建てるようにです。それにはあくまで個的にそれぞれのケースの特異性に応じて、患者の主体性を引き出して作業させなければなりません。精神分析の作業がまさにそれに当たるのです。(向井雅明 2014/01/25)